じようす 上手でした。辻へってからは、辻のお母さんが、浅草の んかしやしませんでした。 近所じゃあの母親にどうしてあんな娘が生れただろう 0 蔵前の札差のお嫁さんだというような人ですから、芸事に たんのう てされておりましたよ。その上、辻の時も、大杉の時堪能で、長唄をよくなさったとかで、長唄を教わってたよ はうた も、亭主づれでよく来ていました。大杉の時は、父が怒っうです。姉がうちで習ってたのは、小唄や端唄のたぐいで て、世間にみつともないからといって、大分長く絶縁してしたからね。辻の子供たちも、大杉の子供たちも、変りな いましたが、結局父の方で折れて、大杉もつれて来るようく面倒をみた母の気持はどんなだったでしようね。まあ、 こんな田舎の人のことですから、父も母も結局は姉の夫だ になりました。 ええ、まあ、男運はよかったんじゃないですか。辻も大というので、どちらが来た時にも、出来るだけ尽していた 杉もとても優しくて、姉のことを野枝さん野枝さんと、そようです。 りゃあ大事にしていましたもの。両方ともいい男でしたけ大杉といっしょになってからは、この静かな小っぽけな ちゅうざい れど、やつばり大杉の方がずっといい男でした。男らしく村まで、大騒ぎになりました。駐在のお巡りさんは、それ て、優しくて、堂々としていましたよ。 までは、この村の駐在に来ると、仕事がなくて、釣でもし 辻はどこか、なよなよして、ぐずついた感じでした。姉てればよかったのに、姉が大杉といっしょになって以来 はおしまいには辻のことを、ぐずだぐずだとこ・ほしていまは、泣かされていましたよ。えらいところへ来さされてし した。 まったと、みんな来るたんびにうちへ来てこ・ほしたもので からだ 大杉があの大きな驅をおりまげて、井戸端で赤ん坊のおす。はあ、それはもう、三日にあげず、うちへやって来 しめを洗っていた姿を、今でも覚えておりますよ。大杉がて、東京から、どんな便りが来たか、どんな変ったことが 来ると、そういうことは小まめにやって ( 姉の下のものであったかと、訊きに来なければならないんです。そんなと も何でも洗ってやっておりました。 ころへ、姉たちが帰ってでも来ようものなら一大事です。 一日中、うちのまわりをうろうろして見張っていなければ 辻のことだってもちろん、はじめの間はとても気に入っ ておりましたよ。辻は尺八の名手でしたから、尺八を吹なりません。それをまた、姉も大杉も平気で堂々とつれだ き、姉は三味線をひいて仲よく合奏したりしていたのを覚って散歩になんか出ますものですから、その度、お巡りさ びこう んは尾行でヘとへとになっていました。 えています。 姉は、父に仕こまれていて、三味線もよくひくし、歌も姉はそんなお巡りさんをしまいにはみんな手なずけてし
もたしかいる筈ですよ」 て帰る時でも、魔子だけは大杉は手許から離さなかった といった。その手配も取ってあるからと、出発前には新し、仕事のための旅行にでも邪魔にせず連れていった。 はいわ・、 ひそ 聞記者らしい素速い配慮の電話をくれてもいた。そのくせ大正十一年の暮、大杉栄は密出国して中国人に化け、密 私は、まだ、まさか、そんなに早く、野枝の血縁の人々に かに・ヘルリンの国際無政府主義大会に参加しようとしたこ 逢うなどという心構えが出来ていなかった。 とがあった。・ヘルリンへゆく前パリのメーデーで演説した ろけん きんこ 今、聞いたマコさんが、大杉と野枝の間に生れた長女の ため、大杉栄であることが露顕して捕えられた。禁錮三週 魔子のことかとようやく気づいたのは、車が博多へむけ間の処分を受け。 ( リのラ・サンテの牢獄につながれた。そ わら て、桜の咲く藁ぶきの家々を後に、五、六分も走りすぎての事件の始終を書いた「日本脱出記」の中にも、 つじじゅん からであった。