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検索対象: 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集
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1. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

略ーーー叔父でも叔母でも、あなたに誘惑されたのだと子とすれば、御宿でふざけきっていた二人が帰りの旅費ま 思って、今あなたから離しておきさえすれば、元にもどるでなくして、それさえ市子に送らせたのに、また、その後 どうせい のだと信じているのですね。そんな馬鹿な事ってありはしのんべんだらりと東京で同棲をつづけようとすることが許 ません。ーー・略ーー野枝公もうすっかり閉ロしているんでし難いのだった。 す。ーー略ーーー矢張りあなたのそばが一等いいわ。野枝公その上、野枝が故郷へ金策に出発したといってもその旅 すっかり計画が外れていやになっちゃったけど仕方がな費は市子の懐から大杉の手を経て渡されているものだっ た。どうせ、野枝に大した金策など出来はすまいという気 さび という手紙を追加している。代準介は、この才走った男持が市子にはあるけれど、野枝を送って露骨に淋しそうな どきよう いやみ のように度胸のある姪を愛しもし、自慢にも思っている点表情をみせている大杉を見れば、ついひと言厭味らしいこ があったので、本気でアメリカ留学のことなど考え出しともいってやりたくなる。 た。準介がたまたま、仕事関係で野枝の到着と同時に二十「野枝の悪口をいうのなら帰ってくれ」 日程の予定で旅立ったから、野枝は止むなく大阪の叔父の 「あなたの態度は全然、公平じゃないじゃありませんか。 家に釘づけになった。離れているとかえって心が平静にな いつだって野枝さんひとりの肩を持ちたがる。それじゃ、 しばしば るというのは、御宿での別居暮しの時から屡々野枝のロに私の立場はどうなるの みえ する実感だった。世間に対する見栄ばかりでなく、何とか市子は、離れて考える時は、もうこの混乱しきった情事 うず して経済的独立をして、大杉とも別居し、完全なひとり暮の渦から身のひき所だと思うし、大杉に抱いていた自分の てきぎ しになった上で、仕事と愛情の上で互いに適宜により添う尊敬や同志的愛などは、すべて幻影にすぎなかったという という男女の理想の関係への夢を、野枝はこの後も決して気がしてきていた。どうみたって惨めな三枚目役をつとめ けんお あきらめてはいなかった。 て金だけし・ほられている自分の立場に嫌悪をもよおさずに じちょう 野枝を送りだした大杉は、その後へ訪ねて来た市子と、 はいられない。自嘲と自己嫌悪から、一刻も早くこの泥沼 また口論になってしまった。市子は、ほんのちょっとと、 からぬけだしたいと思う。そのくせ、大杉と顔を合わせる うつぶん う約束で訪ねて来たのだけれど、御宿以来の心の鬱憤は、 とみれんだけではなく、このまま、黙って引き下れるもの にじ その暗くとがった表情に滲み出ていて、何かひと言いってかという自尊心が胸に突きあげてくるのだった。少くとも も、たちまちそれが大杉の神経にひっかかってしまう。市大杉の口から、彼の持論の自由恋愛主義に対する誤算が認 ついか ふところ

2. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

野枝の大阪毎日への小説は一応書きあげたものの、約東この関係からぬけ出すべきだという市子の理性が動きなが けいさし は破られ掲載されなかった。僅かに、雑誌「女の世界」のらなお、この関係にひきずられていたのは、大杉がふた言 大杉、市子、野枝の三人がそれぞれの立場からこの多角恋めには、 愛を論じるという企画に応じ、原稿料が入ったくらいであ「野枝は今度の問題で実に成長した。ぼくが何もいわない おどろ った。しかも「女の世界」は発禁になった上、世間はこののに、きみのことでも保子のことでも愕くほど理解してい 三つの文章から理解するどころか猛烈な反感をまねき、大るし、その心境は進んでいる。・ほくの立場もこの恋愛も実 杉も野枝も最後の多くの友人を失った。最も野枝を理解しによく理解している。きみは野枝にくらべて全くわかって てくれていた野上弥生子も、痛烈な忠告の手紙をよこしくれていない」 ということだった。金を市子から都合っけてもらいなが きゅう 五月の末には、宿の支払いも出来ず、帰るに帰れない窮ら、そのことが大杉の精神的負担になっていることにも市 地におちこんでしまった。 子は気づかなかった。 大杉が生活費から野枝に送金すれば、保子の生活費と大「保子からぼくを寝とった君が、野枝にぼくを寝とられた 杉の下宿代は市子の負担にまっしかないという惨状だっからといって、死ぬの殺すのというのはおかしいじゃない た。しかも市子もその月にはついに退社していた。市子のか」 ひなんらようしよう 退職金まで、当てにしなければこの経済的収拾がっかなく というような大杉の理づめの非難や嘲笑も市子には不当 なってしまった。 な侮辱だと思われた。それでもなお、きつばりとこのどろ ようや この頃になって市子は慚く大杉に対して批判的になって沼のような四角関係からぬけ出られないものは何なのか。 ばんのうごうく きた。三カ条の原則は野枝の側から一方的に破られている市子は知性も教養も歯のたたない人間の煩悩の業苦の前 しようぜん ばかりでなく、、 しつまでたってもその状態からぬけるめどで、悄然とうなだれるしかなかった。 もちろん もっかない。野枝には勿論、そんな野枝を許す大杉にまで経済的に追いつめられてしまった野枝は、ついに流一一を けいべっ 軽蔑を感じるようになった。恋愛ひとつにさえ理論と実践御宿で里子にあずけ身軽になって大阪の代準介の家に転り がかくもくいちがう大杉の革命論にも疑惑を覚えるように こんでいった。何よりも市子に借金をかえしたかったし なってきた。その上、野枝の今度の事件を売り物にして金もう積極的な協力の意欲を示さなくなった市子にかわり、 あぜん を得る計画が誤算したと聞いてはその甘さに唖然とした。新しい雑誌のための保証金まで、あわよくば叔父の手づる わず ぶじよく

3. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

辻との生活がもう何年も前のことのように思えてくる。そも、神近への愛が薄れたのでもないのだ。お前に求め得な わくでき れほどに濃密で強烈な大杉との十日あまりの愛の惑溺の時いものを神近に、神近に求め得ないものを野枝によって得 間だった。 るということがあるだろう。また野枝に与え得ないものを 大杉は野枝を送った夜、四谷の保子のところへ今度出す神近に、神近にも与え得ないものをお前には与え得るとい 本の印税の一部をとどけに帰った。それまで田中純などとうこともあるのだ」などと勝手な理屈をふりまわす。 しゃべ 逢って、今度の恋愛について喋りたてていたからもう真夜「それじゃ、まだまだ、第二の神近さん、第二の野枝さん 中になっていた。すぐ床について野枝は御宿に行ったとつの出現も可能だというのですね」 げると、保子は、 「まあそういうことだな」 きつね 「あの狐さんが」 保子は絶望して、これまでの保子らしくもなく、泣いた ばとう といって、野枝の悪口を云いだそうとした。大杉は片手り沈んだり、ヒステリックに女たちを罵倒したりする。 あいそ をのばし妻のロをふさいでしまってそのまま黙らせてしまっそ大杉が、全く保子に愛想づかしをしてくれれば、思い おうのう おうのう った。保子はこの半月ほどの懊悩で、げつそりやつれてい きれるものを、大杉は、保子の悲嘆も、懊悩も保子の立場 こうむ た。それに大杉が御宿へゆく野枝のために金を渡したとい におかれた女なら当然蒙る心情だといって、 うことを聞いて、いっそう心を傷つけられていた。市子は 「可哀そうだな。早くそこから立ち上ってくれ」 経済的に全く大杉に負担をかけないばかりか、むしろ、雑と泣き倒れる保子の横で一緒になって泣いてくれる。そ 誌の費用でも、時には家計のたしにさえ、時々の金を出すれでいて、二人の女との恋はあきらめられない。それは主 ことを惜しまない。市子の金で何度か急場を救われる度、義主張のためだと云いはるのだった。保子はもう神経も驅 保子は有難さより屈辱の度を深めるのだけれど、理屈でもずたずたに疲れきってしまっていた。 は、市子の経済力の前に、大杉の恋愛持論をうち破ること 一方、市子もまた、野枝のいなくなった麹町の下宿に大 が出来なかった。それなのに野枝は、愛の侵入者であるば杉を訪ねてくる。やはり、もう、何日も食事も通らないと ほおばね かりか、金まで大杉から持ち出すのだ。それならば野枝は いって、そうでなくても彫ったような顔に頬骨を目だた めかけ 妾と全くちがわないではないか。経済的に援助されるのもせ、げつそりと頬の肉を落している。目はく・ほみ、皮膚は 屈辱なら、経済的に損害をかけられることはより侮辱だっささくれだっている。 た。それでいて大杉は相変らず「お前がいやになったので「そんなに弱っちゃ、だめじゃないか。しつかりしなさ ムたん

4. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

しゅうらやくとら はおよそ知的なものを感じなかったし、身なりの悪さや全きらめきれない執着に囚われていることを悟らねばならな ただよ 身から漂う貧乏くささは、市子の育ちゃ津田出という無意かった。 よいやみ 意識には不潔感を伴った。男と女に対して、 識のエリート】 一方、野枝の方は、日比谷の宵闇にまぎれてかわしだ大 まっさっ ほとんど無意識に応接の表情や声まで変る野枝を市子は嫌杉との抱擁を、自分の中から抹殺しようと思った。久しぶ 悪でしか見ることが出来なかった。要するに性が合わない りに逢ったという情緒にだまされて、たぶんにふたりは遊 という星の人間がいるとするなら、はじめから野枝は自分戯的な気分に左右されていたのだと思いこみたかった。心 には性の合わない人種だとしか思えなかった。保子はともの中では大杉に強く惹かれながら、辻の不貞にあれほど激 だんがい かくとして、七つも年下のそんな野枝と、男を争うというしい怒りをぶちまけ、厳しく弾劾した野枝は、自分の心変 りの安易さも認めるわけにはゆかなかった。 ことは、市子の自尊心が絶対に許さない。大杉の大げさに 好意は持っているがなれてはいない。大杉に対する自分 認めている野枝の才能や可能性にも市子は疑問を持ってい た。この一「三カ月来「青鞜 , 誌上で青山菊栄と闘わしたの感情をそんなふうに自分に説明しようとしていた。 「婦人運動ー論争などは、野枝の社会問題や大衆運動への けれども辻との生活はもうこれ以上っづけてゆけないと ざんばい 無知を暴露して惨敗している。ただ誰にでも噛みつけばい いう気持に追いこまれてきていた。なぜひとりで今宿へ帰 いというようなこの頃の「青鞜」における野枝のヒステリ り、流二を産みおとして後別れる方法をとらなかったの ックな発言ぶりは、市子の知性には軽蔑を誘うだけであっ か。自分から辻を誘っておきながら、今になって野枝は後 た。そんな野枝と同等の立場で、否、むしろ愛を奪われる悔した。帰って来た東京の生活は、半年前と何の異ること そくばく 弱者の立場で競争するなど、とうてい自分に許せることでもなかった。子供が一人ふえただけ、いっそう自由は束縛 りはなかった。 される。「青鞜、の編集もようやっとの事だった。青山菊 もと に翌日、市子は、保子の許へ帰った大杉に向って、追いか栄との論争で、恥をさらしたことも野枝は自分で認めてい ぜっえんじようたた た。らいてうから引き受ける時思い描いていた「自分の青 けるように絶縁状を叩きつけた。 おどろ 鞜」の構想は、実際には幻にすぎなかった。現実には自分 大杉は愕いて市子の許へかけつけてきた。 一一晩の間に市子はげつそりと面変りするほどやつれぎつの非力と未熟な若さと基礎的学問の不足を厭というほど識 らされただけだった。 ていた。理性では割りきれる別れが、大杉の顔を見ると、 たちまちみれんに引きもどされ、とうていまだこの恋をあやはり辻と別れ、もっと自由に何物にも東縛されない立 けいべっ たたか ん ほうト ` ら′

5. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

まだのこっていて、性行為は、一種の義務的な習慣のよう 問題だ。いよいよぼくらの仲間に加わる日が来たね」 な感覚でしか捕えられていなかった。保子が病身で、もう 「わたしたちの仲間 ? 」 「うん、前からそう思ってたんだ。保子がきみを認めたよ長い間、大杉の強烈な性欲を満足させきれていないことは しっと うに、きみも野枝とぼくの新しい関係を認めてくれるだろ識っていたので、保子への嫉妬のわかない点もそれが原因 う。・ほくの持論のフリイラヴの多角恋愛の実験がいよいよの一つになっていたかもしれなかった。大杉が自分を抱き かんべ、 ながら、野枝とのキスの甘さや、野枝の肉欲の反応の敏感 これで完璧なものになるよ」 いきどお くつじよくの 市子はだまっていた。ショックの後には憤りと屈辱が咽さなどをぬけぬけと告げるのを聞くと、市子ははじめて、 どもと 喉元までこみあげてきた。考えたこともない保子の立場が肉欲を通して一人の女を激しく嫉妬する気持を味わった。 しようか はじめて胸にきた。市子ひとりの事でさえ、おとなしい保肉欲にめざめない女が接吻に強い官能の昇華を感じるよう 」ノトら′ 子が半狂乱になるほど傷つき、決して心からそれを認めてに、市子も大杉との性そのものよりおだやかな抱擁や接吻 などいないという状態を市子ははっきり思い浮べた。保子から幸福感を味わっている。それだけに、野枝とのはじめ からだ がその上、まだ野枝と夫との新しい恋愛をどうして承認すての接吻から大杉が野枝の肉欲や、驅までを空想の中でふ るだろう。大杉のいい気な恋愛理論が市子にははじめて妻くらませ欲望を広げていることが堪えられなかった。しか ほかめかけ てんせん の外に妾を何人でも蓄えて恬然としている男の獣的な我まもその腕には自分を抱きながら。 まとしか考えられなくなった。大杉はいつものように、むその夜一晩、市子はほとんど眠らないで考えつくした。 しろ、野枝との新しい恋の発展過程に興奮した情熱をあら大杉と野枝の関係はもう防ぎようもないことをさとってい わにして、当然のように市子を求めた。市子はどうしても た。この上、自分が情婦の一人としておこぼれの愛に甘ん その夜、神経も欲情も大杉に随いてゆくことが出来なかつじてゆけないならば、断じて今この関係を絶っぺきだとい た。もともと市子は、大杉と肉体関係に入って二カ月あまう結論に自分を追いこんでいった。市子は保子を好きでは りになっていたが、一向に性愛の歓びというものにはめざなかったけれど、その立場に対して気の毒だという気持は あったし、恋愛の利害関係をぬきにすればっきあってゆけ めていなかった。精神が大杉への愛にあふれているから、 る女だと思っていた。けれども野枝は「青鞜」の仲間とし 愛する男の欲するものを与える喜びが湧くという程度に、 きら その歓びはあくまで観念的なものだった。キリスト教の教て逢った最初から感覚的に嫌いな女に属していた。小柄な 育で育った市子には性愛を不潔視する少女趣味的な感覚が軅に野性と女の匂いをぶんぶんさせている野枝から、市子 っ よろこ わ あ にお せつん

6. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

城夏子を励ます会で司会を っとめる ( 昭和四十二年 ) 一第 中野の、、蔵 " の書斎で ( 昭和 41 年 ) 初版本毎日新聞社刊 ( 昭和 44 年 ) 気投合し、次第に大杉の方に心をひかれてゆき、遂に 辻と別れて、大杉と同棲する。しかし大杉には堀保子 という糟糠の妻があり、さらに神近市子も大杉の愛人 である。 神近は「東京日日」の新聞記者をやりながら、大杉 にすべてを捧げ、金まで貢いでいた。そこへ野枝がわ しっと りこんできたことによって、神近は嫉妬に狂いはしめ る。知的で都会的な神近は、はしめから野性的で田舎 者まるだしのような伊藤野枝とはそりが合わなかった が、奇妙な四角関係と経済生活の負担に、神近は疲れ はててしまう。そして、遂に葉山の大杉の仕事場を訪 れ、口論の末、短刀をかざすところでこの物語は終っ ひかげ ちやや ている。世に言う「日蔭の茶屋」事件である 「新しき女たち」の情念がいきいきと捉えられ描きあ げられている。情熱的で奔放な伊藤野枝という女の、 ひだ 「、いの襞にわけいって」その、い理的な動きまでヴィヴ 年 ィッドに描かれている。そして「青鞜」の女性群のみ 和すみすしい生命力、「愛すべき女らしさ ( 賢こさも愚か さもふくめて ) 」が、浮き彫りにされた秀作である 会「人間の幸せは、自分の中の可能性を極限までのばす ン 努力によって得られるものだと思う」 サこれは、瀬戸内さんが近頃よく告白する言葉である。貯 彼女が「青鞜」的な女性たちに魅力を感じるのも、

7. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

りで市子を訪ねた大杉は、金が入ったことと、葉山行きをきた。 仙告げた。 ところが出発の前夜になって、留守をする筈だった野枝 、カ 「いよいよ野枝ともこれで別居する段階になれたよ」 みち 市子は、突然の入金の途に疑問を變きながらも、思いが「あたし平塚さんのところまで行きたいわ」 もちろん けない大杉のことばに喜びをかくしきれなかった。大杉と とねだりだした。勿論、当分の別れにみれんが出ての甘 ゅうき の事件で新聞社をやめて以来も、結城礼一郎の世話で翻訳えだった。らいてうのいる茅ヶ崎と、葉山は目と鼻の近さ の仕事をいくらでも廻してくれるので、市子は働きさえすだった。大杉は市子との約束ははじめは破るつもりはなか こば れば経済的には困っていない。かといって、自分一人が必ったけれど、野枝のこの申し入れは拒めなかった。 死に働いて四人の生活を支えているような感じのするこの 十一月六日のことだった。茅ヶ崎の家の縁側で、病後の しん ゅううつ 数カ月の憂鬱さには心の芯まで腐りそうだった。まして野博史を日光浴させていたらいてうは、突然、野枝と大杉の しっと 枝への嫉妬と、大杉への不信と疑惑がつのってきたこの頃来訪を受けた。博史が胸を病み、思い出の南湖院に入院し では、机に向っても、いつのまにか頭の中は、片時も去らて療養した後、茅ヶ崎の海岸で引きつづき静養中だった。 みた ないこの情痴の混乱だけで充されてきて、仕事をするどこ昨年末に生れた曙生を中心に、らいてうの生活は「青鞜。 ろではなくなっていた。そんな矢先に、はじめて聞かされ時代からは想像も出来ない静かな平穏さの中に明け暮れて た大杉の局面打開の案だったから、市子の心は捨てかけていた。 「まあ、よくいらっしやったこと」 いた希望をあわててひきよせた。 おどろ らいてうは二人の客を迎え入れながら、内心の愕きをか 「葉山へはひとり ? 」 くしかねていた。野枝の離婚に引きつづき恋愛沙汰はもう 「もちろんだ」 「そう : : よかったわ。じゃ、しつかりやってらっしゃ充分聞き及んでいたけれど、問題の二人づれを目のあたり でも行く時はしらせてね。一日ぐらいあたしもいってにして、らいてうはとまどっていた。これがあの素朴で野 性まるだしの、飾り気のない野枝と同じ人物だろうか。派 ぼうじまおめし えもん 「うん、そうしよう、一「三日したら発つよ」 手というより粋な棒縞御召の着物をいやに抜き衣紋に着 いちょうがえ 市子は久しぶりに心の近づいた気のする大杉を見て、やて、つぶし銀杏返しに結い、肩から落ちそうに羽織をぞろ こなおしろい はりこの男と別れることの辛さに耐える自信がなくなってりと重ねている。粉白粉も濃ければ口紅も赤すぎる。まる

8. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

った。女性の解放を叫びながらおだやかな女の特性を失わゆるものがその完全な発想を得なければならない。凡ての しようがい ずに男女平等論をとなえるエレン・ケイの思想は、らいて人工的障碍が打破せられなければならない、偉なる自由に うの貴族趣味のぬけきらない感覚にはうってつけなのだっ向う大道に数世紀の間横たわっている服従と奴隷の足跡が ふっしよく た。同じ意味で野枝とエンマは出逢う・ヘくして出逢った宿払拭せられなければならない》 命の、同じ星の下の人間という感じがした。辻は、野枝の という主旨を解説したりするのだった。同時にエンマの あが 一種の社会的虚名が挙るにつれ、誘惑も多くなり、それに闘いに比べたら、自分たちの「青鞜、の中での受難などは くもん 対しても決して強固に自己を守りきれない野枝をエンマと何となまぬるく、その苦悶や圧迫は何となまやさしいこと 結びつけておくことの安全さを計算していたかもしれなか だろうといさみたつ。エンマの勇気、熱情、自信、自由、 った。手伝ってやるというよりは、ほとんど辻が訳してやそのすべてを自分のものにしたいと野枝は心を燃やしつづ るエンマの思想や伝記を、野枝が日本語で読むだけでも何けた。この仕事は大正三年三月、エレン・ケイの「恋愛と よりの肥料になると考えた。野枝はさすがに、 = ンマの思道徳」とあわせてひとつにまとめられて東雲堂から出版さ そしやく しゅうらんばん 想や生涯を自己流に咀嚼し、自分の血肉にとけこましていれた。紫色袖珍版の定価六十銭のこの処女出版は、野枝十 まこと 九歳のもので、ある意味では一の出産以上に野枝の生涯に 《解放と云うのは髪の結い方をちがえるのではない、マン運命的な意味を持つ出来事となろうとは、野枝も辻も予測 トを着て歩くことでもない、まして「五色の酒』とかを飲しないことだった。 しか よそお むことではなおない。然し新しき服装を装い、女が酒を飲この本に大杉栄が目をつけ、早速自分の発行している こうしよう むことの恐しき罪悪であるかの如く罵って高尚がったり、 「近代思想」五月号に取りあげ、「青鞜ーと共に批評し、絶 さん 上品ぶ 0 たりしている人等には々解放などと云うことは讃した。いわば大杉と野枝の宿命的なめぐりあわせの端緒 わかりそうもない。服装は個性ある者には趣味の表現であをつくったことになった。 しこう り、俗衆には流行である。酒は各人の単なる嗜好に過ぎな大杉栄は辻潤より一歳若く、明治十八年讃岐丸亀で生れ いずれも真の解放とはなんのかかわりもない》 た。父の大杉東は職業軍人で、軍隊でも精神家と呼ばれる ひきん 、んちよく こんな卑近な例をあげ、エンマの、 ほど謹直そのものの人物だった。大杉栄も幼年学校に入っ 《解放は女子をして最も真なる意味にて人たらしめなけたが、暴力事件を範し放校された。生来陽気で楽天的な性 ればならない。肯定と活動とを切に欲求する女性中のあら質だったけれど、吃りの気があって、そのコム。フレックス 、よめい ののし さぬき たんしょ

9. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

239 美は乱調にあり どうしても安あがりになりそうな電文ができない。そしてそして僕はその日一日、室の中をぶらぶらしながらこの いろいろ書きつけたものの中から、次のような変なものが歌のような文句を大きな声で歌って暮した。そして妙なこ できあがった。 男にちっとも悲しいことはなかったのだが、そう ムる して歌っていると涙がほろほろと出て来た。声が慄えて、 とめどもなく涙が出て来た。 魔子よ、魔子 ・、まムフ と、魔子可愛さを手放しで書きつけている子煩悩ぶりで ある。 世界に名高い パリの牢やラ・サンテに。 彼等の死後一一年たって刊行された大杉栄全集の中には、 この魔子の写真が一番多く収められている。ロ絵写真のほ わず とんどが、大正十一一年七月十一一日、あの最後の日から僅か だが、魔子よ、心配するな 二カ月前、大杉がパリから帰国した日のスナップなので、 西洋料理の御馳走たべて チョコレートなめて 神戸まで出迎えた野枝と魔子と大杉が一緒に写っている。 にじ 葉巻きスパスパソフアの上に。 大杉が明るい表情の中にも旅疲れを滲ませ、野枝は三年た てつづけの年子のネストルを妊娠、九カ月近い状態のお腹 をかかえた生気のない表情をみせている中で、六歳の魔子 そしてこの ひとみ ひとり、父親ゆずりの大きなつぶらな瞳をいきいきと輝か 牢やのお蔭で そうめい せ、どの写真でも幸福そのものの聡明そうな顔付で写って 喜べ、魔子よ パパはすぐ帰る。 いる。当時としてはずいぶんハイカラだっただろうおかっ ばをモダンな刈りかたにして、しゃれた帽子をかぶり洋服 おみやげどっさり、うんとこしょ を着せられている。いかにも都会の知的でモダン好みの家 こいき ムんいき 庭の子供らしい小粋な感じさえする雰囲気を持っていた。 お菓子におべべにキスにキス 踊って待てよ あの可愛い魔子も今は五十歳に手のとどきかけている筈 待てよ、魔子、魔子。 であった。 西日本新聞社に着くと、もう昼近くなっていた。戦災に こばんのう

10. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

しばら つきの下宿で、並の下宿より倍くらい下宿料が高かったけ だ。その野枝子と暫くでも離れるのだ。しかも、お互いに 暫くでも音信なしでいようと云うのだ。僕と同じ思いの野れど、下宿代の請求が殊の外のんびりしているため、無銭 で食べていられるという便利さがあった。 枝子には、僕がどんな思いをして其後の夜を明かしたか、 今更云う必要もなかろう。 略ーー・・野枝子が早く落ちっ その間にも、大杉は新雑誌発行の保証金を作ることに奔 いて、ほんとに野枝子自身の生活にはいる事、これが今の走していた。自分の思想の発表機関を持っこと以外に、や 野枝子に対する僕の唯一の願いなのだ。ー , ・・略ーーしかしはり大杉は生きていけないし、この複雑に錯綜してきた情 ね、野枝子、若しうまく行かなかったら、あせったりもが事を秩序づける方法はないと考えていた。思いがけない所 いたりするよりも、何よりも先ず早く帰っておいで。野枝から、その金が舞いこんでくることになった。野枝が道を つけてきた杉山茂丸に逢ったことから思いっき、内務大臣 自身の事は一一人で少し働けば直ぐにも何んとかなるのだ。 じかだんばん の後藤新平に直談判をして得たものだった。いきなり訪ね こんな愛情を惜しみなくそそがれている野枝が、保子やていった大杉に後藤新平は自身で逢うと、金が欲しくて来 たという大杉にあっさりと要求額の三百円を与えた。その 市子より恋の勝利者としての自信に満足するのは当然だっ れんびん たし、他の二人のライ・ハルに対してゆとりのある憐憫の情時新平は、これは同志の間にも内密にしてほしいと条件を を持てるのも自然の成行だった。 つけた。大杉はその金の出所を野枝以外には誰にも告げな ほんそう 結局この時の野枝の奔走にもかかわらず、金策は市子のかった。保子や市子にも明かすつもりはなかった。そのう ち五十円を久しく金を持っていかない保子の所へ運び、三 予想通り不成功に終った。大阪から九州へ走り、目ぼしい 知人の間は全部交渉したけれど、百円はおろか、帰りの旅十円で野枝のお召の着物と羽織の質を受けだした。野枝は すずめ 費をつくるのさえおぼっかないほどだった。けれども野枝もう長いこと着たきり雀の寝衣一枚になっていたのだ。二 あ とうやまみつる には代準介のってで頭山満に面会を申しこんだり、頭山の紹百円ばかりの残金に、少し稼ぎたせば保証金は出来る。大 介で杉山茂丸に逢いにいったりした。杉山は大杉に直接逢杉はいよいよ、野枝とも別居する準備が出来ると勇んだ。 どうせい いたいといって野枝を帰した。野枝は万策つきはてて、九菊富士ホテルの一室で、止むなく同棲をつづけながらも、 月末東京へ帰るとまた大杉の下宿へ転りこんだ。福四万館二人はその状態が正常だとは決して思っていなかった。先 は下宿料不払いで逐われたので大石七分の紹介で本郷菊坂ずこの金の一部分で大杉はなじみの葉山の「日蔭の茶屋ー よんさい の高等下宿菊富士ホテルへ移転した。菊富士ホテルは食事へ出かけて行き、文債を片づけるつもりになった。久しぶ ゆいいっ その かせ