子守で補っているむきもある。 していない理由でもあった。その道を、数えで五歳になる 「やかて、もうタ風が立っちゅうのに、何処へ行きなした政一郎が行って戻ってきたのも子供の成長度をはかった想 んやろ」 いで母親の驚きがあったが、体力のない浩策が赤児にもせ と任せきりで安心もできずに、花は庭に降りて宮のあたよ文緒を抱いて一往復したのかと思うと、タ風にあてた文 りでもあろうかと探しに出ようとしたとき、門から浩策が緒が風邪でもひきはせまいかと取越し苦労するのと同じ気 がかりである。 戻ってきた。 「そない長う抱いてなしたら、重なりましたやろ。さ、文 「お帰り。迎えに行こか思うてましてん」 「文緒さんよ、お母はん迎えに来たで。迎えに来んかて大緒、お母さんにおいなはれ」 文緒を浩策の胸から抱きとると、被布の小蒲団にほんの 事ないのに、ほれ、迎えに来たで」 りとした温かみがあった。そのまま浩策も花も母屋の方へ 「叔父さんに、どこまで連れててもうたんよし」 行かずに庭先に立っていた。それはほんの瞬間にも等しい 浩策の背後について戻ってきた政一郎が声をあげて、 短い時間だったのだが、二人にはひどく長い時間に感じら 「池、見に律てきてん」 れた。花は気がつくと急に歩き出すのも気が咎めて、足が 「池て、どの池よし」 釘づけになったような想いだった。 「新池ゃあ」 ぎようてん 花は仰天した。新池というのは、浩策の家のある奥の垣「ほ、ついたしてよ」 内の上の方にある。すると浩策は政一郎を従えて、自分の浩策が門の手前にある柿の木を見て、いった。 家まで行って戻ってきたのだろうか、生後六カ月の子供を「さようでございますのし」 こた 抱いて 花は反射的に応えて、やっと呼吸ができた。 「まあ、よう歩けたのし」 この春、豊乃が九度山から人に託して届けてよこした富 つぎき 政一郎にとも、浩策へともっかず、花はこういってい有柿の枝を、前から門内にあった柿の木に接木したのが浩 た。本家から新池までは道のりもかなりあるが、奥の垣内策のいう通り、ついていたのである。初めて迎えた秋だか くろ はもう奥山への登り口になるから道自体が嶮しいのであら、むろん実のなりようもなくて、黝ずんだ枝に赤茶色の たてまえ る。妊娠してから花が建前にも行くことができなかったの 小さな葉がこびりついたような形で残っている。が、その からだ だし、産後どことなく躰の弱った彼女が、まだ新家訪問を枝には、古くからある幹と根を通して地の精気を吸いあけ にんしん おも くるみ
しんいけおなごし ていることカ ・、、はっきりと見えていた。来る秋に一度枯れ「政一郎さんがいうてましたんですけどのし、新池に女衆 ようとしていても、枝に勢いがあるのだった。 さん来てますようでございますよし」 子供でも男児ならさんづけで呼ぶ習わしは紀本家から持 「いつごろ実がなりましょにの」 と今度は花から問いかけてみると、 ち継いだものである。新池というのは、浩策の新家を、新 あに 「さあ、そら兄さんに聞いて頂かしてよ」 池の下にあるところからもう人々がそう呼びならわしてい あどけ どう気が変ったのか浩策は、急に無愛想な返事で、茶をたのであった。政一郎の仇気ない口から、 飲んで足を休めてはと花が勧めるのもきかずに帰って行っ「叔ゃんとこに、小母んいてたでえ」 おどろ てしまった。 と聞いて、花は愕き、敬策も同じようにこの報せには愕 その夜、文緒が珍しく夜泣きをして、花は深更それを寝くかと思ったのだが、 かせつけるのに苦労をしたが、敬策もすっかり眼をさまし「ふん、そうらしな」 と彼はすでに知っていた。 てしまった。 ひと 「私はちいとも知りませなんだ。この在の女でございます 「よう泣きよるな。