へんくっ も偏屈にならいですんだかもしれんで。わしが死んでから「のう、どや、浩策」 いさか 「見合かい」 7 兄弟で分けおうては争いのもとや」 太兵衛がこういったので、花は傍で浩策の嫁とりが即ち「そうよ」 浩策の分家することであるのに気付いた。次男ならば当然「断わってもよけりや、やってもええ」 のことだが、花は紀本雅貴と一一人兄妹で、自分の身近くに家と家との縁組に、見合で断わっては間に立った家の面 うかっ まるつぶ 目も丸潰れになり、娘の一生にもさわる時代であった。浩 この習慣を知らなかったから迂闊だったのである。 「いつどや花から聞いたと思うがの、九度山の信貴さんに策の言葉には毒があって、花をぎくりとさせた。 「そんな気で見合するもんやなかろがの、慈尊院村の大沢 えしてもろて、大沢の娘はんに会うてみんか」 はんならいうこともなかろし、花がいうてたよにええ娘ら 敬策が、こう何げなく持ち出したのは、正月十五日の小 を祝「ている朝の食膳であ 0 た。食事について、紀本しで」 家では花は豊乃と一一人で三度の食膳につき、女は食事の時敬策の言葉には包容力があった。明けて一一十七歳の彼 つつが が、村長という重責で恙なく仕事をしていて評判が上る一 も場所も男のそれと変える習慣があったのにひきかえて、 そろ 真谷家では一家中が朝食では顔を揃えた。太兵衛、ヤス、方なのは、彼の小さなことにはこだわらない磊落な性格に 敬策、浩策、そして花。一人一人の前に黒い塗りの一人膳よるものなのだ。 おな ZJ し が置かれ、給仕は清という四十過ぎた女衆が五人を一手に が、浩策は依怙地だった。 引受けて見事にさばいた。敬策と浩策は五人兄弟の中で末「慈尊院村の大沢たて、分家の大沢やろ」 「そうよ」 に続いて生れた男の子たちであった。姉三人が嫁入らぬ前 ここのつ までは長命の祖父を数えて八人の給仕をしていた清は、三「九吊りの荷で、駕籠と舟での豪勢な嫁入りはようせまい 人いる女衆の中で一番のしつかり者で、徳が九度山へ帰るの。荷は冊吊り、土堤づたいの人力車で嫁入りやろかい までは何かと角突きあわせていたものである。 の。なんせ、わしかて分家やさかいの」 浩策は故意にか小豆粥を音たててり、清の差出す盆を太兵衛がたまりかねて怒鳴った。 あに じろりと見て、 「浩策、阿杲いうな。お前には兄さんの気持が分らんの 「いらん」 しゅうと これまで花は舅のこんな大声は耳にしたことがなかっ といった。 い
を第 荢国青酬内図 上和歌山県名手にある華岡青洲の墓 左「華岡青洲遺跡案内図」有吉佐和 子の小説以来、この地を訪れる人が毎 年多くなっている 、朞軒を仼時のに自三の上にま : 、穴伏 : キ山に乏。・も るに遭の問にに、、ま第其表門支 : 萇門はる進 : をイ、いく 門ら萇門、の三イ北人半 : 南小」ム画 : れイ、いな 北半は一の大琿宅イ久凡冶注魲売魲芬け南半は耐本 都と ! = える詒を関する ~ 本本を・ = 、 3 は左甎室 ( 〈受 ) 【看 化ニ文守に・んイ、いも 挫露は典の北」一刈 ! な問人を - テ ~ もへを ) 4 亠閉す ! をメリ 底接年当一室 3 ( 手〈 1 ) 土、て要筋あ殤北はある立田 ( 北一】ある一軒 菁薬製球、受 ) 第剌 ( 〈を第貯舛 ! を一心ー一『春 、萇肋の南にあ ( 叮 上都に問 9 十一閉はいリのわて内生の者を 1 ン、いな 其の他は猶内の化よリに層下碑の宝下男の 厩 ( ! 第ル 1 久内羲薬鼠等人の亠いあの々 大十手、えこ ) 号ニ反ず博士れ穴地にえ聞 0 れ 其の著「華岡亠月調 ' よっ外い によ 青 筆岡角 : 川売主邸宅跡 春井軒 0000 を第を・第
