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検索対象: 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集
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1. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

講談社刊 ( 昭和四十一年 ) に。 東京・下町にて撮影 ( 昭和三十五年 ) 第一回田村俊子賞受賞式鎌倉東慶寺 」にて左は草野心平氏 ( 昭和三十六年 ) 当 田村俊子の墓前で ( 昭和三十五年 ) みたかしもれんじゃく 三鷹下連雀に下宿した。 彼女は、それからしやにむに少女小説や童話を書い わふみお て生計を立てる一方、羽文雄氏を訪れ、「文学者」の 同人に加えてもらい、本格小説の修業につとめた。 この時の「文学者」の編集委員が小田仁二郎氏であ った。二人の間に恋愛感情が生まれるようになった。 小田仁一一郎氏は早稲田の仏文を出て、東京新聞の記 者をしていたが、作家としても、すでに「触手」とい う、異色の作品を発表して、そのシールレアリズム 的手法を認められていた前衛的新鋭作家であった。 「私は小田仁二郎によって、人生のあらゆる面にて 目を開かせてもらった。生きることも、男を愛するこ とも、文学することも、何が人生で高貴で、何が愚劣 かということも、自分自身の質やオ能まで、彼にひ きだされて、はしめて自覚させられた」 ( 「作家フォト 自叙伝」 ) 二人の間は八年間続いた。 「彼がいなければ瀬戸内晴美は生まれなかっただろう し、彼と別れなければ瀬戸内青美は誚えていただろう」 とも五っている 472

2. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

昭和三十一年 ( 一九五七 ) 三十四歳キー号でソ連を訪れ、シベリア、モスクワ、レニングラード、 「文学者 . 解散のため、小田仁一一郎主宰の同人雑誌「」に参加、 フを一カ月間旅行。はじめての海外旅行記を中央公論「世界の旅ー 「吐蕃王妃記」「牡丹」等を発表。北京時代を題材にした「女子大に書きおろす。第一巻「ナホトカから・ ( イカル湖まで」第五巻「三 チュイアイリン 生・曲愛玲」を新潮社の同人雑誌推薦作として応募、同年の新潮社十万円ソ連旅行」。小田仁一一郎との生活を清算するため、練馬区高 同人雑誌賞を受賞。 松町一一丁目四七一 = 一の一〇に転居。 昭和三十ニ年 ( 一九五七 ) 三十五歳 昭和三十七年 ( 一九六一 l) 四十歳 りようらん 五月「女子大生・曲愛玲ー「訶利帝母」「牡丹」「痛い靴ー「吐蕃王七月「かの子撩乱」を「婦人画報」に連載開始 ( 翌々年三十九年六 妃記」「白い手袋の記憶」等九編をおさめた、処女短編集「白い手月まで一一十四回掲載 ) 。十月「夏の終りーを「新潮」に発表。同月 袋の記憶」を朋文社より刊行。九月同人雑誌賞受賞第一作として一一十九日号から「女徳」を「週刊新潮」に連載 ( 翌三十八年十一月 きよほうへん 「花芯」を「新潮」に発表。毀誉褒貶相なかばし、それ以後五年間、二十五日号で完結 ) 文芸雑誌から見はなされる。 昭和三十八年 ( 一九六一 I) 四十一歳 昭和三十三年 ( 一九五八 ) 三十六歳三月「みれん」を「小説中央公論」、「雉子」を「新潮」に発表。四 四月「花芯」を七十枚から一一百枚に書きあらため、三笠書房より刊月「夏の終り」で第一一回女流文学賞を受賞。五月「花冷え」を「小 れい、ゆうしゃ 行。 説中央公論」、「あふれるもの」を「新潮」に発表。六月「霊柩車」 昭和三十四年 ( 一九五九 ) 三十七歳を「風景ーに発表、「夏の終り」を新潮社より刊行。七月「けもの 中野区大和町三八九番地尾山藤一一方に転居。同人雑誌「」解散、の匂い」を「文学界」、「夜の椅子 , を「週刊文春」に発表。八月 小田仁一一郎らと「無名誌」を始める。七月一一十五日から、初めての「盗むしを「小説中央公論」、九月「帰らぬ人」を「文学界」にそれ 新聞小説「女の海」を東京タイムズに連載開始 ( 翌三十五年一一月一一ぞれ発表。十一一月「冬映え」を「文藝春秋」に発表。「女徳」を新 十一日完結 ) 。 潮社、「フルーダイアモンド」を講談社より刊行。年の暮れ、文京 昭和三十五年 ( 一九六〇 ) 三十八歳区関口町一一丁目目白台ア・ ( ート六一八号室へ転居。 「無名誌」に序章をのせた「田村俊子」を「文学者」にひきついで昭和三十九年 ( 一九六四 ) 四十一一歳 掲載、一年間にわたって連載。女たち数名の同人誌「 7 」を主宰、一月「女戒」を「別冊文藝春秋」に発表、同月より「背徳の暦」を 三号までだす。別れた某が上京、再会してふたたび交際が始まる。「小説現代」に連載。二月「田村俊子」を角川文庫より刊行。同月 昭和三十六年 ( 一九六一 ) 三十九歳二十四日号から「女優 , を「週刊新潮」に連載開始 ( 十一月二日号 四月、文藝春秋新社より「田村俊子」を刊行、同作品で第一回田村で完結 ) 。四月「三味線妻ーを「別冊文藝春秋」に発表。「恋愛学 俊子賞を受賞、同月十六日北鎌倉東慶寺、田村俊子墓前で授賞され校」を東方社より刊行。同月一一十一一日号から「妻たち」を東京新聞 る。六月、日ソ婦人懇談会訪ソ使節団の一行に加わり、モジャイス等三社連合に連載 ( 翌四十年六月十七日号で完結 ) 。六月「妬心」

3. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

昭和ニ十年 ( 一九四五 ) 一一十三歳ら、同図書館に移り、小説を書ぎはじめる。投書する少女小説がこ 七月、夫は現地召集。北京で四度目の引っ越しをし、西簟頭条胡同とごとく採用され、原稿料を得るようになる。三島由紀夫にファン レターをだす。京都で知り合った中島平四郎たちと同人雑誌「メル に移る。乳呑児と残され、内地からの送金もとだえていたので、一 カ月間職探しに駈け回って、運送屋の事務員に就職、仕事はじめのキュール」をつくる。作品は一作ものせてもらえなかった。女子大 日に運送屋で終戦の放送をきく。夫無事帰宅。まもなく疲労から肋時代の上級生で親しかった西本敦江が福田恆存夫人となっていたの で、福田氏に短編「ビグマリオンの恋」を送り、批評を請う。「才能 膜をわずらい、三カ月間静養。 二十四歳があるともないともいえない , という返事をもらい、失望する。 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) 一一十八歳 昭和ニ十五年 ( 一九五〇 ) 引き揚げが始まり、日本人はすべて集結されたが、夫が残留したい 意志のため方巾巷の中国人宅にかくれ棲む。六月強制的に残留者全一一月五日正式離婚。四月一一十九日父豊吉死去。死目に逢えず。五月 員、引き揚げを命じられる。親子三人着のみ着のまま北京を出る。上京し、大磯の福田恆存家を訪ねる。福田氏には賛成されなかった 塘沽貨物廠に一カ月余船待ちをする。のち作品塘沽貨物廠にこの経が、文学をやる決心を固める。 一一十九歳 験を書く。八月徳島にたどりつき、駅頭で徳島は戦災で全焼し、母昭和ニ十六年 ( 一九五一 ) と祖父が防空壕で焼死したことを初めてきく。親子三人、実家に身三月、小説家を志して上京、女学校の親友大松富美子の家 ( 三鷹市 を寄せる。戦時中満たされなかった読書欲が湧きおこり、太宰治、下連雀一九 III) に身を寄せる。まもなく三鷹市下連雀一一六九下田シ 織田作之助、坂口安吾等を読む。坂口安吾に最も感銘をうける。 ュン方に下宿。すぐ近くに森外、太宰治の墓のある禅林寺があ 昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) 二十五歳り、毎日のように訪れた。三谷晴美のペンネームで、少女世界社、 夏、夫の昔の教え子某と恋愛を生じる。秋、夫と子供と三人で上ひまわり社、小学館、講談社などに少女小説、童話などを書く。丹 京、家庭に落ちっこうとっとめる。 羽文雄をたずね、「文学者」同人となる。同誌編集委員だった小田 一一十六歳仁二郎を識る。 昭和ニ十三年 ( 一九四八 ) 三十一一歳 二月、某との恋愛のため、家庭を捨てて身ひとつで出奔、京都に走昭和ニ十九年 ( 一九五四 ) る。女子大時代の友人丸本恭子を頼り、京都北白川平井町の学生下五月、処女作「痛い靴」を「文学者」に発表。十月同じ下連雀地内 1. そうろう 譜宿の彼女の部屋に居候をする。三月油小路三条の大翠書院に勤務、のラーメン屋五十嵐家の一一階に引っ越す。 流政之、新章文子が同社にいて識る。恋の相手の某とは一日も暮ら昭和三十年 ( 一九五五 ) 三十三歳 年さず別れる。 半年後の四月、杉並区西萩窪小俣きん方に転居。小俣家の離れの生 一一十七歳活は、生涯で最も平安な生活だった。小田仁一一郎と半同棲のかたち 昭和ニ十四年 ( 一九四九 ) 四月、大翠書院解散のため、京都大学付属病院小児科研究室に転の生活が始まり、以後八年余りその関係がつづく。十一月「ざくろ」 職。この頃本格的に文学で身を立てたいと決心。小児科研究室かを「文学者」に発表。

4. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

昭和二十七年佐和子は東京女 子大を卒業写真は東京女子大 ない彼女は、学校へ通うのをやめ、もつばら、家の蔵 ↓年の中にある、母方の祖父母や伯父たちの蔵書を手あた り次第に読みあさった。そこには小説類は殆んどなく、 昭哲学書と漢書、洋書、ばかりであった。 彼女の祖母は娘時代に実家の兄と共に神戸のイギリ 屋ス人の家に預けられて英語の勉強をしていたので、彼 楽女はこの時期に祖母から英語の手ほどきを受けること なレー」かか 舞ができた。抱えもある大きな英国皇室史がテキスト だったとい、つことである さいえん 漢文も日本に帰って以来、花崎采談という先生につ はくぶんそどく いて日本外史、孝経の白文素読をしていた。また、伯 を・男父の所蔵である哲学書をも読みあさった。難解な哲学 「門玉書に彼女はむしろ一番心を惹かれて読んだ。 このよ、つに、どちらかとい、フと硬派の ~ 〔眦圭日を続けて いた彼女が、ものを書くようになったのは大学に入っ てからである 昭和一一十四年四月、有吉さんは、東京女子大学英文 科に入学した。しかし、病気のため二十五年にいった ん休学し、昭和二十六年短大英語科二年に復学、二十 今七年に卒業した。 453

5. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

城夏子を励ます会で司会を っとめる ( 昭和四十二年 ) 一第 中野の、、蔵 " の書斎で ( 昭和 41 年 ) 初版本毎日新聞社刊 ( 昭和 44 年 ) 気投合し、次第に大杉の方に心をひかれてゆき、遂に 辻と別れて、大杉と同棲する。しかし大杉には堀保子 という糟糠の妻があり、さらに神近市子も大杉の愛人 である。 神近は「東京日日」の新聞記者をやりながら、大杉 にすべてを捧げ、金まで貢いでいた。そこへ野枝がわ しっと りこんできたことによって、神近は嫉妬に狂いはしめ る。知的で都会的な神近は、はしめから野性的で田舎 者まるだしのような伊藤野枝とはそりが合わなかった が、奇妙な四角関係と経済生活の負担に、神近は疲れ はててしまう。そして、遂に葉山の大杉の仕事場を訪 れ、口論の末、短刀をかざすところでこの物語は終っ ひかげ ちやや ている。世に言う「日蔭の茶屋」事件である 「新しき女たち」の情念がいきいきと捉えられ描きあ げられている。情熱的で奔放な伊藤野枝という女の、 ひだ 「、いの襞にわけいって」その、い理的な動きまでヴィヴ 年 ィッドに描かれている。そして「青鞜」の女性群のみ 和すみすしい生命力、「愛すべき女らしさ ( 賢こさも愚か さもふくめて ) 」が、浮き彫りにされた秀作である 会「人間の幸せは、自分の中の可能性を極限までのばす ン 努力によって得られるものだと思う」 サこれは、瀬戸内さんが近頃よく告白する言葉である。貯 彼女が「青鞜」的な女性たちに魅力を感じるのも、

6. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

左小学校三年 ( 昭和六年 ) 下東京女子大の校庭で右 ~ 14 端が晴美 ( 昭和十七年 ) 無二の親友・三木富美子 さん ( 右 ) と ( 昭和 15 年 ) 人種に、ちょっと逢っておきたい好奇心が動くからで ある。何のことはない、私の人間好きは、一言でいえ ば、人一倍旺盛な好奇心のあらわれにすぎない」 これは、「道」という随筆集の中の「一期一会」とい う短文の一齣である。 作家というものは元来貪欲なもので、また貪欲さを 持合わせていなければ、本当の作家にはなれないもの である。その意味で瀬戸内さんは正に、作家たる素質 を十二分に持った人であった。実にひたむきで、好奇 心が強くて、貪欲な人なのである。そしてまた「人間 が好き」というところにこの作家の特色があるのだ。 瀬戸内さんは、大正十一年五月十五日、徳島市富田 橋通りに生れた。父豊吉、母コハルの次女で、姉、艶 とは五つちがいの二人姉妹である。生れた頃、生家は 三谷姓を名乗っていたが ( だから彼女ははじめ三谷晴 美という名前で少女小説を書いていた ) 後、父が、父 方の叔母瀬戸内いとの養子となり、瀬戸内姓を継いだ。 さしもの 父豊吉は指物師で、神殿仏具商を開いて一家を成し ていた。ハ 乂も母も、中学も出ていない いわば昔風の 商人であったが、、、 不思議に母親が子供の時から本すき で、家の手伝いもろくにしないで、村の貸本屋の本ば かり読んでいたという。その血をうけついだのか、彼 女も小学校の頃から本が好きで、むさばるように読ん どんよく

7. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

ーン / を宀壅ー 1 空撮による九度山付近の紀ノ川 「紀ノ川」は明治一二十年ごろから昭和三十年代のはし めにかけての和歌山県の一名家の歴史を描いた家系小 くんりん とよの 説だ。紀本の大御っさんとして君臨する豊乃、女大学 の教えに従って生きる花、それに抵抗する文緒、そし てその文緒の娘にあたる華子などの生きかたをとおし て、日本の家と女性のありかたをさぐった長編だ。有 吉佐和子は、明治の女を花に、大正の女を文緒に、そ して華子に昭和期の新しい女性を代表させているが、 とくに紀本花の生きかたには、日本の女の典型的なひ とつの姿がもりこまれているといえよう。 作者は「紀ノ川」にふれて、「主人公の花は私の最 も敬愛する祖母のイメージを土台にしたものであり、 歌人でもあった祖母から私に流れてくるいのちを、私 は書いている間ひしひしと感していた。私にとっては、 初めて私の文学を掘り当てたような実感であった」と告 白していた。とすると華子は作者自身の分身となるの であろ、つか 昭和六年に和歌山市で生まれた有吉佐和子は、両親 にともなわれて五歳の時にジャワのジャカルタ ( 当時 はバタビア ) へ渡り、数年をその地で過した。その間 にも何度か帰国したことはあるらしく、 紀ノ川の最初 の記慮は八歳の時だという。それまで異国の褐色に濁 った小さな川しかみたことのなかった彼女にとって、 ふみお

8. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

米戸内第 このようにして、彼女は小田仁二郎氏との恋愛関係 昭によ「て、強い影響を受け、その充実をもとに、文学 に精進し、「痛い靴」 ( 「文学者」昭四「ざくろ」 ( 「同」 チュイアイリン 山ーン日 3 「女子大生・曲愛玲」 ( 「新潮」昭引、新潮同人雑 かしん 行ト誌賞 ) 「花芯」 ( 「新潮」昭 ) と次第に頭角をあらわし 、旅ン ソイ示 念氏 出田 」森日 会 ・い・こ ( 昭和 36 年 ) 「小説現代」創刊記念パーティで左より柴田錬三郎 行淳之介田村泰次郎一人おいて丹羽文雄晴美梶 山季之佐多稲子一人おいて佐賀潜の諸氏 ( 昭和 38 年 ) 473

9. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

この小説は、紀本家に生れ、真谷家に嫁いだ花とい う女性の「女の一生」である。そしてまた、多分に作 者自身の家系をもとにして書かれたものである。花は 彼女の祖母であり、文緒は母であり、鵡子は彼女自身 の分身である。 花は、その家に古くから住みついている白い蛇の神 秘を肯定するような、家系を尊ぶ古風な明治の女性で あり、その娘の文緒は、あられもない姿で自転車を乗 りまわし、女学校に入っては事ごとに教師に反発して 自己を主張し、東京の大学に入ってからは自由恋愛を して結婚するような、新しいタイプの大正の女性であ り、その娘として英才教育を受けた華子は昭和の、花 の世代とは全く隔絶した女性である。その三代の女 と、それにからんで登場する男性たちが、それぞれの 中勝の的 で井謙時代を背景に、見事に、個的に浮き彫りにされてい き亀野 る の靖 この作品によって彼女は文壇にゆるがぬ地位を確保 会上“来 協井因 り周 文よて ところで、これより数年後、彼女は、「有田川」 ( 昭 外左子に ) 「日高川」 ( 昭 ) と、いすれも、故郷紀州の川を 対 和京 民間佐北 「香 題名にした、家系的な作品を書いている。また、 人訪 と一いっこんにロ 9 も 国を郎氏」 ( 昭 ) 「助左衛門四代記」 ( 昭 ) 中国一各 やはり、紀州を舞台にした、三代、四代の家系を描い 右ホンペイの廃墟に 立っ ( 昭和三十五年 ) 左 ビブロスの遺跡で ( 昭和三十五年 ) とっ 458

10. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

しゃ ^ はいた、め 上海大前で撮る左より 二人目が佐和右端が平 野謙氏 ( 昭和三十六年 ) 、やをーを ー三 た作品である。 和 「香華」は「婦人公論読者賞」と「小説新潮賞」の二つの 賞を獲得した。 で 「香華」は、記ー 糸邦のある大地主の娘三代にわたる、や 庁 璃 はり「女の一生」を描いたカ作で、五十数年にわたる 瑠 母と娘の、愛と贈しみのあや糸でつづられた数奇な生 京涯が、重厚でしかも華やかな筆致でくり ひろげられて 目 二人の対照的な女の生涯と心理を、歴史的な、風土 人年的な背景のもとで、自由自在に描きあげ、むせるよう 和な迫力をかもし出している。「女性でありたいと思う 人間 ( 母・郁代 ) には幾人もの子が生まれ、母性であ りたいと願う人間 ( 娘・朋子 ) には子が生まれない 彡氏 撮郎その対照が描きたかった」と、彼女は語っていたか、 そうした女の宿命が、絵巻物のようにけんらんと描か 勝 て井れている秀れた作品である。 に亀 前が 「華岡青洲の妻」 ( 四十二年 ) も、やはり家系的な作品 堂つである。紀州生れの歴史上の人物で、日本で最初に麻 一三ロ 己と酔薬を発明し、これによ 0 てはしめて乳ガンの手術を行 ろ魯子 「たことで有名な華岡青洲の妻と、その母 ( 青洲の ) 和との二人の女の内的なか「とうを描いた秀作である ~ 〕海佐 上がカここにも背景として家系というものかおりこまれ 459