どないどしたんと違うか」 かのし」 「ちいと出歩きすぎましたんよし」 「この在やったら直ぐ分るわよ。市から連れて来よったら 「出歩いたてかい」 花は浩策が文緒を可愛がるあまり、新家まで政一郎ともしで」 まゆ ども連れて行ったのだと説明すると、敬策は眉をひそめ「まあ、市からてでございますかのし」 ) 0 「そうよ。誰どの伝手で呼んだらしけどの、水臭い奴ッち うわさ ゃ。わしは、あの秘密主義が気に入らん。おかしな噂がた 「子供に病気でも移ったらどないするつもりやね」 たんとええがのう」 「はい」 「 : : : 妙な女さんでございますのかのし」 逆らわずに頭を下げたけれども、花の方が浩策の病気に 「いや、わしも見たわけやないけどの、女衆は女衆らし。 ついては敬策より詳しい知識を持っている。浩策の口か ら、子供を抱いても大丈夫なのだという説明を十分きいてま、女中ちゅう奴ゃな」 「ほな、よろしゅございますわのし」 いたのだ。だから叱られてもあんまりこたえない。すぐに 「やかて兄弟にかくして女中傭うことあれへまいが。ほん 話題を変えた。いいたかったのはその先の話なのだ。 おな tJ しら
花が立っていた。家から飛び出して、自分の履物を探す「お母さん、ご免なして。堪忍して頂かして。私が悪う 余裕も持たなかったのか足袋はだしだった。青い顔をし めじり けいれん みやび て、右の眼尻を痙攣させている。 花は、片手で土蔵の戸を開けると、あの雅やかな日頃に 「その自転車どこのうですか」 どうしてこんな力を貯えていたかと思えるほどのカで、文 「新池の借りましてん」 緒を土蔵の中に突き倒した。 うそ とっさ 咄嗟に嘘をつく余裕はなかった。照れかくしに立上っ 「お母さん、もうしませんよって。もう自転車にのりませ て、袴の裾をパタ。ハタとはたいていると、 んよって : ・ : ・」 わめ 「文緒ツー 子供のように泣き喚くのを構わずガラガラと厚い戸を閉 じよう 今度の声には、ヒィッと悲鳴のような共鳴が伴って めると、ビーンと錠をかった。文緒の声を背後に、花は冷 た。花の手が、文緒の二の腕を、着物の上から荒々しくたい廊下を素足の裏に感じながら、急いで玄関へ戻った。 んで、そのまま彼女を家の中に引きずりこんだのである。胸が動悸を打っている。驚愕以上の怒りが、まだ仲々鎮ま 「新池の借りて、今まで内緒で練習してたんかいし」 りそうにもない。だが、庭から家に上るとき、興奮した最 「お母さん : ・・ : 」 中にもかかわらず手早く脱ぎ捨てた足袋を、始末しなけれ かっこう 「あの恥知らずの恰好して、村中走りまわっていたんやばならなかった。 おなごし ばうぜん 女衆たちは茫然として、足袋を取り片付ける才覚のある 「お母さん・ : ・ : 」 者はなかった。花は拾いあげると、そのまま納戸に入って ないがし 「何時まで親を蔑ろにしたら気が済むんえ。何処までやっ洗った足袋とはきかえにかかった。朝とタ方と、また来客 たら気が済むんえ、文緒。 あればその都度、花には足袋をはき替える習慣があった。 「お母さん、ご免 : : : 」 脱ぐのも手早いが、 はくのも人目のない納戸の中で横坐り 花は、文緒に口をきかせず、意味不明な言葉を吐き散らして姿よく素早くこはぜをはめた。立った、白い足先を眺 うちぐら しながら、文緒をひきずって内土蔵の方へ向っていた。罰め下ろして、今先の逆上からいくらかでも立直ろうとして んこ いるとき、 として、土蔵の中に文緒を禁錮するつもりなのであった。 それに気がつくと、文緒は子供のような声をあげて泣き出「お母さん」 和美と歌絵が入口に坐って、 はきもの かんにん なんど
