友達を見舞いにゆくんだけど。ちょっと変り種の女たちが上った女の顔が真正面から博史の目に映った。切れ長な大 とびいろひとみ いて面白いよ」 きな目の鳶色の瞳がひたと博史の目にあてられまばたきも と誘った。博史は男のどこかのんびりした雰囲気に誘いしない。博史は電気に撃たれたような気持になって一瞬身 はくあ こまれると、まだ建物を望見しているだけの南湖院の白堊じろぎもしなかった。それはまばたくほどの短い時間だっ のロマンティックな全容が魅力的に浮んできた。 たのかもしれないけれど、博史には数分もの時間、じっと 「いってみようかな」 ふたつの目に射すくめられたような感じがした。女の容貌 「いこうよ。どうせ遊んでるんでしよう」 やスタイルが目に映ってきたのは、その部屋に入ってよほ 若いふたりはそのままつれだって茅ヶ崎行の電車に乗りど経ってからのような気がした。 こんでしまった。男が、「朱欒」を発行している東雲堂の 西村に紹介され、博史はようやく平塚明子というその女 にしむらよう、ち 主人西村陽吉だということを、この時、博史はまだ識らなの外に二人の女がいたことに気づいた。保持研子という肥 かった。 った、片目のちょっとおかしい女も、男より大柄なくせに どうがん 西村は「青鞜、の発行を九月から引き受けることになっ色の黒い童顔の妙に甘えたしなのある尾竹一枝という女 ていたので、その相談をかね、茅ヶ崎に来ている平塚明子も、博史の目からたちまちかき消えてしまった。いっ を訪ね、ついでに紅吉をも見舞うつもりだったのである。 に来た男が西村陽吉だという名なのもこの時はじめて博史 ほんのその場の出来心でつい、朝飯をおごってもらった美は識った。 しい文学青年を誘ってみたにすぎなかった。 「きみ、何て人だったつけ、まだ聞いてないや」 南湖院の白ずくめの壁の応接間は、あけ放った窓から涼西村にいわれて、博史もはじめて、 しく潮風が吹きこんできて、レースのカーテンをふくらま「奥村博史です」 せていた。 と名乗った。尾竹一枝がけたたましい声をあげて、躯を センチ 部屋の真中のテー・フルには、五十糎くらいの松の盆栽がゆすって笑った。明子はまだ博史をみつめたまま、薄く唇 の端をあけただけだった。 枝をひろげていた。 ほおただよ 西村陽吉の後からはにかんだ徴笑を白い頬に漂わせて奥博史はその微笑しか目に入っていなかった。モナリザそ 村博史はその部屋へ入った。 つくりだと、心に叫んだ。いや、ヴァンディックのオラン いいなずけ いきなり目に入った松の鮮かな緑の向うからすっと立ちジュ公と許嫁の絵にあるプリンセス・マリイに似てる。そ ばんさい ほか からだ
にも容易に察しられた。中野から野枝の編集する学園新聞 辻はたちまち生徒たちの憧れの的になった。 さだ 最初は、煮えきらないとか、女性的だとか、お定まりのを見せられた時、辻ははじめて野枝を見直す気持になっ かげ口をきいた生徒たちも、この新任の教師の授業を受けた。ほとんど野枝一人でやっているというその小さなガリ ようち るに及んで他愛なく崇拝者に早変りする。辻の発音は、こ版の新聞は、幼稚なものながら若いひたむきな情熱に支え すで れまで習っていた老校長の英語とは全くちがっていた。同られて、清潔で活気にあふれていた。既に野枝の書くエッ じ英語の本でも若い辻が読むと、はじめてエキゾティックセイや感想文にも、ごっごっした未熟な筆つきながら、独 な音楽的なひびきを伝えてくる。辻は教科書にないポオの創的な物を見る目を具えていた。 詩を黒板に書き、生徒に写させたりした。 