「華子は何処で生れたの ? 」 「日本を一歩外へ出た日本人は、自分が日本人であること と急に反問した。 を強く意識するようになるんです。どこの国の人が見てい 「華ちゃんの生れたのは昭彦ちゃんと同じ赤十字病院でするか分らない。誰に見られても日本人として恥ずかしくな い態度を持せというのが大使館や領事館からの命令みたい やま 「そう : ・ つまんないわね」 なものなんですよ。日本人小学校の教育も、子供たちに大 どういうつもりでいったのか花にははかりかねたが、と和魂を植えつけ、日本人としての誇りを育てることに重点 もかく華子の感想はこのようなものであった。 を置いています。華子が可哀そうなことはひとつもありま 帰り道は疲れ果てて、花も華子も口数をきかなかったせん」 が、花は十分に華子の異常な立場を観察していた。この子と、花の言葉を頭から否定する。 供が日本を見る眼は、まるで外国人のようだ。緑の色に 一一人は南向き広縁に坐って、日だまりの中で幾枚もの千 も、川の色にも、桜にも、桃にも、常に発見が伴うのだ 0 人針を縫「ているところであ 0 た。花は五銭玉を丹念に布 た。いや、外国人というよりは、古くある日本に関係なにとじつけていたが、赤い木綿糸をひいてから、間の抜け く、いきなり生れた日本人というものなのだろうかと、花た相槌をうった。 は半ば感心しながらこんなことを考えついた。 「そうやのし」 「それはそうですよ、お母さん。あの子は春の次が夏でそ弁じたてたのを軽くいなされた感じで、文緒はたちまち れから秋が来て冬になるという順序もあまりは 0 きりして不満げな顔つきになり、花の手から千人針をひったくっ ないんです。四つの季節が順序よく来るのは温帯地方だけた。相変らず不器用な手つきだったが、彼女も千人針を縫 ですからね」 っているのである。木綿針を次の赤丸に刺して糸をひき、 「英一一さんが和彦さんを日本においていた理由が分ったよそこにもう一度針を置いて尻止めと同じく糸をからめて針 うな気がしましたわ。このまま夏にジャ・ ( へ帰ったら華を抜けば、それで一つの赤玉が出来上るのだった。 紀 子はまた桜の花を忘れてしまうやろのし。可哀そうに愛国婦人会の幹部である花の諶には、毎日のように千人 と、り ごおう 針の依頼があった。五黄の寅の女以外は誰でも一枚に一針 「おかしなこといわんといて下さいよ、お母さん」 以上は縫えない。花は文緒にも女中たちにも、また女の来 にわ と文緒は俄かに気色ばんで、 客があれば必ず一針ずつ縫わせたが、自分では穴あきの五
紀ノ川 じようだん こんな冗談を浴びせて紀本一門に眉をしかめさせた。そを思い出す余裕もなく、花は敬策の腕に抱かれて、ただ身 れでなくても紀本の連中は真谷一家の最前からの不行儀をを固くしていた。破瓜の痛みの中で、花は箱枕にあてた首 ぶべっ 心底で侮蔑していたのだ。信貴などは完全に苦りきってい に精一杯の力を入れていた。結った髷を崩すまいとしてい ここのつ ぬりかご た。九吊りの荷を送り、塗駕籠に乗せ、九度山から舟乗りたのである。花の受けた教育は、慎ましくあるためにこの こみしてやってきた六十谷は、彼の予想通り隅田一族とは場合にもこういう努力を強いたのであった。 が、敬策は花の反応をうかがうほど遊びなれた男ではな 雲泥の家格と思われた。敬策の父親である真谷太兵衛は小 ちょんまげ さな丁髷を頭にのせて、酒の酔いに眼尻を下げていた。信かった。一一十六歳の若さは、処女の肉体に眼も眩むばかり どびやくしよう でんじ 貴の眼からは土百姓にしか見えない。山持ちは、田地持ち感動していた。 を見下す癖があり、彼も例外ではなかったのである。人一「待っていたんや」 倍家格を問題にする豊乃にこの宴席の乱れぶりを見せた嵐の後で花は敬策の喘ぐような一言を聞いた。男の言葉 ら、彼女も後悔に歯ぎしりするであろうと思った。