「ほなら、お前はどないする気やね」 待ちかまえていれば、万事が略式にならぬわけこよ、 っこ 0 カー 「ウメの家柄は金持ゃなけれ決して悪うありませんのよ浩策たちの婚礼に、花も留袖を着る予定だったが、ウメ - もっころ・ の着物を染めに出すうちに、真谷家の女紋が三ッ割木瓜で あるのが、どうしても気に入らず、花は思いきって自分の 「ふん。そいで」 「新池さんもあの性格で、嫁さんも並ではよう辛抱します紋付は全部姫蔦に改めてしまうことにした。豊乃が紀本家 どもえ まい。ウメを正式に迎えておあげなしたらと私は考えますの三ッ巴を嫌って自分のものを姫蔦にしていたのを思い出 けどのし」 したのである。蔦は、幹にからんで伸びるものとして、も うわさ 「そいでも世間は噂しよるで。真谷の新宅は女中に手をつともと女の性を現わす植物であった。独断で替えても悪い 、よるでえ」 ことではなかろうと思った。豊乃が何から思いついて姫蔦 けて嫁にしよったとい 「やかて、真谷敬策がむごいことしたとは誰もいいますまを使うようになったか、そこまで考えることはできなかっ たが、豊乃の母親の生家が鬼蔦を家紋として、女紋は姫蔦 いのし」 にしていたのかもしれないし、またその母親が、嫁入先の 敬策は腕を組んだ。花のいう通りにすべきかどうか考え ていたのではない。浩策とウメと、そして夫の敬策との三紋を女に使いかねて考案したかとも、探れば幾らでも遠い 昔を想像することができる。 方無事を思う花の智恵に感じ入っていたのだった。 数日後、敬策は新池へ一人で出かけて行った。そして夜浩策が、どんな難癖をつけてくるか案じられたので、ウ 。らっこう メの紋服は一応三ッ割木瓜に染めておいたが、いずれ先行 晩くなって、ウメを連れて戻ってきた。清が代って翌日か ら新池の通いの女衆になった。それも秋までの予定であきは彼女の女紋も考えてやろうと花は思っているのだっ る。ウメは本家で短期間のうちに行儀見習と花嫁修業をすた。二十七歳の彼女は、十歳下のウメの婚礼仕度を整えな がら、まるで母親のようにそれを楽しんでいた。浩策に対 ることになった。 花は和歌山市へ出向いて、四丁町の帯屋でウメの婚礼衣しても、心温かく、まるで姉以上の親しさを持ち始めてい しよう 裳を整えた。急場のことだから嫁入道具は当然凝ったこと あげ が、ウメが本家に引取られてから、浩策はばったり揚ノ が出来る筈もない。女衆という身分よりは上等の仕度がせ い・せいで、なんにしても一一一三九度から三月たたずで出産が域呼には現われなくな 0 てしまった。たまにウメの親類と おそ こ 0 ひめづた
効験があるとされているのだった。手を併せて拝みなが て戻ってきた。 ら、夫は逝き、子は嫁を迎えたり分家したり、七十一歳に 「まあ、どないしたんえ」 しゅうとめ なって盲目同然になった姑の心細さはどんなものだろう 政一郎は泣くばかりで頼りなかったが、他の子供たちが みかわまんざい 口々にいうところを聞けば、三河万歳の後をついて歩くうと思う。豊乃のように、元気に老いて、ある日ふと死んで ち、子供たちが多勢を頼んで悪態をついたところが怒り出いたというのをこそ、極楽往生というのだろう。、、 おそ やりたいことをやり通した豊乃の晩年を思う して・、逆に大人が追いかけてきた。足の遅い政一郎が、大ことをいし もら と、家の中で餅をやいていた姑の晩年は静かでも、物に不 夫の扇でパチンと頭をぶたれ、それで泣き出したのだとい 自由はなくても、なんという侘しさかと思う。 さわ そのべ 男児の寝ている枕許は母親といえども歩いては出世に障三河万歳は薗部の方へ行ってしまったらしく、もうこの るといわれ、真谷の後とり政一郎は敬策につぐ地位を与え辺りに鼓の音はきけなかった。花は帰り道にふと、新池へ られて家の中では守りぬかれていた。