野枝は辻潤との間に二人の男の子と、大杉个ーーもう今頃は新聞の電報で僕のつかまったことは分 0 栄との間に四人の女の子と一人の男の子を生んでいる。一ているに違いない。おとなどもはとうとうや 0 たなぐらい 目で示せば次のようになる。 にしか思ってもいまいが、子供は、ことに一番上の女の子 まこと ー一 ( 大正一一年九月生 ) の魔子は、みんなから話されないでもその様子で覚って心 ー流一一 ( 大正四年十一月生 ) 配しているに違いない。 伊藤野枝Ⅱ ー魔子 ( 大正六年九月生 ) いっか女房の手紙にも、うちにいる村木 ( 源次郎 ) が誰 ーエマ ( 大正八年十一一月生 ) かへの差入れの本を包んでいると、そばから「 / 。、。、こよ何 ( 養女に行き幸子と改名 ) 大杉栄ー ーエマ ( 大正十年二月生 ) にも差入物を送らないの」とそっと言ったとあった。彼女 ールイズ ( 大正十一年六月生 ) をだますようにして幾日もそとへ泊らして置いて、その間 ゆくえ ネストル ( 大正十一一年八月生 ) に僕が行衛不明になってしまったもんだから、彼女はてつ じんじよう こう書ぎ並べてみると、辻潤の子たちの尋常な名前に比きりまた牢だと思っていたのだ。そして べて、大杉栄の子たちの異様な名と休む間もなく妊娠しつかに聞かれても黙って返事をしないかあるいは何かほかの すさま づけた野枝の凄じい生命力に驚かされる。 ことを言ってごまかして置いて、特に夜になるとママとだ で、あい 最も奇怪な名をつけられた長女の魔子を大杉は最も溺愛けそっと何気なしの。ハバのうわさをしていたそうだ。僕は しばしば し、その著作の中にも屡々魔子の名があらわれているくらこの子に電報を打とうと思った。そしてテー・フルに向っ いであった。野枝が出産のため郷里へ子供たちをひきつれて、いろいろ簡単な文句を考えては書きつけて見た。が、
くっ 村上浪六さんが住んでおられました。主人が野枝の手紙をゆうでいっておって、むこうでは靴やをしているとかいう みどころ みせますと、し 0 かりした字と文章をみて、これは見所がことでした。野枝はぐずぐず申しておりましたが、アメリ ある、上京させなさいとロぞえして下されて、主人もその力にいけるということで、承知したのでござりますよ。そ れがアメリカにゆかないことになったので、どうしてもい 気持になり、野枝をふたたび引きとることになりました。 ところがやってきた野枝をみて村上さんは野枝が女だったやだといって、ごねはじめたのでござります。野枝の女学 のに、非常にびつくりされました。手紙をみて、男とば 0 校五年の夏休みにそれでも祝言をいたしました。でもも う、何やら、その時のことの順序もみんな忘れてしまいま かり思いこまれておられたのでござります。大体、主人と 申す男が、金を貯めることより、人間を育てることが好きした。 もうこう忘れつ。ほくては何のお役にもたちません。どう に出来ておりまして、敵味方もなく、これという人物には れこむたちのようでござりました。後になって、大杉のして生きているのやら。せつかくはるばるおこしいただい ことなども、自分は右翼の玄洋社にいながら、ずいぶんとて、まあ、あなたさまに何かお形見なりとさしあげたいに 面倒をみるような気にな 0 たのも、主義主張より、大杉のも、何ものうて。でもまあ、生きている間に、さんざん、 いきたいところへもつれていってもらいましたよ。はあ、 人間に惚れこんだのかと存・せられます。 大杉のことでござりますか。はあ、大杉も辻潤もよう存主人がどこへでもつれてい 0 てくれました。全国の温泉も じております。