夫人 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集
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1. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

気でしようがありません。それに私が口をだしすぎるつ て、主人からもよくいわれるんでございますが、学校のお「個展がすんだら彼も画塾をやるでしようから、いいとお 友だちであまりよくない人もいらっしやるので、そうそう思いになったらかわってくださって結構ですよ」 放任ばかりもしてられないと思って、つい口をはさみます夫人はぼくのいったことをすぐ理解したらしかったが、 なにもいわずに編針をとりあげた。せっせとわきめもふら と、あの子はもうそれでいじけてしまって : ・ : ・」 ずにはたらきだした彼女の手をみて、・ほくはいっか山口に 「子供には子供の世界がありますからね」 不信を表明した彼女の言葉を思いだし、すくなくともこの 「ええ、それはそうでございますが : : : 」 、子になるこ点に関してだけ太郎は救われたと感じた。夫人はしばらく 「すこし手荒いんですが、太郎君なんか、いし あみめ けんか とを教えるより、血みどろになって喧嘩することを教えた編みつづけてから手をとめ、編目をかそえながら、ふとっ う力いいように思いますね、じっさい喧嘩はしなくてぶやいた。 「 : : : でも、孤独なのは太郎ばかりじやございませんわ」 も、すくなくともそれだけの気持の基礎ですね、それをつ くってやるべきじゃないかと思うんですよ。そうすれば自彼女はそういうと窓にちらと眼をやり、なにごともなか じようずへた 然に画もしつかりしてきます。画の上手下手はそのつぎのったようにすぐ編針をうごかしにかかった。その手は感情 をかくしてよどまずたゆまず毛糸のうえを流れた。・ほくは 問題ですよ」 彼女に一瞬ひどく肉にあふれたものを感じさせられた。・ほ 「泥まみれでも垢だらけでもよいから環境と争えるだけのくは彼女の眼のなかをのそきたい欲望を感じた。きっとそ 精神力をもった子供をつくりたいですね、そういう子供のこには短切な夜の輝きが発見されるはずであった。 画こそ美しいし、迫力もあるんですよ。いまのままじや太「 : 様郎君はさびしすぎます」 ・ほくはロまででかかった言葉をのみこんだ。彼女の手の 王「山口さんとはすこし御意見が違っていらっしやるようで速さが・ほくをこばんだ。・ほくは体のまわりに壁と扉と、そ けんご の すね」 して静かすぎ、堅固すぎる朝を感じて足をふみだせなかっ こ。はじめて太郎の画をみたときに感じた酸の気配を、ほく 「あれは学校で子供を大量生産しています。ひとりひとり は夫人の皮膚のしたにもまざまざと感じて沈黙におちた。 かまっていられないんですよ。だから : : : 」 いんけん ぼくは自分の語気に気がついて言葉をあらため、静かに大田氏が部屋を陰険に領していた。あきらかに夫人は編ん あか たんせつ

2. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

おき、彼女が外出好きで派手な性格だという山口の毒をふたのだ。子供のいるまえでそんなことをやれば、せつかく 2 くんだ説明を、すくなくともその場で・ほくはみとめる気にの善意も負荷をのこすばかりである。子供は画で現実を救 なれなかった。 済しようとしているのに傷口をつつきまわされ、酸をそそ ただ、彼女が小学校一一年生の子供の母親として注意深くがれたような気持になってしまう。その結果ぼくに提供さ ふるまっているにもかかわらず、どこか年の若さが包みきれるのは、防衛本能から不感症の膜をかぶった恐怖の肉体 かえる れずにこぼれるのはさけられないことであった。どうかし だけである。たいていの子供がイソップの蛙である。母親 たはずみに彼女の動作や表情のかげにはいきいきしたもののなにげない言動が彼らをおびやかし、自分でも原因のわ こら・ ~ がひらめいた。彼女が腕をあげたり、体をうごかしたりすからない硬化を暗部に起して彼らは苦しんでいる。 びんしよう ると、おちついたドレスのしたでひどく敏捷な線が走るの ぼくは電熱器で紅茶をわかすと大田夫人と太郎にすす あご ぜいにくしわ に・ほくは気がついた。彼女の顎にも首にも贅肉や皺のきざめ、世間話をしながら太郎の日常のだいたいの背景を聞き しはほとんどといってよいほど感じられなかった。 こんだ。大田夫人は太郎に家庭教師とビアノ教師をつけて 「なにしろ主人はああして忙しいもんでございますから、 いることを話したが、それが彼の自由をどれだけ殺してい 子供のことなんか、まるでかまってくれないんでございまるかについては疑念を抱いていない様子だった。いろいろ す。私ひとりであれこれ手本を買ってやったりもしてみた画塾の方針などを話したあとで、・ほくが、山口ともよく相 んですが、しろうとはやつばりしろうとで、眼を放したら談しようというと、彼女はふいにそっぽをむいた。それま さいご、もう描いてくれません」 でのつつしみ深さにくらべてこの動作は小さいけれど意外 彼女はそういって苦笑し、太郎のスケッチ・・フックをとだった。 りだした。彼女はそれを一枚ずつ繰って、どういうふうに 「あの人はあてになりませんわ」 はいりよ して描かせたかという事情をいちいちていねいに説明しは太郎への配慮から彼女は早口に小声でつぶやいた。口調 じめた。太郎はだまって礼儀正しい姿勢でそれを聞いてい はやわらかいが、そこにはっきり断定のひびきがあって、 たが、・ほくは大田夫人からスケッチ・・フックをとりあけるぼくは圧されるものを感じた。彼女はちらと・ほくをみてす ぐ視線をそらせたが、その眼にはわかわかしい、 いたずら と、それとなく話題をあたりさわりのない世間話にそらせ つぼそうな輝きがのこっていた。 てしまった。すこし児童画に知識のある母親なら誰でもが やりたがるように彼女は画で子供の症状を説明しようとし つぎの日曜からかよわせることを約東して大田夫人が太

3. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

送ってゆくと、ぼくの家から一町ほどさきの辻に一台の新な、甘いが鼻へむんとくる匂いである。子供はその生温い 車がとまっていた。夫人が息子の手をひいてそちらに歩い異臭を髪や首や手足から発散させてひたおしに迫ってく てゆくと、金属製の応接室を思わせるその当年型のシポレる。ところが、太郎にはそんなむんむんしたにごりがまっ 1 から制服制帽の運転手がとびだしてきて護衛兵のように たく感じられなかったのである。壁と本棚にある童話本や とびら 扉のまえにたったのである。生徒はみんなアトリエで画にポスターやおびただしい児童画など、なにをみても彼は顔 夢中だったので、誰も気のつくものはなかったが、・ほくは いろをうごかさなかった。・ほくの部屋には子供の陽気な叫 かくとう にがい気持がした。 びや笑いや格闘や空想など、さまざまな感情の原形体がみ わ、け、 しんしよく 想像していたより太郎はひどい歪形をうけていた。彼はちているのだが、太郎はなにひとっとして浸蝕をうけない しわ 無ロで内気で神経質そうな少年で、夫人と・ほくが話していもののようであった。ときどき服の皺を気にしながら、ほ るあいだじゅう身じろぎもせず背を正して椅子にかけてい っておけば一一時間でも三時間でも彼はいわれるままに椅子 たんせい りようひざ た。その端正さにはどことなく紳士を思わせるおとなびたに坐っていそうな気配であった。両膝にきちんとそろえて ものさえあった。寝室と書斎と応接室をかねたぼくの小部おかれた彼のきれいにつまれた爪をみて、ぼくはよく手入 屋で会ったのだが、たいていの新入の子が眼を輝かせる壁れのゆきとどいた室内用の小犬をみるような気がした。 しつはいの児童画に対しても彼はまったく興味を示さなか「学科もわりによくできるほうですし、わがままなところ った。彼は窓からさしこむ日曜の正午すぎの日光を浴びもないんですが、なんだかたよりないんですの。画を描か て、ものうげに机の埃りを眺めていた。母親が彼の名を口せても男の子のくせに人形やチュ 1 リップばかり。まあ画 にだすたび、彼は敏感さと用心深さをまじえたすばやいまはできなくても主要学科さえ人なみなら将来かまわんだろ うと、主人は申すんでございますが : : : 」 まくがなんの反応も示さな なざしで・ほくの顔をうかがし ~ はくじゃく うった 大田夫人は息子の薄弱さを訴えながらも、どことなくし 様いとわかると、またもとの無表情にもどった。その白い 王 つけのよさを誇りにしているようなところがあった。もし 美しい横顔に・ほくは深傷を感じた。 の 子供には子供独特の体臭がある。ぼくはいつでもそれを後妻だということを聞いていなければぼくはそのまま彼女 自分の手足にかぐことができる。・ほくの皮膚そのものが子を太郎の母親として信じてしまったかもしれない。彼女の 供のものではないかという気がするくらい、それは体にし口調やものごしはつつしみ深く、上品で、ドレスも渋い色 みついている。日なたでむれる藁のような、乾草のようのものを選んでいた。息子に対する善意のおしつけはさて ムかで にお

4. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

めいめつ 事実にはどこか秘密の匂いがあった。いまの大田夫人が田まわるたびに軽い毛糸のしたで明減する若い線を惜しむこ 舎にいたとはちょっと考えられないことだった。・ほくは床となく・ほくにみせた。 にあぐらを組みなおすと、もつばら話題をェビガニに集中 しばらく応接室で待っていると太郎が小学校から帰って して太郎といろいろ話しあった。 きた。彼は部屋に入ってきてぼくを発見すると、おどろい さべったいぐう その翌日、・ほくははじめて差別待遇をした。月曜日は太たように顔を赤らめたが、夫人にいわれるまま、だまって 郎は家庭教師もビアノ練習もない日だったので、ぼくは彼ランドセルを絵具箱にかえて背にかけた。そんな点、彼は をつれて川原へでかけたのだ。ほかの生徒には用事があるまったく従順であった。夫人は自動車を申しでたが、・ほ といってアトリエを閉じると、ぼくは正午すぎに大田邸をはことわった。太郎はデニムのズボンをつけ、ま新しい運 訪ねた。すでに・ほくは太郎が母親といっしょこ九 = こ、 冫少冫した動靴をはいた。 ことがあるのを彼の口から知っていたが、夫人にはなにも「汚れますよ」 いわなかった。太郎はエビガニについては熱心だったが、 ぼくが玄関で注意すると、大田夫人はいんぎんに微笑し こ 0 話のなかで母親にはスルメを自分にくれる役をあたえただ けっこう けで、当時のことについてそれ以上はあまりふれたがらな「先生といっしよなら結構でございますい い様子だったので、ぼくは夫人に太郎の昔をたずねること 口調はていねいでそっがないが、・ ほくはそのうらになに をはばかったのだ。彼女はぼくから太郎を写生に借りたい かひどくなげやりなものを感じさせられた。いわれのない いわかん と聞かされて、たいへんよろこんだ。 ことであったが、その違和感は川原につくまで消えそうで 「なにしろ一人子なもんでございますからひっこみ思案で消えず、妙にしぶとく・ほくにつきまとってきた。 困りますの。おまけにお友達にいい方がいらっしやらなく 太郎をつれて駅にゆくと、・ほくは電車にのり、つぎの駅 ていばう 様て、おとなりの娘さんとばかり遊んでおります」 でおりた。そこから堤防まではすぐである。・ほくのいそぎ 王夫人はそんなことをいいながら太郎のために絵具箱やス足に追いっこうとして太郎は絵具箱をカタカタ鳴らしつつ ケッチ・・フックを用意した。いずれも大田氏の製品で、専小走りに道を走った。月曜日の昼さがりの川原はみわたす ごうしゃ らんぐい 門家用の豪奢なものだった。その日は夫人は明るいレモン かぎり日光と葦と水にみちていた。対岸の乱杭にそって一 しばふ せき 色のカーディガンを着ていた。芝生の庭に面した応接室の隻の小舟がうごいているほかにはひとりの人影も見られな 広いガラス扉からさす春の日光を浴びて、彼女の体は歩きかった。小舟は進んだり、とまったりしながらゆっくりⅡ あし

5. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

わらず、彼の仕事は若い教師仲間でたいへん評判がよかっ どういうものか、山口は庇護をうけているにもかかわら 2 た。さいきんでは印画紙のうえにさまざまな物をのせて感ず、・ほくにむかってはたいてい大田夫人のことをわるくい 光させる″フォト・デッサン〃を発表した。小学校の子供った。 には材料費が高すぎるという非難を浴びながらもそれはひ「なに、あれはちょっとばかり気前のよいマダム らようだい さ。寄付さえ頂戴すればいいんだよ」 とつの意欲的な試みとして評価された。 いしゆく そのほか、たとえば、大田夫人が後妻だから先妻の子の 「子供は小学校に入るまでにすっかり萎縮してしまってる からな。概念くだきはいくらやってもやりすぎるというこ太郎にことさら善意をおしつけるのだとか、外出好きな性 らようしよう おくそく 格だとか、ときには夫妻の寝室に対する嘲笑的な臆測な とがないよ」 しゅうぶん 児童画の目的と手段をはきちがえた行過ぎの実験たとい どといった種類の醜聞である。庇護をうけているのだとい は」ーしト - み′ う保守派からの反論に対して彼はいつもそううそぶいてひうひけめを彼はそんな形で補償したがっているのかも知れ るまなかった。 なカった。いつも・ほくは彼の悪口を聞きながして、まとも コラージュはさまざまな色紙や新聞紙や布地を任意にちには耳をかさないことにしていた。山口は利己的な男で、 ぎっては貼りかさねるという手法である。フロッタージュ 自分の都合のよいときだけ責任を他人におしつける癖があ もくめ は木や石に紙をあててうえからクレョンでこすって木目やった。太郎のときも、さんざんそんなふうにいっておきな 石の肌理をうきださせる。デカルコマニーというのは紙にがら、いざとなると個展の日まで日数のないことや、カン 水彩のしみをつけ、まだぬれているうちに二つに折って左・ハスの枠張りに手間をとられたことや、先方のたのみがこ とわりきれないことなど、自分勝手な弁解ばかりならべて 右相称の非定形模様をつくる手法である。これはマックス・ エルンストが考えだした。いずれも子供の自我を通過しな逃けてしまった。 「歩いてくるのならひきうける。自動車でくるのならごめ い自動主義だという点ではかわりがない。 これらの手法が よくあっ ーマンの子供だから んだ。・ほくの生徒はみんな貧乏サラリ 子供の抑圧の解放に役だっことはみとめられねばならない し、ぼく自身もときどき試みるが、それがすべてなわけでね、自家用車なんかでのりつけられてはたまらないな」 はない。ただ、山口のやりかたにはどこか売名を計算した ・ほくはそれだけいって電話をきった。山口がこれをどう にお 野心家の匂いがあるので、彼が生徒につくらせる作品の無ったえたのか、ぼくは知らない。約束の日、たしかに大 機質な美しさに・ほくはいつも警戒心を抱いている。 田夫人は歩いてくることは歩いてきたが、帰りに門口まで わく

6. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

いなか 息をついた。 太郎が田舎でエビガニとりをしていたという記憶が今後と 「ほんとに、うちの子はかわっております。すこし異常なも重要な役割を果たすだろうと思うことをのべ、当時の彼 んじやございませんでしようか ? 」 の生活をたずねたのである。 みぞ 彼女の顔と口調には苦笑と真率さが相半ばしてまじって「 : ・ : ・なんだか、お母さんといっしょに溝で糸をたれたこ 、こ。・ほくはこれには答えなかった。ぼくのところへ子供とがあるなんてなこともいってるんですが ? 」 「そうでございましよう」 をつれてくる貧しい母親たちの十人中八人までがこの質問 を発するが、彼女らの聞きかたには大田夫人とすこしかわ夫人は・ほくのにごした言葉尻を静かな口調でおぎなっ にお こ 0 った匂いがある。彼女らは自分の子供が異常ではないかと 恐れているが、・ほくがいちいち例証をあげてそれを否定す「あの子のお母さんという人がとてもよくできた方でござ ると、きまってなにかしらけた表情を浮かべる。ひと口にい ましてね、それはもう子供の教育によく気をお使いにな ごらく いえば不満なのだ。彼女らは異常児をおそれているくせに ったそうで : : : なにしろ田舎のことでございますから娯楽 正常児だといいきられると不平顔をする。申しあわせたよといってもせい・せい地方廻りの村芝居ぐらいしかやってお うにその表情は共通しているのだ。・ほくはそれをひそかに りませんでしよう。それをいちいちだしものの筋書きから おくそく 天才願望ではないかと臆測する。 役者のせりふまで御自分で前の晩にごらんになって、これ 「この頃はすこしかわってきましたよ。もうすこしたった ならと安心のできるものだけお見せになったんですのね。 らおわかりになるでしよう」 とても神経のこまかい方だったようにお聞きしておりま ・ほくは大田夫人がどれほどの必要に迫られてその質問をす」 わん したのか、はなはだあいまいな気がしたので、はぐらかし彼女はそういうとコーヒ 1 碗をとりあげ、ひとロすすっ 様てしまった。挨拶のしかたを心得た、とでもいえるようなてから、あきらめたようにつぶやいた。 「私もいろいろ努力はしているんでございますが、しつけ 様子が彼女にはあった。 の さらに大田夫人の良妻賢母ぶりにうたれたのはぼくが太がきびしいといわれるばかりで : : : 」 郎の過去を発掘したいきさつを打明けたときであった。ば彼女は眼を伏せて、コーヒ 1 碗をそっとおいた。 しようそう ・ほくは手持ちの札が切れたのを感じた。・ほくは焦躁をお くがためらいを感じながらそっとさしだしたのに、彼女は そのカードをみてなんの動揺も起さなかったのだ。ばくは ぼえて記憶を繰った。はじめて夫人が太郎を・ほくのところ はつくっ しんそっ じり

7. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

右家族で団らんのひととき。「新 ノニック」を発表の頃 日本文学」に「。、 左より、長女道子、羊子夫人、開高 裸の王様 開高健 / - 尹臚作品 宝第を第第ををを第を第 「裸の王様』初 版本 ( 昭和 33 年 ・文藝春秋新社刊 ) 「裸の王様」で第 38 回芥川賞を受賞。受賞パーティ で、石川達三 ( 左端 ) から、お祝いのスピーチを受け る開高と羊子夫人。後列左端は中村光夫 ( 昭和 33 年 ) 洋

8. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

102 かんらく いや、その相違は、同じ陶酔に違いはなくとも、歓楽と戦 しようふ 陸へ上って確かめると、先に港に入った船はレースの奪慄の差ではなかったか。春子と言う娼婦の体の、熱く熟れ 権艇であった。″シルフ〃は十一一分の差で一着となったのた陶酔に引き代え、あの夜の驚きは、震えて、透明に澄ん ひろ 、び だ。ヒギンス氏は大ぎように飛び上ると夫人を抱きしめ、 で果しなく、星空の拡ごりの様に厳しくさえ美しいもので かんがい キャビンのぞ 次いで少年と手を握った。・、、 カ少年の胸には優勝の感慨は一あった。あの晩、ふと船室に覗いた光景の中には、少年の も物つ一ら . 向に湧いて来ない。船を整備しながら、終始青い顔をして始めて知った世界の驚きに対する、渇望と悩感に加えて、 とつじよ あざや 彼は黙っていた。 前夜突如として開け、彼の胸に鮮かな幻影を焼きつけた自 きようかくよいん 彼はそのまま急いで家へ帰ったのだ。 然への驚愕の余韻と言うには余りに激しい、鼓動が働いて いたのだ。 少年の願うものは、あくまで自らの手によるあの夜の再 おんな 春子の体を知った夜の夢のように、少年は娘の体への陶現であった。″そのためには ″どうしても自分のヨットの上で、同じことをして見るん 酔によって、海の上のあの夜の記憶に通じ、そして更に自 身のヨットに到るのた。 ゅうごう それはあの二つの世界の融合、懐しい海の上で、船と女 が果して春子に感じるあの熟れた歓びとあの夜の戦慄と は同じものであったろうか。 を同時に我が腕でかき抱く少年の切なる願いであった故 それは明らかに異っている。と言うことは、春子とヒギだ。 ンス夫人の違いであるのだろうか。少年はひょっとした ら、気づかぬ内夫人に恋をしていたのではないだろうか。 春が来ると少年達の仲間は一人前に学年度の及落を心配 まなざ 確かに彼が夫人を眺める眼差しはまぶし気であった。幼いした。彼等は互いに言い合うのだ。 頃母をなくした、この何知らぬ少年にとって、彼女は初め″少くとも、お前が大丈夫なら俺も平気だ″ ぐげん て具現した、すべての「女」の映像を与えた人かも知れな 少年は何とか及第した。 また 。夫人は美しく又大層彼には優しかったから。がこの少 シーズン前になると、仕舞われたヨットの整備や塗り直 おとな おお はす 年に、往々、大人にもっかぬ「母」と「恋人」の区別がどしで港は忙しかった。冬中覆われたカイ ( スが取り外さ うしてついただろう。 れ、塗り直され、去年と変らぬ姿で水に浮んだ船達を眺め ′ゲイ〃が入った。 わ よろこ せんりつ さら とう ーと、彼は単純に考える、

9. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

たのだ。な・せお化けは子供になって山からでて・ハスにのつの男のようだ。彼は・ほくの仕事を邪魔するばかりである。 2 て死なねばならなかったのか。 どんな眼があらわれるだろうかと・ほくは軽い不安を抱い 太郎には友人がいない。彼は仲間に対して圧迫感を抱いて待ったが、玄関にでてきた夫人は健康で、清潔で、一 ている。母親に禁じられて彼は粗野で不潔な仲間とまじわ見、酒や終電とはまったく関係のなさそうな家庭人であっ ることができず、いつもひとり・ほっちでいる。その圧力をた。彼女は・ほくをみると両手をそろえてつつしみ深く頭を はいじよ 彼は画で排除しようとしたのだ。だから子供はお化けであさげ、 ムつきゅう 「お待ちしておりました。どうそこちらへ : り、お化けは死なねばならなかった。彼は画で復仇したの ぼくは、彼女について廊下を歩き、応接室に入った。太 だ。この小伝説にはそんな仮説のための暗示があるよう 郎を川原へつれだした日にも入った部屋である。こころよ だ。おそらく根本的な点でそこに誤りはないだろう。た い乳黄色の壁には春の午前の明るい陽が踊り、一「三点の だ、ぼく自身はそういう軽快な合理化だけで満足できない はんてん のだ。ぼくは赤に太郎の肉体を感じたのだ。環境に抵抗し画にも透明な斑点が浮いていた。いずれも画は大田氏の庇 て、いつどの方向へどんな力で走りだすかわからない肉体護を受けている作家のものらしかったが、彼は趣味がずい を、いよいよ彼も回復したのだ。・ほく以外の人間にとってぶん気まぐれのようで、セザンヌまがいのリンゴと、ニコ おくめん ルソンまがいの山口の抽象画とが臆面もなくむかいあって はしみでしかない画用紙をまえに・ほくは。ほっかりとひらい た傷口を感じた。血は乾いて、壁土のように、白い皮膚にかかっていた。おそらく大田氏は現物をみないで秘書に金 こびりついていた。・ほくは夕方のアトリエで、子供たちのを払わせるだけではないか。・ほくはそんなことを考えなが のこしていった異臭をかぎつつ、さらに傷口を深める方法らタ・ハコをふかし、夫人が席につくのを待った。 、ん、よう しばらく挨拶を交わしたり、太郎の近況を話したりして をあれこれと考えた。 ′ - うよ ~ し いるうちに、はやくも・ほくは後悔しはじめた。夫人は・ほく ある日、・ほくはあらかじめ電話で在宅をたしかめておい りようさいけんぼ にまったく警戒心を抱こうとせず、型どおりの良妻賢母を てから大田夫人を訪ねた。彼女に会って確認しておきたい ことが・ほくにはいくつかあった。山口にはない特殊な立場演じて、いささかも疑わないのである。先夜、駅前広場で わいけい ・ほくにみられていることに、彼女はまったく気がついてい があったので、・ほくは大田氏に面とむかって太郎の歪形を 訴えることができたが、当分彼は信用できそうになかつないのだ。ぼくが太郎の画や性格を話すと、彼女はいちい た。彼は有能な商人かもしれないが父親としては資格皆無ちうなずいて、完全にそれを認めたあげく、ほっと、ため とくしゅ 2 リいかい あいさっ じゃま ひ

10. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

のだ。少し位の荒曝では減多に事故の無いクルーザー級の瀬戸内から北海道へかけて、表日本周航の航歴を持ってい ョットではあっても、昼とは違って目に見える間に船を持た。桑港のヨットクラ・フ員だった氏は今でも古・ほけたクラ まぶか ひまっ ち上げ、突き落しては砕けかかる黒い水の飛沫に激しく横・フのコックスキャツ。フを被っている。防水着を着、目深に つかま びんしぶ 鬢を繁吹かれる度、クルー達は手近な部分に膕りながら、下した鍔の下で鋭い灰色の目を走らせる日焼した氏の顔 らよっと 一寸不安気に顔を見合わせてはにやっと笑い合った。そんは、陸のクラ・フハウスで見せる気さくな愛想の良さとは打 ゅううつ な瞬間、耳を澄ますともなし緊張した体中の五感へ、今まって変って、憂鬱に緊張していた。子供の無い夫妻が、風 では耳鳴りのようにしか感じていなかった風と波の叫びの無い日曜など少年を乗せて真赤なスポーッカーを飛ばす が、急に限りなく遠い所から船一点をめがけせまって来る時のはしゃぎようは何処にも見当らない。舵輪を握りなが ひとみ たとえ のが感じられる。沖を見すかすように瞳をめぐらせて見上らクルーに命令する彼の顔は、仮令笑ってはいても、いっ かなたなが げる空は、飛んで行く雲一つない満天の星だった。 も目だけは絶えずコースの彼方を眺めていた。 沖の吹き具合を見るために湾外に出ていた少年達のヨッ 少年はそんなヒギンス氏が好きだった。港にやって来 トが、再びスタートライン内に入るため港の壁をかすめて、船に乗り帰る時まで騒ぎ散らす外人の多い中で、この て走る時、吹き千切られたように断続する拡声機の声が耳夫妻だけが本当に船が好きでやって来るように思われる。 おとな に入った。 ヒギンス夫人は夫君よりも十程年下の、温和しい、身の : ウインド : ・スヒード・ ・トウエレ・フミータース・ ひきしまって小柄な美しい女だった。彼女は結婚後来日し セカンド : : : てからセーリングを習ったのだが、翌年にはもう、新造し ふくしよう えんせい た″シルフ〃のクルーとして北海道まで遠征したのだ。少 少年は誰に言うともなし、大声でその放送を復誦した。 かじ なお 「風速十一一、風は尚ます見込み、か」 年や夫と代って時折舵をとる時、コースが一寸でもフレて ティキリーズイ・ポーイ いたりすると、目ざとく見つけたヒギンス氏が大声で注意 「大丈夫だよー コックビットから、舵輪を握ったままヒギンス氏が笑っする。そんな時、少年を見返りながら一寸肩をすくめてあ まなざ キャビンけいたい て言う。船室で携帯品を整理していた夫人が出て来、一寸やまる夫人を、彼はくすぐったいようなまぶしげな眼差し うなず で眺めた。彼にはふとそんな夫人が、自分にはいない姉の 笑って頷くと寄り添って空を仰いだ。 ヒギンス氏はヨットの古強者である。夫妻が日本へ来てようにも思えるのだ。 から送ったクルーザーの″シルフ〃号は小さいながら既に週末にはクラブに来て、艤装を手伝ったり、人数の足り たび べテラン めった すで シコ 〕ここ かぶ ひと リッグ ャッゲ