もともと聞きわけも寄ってみようかと思いついたが、まだ浩策が正月の挨拶に よくて、親が手をあげる必要もなく、何も損われずに今日来ぬ先に、本家の御っさんである自分が出向くのは敬策の まで育ってきた政一郎が、相手もあろうに三河万歳くずれ手前も不見識というものであった。大同寺から南へ下っ たた に叩かれるとは何事だろうーー花は、彼女の奥にある誇りて、未練がましく西の方を見ると、新池の辺から一一人の男 が異常に強く傷つけられたのを感じて、しばらく口がきけ女が降りて来る。それは浩策とウメとであった。 力しと なかった。だらしなく泣き続けている政一郎を、なだめて揚ノ垣内の本家に年始に出かけるのに、女中同伴とは常 泣きやませる手だても思い浮ばなかったほどだ。むしろ彼識外れだ。花は、眼を疑ってしばらく立ち尽していた。先 女は、文緒ほどの勢いもなく、ふわあんふわあん、と気のに立った浩策が後を振り向いてウメに何事かいっている。 こた 抜けた泣き声を続けている政一郎を見て胸の中にヒャリとウメが例の調子で、おどおどとそれに応えている。やがて するものを感じていた。男の児が、こんな泣き方をして、 しまた、二人は何事もなかったように歩いていた。しばらく ゅううつ いものだろうか、そう考えるのだった。正月早々、憂鬱なすると、また浩策が立止って小言をいっている。足の遅い ものを見たものだ。 のを叱っているのかとも思えた。痩せて、かなりな長身の 大同寺には、三年前にあげたヤスの絵馬が古びてそのま浩策に従うウメは小さくて、たえず足は小走りにしていて こうし も、浩策には仲々追い付けないようだった。また、浩策が ま本堂前の格子に掛っている。眼の絵を描いて捧げれば、 あた わび あわ あいさっ
だんな みせいと 「店垣内の松らんの息子は、腕時計五つも持ってますんやんのですか。新池の旦那さん見て下さい。山の木が売れて 売れて、現金が転がりこんで預金封鎖にケほども迷惑して まち なさらん。どだい入る額が、そこらの百姓らと違うよっ 「市の人らが、お米と換えに来なしたんやろのし」 「やかて人間には分というものがありますやんか。百姓がて、まあ八らんとこが製粉所つくるのに高利で貸したりし てなさるんですよ」 五つも時計持って何すんのか、阿呆らし」 「そいでもお市さん、売る方も無理に頼みこまれて売って「新池さんは賢いお人や」 「腹黒い人やと私は思いますえ。本家から山そっくり取上 るんやから、松らんの息子を怒っても仕方ないえ」 「誰を怒ってもいません。こんな馬鹿げた世の中に腹が立げてしもうたくせして、たまに加太の魚や日高のうつぼや はざ、いーさ ちょうくい の持ってみえても、あの恩着せがましい顔 ! 」 つんですわ。 いくら端境期やいうたて、長福院の奥さんが おぜん 花は観念してしまっているのに、市は誰彼かまわず敵意 麦混ぜた御膳とってなさるらて、無茶苦茶よし」 「日本は敗けたんやして、お市さん。もう長福院の、真谷を持って不愉快がり、しかしその怒りが活力源になるのか 一日中忙しく働きまわっていた。女衆のいなくなった家 のというても通らん時代が来ましたんよし。焼け出された そうじ り、家族の誰か殺されたり、原爆うけた人らのこと思うたで、市一人だけでは掃除だけでも日が暮れてしまう。そこ へ配給された米は玄米で、それを近くの農家へ搗きに出か ら、ほんまに私らは文句がいえんえ」 むそた 「そいでも六十谷中は戦災受けてえへんのですよ。それどけるのも市の役目なのだった。 ころか六十谷ほど戦後裕福になったところは他にないやろ「ええ天気やのう」 ざいむく 門から入ってくるのは、近頃では新池の浩策ぐらいなも と思うわ。市に近く、山に近し、米買いにくる人、材木買 ねえ いに来る人、ひきもきらずで、買い手は値かまわず買うてのであった。 