辻はおとなしい煮えきらないようなところたいがいまいりましたし、富士山〈もあなた、つれてのば ってもらいましたよ。 のある人に見うけられましたが、大杉はほんによか男でご はあ、野枝の殺された時のことでござりますか、それは ざりました。とくに女子供に対した時のやさしさは、何と ら′よし よう覚えておりますとも。号外の出る前に、新聞社の人が もいえないものがござりました。どうしてこんなやさしい 人を世間が恐しがるのだろうと思ったことでござります。しらせてくれまして、主人と野枝の父が東京へとんでいき はあ、それは辻もなかなかにやさしいところのある男にごました。家のものは、それほどびつくりしませんでした ざりました。野枝の男たちはみんな野枝を大切にしたようよ。覚悟のようなものはかねがねとうについておりました でござります。はあ、野枝の最初の結婚のことでござりまのでござりましよう。野枝は、どうせ自分たちは畳の上で くちぐせ すか。周船寺の末松という家の息子で、父親どうしが友だまともな死に方はしないからと口癖に申しておりました。 ちで、自然に話がもち上ったと思います。アメリカに家じそうそう、主人と兄とが、野枝たちの遺骨を受けとりに
は、作品の冒頭に詳しく書きとめている。そして瀬戸 内晴美が、野枝の遺族たちを訪ねるために博多へジェ ット機でゆくところから、作品世界は展開される。 故郷〃念佰〃を訪ねて 私も瀬戸内晴美の取材のコースに従って、福岡市天 廴神一丁目にある西日本新聞社を第一に訪ねた。しかし 瀬戸内晴美の福岡取材に同行した記者は東京の文化 部長に栄転したあとで、会うことができす、伊藤野枝 と大杉栄の間に生まれた魔子もすでに亡く、関係者か ら伊藤野枝の思い出をひき出すことはできなかった。 わすかに野枝の兄由兵衛の未亡人である春代というお 年寄りに会って、野枝が大杉と一緒に金策のために帰 ひて っ 郷したおりの印象を聞くことができたのが、唯一の収 る る あ にがあ穫だった。しかし彼女の生家と思われる家を、この眼 0 かー でたしかめることはできた。 」かけ、 県大乱 ) 、ぐ - かた 伊藤野枝は明治二十八年一月二十一日に、福岡県志 まぐんいまじゅく がっ 午前この 剽面美摩郡今宿村で生まれた。その翌年志摩郡は土郡と合 併し、糸島郡と称するようになった。そのため糸島郡 目国第記によればル心立神、げ 屋館今宿村大字谷一一四七番地を出生地とする説もある。 , を時の山茶、そ現代の佑、現在」福市」《 , 」面。一新」【。袈 00 写かい しは唐津街道の宿駅のひとつであった。 参 2 げ茶屋創棠き初姿であり 当の篥山は三 , 」の畸赤 ーまへ、
まって、使い走りをさせたり、子供のお守りをさせたりす時でしたからね。はあ、大正十一一年の女の洋服なんて、東 るんです。荷物なんか、いつでも駅から尾行に持たせてや京でも、とても珍しかったんじゃありませんか。姉は洋服 が似合うようなところがありました。何でも、自分の着て って来ましたよ。 。ししんだというたいそう自信が 身なりをかまわないのは相変らずで、うちへ来る時は一るもの、していることよ、、、 番ひどくなったものを着て、仕立直してもらう肚ですかある人ですから、何だって似合 0 てしまうかもしれませ ひも ら、綿なんかはみ出たものを着て平気です。羽織の紐なんん。 そうそう、辻のことでは面白いことがありました。私が か、いつもかんぜよりでした。母が見かねて、 「せめて村へ帰る時くらい、みんなが見てるんだから、髪はじめの結婚で失敗して、婚家から逃げて帰った時、丁度 辻がはじめて来ていたのに逢ったんです。その時、辻が私 くらい結って来たらどうだ」 をどうしても東京へつれていって帝劇の女優にしてみせ といいますと、 「今に、女の頭は、あたしがやってるような形になるのゑ必ず、成功させるってきかないんですよ。