どうせに呼応することを戒められてきた女には、沈黙を以て辱恥 つむ 明日の新室見舞に六十谷へ来る豊乃なら、今日一緒に来ても歓喜も表現することを許されていた。闇の中で眼を瞑っ しまえばよかったのだと信貴は思い、終始一貫して自分一て、不安の翳も見えないのを花は自分で不思議なものに思 っていた。 人の意見で事を運んだ我が母親を、初めて憎いと思った。 が、それは今更の愚痴というものである。真谷敬策と花 とこさかず、 は、そのころ奥座敷で床盃を交わしていた。 初夜が明ければ新室見舞という習慣が待ちうけていた。 なこうど するめ 三方には甲州梅と寿留女が飾られ、仲人夫婦は幼児にも前日の男ばかりの宴会の翌日、女の縁者たちが新嫁を訪れ いわいごと のを食べさせるように穏やかな表情で、初々しい新郎新婦て祝言を述べるのである。披露宴では見られるばかりで誰 うつむ に盃を持たせた。 が誰やら名も顔も分らぬ人々の中で俯向いていた花だが、 「ほんなら、おめでたにおやすみなして」 この日は何の誰と一人一人に名乗られる都度はっきりと顔 仲人がひきとったあとのことは、花にはもう途切れ途切をあげて相手の顔と名を忘れまいとした。賢げな嫁さんよ れの記憶になる。生れて初めて異性と一一人きりになれば、 と、客には悪くない印象を与えていた。 しゅうとめ それだけで十分の衝撃になる育ちであった。「魔除けや」 姑のヤスがっききって、一人が帰れば、 うたまろ かいしばさ と云って懐紙挾みに入れて豊乃が持たせてくれた歌麿の絵「あら三代ほど前に分家しなすった家やして。代々分家は めじり あえ かしこ もっ
んど聞いてもいない説明を頬のあたりに受け流しながら、雑誌を叩きながら、しまいには・ハナナ売りのような口調に なってしまった。 視線は、男の周囲を物ほしそうにうつろっていた。ナイロ しいや、今日は金のない人は、後で送って来 ンの茶色のポストン・ハッグのチャックが半分こわれている「じゃ、ま、 はんごう 、ね。こうやって、現金書留の封筒にいれて、 らしく、開いたロから、飯盒とタオルに巻いた青い歯・フラな。しし のぞ シが覗いていた。自炊の飯盒飯をどこかの山道か寺の境内かね、封筒は買わなきや、くれないよ。わかってるな。一 でたべる香具師の一行の姿が、いっか見たことのあるよう年分なら一一百五十円かける十二の三千円。安いもんだよ。 まぶた それを一年分一一千五百に大まけにまけとこう。二千五百 な鮮かさで、彼女の瞼をかすめていく。 ポストン ' ( ッグの前方に、何のまじないか、現金書留用円、たったの二千五百円。字くらい書けるんだろう。え、 の封筒が、一一十枚くらい積み重ねられている。一番上にこうやって、自分の住所をはっきり書いてね」 は、大きなしつかりしたペン字で 男は、現金書留の封筒をとりあげ、ばらばらと、トラン プをひらくような手つきでみんなの前にひろげてみせる。 「川崎市下小田中 見物人たちは誰一人、そこに植えつけられた樹のように、 高橋明弘」 と書かれている。その下からは「和歌山県、東牟婁」と動こうともしないで無表情につっ立ったままだ。まさかこ の全部の人がサクラというわけでもないだろう。さっきょ いう字までが覗いていた。 ひとは たそがれ 男の説明は終ったのか、急に、ばんと、雑誌で男が自分 り、また一刷け、濃くなったような黄昏の色が、人々の足 ももたた 許をうす暗く隈どり、茣蓙の上の印刷物の文字も、今にも の腿を叩きつけた。 「何だ、え、買わないのか。買う人、ひとりもいないのかき消されそうになってくる。 がんくびそろ か。これだけ雁首揃えて突立っていて。ちえつ、たったの伏屋延子は、ほっと息をつめる。目で確めたわけでない からだ のに、あの男の視線を額に感じる。