いきよる。敗戦成金ちゅうたら、ここらの百姓のことで「おいでなして」 す。昔はこの家の小作人やったくせして、まあ偉そなこと縁先で本を読んでいた花は静かに迎える。伏せた本が平 さくしゅ いうわして。地主は搾取階級やった、ですと」 家物語なのをじろりと見て、浩策は何もいわずに下駄を脱 いで上ってきた。 「それは三十年の昔に文緒がいうてましたわ。今に始まっ た考えやあれへんのえ」 市はいても浩策が来ると顔を出さないから、花は立って 「それでも、なんで地主だけがこないしてめられななら座蒲団をすすめ、それから奥へ茶をれに立とうとする ぶん おなごし
た。彼は温和しく花の相手をするよりは、子供の話をきく前に他界していた。 あデく じようぜっ 医者の意見を検討した撈句、読書に皆が賛成して、華子 教師のように厳格に饒舌をたしなめたりするのである。 が持ってきていたベストセラーの小説を読んではどうだろ 「友一さんは、なんで私のロを封じますのよし」 うかということになったが、友一が、 花は、むっとして抵抗した。 しげ、て、 「そやかてお母さん、そんなにのべっ喋ってなしたら、お「それは内容が刺戟的すぎへんかいな」 からだ 母さんがくたびれます。躰に悪いんでっせ。静かに休みな と首を捻った。歌絵も、 さいや」 「お母さんは、あれで新しがりで評判になった小説は好き いつべ 「静かにというて、ここ十日の余も蒲団から外へ一遍も出で自分でもよう読んでなしたけど、一生懸命聞くというの てえしませんえ。食べたいものはなし、見たいものは見えは却って疲れていけませんやろねえ」 ず、そいで話もしたらならんて、ほなら私は何してたらよ と云う。 ろしいの」 では、花の座右の書とも云うべき読みなれた書物を読ん 「何も考えずに、気を楽にしてなされ」 ではという案が出て、それがいいということになったが、 「何も考えんというのは修業がいります。病気のときに坐では何を読むかという点でまた困った。政一郎が、大分た 禅が組めるものやどや、あんた考えてみなされ」 ってから、 花は本気で怒り出すのだった。 「源氏物語とか平家物語あたりですなあ」 と云い、それがもとより原文であることを知っている人 だが医者も、あとは時間だけの問題だと思うが、とにか おさ と云い出しかねた。 く饒舌は躰の衰弱を招きやすいから、抑えられるものなら人は顔を見合せて直ぐにはそれがいい 抑えるにこしたことはないという意見であった。 源氏物語などは、おそろしく難解な古典なのだと、読んだ 「気楽な話を看病する側で話し続けるんですなあ。奥さんことのない人々まで思い込んでいるからであった。 てだて 反響がないので、政一郎は彼なりに考え続けていたらし を聴き手に廻すしか手段はありませんやろ。でなければ、 本を読んであげるのもよろしいでしよう」 ますかがみ 下座敷には花の子供たちの他に遠い縁戚や、真谷敬策と「病気にな . る前は増鏡を読んでたようです」 「ああ、増鏡ですか」 由縁のあった大百姓や山持ちの老人たちが集まっていた。 うなす 新池からは栄介が来て、その中に混っている。浩策は一一年知ったかぶりに肯いた者があって、それがよかろうと、 おとな ムとん しゃべ かえ ひね