姉まで本気 になってすすめましてねえ。今から思うとおかしい話です よ。みてなさい」 とうそぶいていました。でも、ほんとに、今になってみが、私も何だかそういわれると、遊芸が好きだったし、舞 台に立つのも悪くないような気がして、行きたくなったも れば、たしかに姉の予言通りになりましたからね。 ええ、殺される頃は、洋裁なんかもよくしていたようでのです。でもどうしても、父が反対してやってくれません す。髪も断髪にしていましたし、帽子なんかかぶっていまでした。その頃は帝劇の女優をはじめ、松井須磨子のノラ やカチューシャが全国をさわがせた時ですから、女優に憧 した。大体、大杉という人がおしゃれで、着るものなんか も、凝る方だ 0 たし、瀾だ 0 たようです。姉もその影響れる気持もあ 0 たのです。父は自身、遊芸が好きで、道楽 あ を受けたんじゃないでしようか。子供の服装などは、大杉としては娘を舞台で舞わせたりするのが好きなくせに、や 乱がやかましくて、子なんかは、大杉好みの ( イカラにさはり、女優というのは、芸者より悪い女の職業のように思 かわらこじ、 っていましたし、河原乞食になりさがることはならんとい れていました。ですから、ここへ引きとってからでも、こ きゅうへい の子たちには、洋服・はかり着せて、ずいぶん ( イカラに育うような旧弊な考えを持っておったようです。 はあ私の結婚の話ですか。はじめは十七の時、きりよう てていましたよ。その頃、洋服を着た子なんて、こんな田 舎ではないし、第一、おかつばにした女の子がまだ珍しい望みでもとめられて、隣県の大変な金持のところへ嫁きま
つがえされてしまった。大杉や市子までもが野枝を自分たっげるつもりで逢いにいった。大杉は野枝の云い分を一笑 ちの輪の中に入れている以上、別居と同時に大杉とのことに付した。野枝の心情を見抜いている大杉は、野枝の小細 うわさえさ は当然、事あれかしと待ち望んでいる世間の噂の餌にされ工を手きびしく指摘した。野枝は大杉に痛烈にやつつけら あか れればられるほど自分の垢が洗い流される気がした。最後 るのは逃れられない事実だった。 新しい女の一人としてさんざん世間にあげつらわれてきに野枝は、 た野枝も、自分も不貞な無節操な女、母性愛のない女、愛「保子さんと神近さんのいるかぎりは厭です」 欲だけの女と見られ、三面記事的な「噂の女ーにされるこ と、弱々しく反抗した。大杉はうけつけなかった。 「それじゃもう、あなたとはこれつきりです」 とは自尊心と虚栄心が許さなかった。 どうしても大杉への愛のため、辻と子供を捨てるのでは最後のことばを投げて背をみせた野枝を大杉は追わなか もうしゅう った。言葉とは反対に大杉へのみれんと恋の妄執をあらわ なく、自分の成長をはばみはじめた辻との生活を清算した 上で、大杉にめぐりあうという形にしなければ、世間からにみせて、その背は弱々しく前に傾いている。ふりかえり 予想される非難にたちむかえない。けれども出来るだけ自かけもどりたい野枝の本心が大杉には手にとるようにわか った。大杉の自信と確信通り、野枝はその夜、家に帰るな 分への非難を少くして新しい道をとろうと迷いつづける間 に、野枝は大杉を得たいという自分の欲望をもう自分の心り書斎の辻の前に坐り、別れ話を持ち出していた。 には否定することが出来なくなった。世間を納得させる残「私と別れてください。ずっと考えつづけてきたことなん された方法は、自分の恋を断ちきって、辻と別れた後も大です」 杉とは無縁になるという道しかなかった。大杉への恋をあ 口をきった瞬間、野枝はこれまでの浅ましい迷いが一挙 ほねみ きらめよう。