驅を固くしたまま、伏 二百五十円だよ。それつぼっちの金も持っていないのか。 くっ え、二百五十円で、何百万円入ってくるかわからないのにせた目だけをゆっくり動かしていくと、汚れた無数の靴の たい ねえ。えび鯛とはこのことなり。ああ、ああ、福の神に見間に、あの粋な長靴をたちまち捕えることが出来た。 いっから、そこにいたのか。伏屋延子は、すっと嫗をひ 放された人間は仕様がないなあ。救いようがないよ。アー メン、ソーメン、ヒャソーメンか」 き、人群を背にして歩きだした。男が自分の背中の文字を 男の声はますます投げやりになる。やけに、ばんばん、読んでくれることを感じていた。忘れていた乾きが一とき ほお
しばしば ノ川を、豊かに使わんので、水が怒るんと違いますかの だった。母親の花は屡々女学校の教師から呼び出しを受け し」と感想をのべたのが、彼の発想の原拠にあったことた。 しとう を、しかし知る人はなかった。 「真谷はんの嬢さんやという気が私どもにもございまし 敬策は先ず、彼の出身地である有功村の水田を、那賀郡て、他の生徒の前でも強いこと云われしません。一人だけ にある岩出の堰から引くことを計画し、工事の費用の半分教員室に呼んで注意しても、あの弁舌には敵いませんよっ に私財を投じた。所有する田地の一部を売り払ってそれにて、お家でよういってきかして頂きたいのです」 あげく 宛てたのである。これに啓発されて、和歌山県下の灌漑事教師たちが悲鳴をあげていて、手を焼いた揚句が母親に かつばっ 業は活になった。土地改良組合、紀ノ川普通水利組合頼みこむ始末なのだった。 は、前から名前たけはあったが、実績を持つに到ったのは 「ほんまに、お手数ばかりおかけ致しまして申訳もござい 真谷敬策が理事の一人に名を連ねて以来である。 ませんよし。したが大羽先生、文緒は軟派の傾向はござい 真谷敬策は水害の都度その名を高めて行った。名に実がませんか。私は何よりそれが心配でございましてのしー 伴えば人は文句を云わずに従いて来るものだ。三十八歳に軟派というのは硬派の対の言葉で、この場合は不良とい う意味になる。 して県会議長の席につくことに、誰も異を唱えなかった。 精力的な仕事ぶりも、事あれば私財を投じる気ッ風のよさ「文緒さんは軟派とは違いますなあ。中学生と手紙のやり も、彼の人柄あって初めて人々を敬服させた。長女の文緒とりするなどということないようですし、また興味もない が、女学校卒業を間近く控えるころには、彼は県会議長十らしい。むしろその点では友だちと話しているのを横で聞 年という政歴を持ち、その肩書は、水利組合理事長を始いていても潔癖すぎるくらい潔癖です。緑の袴はいても宝 め、県農会長、その他、一枚の名刺には刷りきれぬほど多塚は一度見て阿呆かいな思うたというてました。ただ、大 、和歌山県下どんな辺鄙な山村に行っても真谷敬策の名げさにいえば思想的にはやや危険が感じられます。田村先 生の影響が強く残っているのですね。今もってデモクラシ ノを知らぬ者はなかった。 ちょうちょう けんでん 紀それだけに文緒の突飛な行動は、一層派手に世間に喧伝 1 という言葉など喋々する具合ですから」 された。父親の人柄を享けて人から嫌われたり憎まれたり「あの節は、ほんまに御迷惑おかけ致しまして」 8 する娘ではなく、むしろ父親同様に人に慕われる侠気のあ花は恐縮するばかりだった。 るところが、却って周囲の人々の持て余しになっているの 田村先生というのは、文緒が入学すると同時に和歌山高 へんび ん、・んがい