あげがいと かっこう せまいとしていたのである。文緒が学校の帰りを揚ノ垣内は狭かったけれども、彼女の上達を示すには恰好の広さだ は避けて新池へ上り、そこで栄介の自転車を借りてきては むそた えびちゃ はかま 六十谷小学校の校庭で練習していることは、近頃六十谷で神妙に近頃は海老茶色の袴をはくようになっていたが、 はかなりの話題だったのだが、花と浩策との不和を知っ栄介の自転車は ( ンドルとサドルとの間に一本ふとい棒が て、しかも文緒に好感を抱いている村人たちは、おためご渡っていて、それをまたいで両足でペダルを踏むと、袴の かしのいいつけ口をすることもできないのであ 0 た。いず裾ははね上って文緒はあられもない姿にな 0 た。しかも今 くっ れは知れることだと誰もがそう思っていた。そしてそのと 日は靴をはかずに白い足袋で下駄をはいているのである。 おそ すね きの来るのを懼れていた。 白い脛があらわに見えて、その勇ましさは和美や歌絵の気 だが、ある土曜日の午後、人々の想いをよそに、文緒がを遠くさせるほどであった。肌を見せることを、極度に 、ら 自分から花にそれを見せてしまったのだ。二月、冷たい風み嫌う教育を受けていた女たちには、姉ならばなおその姿 の中で奮戦していたので文緒は顔をまっ赤にさせていた。 を見るに耐えなかった。 かど 門をくぐるときだけ降りて自転車を抱き上げて庭に入った しかし、友一だけは無邪気に文緒を声援した。 が、それからすぐに柿の木を支えにしてサドルに乗るとべ「大きい姉さん、ええ気持かあ」 ダルを踏んで、 「ええ気持やで、風切って道走ると世の中がえらい変って 「友ちゃん、友ちゃん、姉さんこんなに上手にな 0 てん見えるわ。新時代やあ。お父さんに云うて青年団に買わせ たらんなん」 大声で弟の名前を呼んだのである。 「そうかあ。ほやったら僕も買うてもらおかなあ」 和美も歌絵も飛び出してきた。女衆の中にも玄関から首「買うてもらい。姉さんロ添えしたげるでえ」 を出す者があった。 「せやけど、僕にのれよかの。その自転車大きすぎへん さっそう ノ人々の注目を浴びて、文緒は得意げに颯爽と自転車を乗か」 りまわした。一回、二回、庭をぐるりと走って、もう多少「なな。友ちゃん乗ってみるかい」 紀 の障害があっても動じないというところを見せては振向い 自転車を止めようとしたとき、異様なものが背後に襲い て笑う。年に一度、小作人から小作米を受取るときには一かかるかと感じて、文緒は見事にひっくり返った。 面に莚やふんごを並べる真谷家のは、小学校の校庭より「文緒」 あね かど でのく すそ
「女中が家の留守するは、当り前のことやしてよし。それ敬策は仰天し、花が驚くほど取り乱した。 まで本家の御っさんから指図は受けんでえ」 「まあそれは新池はんに訊いてみんことには分りませんや 花があやまっても、ヤスが取りなしても、どうにもならろけど、まず間違いはなかろと思いますのしー おお tJ と 「どないしたもんやろ。村中に知れたら大事やで。ウメは ずで帰って行ってしまった。敬策も話を聞いて呆れ返り、 相変らずや、困った奴ちゃと、笑ってばかりはいなかっすぐに親許へ返せや。話はそれからや」 なお わがまま た。ャスが、あの我儘は死んでも癒るまいかいと幾度も溜「親許へ返したところで、いずれ村中に知れわたりまし 息のようにいった。 早いか遅いかというだけでございますよし」 いつけ もん が、花は、再び確認したのだった。浩策がウメを愛して「お前、落着いたもんやな。一家に女衆妊ませた者出した ひろう いる。だが女中として家に入れ、女中として人にも披露しら、わし村長どころか県会に出るのんも考えんならんね た者を、愛しているとは彼の気性ではいえぬことに違いなで」 それは事実だった。家長は一家に絶対の権力を振うかわ かった。 ほとん 花は、自分が浩策に対して殆ど思慕に近い想いを寄せてり、一家の一員の不始末でも世間に対して責任を負わなけ いたことを、浩策とウメの関係をどうしたものか考えるこればならないのだった。真谷敬策の名声も、分家のふしだ とで忘れようとしていた。浩策を慕った一時期を思い返すらで葬り去られることになってしまう。 