その辛さが骨身に沁みて確認された時、野枝に晴れたような気がした。野枝の本質としての正直さと自 あ にははじめて活路を発見した。これだけの犠牲を自分にも強他への誠実さと飾り気のなさがふいに野枝の中からあふれ いるのだから、夫と子を捨てる自分への道徳的非難はゆるでてきた。 められてもいいという虫のいい自己満足だった。辻をも辻「正直にいって、大杉さんを好きになってしまったんで の家族をも世間をもだまして、自分をいい子にしたまま自す。そんな私があなたともう夫婦面しては暮せません。あ なたにすまなすぎる」 由になろう。 その決心を固めた上で、野枝は大杉にもきつばり別れを「奥さんや神近さんがいても、大丈夫なのか」 つら いっよ
じようちょ たお礼を書くというのが野枝の表面の目的だった。けれど意識下にゆれ動きだした大杉栄に対する恋の情緒からの興 も野枝のペンは通り一ペんの礼状のわくからたちまちはみ奮とないまざっていた。 だしてきた。 更にその手紙の終りに、「青鞜」二月号を読者に発送する 《今までもそれから今もあなた方の主張には充分な興味を時、大杉の「平民新聞」を入れて送りたいから、三、四十 持って見ていますけれど、それがだんだん興味だけではな部送ってくれと書きそえた。大杉たちの方へ既に歩きはじ じっせんてき くなって行くのを覚えます。 めている自分を、この実践的な協力、危険な命とりになる 一昨夜悲惨な谷中村の現状や何かについて話を聞きましかもしれない協力から示そうとする野枝の動きの中に、や びたい はり意識下の大杉に対する媚態がこめられていることは、 て、私は興奮しないではいられませんでした。今も続いて そのことに思い耽っています。辻は私のそうした態度をひもちろん野枝は夢にも考えついてはいなかった。 そかに笑っているらしく思われます。一昨夜はそのことで 二人でかなり長く論じました。私はやはり本当に冷静に自何度書きかけてもうまくいかなかった。 分ひとりのことだけをじっと守っていられないのを感じま大杉はとうとう。ヘンを投げだすと、その場にどさりと仰 す。私はやはり私の同感した周囲の中に動く自分を見出し向けにひっくりかえった。野枝の手紙は大杉には恋文とし て行く性だと思います。その点から辻は私とはずっと違っか見えなかった。 ています。この方向に二人が勝手に歩いて行ったらきっと夫にも告げない心の大切な秘密を大杉だけにむかってつ あし、 相容れなくなるだろうと思います。私は私のそうした性をげるという野枝の打ちあけ話を文面通りにうけとって、谷 じっと見つめながら、どういうふうにそれが発展してゆく中村のことに関して感想なり指導なりを書こうとするの かと思っています。あなた方の方へ歩いてゆこうと努力しに、気がついたら、大杉の文字は熱烈な恋を語りかけてい ふところ てはいませんけど、ひとりでにゆかねばならなくなるときた。辻との生活を破壊し、いつでも自分の懐にとびこんで せんどうてき を期待しています。無遠慮なことを書きました。お許し下来る野枝を迎える用意があるような煽動的な字句をつらね ている。 野枝は今、自分がどんな重大なことを書いているか気づ辻の気の弱そうな神経質な表情が浮んでくる。この頃、 かなかった。書いている時の心の熱いほとばしりは、谷中大杉は二度、三度と辻に逢うにつれて、辻という男に対す 村問題に対する公憤だと思っていたけれど、それは野枝のる理解と親愛感が深まっていた。スチルネルの哲学につい すで あお