一を 員クラスの地唄の演奏家と、その老人に教えを乞おう 年とする女子大学生とを対比して書いた、いわば世代の菊 出ョ 5 対比、そして古典芸能と現代の若い女性との対比を描 た秀れた短篇で、この、老人と若い世代との対比と 百と う書き方は、後の彼女の作品に、幾度か取り上げら 交氏 れるテーマである。 修茂て 米田に この「地唄」について、進藤純孝氏は次のように書 日士ロク . いている。 「「地唄』では、書き出しの一節に続いてーー・出演者 諢の一人である菊沢邦枝は、先刻から楽屋口に立って入 ってくる人を待っていた。 長身に黒と淡緑の齶しの地 1 に鮮かな四君子を染め描いた総絵羽の着物が似合って ぶ派手やかだから、薄暗い下足棚の垣を通って入ってく 勦、ヴ遊 る人々は、おやという顔で邦枝を見上げ、見知りの人 あいさっ は、『今日はお芽でとう』と挨拶して通り抜けて行く せりふ とあるが、まるで台本の台詞とト書ばかりでなく、 装置、衣裳にまで病的なほど気を配る演出家の態度を 思わせる」 ( 「われらの文学」巻解説 ) たしかにきめのこまかい描写である 演劇的な眼が培われていたということも出来るが この頃既に、彼女には、何か日本の伝統的なもの、形 式の上での美というものに、いを惹かれるものかあった のである。非常に格調の高い、居すまいを正した文章 ローマのヴァティカンで ( 昭和 35 年 )
米戸内第 このようにして、彼女は小田仁二郎氏との恋愛関係 昭によ「て、強い影響を受け、その充実をもとに、文学 に精進し、「痛い靴」 ( 「文学者」昭四「ざくろ」 ( 「同」 チュイアイリン 山ーン日 3 「女子大生・曲愛玲」 ( 「新潮」昭引、新潮同人雑 かしん 行ト誌賞 ) 「花芯」 ( 「新潮」昭 ) と次第に頭角をあらわし 、旅ン ソイ示 念氏 出田 」森日 会 ・い・こ ( 昭和 36 年 ) 「小説現代」創刊記念パーティで左より柴田錬三郎 行淳之介田村泰次郎一人おいて丹羽文雄晴美梶 山季之佐多稲子一人おいて佐賀潜の諸氏 ( 昭和 38 年 ) 473
じよう で、漢文の素読等の早教育に従いてきたが、それ以外の情ガ最モ尊重サレルベキカト考エマス」と、たった一行書か うち そうてき 操的な教養の面では、全く関心すら示さなかったのだ。内れていたばかりである。 ゅうすけ 土蔵の中の道具類を座敷まで運ぶのを手伝わしても、大切敬策は関西政友会に属していて、田崎祐輔翁の地盤を守 こっとう な骨董を扱うという心得をまるで持たず、値打物を粗略につていたから、東京にいる田崎夫人に監督を頼めば引受け 扱って欠いても壊しても大して失敗したとは思わぬらしてくれるだろうと、ようやく花は観念し、東京へ出ても稽 げんら 小学校一一年から必修課目になっていた裁縫などは嫌っ古事を続けるという言質をとって文緒の東京行きを許し て嫌いぬいて、和歌山高女の入学試験には、四ッ身を裁てた。それが秋である。 と、う問題に一ッ身仕立の裁断法を書いて帰ってきたし、 以来、文緒の勢いは、当る・ヘからざるものがあった。入 おなごし 入学後は全部家の女衆に任せて仕立上りだけ持って行っ学試験に備えて受験勉強する必要はないのんびりした時代 ごまか であったから、彼女は当面、相手を見付けては女学校卒業 た。それでも当人は誤魔化すことが大嫌いで、 後の、上京後の、東京生活への、抱負を語り続けたのであ 「先生、難儀なことになりましたわ」 る。 「まあ真谷さん、どないしたんです」 むそた あわせじようす 東京へ行くときまってから、六十谷橋を渡るときの足音 「実はこの袷、上手に縫い過ぎましてん」 も、前とは別の響を持って聞えるようになった。お洒落な こんな具合に底を割ってしまい、呆れながらも憎めない 女学生は好んで靴をはいたものだったが、文緒は祝祭日以 娘だと思われていた。 「無理に家政科へお入れになっても、あれでは東京では卒外は下駄の方が気楽だとそれで通してきていたのに、東京 きゅうくっ へ行くと定ってからは、窮屈な靴に馴れようと、つとめて 業できないでしよう。