のは、生卵を呑んだところをウメに見られたのを思い出す彼が将来にかけた夢は、音をたてて崩れ去ろうとしてい しゅうち たくま カ花の逞しい自尊心は、誰よるのだ。 と同じ羞恥なのであった。・ : りも先に、おそらくは敬策よりも先に浩策とウメとの関係「金は、いくらでも出すよ一お前、なんとか考えてくれ」 を洞察したことによって救われていた。 「金やって子堕させたと、何れはいわれますやろのし」 その夏、新池を訪れたとき、花はウメの眉が薄くなった「危ない目させんと産ませたらええんや、里子に出すだけ ノのを発見し、に敬策にそれを告げた。善後策を講じるの十分な金払うたったらええ」 。それは分っていたけれども、嫉みからウ「ウメには親があれしません。親戚はなんぼ貰てもええ顔 紀は早い方がいし メを分家から遠ざけることになってはという自責もあっせんと恨みますやろのしー 敬策は、まじまじと花を見守り、花に何らかの腹案があ て、花にはそれまでヤスにすらいいかねていたのたった。 るのを認めると、 「ほんまかあ」 あき ねた めえ こおおろ もろ
8 しゅうらしん 「そうか、そらよかった。若い娘には気の毒やが、長う辛 れたという羞恥心だったろうか。 乳房が、はってきていた。家に待っている文緒を思い出抱するように、お前も気つけたれや」 と、それで気がすんだようにあっさりといい、 すと、花は乳房を押えている帯を指先で前へゆるめなが 「なあ花、大阪は今度の事変でどえらい景気やで。街中が ら、足を早めた。 わめ むそた 喚いていよる。和歌山やの六十谷やのにすっこんでたら、 おく しよう ぜんとりようえんけんにんじきゅう 十月十日には戦況は前途遼遠、堅忍持久を要すという詔世の中に遅れる一方やなあ。店に並んでるものかて、どん らよく 勅が降っていたが、同じ月の三十日には野球の早慶戦が華ど新しもんが出てるで。土産にようけ買うてきた。こう、 華しく行われたと和歌山の地方紙にまで大きく報道されて見てみ」 彼は包みをほどいて子供が玩具に興じるように、一ッ一 「見い、一高時代はすでに去るとあるで。早稲田万歳ゃなツ取出してみせた。 いか」 「アルミニュームや」 「まあ、これがそうでございますか。美しもんでございま と、そのときの敬策の興奮ぶりはなかった。古今の文芸 に通じ、国際情勢などについてもかなりの知識は持っ花だすのし」 ったが野球ばかりはとんと分らない。東京専門学校が早稲「持ってみ。軽いで」 「ほんに。これで丈夫なとは信じられませんのし」 田大学と改称していたから、敬策は母校の勝利に酔ってい すう るのだろうぐらいにしか理解できなかった。伊藤博文が枢花も新聞でアルミニ = 1 ムという合成金属ができて市場 みついん 密院議長に祭り込まれて、置いてきぼりにされた政友会に進出していることは知っていたが、見たのは初めてだっ さいおんじきんもらすいたい が、西園寺公望を推戴したのは一年前のことだったが、敬た。手にとって、敬策が十分満足するほど驚いたがこんな こそく 策の主張が一貫して反官僚主義であることには、花はやや形で世の中の変移を見て行く敬策と、新池で姑息に書物で 疑問を持っていたのだった。何しろ敬策には包容力があつばかり世の中の推移を見ている浩策と、同じ兄弟でありな て、反逆とか抵抗とかいう精神をあまり必要としない人柄がらなんという違いだろうと思っていた。 がいせん ぎら ひょうばう なのである。浩策のように官員嫌いを口に出して標榜する暮には東郷大将、上村中将が凱旋し、明くる明治三十八 年元旦には旅順開城。ようやく戦争は峠を越した。 ような、生理的な憎しみとは無縁なのであった。 二つになった文緒を抱いて、花は氏神である矢射止神社 新宅見舞に行った花の報告をきいても、 しん