になるのはいやだ、などという馬鹿な事はいわない。 これかった。 は友人論だけじゃなくてぼくの恋愛論でもあるんだよ」 市子は大杉を得た喜びに震えた。愛する男から愛撫を受 市子はもうすでに何度か大杉の自宅へも出かけていて保けた。女として自分は何とこれまで片輪な生活を送ってい たことだろう。 子ともよく識りあっていた。たしかにおとなしくしつかり ゆくて した女だけれど、まるで人形のように市子には見えてい 行手に何があっても、どんな辛いことが待ちうけて しっと た。およそ保子を対象に嫉妬したりする気持はおこらな いても私は決して後悔しないだろう、人生の底の氏までみ きわめつくすのだ 今も大杉に保子のことを云い出されながら、市子は一向大杉の胸の中で市子は幸福にすすり泣きながら、そう思 に心が痛まなかった。市子がだまってにこにこ聞いているっていた。 のに調子にのって、 それ以来、大杉は出京の度、市子のところを宿にした。 「・ほくは別に手も握った仲じゃないけど、伊藤野枝も好きもう誰に対しても市子との関係をかくそうとはしなかっ なんだよ。ついこの間までは、きみなんかよりずっと好きた。 大杉は保子を説得し得たわけではなかったのだ。保子は だったくらいだ」 などといってもやはり機嫌のいい笑顔のままだった。野いきなり大杉から市子を愛していることをつげられ、逆上 うわさ 枝に対する大杉の心は、噂にも聞いていたし、「新潮」のした。 「貞操論」でも、読みとっていたけれど、今の場合さして「神近を好きになったけれど、決してお前を嫌いになった 気にもならなかった。少くとも現在、野枝や保子より自分のではない。今までどおり愛してもいるし、尊敬もしてい る。だから、気持をゆったりもって、だまってしばらく目 が一番、大杉の心の近くにいることを市子は感じとってい あ をつぶっていてくれ」 乱市子がその後半月ほど仕事で旅に出ていて帰った時、大そんな大杉の云いわけを、虫の云い男のわがままとしか 杉は逗子からいつものように出京してくると、はじめて市聞けなか 0 た。これまで保子は大杉がフリイラヴなどと夢 子の下宿に泊った。大杉から答えをもらったと市子は思っのような理論をふりまわしていても、あくまで大杉の頭の 中の理想で、そんな奇怪なことが現実の世界におこるもの かと思っていた。自分と一緒になる前の女関係は知ってい 保子をどう説得したかということもあんまり聞きはしな 、けん たび かたわ つら
はず 年前の旅の途上、車で走りすぎた筈であったが、何の記憶 ものこっていなかった。かっては、福岡県糸島郡今宿村と うみべ 呼ばれていたその小さな海辺の町の名を私が意識しだした す とうのえおもかげ のは、伊藤野枝の俤が、私の胸に棲みはじめて以来のこと であった。 伊藤野枝といっても、昭和生れの人たちにはおそらく何 の記憶もなく、大正生れの人たちにさえ、ほとんど知られ ていない女の名前だろう。ただ、少しでも大正時代に興味 と知識のある人なら、あの時代の前期と後期に起った二つ こうとくしゅうすい * たいぎやく * おおすぎさかえぎやくきっ の大事件、幸徳秋水の大逆事件と、大杉栄虐殺事件を知 はず らない筈はない。大正十一一年九月一日におこった関東大震 災後のどさくさにまぎれて行われた、様々な虐殺事件の中 あまかす でも、憲兵大尉甘粕正彦と部下五名がその手でくびり殺し 古井戸に投げこんだ大杉栄、その妻伊藤野枝、彼等の甥で六 たちばな 、きどお、ようがく 歳の橘宗一の虐殺事件ほど当時の人々憤りと驚愕を与 えたものはなかった。大杉栄が無政府主義社会主義連動の 博多行を思いたった時、私はただ、美しい生の松原のあ唱導者としてあまりにも有名な人物であったことと、まだ いまじゅく るという今宿の海岸に立ってみたいというだけの軽い望み三十にならない妻と幼い甥が道づれにされた残酷さが人々 あ にを抱いていたにすぎない。 の同情と痛憤をあおったからであった。