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検索対象: 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集
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1. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

まわ 周りにうろっく患者の数はもっとふえた。患者同士いがみそんな風になった。 合って我をする人間を捉える以外、警察はただ声をかけ青井が眼で指す暗がりの隅に、破れかけた板塀にもたれ あほう るだけで阿呆みたいに待っている。患者たちは、相談所のて菊江はしやがんでいた。その眼がずっと前から自分に結 白い天幕と、中にまぎれて立っている空手の売人たちを見ばれていたのを彼はやっと覚る。近づいていくと、その歩 計いながら、決心もっかず同じようにうろついている。妙調に合わせて菊江はしやがんだままゆっくり彼を仰いだ。 な心理で苦しむなら一緒にと、薬の切れた大方の患者が周「どうした」 ただ黙って見上げている暗がりでもはだけた胸元に爪で りに集った。 日の暮れかけ、悠一一はまた辺りの様子を見に出る。近く掻いた血のにじんだ跡が見えた。 「苦しいか」 の署の見知りの刑事が、 おさ 薬の切れた苦痛ではなし、他に体の内に圧えていたもの 「なんとかしてやったらどうだ」 うなず を眼をつむって放すように、菊江は眼を落しゆっくり頷い 声をかける。 「それはあんたらに頼むことです。ない袖は振れねえ」 「さっき死んだ患者は、お前の姿を見て駈け出したそうじ「大変だな」 「薬をくれ」 ゃないか」 菊江は違う声で言った。悠二は確かめるように覗き直し 「そうですかね、気がっかなかった」 刑事は投げたような眼でうろついている患者たちを見返た。先刻、自分に向 0 て車道を突 0 切 0 て来た男と同じ眼 り本気で頼むような眼で悠一一を見返す。警察だ 0 てその連を見た。 見つめ合う内、菊江の眼ざしの内から他のものが消えて 屋中に尽す手がひとっしかないのは知っていた。 あねご いき、車に跳ねられ、見開いた眼で彼を捜して見つめたあ た「兄貴、姐御がいますぜ、菊江さんが」 の男と同じ眼の光りだけがあった。 さへ寄って来た青井が言った。 先刻、あの男を見つめながら感じたと同じその声が、彼 よみがえ 閉「ひでえ苦しみようだ」 悠一一は忘れていたものを思い出す。この前の女の時以の体の内に蘇って来た。それは菊江と言う女に対しても 的来、菊江は彼から薬をもらわず、他の売人から買ってい真新しい感慨だった。 もっと 嘗ってこの女に対して、一一人が今のような暮し方をする た。今史と言うものだ。尤も、時々気がむいた時に菊江は あた そで すみ さと いたぺい

2. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

202 えたのか、その後彼女は前よりはじっとして見えた。 二日して竹田が隠しておいた薬が挙げられた。どうやっ てわかったのか見当がっかない。 竹田はその場所にいず、代りに品物を確かめにいってい 持って来た薬を手渡しながら、青井は何故か一瞬だけ咎 つかま めるような眼で彼を見た。薬が入ると、彼女の待ち受けてた男が捉 0 た。 へいおん その翌晩、竹田が犬を捉えたと言って来た。悠二が出か いたものはあっけなくやって来た。それはただの平穏でし すみ しば けていった連河の端の倉庫の隅に、青井が縛り上げられて かない。それだけのものをしか与えぬ薬を、彼らがその前 転がっていた。 になんであれほどにして求めるのか解せぬくらいだ。薬が 「こいつが大だった。他の検察官と連絡しているところを 切れることで与えられる騒ぎに比べれば、薬の与える平穏 仲間が見たんだ、兄貴に言われてこいつがあの時も薬をと などいかにもつまらぬものだ。いずれにしろ、人間は薬と サッ りに来た。察に薬のあった場所がよく知れた筈だよ。菊江 割に合わぬ取り引きをしている。 よみがえ とも出来てねんごろになりやがって。あれから知らぬ間に 乱れていた眼が次第に蘇って来、それが過ぎると彼女 いろいろ情報を集めてたようだ」 の眼に違う光りが戻った。それが多分、普段の眼だ。眼の 前で見守っている悠一一を、瞞きした後菊江は見返した。そ「菊江とか」 の眼の中にある表情が、悠二には思いがけないものに見え「女は悪かねえ。この野郎がだましてもちかけたんだ」 あの日、薬をとりにいって帰って来、久しぶりに菊江の た。彼女は黙ったままじっと見返している。 体に手をかけた彼を見た時の青井の眼を彼は思い出した。 「有りがとう」 と言ったが、その眼は逆に間違いなく彼を憎んでいた。見なくとも前に何があったか感じでよくわかったろう。そ はず それが自然ではある筈だった。、、 : カ悠二はふと彼女が考えして二人とも悠一一をふり返りもせずに出ていった。 「なるほど、そう言うことか」 間違いをしているように思えた。 自分がたった今感じたことを、相手に何とか伝えようと体のどこかが大きくすかされたような感じがする。その 彼は田 5 った。・、 カわずらわしくて止めた。青井が促すように後に頭をもたげて来る感慨を悠二は自分で何も定かに出来 あせ 彼女へ声をかけた。出ていく時、菊江も青井も彼へはふりずにいた。焦りとも怒りとも違うような気がする。当り前 向かなかった。 である筈のことを、あの時そうは感じていなかった自分へ のもどかしさのようなものもある。 とが

3. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

おおジェリー お前はドライヴしているそのビート 話してくれ タム・スネアータム・スネアー 0 ! 俺あいく俺は殺りやしないそんな眼で見るな 父さんの声でそう言ってもらいたかった 俺の手が動く引き金に触っちゃいかんよ俺の手が動俺はあんたにそう言いたかった ! その掌は本当に父さんの掌か おおジェー 丿ーのプロー 血がついている重い掌 O Z ! 俺の右手は何故こんなに重い ? なんという銃声だった 何ていうタッグだ ! 父さん俺は射った銃の前に顔を出したのはあんただ こんな演奏は俺に必要なものじゃ決してない ! 俺は引き金を引いただけなのに 曲が終った。 そんな眼で見ちゃいやだ俺が引いたでも俺は殺らな かったその白い眼は何なんだ おいジェリーお前はドライヴしすぎる さて俺は次に何を弾きだそうというんだ 父さんもう一度言ってくれ 何を何のために プ俺は殺ったんじゃない偶然に誰があんな女のためにあ んたを射っ ャ ジ俺は知っていたよみんな 一あの女は俺が殺ったろうに キ でもあんたは俺に鉄砲を預けた ン ア 引き金を引いたんだただ山を射って フ そんな眼で見るな ! 父さんそれが父さんの掌かい血がついている 何故黙っているんだ先刻の。はなんだった 彼は・ヒアノに手をかけたまま坐っていた。汗もふかず、 肩だけがゆっくりと上下して動いた。牧野が近づくと彼は うつむいたまま置かれた自分の掌の先を見つめ何かつぶや いていた。彼は島を眼で呼んだ。 「どうしたんだ ? 」 島は客席には曲の相談をしているような形で言った。彼 はのろのろと顔を上げ、

4. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

はずみにぶつかったおれの視線をとらえて顔いつばいに笑だと聞いた瞬間におれは高田何某とひそやかな関係を結ん でしまったのではなかったか。愛してもいず、憎んでもい いくずれた。 ない、まったく見ず知らずの彼になにか寛容と想像を発動 「し、し、し、死んだ、死んだ」 彼はふいごのようにシ、ウシ、ウ息を洩らしつつおれのしたのではなかったか。その心がそのままに発動して頬や ところへや 0 てきた。顔を見ると、うれしくてうれしくて眼にあらわれることをなぜおれは恐れるのか。なぜよろこ び勇んでいる大工の肩をたたいてやらなかったのか。おれ たまらないという様子であった。 こちは生きている。なぜその単純な、率直な、無邪気な、 「し、し、し、死んだよ、死んだよ。会社のえらいさんナ 皮膚にったわった最初の一触れの言葉をそのままささやい が、ゆ、ゆ、ゆ、ゆんべ死んだよ。死んだってよツ」 しぶとい歓喜が彼の眼と掛にあらわれていた。まるまるて、南京虫の肩を優しくたたいてやろうとしないのか。 「 : : : し、し、し、死んだよ。会社のえらいさんが、ゆ、 と太った頬に血が差して、灯がついたように輝いていた。 ゅ、ゆ、ゆんべ死んだよ。死んだってよ」 おれは彼の眼を直視した。彼の眼はネズミのように丸く小 まゆ 1 テンダー、左官屋、長距離トラックの運転手、・ハイ さく、薄い眉のしたで、およそこれほど晴朗無邪気なもの はあるまいと思えるほがらかさで輝いていた。こんな明るクにはねられた横浜の雑貨店主、同室の仲間を一人一人、 い眼で手放しに他人の死をよろこぶやつの顔をおれはまだ大工はよちょちと松葉杖をひいて肩をゆすってまわり、耳 見たことがない。一瞬、おれはやつの顔を見て、正常人のもとでシ = ウシ = ウふいごの音をたてつつ告げてまわっ た。まるまると太った彼の肩には患者特有の偏執があらわ 顔だと思った。正常すぎるくらい正常だ。おれは一瞬そう 思 0 た。直視を避けたくなるような、られるほど正常なれていた。とっぜんおれは率直さが酸敗して露悪におちた ものがあらわに彼の眼と頬のうえで輝いていた。高田が死のを感じた。いまや大工は腐臭を匂わせはじめた一人の狂 るんだのかといって牛乳屋に聞きかえしたときのおれの声が者であった。すべてが狂 0 ていながらある一点では正常す 自信とおちつきにみちていたことを思いだした。大工の顔ぎる正常人であった、そのこと自体がいまは異様な食屍鬼 生におれはおれの正しすぎるくらい正しく拡大された顔をみの偏執と感じられた。酸敗したのはおれなのか、大工なの とめた。それでいておれの内部には眼を伏せよとささやか。 ひたい ゅううつ く一瞬のつよい声があった。正しいものが正しいままにさ憂鬱が天井あたりのどこからともなくやってきて額にし らけだされるとなぜこう顔を伏せたくなるのだろう。死んみこむのをお・ほえた。それは額にしみこんで血管にとけこ さんばい

5. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

198 「見ろ。よく見ろ。こいつらはみんな俺たちのものだ」 どきそうな悠二の眼の前で男を彼から塞ぐようにして突き 意味がわからず竹田は見返す。 当った。 うそ 「そうじゃねえか。え、そうだろう」 嘘のように男の体は跳ね上り逆さに落ちた。跳ね上げら かかわ こいつが正しく切っても切れない関りと言うものだ。悠れ、落ちていく瞬間まで男は彼から眼を離さずにいた、と 一一が彼らを必要とする以上に、彼らは今彼を欲し期待し、 悠二は思った。 彼に向って祈ってさえいた。 脇にいる竹田のうめき声も、車の・フレーキの騒音も、そ 俺がこんなに多くの人間に待たれ、希まれたことがあ 0 のてに耳をかさず、悠一一は落して落ちた男の眼だけを あおむ たか。こいつらは間違いなく俺の繋りだ。みんな俺の掌にみつめていた。仰向けに倒れた男は、悠一一が期待した通 ある。俺のこの掌から離れられず、ここに集って祈ってい 、捜すようにゆっくり眼を開けた。悠二はその視線をた る。 ぐるように自分に向って引き寄せた。 かっ 條二は酔ったように立ちつくしていた。嘗て感じ得なか 男が最後に息を吐いた唇を曲げながら、「薬を」と言う った充足が体の内にあった。それは何故かしみじみした安のを彼だけが聞きとった。 とら込びす 息にも通いそうに思えた。 踏み出そうとする竹田を捉え踵を返した。男が死んだ瞬 その時、ロを開いたまま立って彼を見つめていた一人が 間に、彼との関りはもうなかった。 手を上げはっきりした声で彼の名を呼んだ。さっきまで、 しかし、感じていたものを、彼にとってそうやって証し こまのようにくるくる廻りつづけていた男だ。名を呼んだ出してくれたあの男のために、散らばして置いてある残り 後、男は車道を突っ切り彼に向って走り出した。一杯に見の薬の中の一包みをとり出して手渡してやってもいいくら 開いた眼で、彼を見据えながら。悠二はその眼に向ってま わら だ微笑っていた。 その事故がきっかけで見ぬふりをしていた警察が動き出 あた 男がその車道を横切って彼に到るまでその微笑にすがっした。辺りに似ぬ真白な天幕を張った患者への相談所がガ くちびる て導かれるように。そして、男は悠二の徴笑ったその唇 ートのすぐ下に出来上った。苦しまぎれに走り込む人間も しか見つめてはいなかった。 横にある信号が変り、トラックの横から追い抜いて走り しかし大方のものは、そこへ入ることで結局どうにもな 出した車が真直ぐ計って合わしたように、手をのべればとらないのを知っている。悠二たちもまた。夕方になると、 つなが ふき あか

6. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

「どうだ」 声に重なっていっこ。 菊江は問うように見返している。見下した彼女の黒い部すすんでいく彼に、菊江は殆ど何も応えはしない。そし にじ 分から血が流れていた。横の畳がその血でこすられ染んでてあの時の少女もじっと身をこらしたまま眼をつむってい 「苦しいか」 その眼を開いて見上げる時、彼女はすべてをまかして頼 うなず 彼女はゆっくり頷いて見せた。悠二は確かめるように膝り切 0 たように彼を見つめていた。た 0 た今の菊江とのよ をついてかがみ込んだ。流れた血が両肢のつけ根の内側に うに。彼の両脇に押しつけられた熟した果実のような膝と も染んでいる。悠二はふと思いがけないものに今いき会っ同じに。 ているような気がしていた。これは何だったのだろうか。 悠二は拡けられた菊江の膝を集めるようにかかえて自分 彼は思った。そして思い出した。彼に初めての体を与えに押しつけていた。 たあの少女だった。彼の唾と彼女が初めて流した血に染ん終った時悠二は彼女を抱え上げた。腕の中でのけそって だ少女の性器だった。彼はあっ気ないような気持でその邂力のない彼女に、 こう 逅を見守っていた。 「苦しいか」 そして安息があった。そして彼は満足していた。その足「苦しいよ」 ほとん 動の内に、確かめるように、眼の前に据えられた、今は殆素直に預けきったように彼女は言った。 ど動きもしない菊江の部分に彼は眼を凝らした。それは「痛いか」 故か不思議に、あの少女のあの映像と重なっていった。体「痛いわ」 よみがえ の内に蘇って来る、あるものを彼は感じていた。先刻と とあの時少女も言った。同じように彼の腕の中でのけぞ は違って、彼は今また菊江に向って可能だった。手をかけりながら。 る彼を菊江は黙って見守っている。悠二は再びその眼の中「薬が欲しいか」 に、あの時、自分に向って道を突っ切って車の前で死んだ「欲しいよ」 男の視線を感じていた。 「わかったか」 彼が再び彼女の内に入った時、菊江はうめいた。その声「わかったわ」 が何であっても、声は彼にとってあの少女の上げたうめき菊江は言った。 ひぎ こ 0

7. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

たんかっしよく ひとみ 見お・ほえのない顔だった。淡褐色の静かな瞳には異様なカ がみなぎ 0 ていた。冷たい、濡れたような視線に出会 0 て はお 久瀬はいきなり頬をひつばたかれたような気がした。熟練 家の強力な気配がたちこめていた。むしろ男は倦んで た。そのことに久瀬はたちすくんだ。またしても何かがと どめようなく墜ちた。 「何でもないよ」 将校はよちょちといった。 「 >0 のやること、おれたちゃるよ」 誰かが腕にそっと触れた。 首からカメラをさげた田中少年がしきりに眼で久瀬をう わんど ながしていた。二人は並んで歩きだした。赤い粘土はつる つるしていて、一歩ずつ踏みしめるようにしなければなら ざん Z.J う あぶ なかった。頬が焦げ、背が焙られ、眼に汗がしみた。塹壕 にたってふりかえると、舟は黄いろい川のなかでとまどっ たようにゆらゆらしながら、南西めざして、流れていっ た。熱でうるんだ青い空に積乱雲がある。久瀬はタバコに 火をつける。眼を細めて、舟を見送る。 今日も暑くなる。

8. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

までみつめて、つぎにうつった。この瞬間、壇上には声と 俺がもってきたんだよ」 山口の顔から微笑が消えた。彼は体を起し、ロをあけ息が死に絶え、・ほくは自分にむかって肉迫の姿勢をとった ほお ろうばい た。狼狽の表情は眼にも頬にもかくすすべがなかった。・ほ重い体をいくつもひしひしと感じた。誰かが声をだせばぼ くのまわりで空気がゆれ腹がいっせいにざわめいた。山口くはたちまち告発の衝動に走っただろう。・ほくはかってそ のうみつ の顔は苦笑でひきつった。 のときほど濃密な感情で太郎を愛したことはなかった。 「君の画塾の生徒かい ? 」 審査員たちは息苦しい沈黙のなかでたがいに顔をみあわ 「そうだよ」 せ、山口をみた。彼はさきほどのはげしいまなざしを失っ 山口はしばらくだまってからささやくようにたずねた。 て肩をおとし、みす・ほらしげに髪をかきあげた。壇上から げん、 「誰が描いたんだ ? ー 審査員を侮蔑し、画家をののしった自信と衒気はもうどこ すみ ・ほくは講壇の隅のテープルでひとり静かに葉巻をくゆらにもなかった。彼は細い首で大ぎな頭を支えた、みじめな している中老の男を眼でさした。 ひとりの青年にすぎなかった。すでに彼は画家でもなく教 「太郎君だよ」 師ですらなかった。彼は苦痛に光った眼で・ほくをみると、 山口は色を失った。彼は刺すようにはげしい光りを眼になにかいおうとして口をひらいたが、言葉にはならなかっ うかべ、・ほくをみてくちびるをかんだ。・ほくはまわりにひこ。 しめく男たちの顔をひとりずつみわたして、 緊張はすぐとけた。審査員たちは山口を見放した。彼ら 「この画を描いたのは大田さんの息子さんです。山口君のはそっと背をむけ、ひとり、ふたりと礼儀正しく壇をおり 生徒ですが、画は私が教えています」 ていった。画家はハンカチでひっきりなしに顔をぬぐい 教育評論家はつんと澄まし、指導主事は世慣れた猫背で、 それそれ大田氏にかるく目礼しながら去っていった。大田 ・ほくははげしい波が体からあふれてゆくのを感じた。・ほ氏はなにも知らずにいちいちていねいに頭をさげ、満足げ くは椅子に腰をおろしたまま、ハンカチをもった画家や、 に徴笑して全員が立去るのを見送った。 ふちなし眼鏡の男や、ほくろの三つある赤ら顔や、そのほ はげしい憎悪が笑いの衝動にかわるのをぼくはとめるこ ぞうお まゆなが か名の知れぬつめたい眼、憎悪の額、ひきつった眉を眺めとができなかった。窓から流れこむ斜光線の明るい小月の こうしよう た。・ほくはひとりずつ眼をあわせ、相手が視線をそらせるなかで・ほくはふたたび腹をかかえて哄笑した。

9. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

あた うなず 袖に運ばれた長子にぼろくずのように小さく彼は崩れ島は頷き、仲間に眼で言う。辺りの人を遠ざけた。敏夫 て置かれた。顔中を伝う汗をもう拭きさえしない。 の譜入れに粉と注射器があった。 「これ以上無理だ、こんな体で来るなんて気違い沙汰だ」 汲んで来たコツ。フの水に粉をといた。注射器に吸い上げ す 0 「けど、今日は凄い」 カフスを外してまくり上げた二の腕へ島が刺した。 上ずった声で島が言う。 あえぎを戻しながら、 「今までのいつよりも、奴のファンキーは凄い、俺たちは「もう一本」 夢中で受けた」 うつろな声で彼は言った。 「しかし、もうどうにもならんだろう」 頷いて島は射った。 「そのタイをゆるめてやれよ ! 」 そのまま彼は静かになった。顔の汗がひいていく。 されるまま、半眼閉じて敏夫はあえいでいた。島はかが「楽になったか」 み込んだ。 覗き込み、ゆすぶるようにして島が訊く。彼は遠い表情 「お前の、今日のプロ 1 はなんてえもんだ。ディズイと・フで頷いた。 レーキに聞かせてえ ! 」 「どれくらい、どれくらいもっ ? 」 敏夫はぼんやりした眼で笑う。 ゆっくり頭を振り、 「やれるだろう、やろう、やろうじゃねえか ! 」 「来る前に、三本射ったがーー」 くちびるか プ「ヘロを、くれ」 島が唇を噛む。 ン 彼は言った。 ャ 「無茶だ、癒るつもりでいるのか」 ジ 「よし、射て、射ってやってくれ」 村上が言う。 一村上を見て眼で言う。 彼は薄く唇を開いたままじっとしていた。 ン「しかし、やってもここが」 タッノは駆け込んで来、立っている連中の後から覗き込 ア 胸を押えて見せる。 んだ。見返った村上と眼が合う。 フ 「いいから」 「どうしたんだ ? 」 「ヘロをくれよ」 村上は首を振って列を出た。 彼は言った。 「。フレイは凄えが見ててただごとじゃない」 そで はす なお

10. 現代日本の文学48:石原慎太郎 開高健 集

うかが うとして佐原の眼を見た。・、 - カその眼は笑ってはいない。窺彼は言った。 まなぎ あせ 「おもしれえな、拳闘は」 うような冷く澄んだ眼差しであった。その瞬間龍哉は、焦 りと憤りの混った、あの激しい感情に襲われたのだ。 「負け惜しみ言うな、面を見て見ろ、・ハスケの球位腫れち 「どうしたっー誰かが声をかけた。 やったぞ」 両腕を締め直すと彼は体でぶつかるように佐原に向って「江田、龍の眼を一寸冷やしてやってよ」 めちゃ 飛び込み、減茶減茶に左右を叩きつけた。相手の何処の部龍哉はそれ以来、佐原に特別の友情を感じた。 もっ 分かは知らぬが彼に手ごたえがあった。縺れるようにして 一一人が廻り、彼がロープを背にした時、佐原の左が心臓に こうして彼は拳闘クラ・フに入ったのだ。彼の退部届を受 あた 当った。うっと顔をかがめかかった彼の右の眼の辺りを可取った・ハスケットのマネージャーは、 成り強く左からのアツ・ハアカットがとらえた。龍哉は一瞬「困ったなあ、せつかくここまで来たのに止められちゃ」 とは言ったが、その後で他の仲間に言ったのである。 真赤な大きなものが顔中を蔽うように激突したのを感じ かす た。右の眼が翳んでいる。 「拳闘の方がむいてるさ、あ奴は。第一うちで一番チャ 1 ちょっと ジの多いのはあ奴なんだからな」 「一寸強かった、ごめん」 龍哉は頭を振りながらもう一度出ようとした。その時ゴ ングが鳴ったのだ。 拳闘を始めて以来、日を重ねるに従って彼はこのスポー 「良し、お仕舞い。大丈夫かおい。最後のが効き過ぎた ツに熱中した。打ち合う時のあの感動に加えて、試合の時 あご ひと な。でも始終顎を引いてるとこなんざ良いぞ。なかなかやに自分が孤り切りであると言うことが彼の気に入ったの るよ、なあ佐原」 すいぶん 節「ああ、パンチの力は随分有るぜ。フックなんかダックしその秋晩く行われた、ハイスクールの全国トーナメント 季ても結構よろめかされたよ」 に、比較的選手の少かったフェザー級で、早くも龍哉は選 ちゅうせん 陽「お前、 ハスケなんか止めて拳闘をやるか。もっともこれ手の一員として出場した。組み合わせの抽籤で、彼は運悪 たくさん 太 で沢山か、そうだろうな」 く最初の試合に前年度の優勝者を引き当てた。不運に同情 龍哉には未だ物を言うことが出来ない。顔から胸、肩する僚友に彼は笑って言った。 が、かっと熱をもって腫れているのがわかる。がようやく「相手が強けりゃなお良いじゃないか。十中八九はかなわ おお おそ つら