田村先生の影響とは別に、柄からい っても文緒さんは東京女子大に向いてるかもしれません」はき続けた。和歌山市の道路はともかく街らしく整ってき 目白の女子大を志望するものは五人いた。そのグル 1 プていたが、そこから一時間かかる帰り通は、橋を渡って六 さんたん ノに属していれば、花も文緒を東京へ一人やって安心してい十谷へ入ると、途端に惨澹たるものになってしまう。温か がん 紀られると思うのだが、文緒は頑として一人で東京女子大へい和歌山県は冬にな 0 て雪は降らなくても夜のうちに霜柱 行く。目白の五人とは友だちなのだから、お母さんは何もが立つ。それが朝にはもう柔らかくなって市に通う学生や 昭心配することあれへんと云うのだった。花は政一郎に宛て勤め人の靴に踏まれてあえなくひしやげ、午後にはすっか でいねい て相談してみたが、折返して来た返事には、「本人ノ意志り溶けて田舎道は泥濘にぬかるんでしまっている。ぬかる あ、 くっ しゃれ
場に立って自分の若さと可能性を試みてみるべきだ。野枝雑な四角関係は成立すると力説した。市子は一応その意見 はそんな決心の下から、自分に捨てられた後の辻の不面目に賛意を示していた。野枝は、市子の緊張ぶりや、押えき しっと けんおかん や、子供の不幸を思いやると決心はたちまち鈍るのだつれない自分への嫉妬や嫌悪感を感じるにつけ、思いがけな ぎら た。大杉をカにして、大杉の愛をス。フリングボードにして い負けす嫌いの竸争心がわきあがってきた。野枝もこの 家を出たいという潜在的な希みがあるだけに、野枝は家を際、保子は眼中になかった。けれども自分の不在中に、大 杉の心を捕えた市子が、愛情の上で先輩顔をしているのに 出る際、大杉との関係は白紙として自分にも辻にも、ひい ては世間にも誇示したかった。それには大杉自身の気持をがまんならなくなってきた。 確め、自分の主張に口を合わせてもらう必要があった。家大杉の愛が自分にあるという自信から、野枝は、市子や こうりて を捨てる自分の立場を少しでも清らかにするための功利的保子の存在をすぐにも追いおとしてしまえそうな思い上り な判断から、ある日、野枝はいきなり大杉の下宿へ訪ねてにとりつかれた。 いった。大杉はその少し前から逗子を引き払い、四谷南伊「性的にも自由を認めるなんて、実際にはそんなことが出 こうじまら 賀町に移った上、自分は、麹町三番町の下宿屋福四万館を来るものですか」 野枝は、大杉に云いかえしながら、自分はそれほど大杉 仕事場にしていた。 大杉の許冫。 こよ思いがけず、市子が来合わせていた。野枝との恋にせつばつまっていないというゆとりを強調しよう を目にした市子は、この際三人の関係をはっきりさせるべとした。市子が、野枝に対する不快感を必死に押えて、こ ゆくえ きだと云いだした。野枝は市子の口調に、自分もすでに大の奇妙な恋愛同盟の行方を緊張しきってみつめているのが 杉をめぐる女の一人として完全に組み入れられていることあわれになり、優越感を味わっていた。 を識った。日比谷の件も市子が識っている以上、云いわけ「考えさせてもらいます。もう少しこの問題は持ちこさせ てもらいますわー も聞かれなかった。大杉は例のフリイラヴの論旨をくりか えし、 野枝はそんな捨てぜりふをのこして、二人のいる下宿を 後にした。 一、お互いに経済上独立すること 一「同棲しないで別居の生活を送ること 一人になると、野枝はふたりの処で示したとは全く反対 の気持にあおりたてられていた。辻との別居を決行した上 三、お互いの自由 ( 性的のすらも ) を尊重すること の、三条件をあげ、それを四人が守りさえすればこの複で、大杉との問題を考えるという野枝の功利的な考えはく どうせい のぞ