お母さん - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集
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1. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

含みの多そうな言葉だけに、文緒は叔父の言葉を安直にましたんよ」 うなず 理解するのは控えたかった。肯きもせずまっ直ぐに浩策を「何やね」 まらてかけ 見守っていると、彼は猶も云い継いだ。 「市に妾はん囲うてますんやと」 「本家の御っさんは、わしを包含する気やったよ。そのた 月のうち、半分は家に帰らない。文緒が気がついてか めに、ウメまで抱きこもうとしよった。ほ、わしもウメもら、もう一一年近くなる。もっとも女を囲っているという話 あろち たしがい生命力の弱い , 日と見込まれたらし。やけどな、紀を聞いたのは、つい最近だった。新地の芸者を落籍したと なるたきがわ ノ川の傍にも鳴滝川のよに、添うと見せて仲々呑まれん細 いうのは、ほんの三月ばかり前のことらしい。 「ふうん」 川もあるんよ。わしらがそれや。文緒が訊いた仲の悪い 理由ちゅうもんやろかい」 浩策は腕を組んだ。顔はつくろっているけれども、眉根 うら しわ 「叔父さん、そやったら私も鳴滝川やの。十八年育てられに深刻な皺が寄った。新聞と書籍以外には世間と没交渉で て、いっこもお母さんの思うよに育ってえしません」 いる浩策は、噂というのを減多には耳にしないだけ、文緒 「そやよって、わしと文緒は気が合うんやろかいよ」 からの知識は今までにもかなり新鮮なものがあったのだ。 だんな 「そうでしよな。私もそう思いますわ」 「あんだけ家にも旦那はんにも尽していて、そいで裏切ら 「 : : : わしが見込みのある強い川ちゅうたんは誰のことやれてるお母さんかと思うと、私はお父さんを責めるより、 と思うー それだけ男を増長させているお母さんの態度に問題がある 「お父さんのことですやろ。末は大臣やとお母さんは云うと思いますわ」 おなご 「文緒は女に珍し論理を持ってるの」 てます。やから大事にせなならんのですと」 「大臣か。和歌山の県会議長も大したもんや」 浩策は、茶を飲もうとして、冷えているのに気がつく * けんすい 浩策は、鼻の先でふんと笑った。 と、建水に空けて、急須に鉄瓶の湯を注し、文緒の茶碗に ノ文緒は少々妙な気持になってきた。母親の花には何かとも茶を淹れ替えた。その手つきを見るともなく見て、指先 わら 紀反撥を感じるが、父親の敬策を叔父と同調してせせら嗤うの女のようなしなやかさに気がついて、文緒は我にもなく あか 気にはなれない。しかし最近は父親に関して聞き捨てなら顔を赭らめた。自分の指と較べてみて、爪も切り揃えてな うわさ あか ないも聞えてきていた。 ければ、伸びた爪の中に垢の溜まったものがあるのを発見 「叔父さん。そのお父さんのことですけど、妙なこと聞きして、少々恥ずかしかったのである。 はんばっ なお てつびん うち

2. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

「明子。ほいじゃ、云おう。叔父さんは芳子にもまだ言っ 「え ? 」 とらんことがあったんだ。後暗いと云えば、叔父さんこそ「原爆が落ちたとき、私は、市内にいたんです。家に、家 後暗いんだよ」 芳子が顔を上げて、私を見ていました。私は決意して、 「芳子」 妻を直視しながら告白したのです。 「お父さんもお母さんも早く起きたのに、私は夏休みだか くす 「黙っていて、すまんかった。僕は終戦前に広島へ戻ってら寝てたんです。気がついたとぎは家が崩れてて、私は机 いたんだ。正確に云うよ、八月十日に広島へ着いて、市中が支えになってとにかく這い出せたんです。それから、逃 の、親の家の近所を歩ぎ廻った。親兄弟のばかりでなく、げて、お母さんッて呼んでも、もう訳が分らなくて、よそ 近所の人たちの死体を集めて焼く世話までみたんだ。それの小父さんが、こっちだこっちだって云うのに、そのまん も爆心地だ。そのとき一一次放射能を受けたらしい。実は去ま逃げて、ほいじやけ工親を助けなくて、明子さんの云う 年から、日中はめまいがするんだ。恥を云うようだが宣告てん通り、私は、親を、逃けて、ほいで、私も、原爆の、 おそろ をきくのが怖しいので <ÄOO に出かける気にもなれない放射能、あんたよりひどいかも、だって不順だったでしょ のだ。いっ原爆症状がはっきり現れるか分らんと思うと、 う。私も、子供が、ちゃんと生れるか心配で、ほいじやけ 怖しゅうて、つい酒を飲まずにはおらんかったんだ。明子工、怖かった、怖い、すみません、嘘ついて、でも結婚し も許してくれ。芳子には、もっと悪いことをした。叔父さ たかった : ・ 。明子さんも、ご免なさい」 んは終戦を千葉で迎えたと嘘をついていたんだ。芳子は妊芳子は台所の板の間に喰らいつくようにして、肩をふる 娠した。ほいじゃが、明子も知っているだろう。僕の子わして泣いていました。それは慟哭というものだったと思 を、僕は芳子に安心して産めとは云えんのだ」 います。後にも先にも、芳子がこんな大声をあげて泣いた あお 話半ばで、芳子は泣き出していました。明子は、眼球がことはありませんでした。明子は、蒼ざめて、顔に二つの みひら 酔 飛び出すほど瞠いて、ロもきけなかったようです。 眼ばかりがあるような表情でいましたが、それが崩れると、 な「あんた」 「叔母さん、ご免 : : : 」 芳子が、泣きながら言葉にもならない声をあげて喋り出 言葉なんかで詫びられるものじゃなかったのでしよう、 5 したのは、そのときです。 はだしで外へ飛び出して行ってしまいました。後でききま 「私もおったんです」 したが、川沿いの道を走り廻っていたんだそうです。 しやペ こわ

3. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

もなって自活します。真の男女平等は経済的平等を措いて「やかて政治てなんですのん。政友会が分裂して政友本党 0 チャンス は無いと思うていた矢先で、ええ機会ですわ」 と政友会が出来た。この原因は、なんですのん。中の人間 十部の写真が、それぞれしかるべき人の手に渡されて秋の権力争いやおまへんか。大衆は政治から置いてきぼり やまと までには大和と四国のそれぞれ旧家であり大地主である家や」 の本家から縁談がきたのだが、これも同じロで蹴返され「文緒。まあ静かに話そうな。ええか、お前は政治政治と た。 いうけれどもやな、お父さんは代議士ではなし : : : 」 「地主がなんですのん。お父さんも地主で、私には地主の「末は大臣やと、お母さんがいうてなさいます。大臣ちゅ ちじよく 血というもんが流れてます。私はそれを恥辱とすら思うてうたら政治家でしようがの。お父さんは政治家や、大臣の ますねん、代々小作人の汗の代償を、ぬくぬくと倉に納め卵やそうな」 ぜいたく て、それで労せずして贅沢して暮してきた人間が地主です「難儀なこと いいな。お父さんはなあ、お母さんが思うて うち ねんで。私は、お父さんの所属する政友会にも疑問を持つるような偉い男とは違うのや」 ぎゅうじ てますねん。あれは特権階級政党と違いますか。家やの山和歌山の県会を思うままに牛耳ることのできる真谷敬策 ようさん やの土地やのを仰山持った人らばかりの寄り集まりでしょ が、娘の文緒には全く手を焼いてしまった。 うがの」 「花、お前の云いよった通りや。文緒を東京へ出したのが じようだん 間違いのもとやったわ。連れて帰るといえば、もう私は家 「冗談いいな。お父さんの仕事みてみなさい。水利組合か かんきっ て、柑橘組合かて、みんな百姓さんらの幸せ思うて作った出したものやと思うて下さいと云いよった」 ものばかりや。毎日忙しに駈けずり廻ってたんのが分らな「家出したものが、カネオクレの電報を打ちますものかの し」 んだんかいな」 うち 「私はなあ、お父さん、和歌山にいてたときはお父さんを「なに、もう電報来たんか」 ねが 尊敬してました。人々の幸福を希う行動が即ち政治なのや「あなたがお帰りになるより一足先に着きましたよし」 と思うてました。けど、東京へ出てきてから考えが変りま文緒のすぐ下の妹である和美は女学校を卒業するとその してん。お父さん、ほんまに政治やる気があるのんやったまま家にいて花嫁修業に専念している。歌絵も上級学校へ おおいと ら、無一物になって出直すしか、あれへんのですよ」 進む意志は持たないようであった。大和の旧家からは大嬢 はんでなければ、中嬢はんを是非にといってきている。こ 「無茶あいいな」

4. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

「そやけどなあ文緒、お母さんかて後悔してることあるん「あんた、慈尊院さんへ行くんかいし」 と尋ねると、 やして」 「ふん、まあ気休めやと思うけどの」 「なんですの」 「私のお祖母さんがなあ、紀 / 川沿いの嫁入りは流れに逆ぶいと立って行ってしまった。健康なためか、悪阻はひ ろうてはならんのえとよう云うてなしたのに、そんな迷信どくない体質らしい。その日の夕方には、 やまと 「お母さん、これでよろしいか」 をかもうたら悪いと思うて和美を大和へ嫁かせてしもた。 と、もう仕上げてきた。 今となっては、それが悪かったんやろかと思うてたまらん のえ」 見ると、いかにも手先の不器用な文緒の作ったものらし く、ぶくぶくと形が悪く、おまけに驚くばかり大きかっ 「そんなことあったんですか」 た。晋の死後、文緒は往年の面影もなく痩せてしまってい 「それに晋ちゃんのことかてなあ : : : 」 たが、乳房形は和彦に乳を与えていた頃の彼女の乳房より 「なんですの」 「和彦ちゃん生れるときは、あんたに叱られたけども九度もっと大きかったのだ。 ちちがた 山へて慈尊院さんへ、あんたの代りに乳房形あげてきた しかし花はこの場合不細工だなどといってケチをつける せわ 冫をいかなかった。英二の靴下継ぎも女中に任せてい んよし。そいになあ、晋ちゃんときは私も忙しかったしわけこよ た文緒が、生れてくる子供のために針と糸を持っただけで で、慈尊院さんへ代りのひともやらなんだんやして、その ために無事に育たなんだかと、あんたにまで済まんことしも嘉すべきなのだ。 たと思うてのう」 「結構よし」 、んま、え すすりばこ 「お母さん : : : 」 花は硯箱を持って来て文緒の前に置いた。金蒔絵の豪華 文緒は眼をって一瞬息を詰めたが、後は何もいわなかな蓋をとると、硯の横には墨が一一本、一本は上海から文緒 った。だが、数日すると思いきったように、しかし十分てが送った唐墨だった。しばらくそれを見ていたが、文緒は みごも れながら、 和製の墨をとってすり出した。唐墨には晋を妊ったときの 思い出が残っていたのだろう。硯の海に墨の油が光って波 「お母さん、乳房形て、どないして作るんですか」 もめん と訊きにきた。木綿の ( ンカチを扱って簡単に作り方をを描き出したのを見計らって、花はいった。 「お母さんが書きましようの」 説明してから、 よみ ふた シャンハイ つわり

5. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

ったのかもしれない。先年日華事変が勃発し、官僚勢力でそのときの敬策の暗い眼は、文緒が娘時代にもかって見 ちょうらく たことのないものであった。 固められた近衛内閣が生れて以来、政党は凋落の一途をた どっていたが、真谷敬策は政友会に属する一代議士として「お父さんは何を考えてなさるんやろか、お母さん」 「軍国日本」に抗するよりも、和歌山という一県下のため「さあの、わしには和歌山があるよってと笑うておいなさ に粉骨砕身して励むことを続けていた。 るけどの」 「お父さん、日本のファッショ化を防ぐこともようせん政「お母さんはどう思いなさるんです」 「英一一さんはどういうてなすったえ ? 外国に出てれば日 友会やったんですか」 本を客観することが楽でしようが」 妊娠して帰ってきた文緒に詰られても、 「そない云いな。こないなったら和歌山のことだけでも精「もちろん、ファッシズム絶対反対や」 けんえん 「やけどもジャ・ハはオランダ領でしようが。ドイツと犬猿 一杯でやろうと思うしかないやないか」 の仲の国が、日独伊の三国関係をどない思うてるやら」 と柔らかく受けて返す。 おんしよう 民主主義、自由主義は共産主義思想の温床ときめつけら花の考え深げな言葉に、植民地でのうのうと遊び暮して れていた。政府は反戦を主張する合法左翼の勢力を根こそ いた文緒は自分を反省したのかもしれない。久々で出会っ こうはん ぎ血祭りにあげ、他方では軍部と官僚に広汎な権限を与え た日本の冬に華子が病気続きで、その看病に息つく暇もな ぶんべん る国家総動員法を成立させて戦争体制の強化につとめてい かったせいもあって、ともかく無事に男児を分娩するまで は珍しく鳴かず飛ばすであった。 りべらりすとの文緒も、新聞を読めば、天下の形勢は分 だが文緒一人が静かであっても、真谷家の多忙には変り うず る。 がなかった。敬策の夫人として花がその渦の中心にいるこ 「ほんまやなあ、お父さん。社会大衆党までが軍人さんにとにも変りがなかった。敬策の行く先への心配り、蔭での す 迎合してますわ」 気遣いに、針一つ立つほどの隙も見せまいとしていた。す 「黙れと怒鳴りよるもん相手に、理屈も実情もあれへん。 でに数人の孫を持っ花であったが、仕事ぶりは若いものも 顔まけさせるほど精力的で、煩雑な事務も大どころを押え ・二六このかた、えらいことになってきよった」 しようかいせ、 さば てつぎつぎに捌いてみせた。そんな姿を賰介石の夫人に擬 「どうなるんでしようにの」 そうびれい して宋美齢と蔭ロきく者がいたが、しかし面と向っては敵 「さあ、なあ」

6. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

て、それで息子を解放した。文学や歴史に関しては中学校「いやあ叔父さん、私のお母さんのどこが強気やの。およ の教師など及ばぬような深い学識を持っ彼だったが、理科そ出しやばらんし、お父さんのいいなり放題やないの。今 となると実は文緒より低い学力しか持っていなかったので かて、台所でお祖母さんのお歯黒っけてましたわ。あんな だくだく ある。 こと、唯々諾々としてるのン見てたら、ぞっとしてきます せんぎい こと 栄介が本を抱えて彼方へ行ってしまうと暮れがての前栽わ。私への教育いうたて、お茶やお花や、お箏ゃ。新時代 に眼をやって、叔父と姪は静かに向いあった。ウメがそっちゅうもんはとんと分らへん」 おもしやこお と茶と菓子を運んできた。 「可怪い娘ゃな。わしも、おまはんのお母はん大嫌いや しゅうとめかね 「文緒さん、御飯あがっていかれますか」 が、見方は大分違うでえ。わしらには、わざと姑の鉄漿 「本家よりうまいもんなら食べて行きよしといわれるがつけるところが鼻持ちならん。わざと亭主孝行に見せてる ところが鼻持ちならん。利口が、わざと古風に振舞うて見 さか 「頂きますえ。私、ここのお菜は味付けええんで大好きせる賢しさが却って嫌らしい」 文緒は、しばらく・ほんやりして叔父の顔を見守ってい す 「ほ、お世辞いうわしてよ」 た。加太から取寄せた黒鯛を味噌の中へ擦り下ろした熱い 濃く淹れた玉露を、音立てて啜ってから、浩策はいっ汁を吹きながら啜っている浩策は、好みの美味に陶酔して あによめ た。 今いった嫂の悪口を胃のあたりで消化してしまった様子 「いよいよ東京行きが迫ってきたのう」 である。ようやく四十六歳の彼は、皮肉で意地悪な性格か 「ふん。もう嬉しゅうてかないませんね。学校から帰ったら自分の年齢も実際以上に老けこませているように見え て落着いていられしません。思えば思うほど古臭い家やなる。髪に早くも白髪が混っていたし、眉の毛が不自然に長 けん おお たてじわ あ思うて、この家から飛び出て行くんか思うたら胸がとき いのが険のある眼の上を掩って、鼻の上の縦皺を強調して めきますわ」 いた。真谷敬策の弟である彼が、兄より十歳も年とって見 えた。 紀「やかて文緒、東京で勉強するんは思うよりしんどいで。 めえ おも 浮いた気でいてたら、えらい目見るんと違うかの。まあ本「叔父さん」 四家の御っさんに、ぬかりはあるまいけどの。せいぜいお母「何や」 はん見習うて強気で張って行きよしよ」 「前から聞きたいことありますねン」 かだ かえ うら

7. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

きっ び出すことによって花から離れて存分に自分の呼吸をしょ 熱い茶を契して、浩策は訊いた・ しよせん うとしている。それは所詮、花の身近に居ては、花に包含 「お母さん、それ知ってるのか」 「さあ、どうですやろ。こんなこと告げ口されるほど気利される身の危険を潜在意識下でも気付いていることに他な らなかった。文緒にしても、新池に来てこそ母親を昔風と かん女ゃないと思うて、誰も云えへんのと違いますか」 こき下ろしにかかっても、家に帰れば花の前では一心に身 「そんなとこやろな」 込っ 「かりに気付いても、お父さんに強いことよう云わんと思を慎んでいる。花には身近な人をそうさせる威厳があっ いますわ。なんせ相手は大臣ですさかい」 「今月から、お箏はお母さんが教えます」 浩策は声を出さず、ロだけ開いて笑った。 * せいとう こう申し渡されたときも、文緒は嫌と云えなかった。市 「十年前に青鞜社ができて、世間の女は随分目覚めてきた ししよう うそ の師匠について、女学校の帰りに習うのは、嘘をついたり のに、お母さんの旧態依然には私もう我慢ようしません。 もったい 東京〈出たいという第一の願いは、長福院たらいう勿体だ催したりで、一一年生のころから行かなくな 0 ていたの らけの家から飛び出すことですねン。女性の先覚者になろを、三年になった春からは家に師匠を呼んで習わせられ うぬば うと自惚れることはできませんけども、少なくともお母さた。それが待ち・ほけをさせたり、すつぼかしたり、やっと 向きあって稽古になれば習う気が全くないから初歩の曲を んのよな昔風の婦女にはなりとうないのですわ」 ~ もら・ 浩策は、黙って、この気負った姪の言葉を聞いていた。何度繰返しても覚えない。稽古料を十分貰い、御っさんか ていらよう のうり らの鄭重な扱いを受けても、並に自尊心のある師匠なら憤 文緒の脳裡に描き出されている花の像と、彼が耐えがたい ほど口惜しい思いで思い返す花の像とは、まるで質が違っ然席を蹴って帰るか、黙って静かに帰ればもうあとは花が かんにん はんばっ ているようであったが、花に感じる反撥という点で、この出向いて頼んでも堪忍して頂きたいと反対に頭を下げる始 一一人は交り合うものがあった。世間は長福院の御っさんと末なのであった。市から出稽古する師匠も、三人替えれば しつ もう人が尽きる。花は半ば意地のようになって箏だけは執 、真谷敬策の賢夫人といい、優雅な何一つ欠点のない かんべ、 女と思っている花を、その完璧さの故に義弟も娘も嫌わし拗に稽古させようとしたのだ。文緒の妹たちは最初から就 もと おんぎよく くてならないのだった。 いた師匠の許に自分から音曲を楽しんでせっせと通ってい 浩策はウメと婚礼を挙げて以後、ふつつり彼女と交際をるというのに、この長女だけが花の思う通りにならないの 断っことで花の影響を受けまいとしたし、文緒は東京へ飛は花は自分に対して許せないのであった。 おな がまん ちょうく、

8. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

妻は黙って、・ほろ・ほろ涙を流していました。私は経済的 拠じやけェ」 な理由によって、おろさせようかと思ったのでしたが、妻 亜なると芳子も泣ぎ出して、 こじゅうとめ 「小姑鬼十匹って本当ね工。これだけ苛められても帰るの涙を見て、産みたいのだろうと思うと、それ以上のこと 。あのとき、お母さんと一緒に死んでは何も云えませんでした。 家がないなんて : つわり しもうたらよかったんじゃね。広島にいた人間は、誰も生 一週間が、そのまま過ぎましたが : : : 、妻の悪阻がひど くなってきていました。掻爬するとしたら、この月のうち き残るべきじゃなかったんよ。ほうよ、死にやアよかった、 にしないと大事になる、思いきって云おうとしましたら、 死にやア : : : 」 わめ 女同士の喚きあい、憎みあいというのは、全く男の手に明子が気がついて、 は負えないものですな。一方をたしなめると、片方の肩ば「叔父さん、叔母さんは妊娠しとってんじゃないん ? 」 かり持っといって、暴れ出すんですから、私はほとほと閉と云い出したのです。 かえり ロしました。いっ死ぬか分らない自分の身を省みず、結婚「いや、そんとなことはないじやろう。疲れとるんだよ、 してしまった身勝手さが、こうして責められているのかとこの頃」 も思ったのですよ。今こそこうして笑い話にもできます姪をいつまで子供だと思ってますから、こうやって誤魔 化したわけなんですが、このごろの子供をそんなことで誤 が、辛かったです、本当に。 はたら 芳子が妊娠したことが分ったとき、しかし形勢が逆転し魔化せるものじゃありません。数えでいえば明子は一一十だ ました。私はまたドキリとしたんです。心なしか、妻の顔つたんですからね。 「一緒に暮しとるのに、どうして秘密にするん ? 叔父さ 色も青ざめていました。 とこ んたちの子供なら、私には従弟妹じゃないの。かくすなん 「そうか : : : 」 て水臭いわ。第一、不健康よ。叔母さんの、なんだか後暗 「ええ」 だい、ら 世間普通の新婚夫婦だったら、妊娠は喜びと共に知らせそうなところが大嫌いだったんじやけど、今度本当にそう 知らされるものなんじゃありませんか。それだのに、私は思ったけェ」 かまムた おももち しばらく絶句していましたし、妻も何か懼れるような面持ある朝、釜の蓋を開けたとたんに芳子が胸苦しくなって うつぶ 台所の板の間に俯伏してしまったとき、明子は介抱もせず で私を見上げていたのです。 に威丈高になって叫び出したものです。 「産みたいか ? 」 おそ いたけだか そうは

9. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

た。彼は温和しく花の相手をするよりは、子供の話をきく前に他界していた。 あデく じようぜっ 医者の意見を検討した撈句、読書に皆が賛成して、華子 教師のように厳格に饒舌をたしなめたりするのである。 が持ってきていたベストセラーの小説を読んではどうだろ 「友一さんは、なんで私のロを封じますのよし」 うかということになったが、友一が、 花は、むっとして抵抗した。 しげ、て、 「そやかてお母さん、そんなにのべっ喋ってなしたら、お「それは内容が刺戟的すぎへんかいな」 からだ 母さんがくたびれます。躰に悪いんでっせ。静かに休みな と首を捻った。歌絵も、 さいや」 「お母さんは、あれで新しがりで評判になった小説は好き いつべ 「静かにというて、ここ十日の余も蒲団から外へ一遍も出で自分でもよう読んでなしたけど、一生懸命聞くというの てえしませんえ。食べたいものはなし、見たいものは見えは却って疲れていけませんやろねえ」 ず、そいで話もしたらならんて、ほなら私は何してたらよ と云う。 ろしいの」 では、花の座右の書とも云うべき読みなれた書物を読ん 「何も考えずに、気を楽にしてなされ」 ではという案が出て、それがいいということになったが、 「何も考えんというのは修業がいります。病気のときに坐では何を読むかという点でまた困った。政一郎が、大分た 禅が組めるものやどや、あんた考えてみなされ」 ってから、 花は本気で怒り出すのだった。 「源氏物語とか平家物語あたりですなあ」 と云い、それがもとより原文であることを知っている人 だが医者も、あとは時間だけの問題だと思うが、とにか おさ と云い出しかねた。 く饒舌は躰の衰弱を招きやすいから、抑えられるものなら人は顔を見合せて直ぐにはそれがいい 抑えるにこしたことはないという意見であった。 源氏物語などは、おそろしく難解な古典なのだと、読んだ 「気楽な話を看病する側で話し続けるんですなあ。奥さんことのない人々まで思い込んでいるからであった。 てだて 反響がないので、政一郎は彼なりに考え続けていたらし を聴き手に廻すしか手段はありませんやろ。でなければ、 本を読んであげるのもよろしいでしよう」 ますかがみ 下座敷には花の子供たちの他に遠い縁戚や、真谷敬策と「病気にな . る前は増鏡を読んでたようです」 「ああ、増鏡ですか」 由縁のあった大百姓や山持ちの老人たちが集まっていた。 うなす 新池からは栄介が来て、その中に混っている。浩策は一一年知ったかぶりに肯いた者があって、それがよかろうと、 おとな ムとん しゃべ かえ ひね

10. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

すずりばこ まれ 文緒は黙って硯箱を花の方に向けた。 西も小正月を過ぎると降り始めて紀州には稀な積雪があっ 「文緒一一十六歳」と書かれた乳房形は、慈尊院の鞣島にた。とい 0 ても勿論、雪国のような積り方ではなく、土か あげられると断然その大きさだけでも他を圧した。掌に握ら三寸ばかりの厚さになったのだが、この地方では全く珍 つりさが れるほどの乳房形が吊下っている中で、文緒の乳房形は開しいことだったので、「雪は豊年のしるし」という今まで いた掌にも余る特大型だったのである。背の高い文緒は、使われたことのない言葉が正月の祝い言葉の景気づけにつ それを弥勒堂の前の柱の一番高いところに吊下げることが かわれて、和歌山市民は湧き立っていた。 できた。和彦の安産を祈って花が代って捧げたという乳房市内高松町にある日本赤十字病院の一室で、文緒は窓越 くろ 形を探してみたが、古いものはすっかり黝ずんで文字は読しにその雪を眺めていた。 まわたはぶたえ めなかったし、風雨にさらされて中の真綿が羽二重の裂け「白すぎて、眼が痛い」 こつけい 目からだらしなく垂れ下っている滑稽な乳房形もあった。 花はヤスの眼病を思い出して驚いて窓のカ 1 テンを閉め 文緒は帰るとその様子を面白可笑しく皆に語りきかせてて部屋を薄暗くした。 自分から笑い転げ、 「お母さん、赤ンぼ、どないです」 「効験があると信じたわけやないけど、こいだけ気が楽に 「元気やったえ。心配せんと休みなさい」 なるんやよって迷信も捨てたもんやないと思いましたわ」 文緒は早産したのだった。月足らずで生れた子供は、早 と、まだ理屈をつけようとしているのだった。迷信打産児保育器という奇妙な容器に入れられて別室で看護婦が らようちょう にわ 破、新生活運動を喋々してきた手前、俄かに宗旨変えする付きっきりだ、産声をあげたのがやっとで、まだまだ自分 のは誰より自分に具合が悪い。それを花は意地悪く衝く気から乳を吸うことはできそうにない。 はなく、ただ文緒の服装だけは、 「慈尊院さんも乳房形も、あまりあてに出来なんだの、お かっこう 「アツ。、ツ・、。 ′′てその恰好はなんとかなりませんか。あんま母さん」 ふう からだ ノり風が悪いよってにの。この家はお客さんも多し」 「なにいうてますの。眠りなさい、やないとあんたまで躰 悪うにしますよし」 紀非難したが、 「 : : : 赤ンぼ、よっぽど悪いんですか」 「ふん、かめしません」 文緒には馬耳東風だった。 急にがばと身を起して、 昭和六年の正月は、珍しく関東一円は大雪だったが、関「お母さん、死んだんと違うか、また : : : 」