世にいうこの甘粕 地図でみると博多湾に面した今宿の町は、福岡市の西の事件の犠牲者として伊藤野枝の名を思い出す人は、更にさ かみちかいちこ まはず かのぼって、大杉栄が、情人の神近市子によって刺された 外れで、博多の中心街からは三里ばかりも離れているよう はやま じようちしようがい に見えた。博多湾の中に更に今津湾という入江があり、そ葉山「日蔭の茶屋」事件と呼ばれて名高かった情痴傷害事 ちょうど しっと の海岸線の丁度中心に今宿はある。 件を想起し、その時の神近市子の嫉妬の対象となったの からっ やすこ 博多から唐津への街道筋に面したその町を、私は四、五が、大杉の正妻堀保子ではなく、新しい愛人の、他ならぬ 美は乱調にあり かいちょういつわ 美はただ乱調にある。諧調は偽りである。 大杉栄 つうふん
こうたく とめどなく涙を吸わせていた。 することによって、市子は自分が木炭のような光沢のない へんまう 夜になっても、大杉の原稿用紙は白紙のままだった。市物質から、不意に光りをまきちらすまぶしい宝石に変貎し ゆくえ 子は大杉の今日一日の想念の行方を思いやって冷たい笑いたことを感じていた。大杉の人より大きな後頭部、たくま おさな がわくのを感じた。 しいカのみなぎった首筋、そこだけ、妙に稚さののこった はす ・ほんのく・ほ : : : それらを見つめているうちに、市子はその さし向いの夕食も気まずく、話は一向に弾まなかった。 大杉が今、市子の存在そのものを不快に思い堪えている皮膚や、体臭や、体温や : : : なじみきって、今は目に触れ 感じが市子の肌にひしひしと感じられてくる。自分のどこ ただけで直ちに官能に訴えてくる大杉のすべてに対し、愛 からだ が悪いのだろう。市子は夜の燈の色と共に弱く萎えてくる情にみたされてふいに驅がし・ほりあげられるような苦痛を えんこん 自分の怒りや怨恨に目を据えながら、重いため息をもらし覚えてきた。気配にふりむいた大杉が、大きな目を冷たく 見据えて、どうしたと訊いた。市子は、目をみはったまま 大杉を愛さずにはいられなかった自分の熱情を、今でも声が出なかった。この出口なく、汲みとられる期待も絶た ゅうもん 市子はいとおしまずにはいられなかった。数多かった求愛れかけた憂悶のすべてを、声にすれば、死ぬとか殺すとか 者の誰にも感じることの出来なかった愛執が、なぜ大杉ひの短い叫びにしかならないような気がした。床に入ってか とりに向って生れたのだろう。男に尽すことに何の抵抗もらも、市子は、今にもまた、昨夜のように野枝の電話がか ひしよう 感じなかった。大杉の前では市子は常に自分が卑小で非才かってくるような予感に悩まされつづけた。 たの なような劣等感に捕われた。しかもその事が何と愉しく甘「気になるでしよう。野枝さんが」 い感じで自分を包んできたことか。気の強さも、女として沈黙の重さに堪えかねて、背をむけた大杉に市子は声を ひくっ の袿力のなさも、人間的な未熟さも、市子は自分の欠点のかけた。自分のことばの卑屈さに傷つき、ほとんど無意識 すべてを大杉の前では実質以下に評価し、そういう自分をに、起きて下さいと、大杉の手をつかんでひつばった。 「いいかげんにしろ」 認め愛してくれる大杉を、ほとんど仰ぎ見るような気持だ ったのを思いだした。大杉という太陽の光りを浴びないか「ね、私たち、話しあう方がいいと思うわ」 口をきってしまうと、市子は押えきっていた激情があふ ぎり、自らは光りを放てない星屑のひとっとしか自分を評 価して来なかった。大杉は市子の人並より歩みの遅い長いれだし、自分を押し流すようなめまいを覚えた。受けた汚 じよく 青春がようやくさぐりあてた生命の光源だった。大杉を愛辱と、屈辱のすべてをも押し流す力がほしかった。 おそ