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検索対象: 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集
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1. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

ドも - 上フジ T V 「三時のあなた」に出演左端が水谷八重 子氏右端が司会の山口淑子氏下「出雲の阿国」の 舞台中央が阿国に扮する水谷八重子氏 ( 昭和 45 年 ) 女優・菊ひろ子さんとともに ( 昭和 44 年 ) 私かしたい 3 册の本 存吉佐和子 海暗 ま池ーの 去ーの回 た門 」上之み一有占佐和第簽 「第 ~ こ有佐和・第 ~ 。物和子 有吉佐和子

2. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

雑誌「文芸」の表紙 「かの子撩乱」初版本 昭和四十年九月号 昭和四十年講談社刊 取材旅行室戸岬にて ( 昭和三十九年 ) 「の栖」取材で菊富士ホテルへ ( 昭和四十年 ) ツ、気ら すみか 朝イ 00 0 0 、、い第疇報 : 第ユ第を 第当を第を彎 講演旅行河盛好蔵氏と ( 昭和四十年 ) 訪 ) 衣小又戸 ロンヤを 取早稲田祭で講演 ( 昭和三十九年 ) 谷崎潤一郎氏の墓の 前で ( 昭和四十年 )

3. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

: 第佐和子 = 「華岡青洲の妻」初版「日高川』初版本 本昭和 42 年新潮社刊和 41 年文藝春秋刊 中国で作家たちと語る左より佐 あうしやしゅうじふく 和子老舎周而復 ( 昭和 37 年 ) ニューギニアのシシミン部 落の酋長 ( 中 ) と左端が 畑中幸子さん ( 昭和 43 年 ) ( 昭和 40 年 )

4. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

四月、東京女子大学英米文学科に入学・ 昭和ニ十五年 ( 一九五〇 ) 十九歳 この年五月、病気のため一年休学。七月、父真次急逝。 昭和ニ十六年 ( 一九五一 ) 一一十歳 四月、短大英語科一一年に復学。なお在学中は古典芸能に関心をもち、 演劇評論家を志望し歌舞伎研究会に所属。五月、雑誌「演劇界」の 第四回懸賞論文に応募し、入賞〈以後第五回 ( 八月 ) 、第六回 ( 十一 昭和六年 ( 一九三一 ) 一月一一十日、和歌山県和歌山市真砂町に生まれる。父有吉真次、母月 ) と引続き入賞〉。この他カトリック学生連盟、多喜一一・百合子 秋津の長女。父は山口県出身、横浜正金銀行 ( 東京銀行の前身 ) ニ研究会にも入っていた。 二十一歳 、ーヨーク支店に勤務。母は和歌山県出身、出産のため実家に戻っ昭和ニ十七年 ( 一九五一 l) 一一月、「演劇界」の嘱託となる。劇評家利倉幸一の勧めで執筆を始 ていた。兄一人、弟一人の三人兄弟。 四歳める。八月、大蔵出版社編集部に勤務。このころ同人雑誌「白痴 昭和十年 ( 一九三五 ) 群」に参加。のち三浦朱門を中心とする第十五次「新思潮」同人と 四月、父の帰国により一家は東京に転居。 なる。 昭和十ニ年 ( 一九三七 ) 一一十三歳 四月、・ ( タビア日本人小学校入学。その後、再び父転任のため、ジ昭和ニ十九年 ( 一九五四 ) ャワ ( インドネシア ) の・ハタビア ( ジャカルタ ) に移る。小学校一七月、アズマカプキ委員のコレスポンデントとして秘書の役目も果 年のとき、すでに「真珠夫人」、「鳴門秘帖」などの大衆文学を読し、事務連絡にあたる。この年「白痴群」第六号に「落陽の賦」を発表。 一一十五歳 み、引き続き「夏目漱石全集」、「有島武郎全集」などを乱読した。 昭和三十一年 ( 一九五六 ) 昭和十六年 ( 一九四一 ) 十歳一月、「地唄」が第四回文学界新人賞侯補作品として、「文学界」に 五月、帰国。東京市下谷区 ( 現在の台東区 ) 根岸小学校五年に編入。掲載された。四月、「キリクビ」を「三田文学」に発表。八月、舞 その後小学校は五回転校したが、ほとんど病気で欠席がちであっ踊劇「綾の鼓ーを新橋演舞場で上演。人形浄瑠璃「雪狐々姿湖ーを 大阪文楽座で上演。九月、「地唄ーが第三十五回芥川賞候補作品と 昭和十八年 ( 一九四三 ) 十一一歳して、「文藝春秋」に掲載される。十月、「まっしろけのけ」を「文 年四月、東京府立竹ノ台高等女学校に入学。女学校もまた和歌山高芸」に発表。十一月、「白の哀悼」を「新思潮」第十五号に発表。 女、光塩女子学院など五回転校し、最後に都立富士高等学校 ( 都立なおこの他「新思潮ーに「ぶちいぬ」 ( 第十三号 ) 、「紫絵由来ー ( 第 十四号 ) などを発表。 第五高女 ) を卒業した。 昭和三十ニ年 ( 一九五七 ) 昭和ニ十四年 ( 一九四九 ) 十八歳 有吉佐和子年譜 島田昭男 ニ十六歳

5. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

左二谷晴美のペンネームで少女 小説を書いていた時代 ( 昭和 27 年 ) 下京大病院に勤めていた ろ同僚と ( 昭和 24 年ころ ) 京都で、友人と ( 昭和二十四年 ) 昭和十五年春、彼女は東京女子大の国文科に入学し しかし、もうその頃の日本は軍国調一色に塗りつぶ された時代であり、軟弱な文学などは目のかたきにさ れる時代であった。それでも彼女は、大学の図書館に せっせと通って、もつばら古典文学をむさばり読んで 在学二年目の暮から大東亜戦争が始まった。戦争は 年ごとに苛烈になり、学徒出陣がはしまり、女の学校 でも、繰上げ卒業という戦時下体制が実施されること になった。四年間の女子大生活が半年繰上げられて、 彼女は昭和十八年九月に本科を卒業した。 卒業する半年前、彼女は、その前の年の夏に見合を した相手と結婚した。相手は外務省の留学生で、留学年 限のきれた後も北京に残り、支那古代音楽史の研究を つづけている学究であった。 結婚後、夫は先に北京に赴缶していたが、彼女も卒 していた。しかし、一方、もういつばしの文学少女き どりで、世界名作全集や、源氏物語を図書館で読みふ 亠ノっこ。 469

6. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

誦、文学の目を開かれる。無記名投票で将来何になりたいかと問わ昭和十五年 ( 一九四〇 ) 十八歳 Ⅷれた時、小説家と書いた。 三月、徳島高等女学校を卒業。四月、東京女子大学国語専攻部に入 昭和七・八年 ( 一九三二・三 = l) 十・十一歳学。井原西鶴に興味を持つ。寮生活のたのしさを満喫。学長・安井 読書の喜びを覚えはじめ、古島晴子宅にあった改造社の日本文学全哲の倫理の時間が印象に残っている。 集、新潮社の世界文学全集などを読みはじめた。理解していたとも昭和十六年 ( 一九四一 ) 十九歳 たの 思われなかったが、読むのが愉しかった。トルストイの「復活」の十一一月八日、真珠湾攻撃のニ = ースを女子大寮で聞く。「戦争で興 氷の割れる音など、強い感銘を受けている。モーパッサン、フロ 1 奮したのはこの日だけだった。授業はこれまで通りつづけられ、勤 ・ヘルなどの名も覚えた。 労奉仕といってはごくまれに、宮城前の清掃に出かけるくらいで、 昭和九年 ( 一九三四 ) 十一一歳どこの工場にもかりだされることもなかった。私の学生生活に対す はいしんじゅん 文学書を読みすぎると、新しい担任教師から注意を受ける。肺浸潤る倦怠感は日増しに強くなるばかりで、中退することばかり考える になり、半年間、受験勉強をとめられる。 ようになっていた」 ( 「いづこよりーより ) 昭和十年 ( 一九三五 ) 十三歳 昭和十七年 ( 一九四一 l) 一一十歳 三月、新町小学校卒業、四月徳島県立徳島高等女学校に一番の成績八月、女学校時代の英語担任教師の紹介で、外務省留学生として北 で入学。岩波文庫を読みふける。図書館で「源氏物語」 ( 与謝野品京に渡り、支那古代音楽史を研究中の青年と見合いの上婚約。十 子訳 ) を初めて読み、夢中になる。陸上競技部に入り、短距離、走月、広告で見た断食療法に興味を持ち、病弱だ「たのを結婚前に直 り高跳、槍投げの三種の訓練を受ける。 してしまいたいと独断し、大阪豊中の断食寮に入り、四十日間の断 昭和十一年 ( 一九三六 ) 十四歳食生活に耐えた。戦争で帰国した外人教師館を新しい南、北寮とし 季刊文集「後彫 , に詩や作文を毎回載せる。詩をつくることがもった時、南寮に移り、委員長となる。 とも愉しかった。十月、学校に講演に訪れた「小島の春」の作者小 昭和十八年 ( 一九四 = l) 二十一歳 川正子の話をきき感動、一時女医になりたいと思いつめる。 二月、節分の日、徳島で結婚式をあげる。学生結婚のため、卒業ま 昭和十ニ年 ( 一九三七 ) 十五歳で別居することになり、夫だけ単身北京に住む。寮を出て、若林の 初めて、原稿用紙を綴じた小説集をつくる。 真木家に下宿。九月、戦時中の繰り上げ卒業。十月新婚旅行を兼ね、 昭和十四年 ( 一九三九 ) 十七歳叔父のいたハルビンを訪ね、夫の任地北京に渡る。東簟牌楼の三条 五月、修学旅行で一一十日間、朝満旅行にでる。朝鮮、釜山、京城、胡同紅楼飯店に住む。 平城を通り、安東、奉天、新京から旅順、大連を経て帰る。十二月昭和十九年 ( 一九四四 ) 二十一一歳 生まれて初めて上京、渋谷道玄坂にあった予備校へ一一週間入り、紀八月一日、一女誕生。十月什刹海の北辺に引っ越す。夫の大病、出 元二千六百年祭の新年を迎える。 産、夫の転任等の事件多く、転々と住所を移る。

7. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

3 ( す 初版本新潮社刊 ( 昭和三十八年 ) ・ 夏の終り : ー 左 「夏の終り」自筆 原稿 ( 昭和三十八年 ) 総一 岡本太郎氏と対談 ( 昭和 37 年 ) 一人 「花芯」は、いろいろな亠思味で評判になった作品であ きよほうへんなか った。これはど毀誉褒貶半ばした作品はなかった。文 年中に " 子宮。という言葉が多く出て来るので、あまり ノ一 8 一 念 に表現が、直接的にすぎるということで ' 子宮小説 一三ロ刀ロ ・子宮作家 , と、半ば軽蔑的に呼ばれるようになり、 その為に、それ以後五年間、純文芸雑誌から見捨てら 賞 者るれてしまった。今ならば考えられないことだが、当時 学す 文をまだ、そういう大胆な表現をする作品を、文壇は認め 流拶 女挨なか「たのである。彼女は五年間失意の底にあえいだ 回でのである はんもん 第テ煩悶が長かった。その末彼女は、新形式の伝記小説 ) に連載した。 「田村俊子」を「文学者」 ( 昭肪・ 15 これが、昭和三十六年新設された「田村俊子賞」の第 一回受賞作となった。彼女のあくなき好奇心が、わが 身に対する忠実さから世俗の常識を越えて愛の遍歴を 続けた田村俊子というュニークな女性に魅せられて、 どんよく 貪欲に調べに調べた上で、情熱をたぎらせて書き上げ た意欲作である。 て 「ただ一生懸命でした。初心にかえるとはああい、つこ 書とで、わたしはあれを書いたから、あとのものも書け るようになったと思うんてす」 ( 「東京新聞」昭れ・ 4 練 ・ 2 ) と彼女は後に述懐している。 これに力を得た彼女は、昭和三十七年六月から「か 474

8. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

刊 社 文 捨て、某と打合わせて馳け落ちしようとしたが、某は 集 姿を見せす、ただ一人の " 馳け落ち。になった。昭和 二十三年二月のことである。 短 女 " " 「れー「夫が職を得て上京している留守に、私は昔の夫の教 処 え子の某と恋愛した。それ以後のことは、たいてい - 朝本 おもはゆ 私の小説の中に書いてしまったので書くのも面映いが、 月・ この男が後年、『夏の終り』の中にあらわれる男で、こ 年 れまでの私の生涯をふりかえってみると、この男があ 西荻窪の時代 ( 昭和三十年 ) きまじめ 左「女流文学者会」に入って初めらわれなかったら、私は平凡で生真面目な教育ママさ ての旅行右は横山美智子氏んになり、内助の妻としての責任を充分にはたす生涯 を送ったのではないかと田 5 う。私か小 = = 説家になった直 接の原因は、この男に人生でめぐりあってしまったと い、つことであった」 じ準つかい と、彼女は「作家フォト自叙伝」の中で述懐してい 家を出ると . ひとます彼女は京都に一人住んだ。出版 社に勤めたり、京都大学の付属病院小児科研究室に事 務を取ったり、図書館に勤めたりして自活の道をたて ながら、小説をこっこっ書き始めていた。 昭和一一十六年頃から、試みに投書した少女小説 ( こ の時のペンネームが三谷晴美 ) が、次々に採用され、 原稿料が入るようにな「たので、それに勇気を得て、 「花芯」発表のころ野方の自宅いよいよ筆一本で生計を立てようと決心し、上京して 書斎にて ( 昭和三十一一年ころ ) ( 昭和 32 年 ) 負い手袋の記 なこ 第 471

9. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

上父母の結婚式前列左より二人 目が父の真次、となりが母の秋津 ( 大正 12 年 ) 4 歳の時右より母 兄佐和子 ( 昭和川年 ) 有吉さんの生い立ちは、少しばかり異色である。 有吉さんは、昭和六年一月二十日、和歌山市真砂町 「翡輩と青磁を練りあわせたような深い色をして横 たわっている」糸ノ川のほとりで生れた。 父・真次は山口県出身の銀行家、母・秋津は和歌山 ふみお 県の政治家の娘 ( 「紀ノ川」の文緒 ) である 父親が横浜正金銀行 ( 現在の東京銀行 ) に勤務して ために、転勤が多かった。彼女が生れた時も父は ニューヨーク支店に勤務していて、母だけが出産のた め実家に帰っていたのである 六歳 ( 昭和十一一年 ) の時、再び父の転勤で、彼女は、 ジャワ ( インドネシア ) に移り住み、十歳 ( 昭和十六 年 ) の時まで、バタビア ( ジャカルタ ) 、スラバヤで 暮らした。ジャワの日本人小学校をふり出しに、帰国 評伝的解 " 祝〈有吉佐和子〉 巌谷大四 450

10. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

ローマオリンビックの とき ( 昭和三十五年 ) マルクスの墓の前で を書いているが、この文章の特色は、彼女の文学の特 ( 昭和三十五年 ) 色の一つでもある。 昭和三十四年一月 5 五月の「婦人画報」に、有吉さ んは、初期の代表作と言われる、はじめての長篇「紀 ノ川」を連載発表した。 とよの 「今年七十歳になる豊乃は、花の手をひいて石段を一 歩一歩、ふみしめるように上って行った。三日前から かみゆ、 呼びよせてある和歌山市の髪結女の手で、彼女の白髪 も久々に結いあげられていた。ト / さく鬢を張り、髱も その齢には珍らしく大きく出ている。若い頃の黒髪は しの さぞ見事だったろうと偲ばれるほど、白くなった今も 髪は多くて艶を失っていないのだった。ト ノ紋の重ね着 という盛装で孫娘と手をつなげば、石段を上るにも手 ス 5 ク 和をひかれる齢が逆に花の手をひいているように見える おおご 工 のである。それは紀本の大御っさんと呼ばれる貫禄と いうものであり、花が紀本家を出る今日、豊乃に何か のク の決亠思があるからでもあった」 という、その書き出しの一節は、明治・大正・昭和 チ 三代にわたる「家」の流れと、女性の三代記をつづっ ネ脚 た長篇の序幕にふさわしい「貫禄」のある文章である。 かんろく 457