「ちょっとしたもんだね」 * おおがらす なお 「アナベルリイ」や「大鴉」を、五年生の野枝たちは夢中辻は同僚にいい、尚しばらくそのガリ版の、男のように あんしよう しつかりした野枝の文字を追っていた。 になって暗誦するのだった。 辻は教壇から見た野枝の英語の出来ないのにまず驚かさ辻に教わるようになってから、野枝の英語の上達は目ざ れた。総代で祝辞を読むくらいだから他の学課は相当出来ましくなった。他の学課の学習は棚上げにして、野枝は英 はす ている筈なのに、英語の実力はクラスでも中以下だった。 語の勉強だけに熱中した。野枝の英語の実力のつぎ方は、 小柄の野枝は教壇に近い前列の席に坐って、黒々の瞳を燃教師の辻よりも早くクラスの学友たちに目をみはらせた。 野枝の熱心さと目に見える実力の上達につられ、辻も授 えるように見開き、まばたきもせず教師の顔を見つめてく る。どの教室に入っても何十人かいる生徒の中から一人一一業中つい野枝の燃えるような目にむかって文法の説明をし 人の生徒の目が強く教壇に迫ってくるものだが、野枝のよたり、訳をとき聞かせていることがある。野枝と辻の間 こと うに強烈な炎を燃やした瞳で、他の生徒の顔をかき消してが、そういう感情の綾にだけは敏感な女生徒たちから、殊 さら ささや にくる者は一人もなかった。辻は間もなく野枝の担任教師の更らしく早くも囁かれているのを当の本人たちが一番気づ 乱中野から、野枝が去年いきなり選抜試験で四年に入ってきかずのんびりしていた。 かたいなか 辻は当時、野枝に「興味のある生徒」以外の、女とし たこと、それまで九州の片田舎にいたため英語の学力が一 番落ちること、しかし一種の天才的な文学的才能を持ってて、何の魅力も感じてはいなかった。浅黒い顔に眉と目の 6 いる不思議な生徒であること等を聞かされた。中野がなみ迫った、燃えるような目と、大きく肉感的な唇を持った野 にお からだ なみならず野枝の天才的なひらめきを買っていることは辻枝は、陽にあたためられた獣のような匂いと雰囲気を嫗中 あや
一種の流行のようになっていたらしく、この年の正月、新「可故こんなことをした」 2 聞の懸賞小説に当選した田村俊子の「あきらめ」の中に 「もうしまいます」と手をひっこめる。 のろ も、レスビアンラヴの官能的な描写が堂々と描かれていた「あなたは私を呪ったんだ。あのロシャの少女の」私は不 りした。 安の中にたわむれた。 こた 一枝の情熱的な傾倒に、明子も充分応えてやり、ふたり「呪う、呪うなんて」 は誰の目にも完全な同性愛の一対に見えた。 「血はどうしたの、すすって仕舞った」 ふりん 男女の恋が不倫なものとして世間のきびしい目の中で禁「とってあります」 じられていた中で、女同士の同性愛がさほど異常視されな傷口は石炭酸で消毒された。私はもとのように心を入れ : そうだ。そうだ。八日目のタ。ふたりの かったのは、男女の恋を肉体的なものとしてしか捉えられて繃帯した。・ なかった当時の道徳観念の盲点を同性愛がついていたから記念すべき五月十三日から数えて。私の心はまたあのミイ だろう。「青鞜」の中でも、明子と一枝の同性愛は公然とチングの夜の思い出にみたされた。紅吉を自分の世界の肉 していて、そのこと自体では格別社員の非難も受けなかっ なるものにしようとした私の抱擁がいかに烈しかったか。 たちまち たのである。 私は知らぬ。けれど、ああまで忽に紅吉の心のすべてが燃 《「見せて、見せて、ね、みたい」 えあがろうとは、火になろうとはーー ( 略》 ただ 私の心は震えた。紅吉は恋のために、只一人を守ろうと こんな文章を明子自身が随筆として発表するほど、ふた する恋のために、私の短刀で私の知らぬ間に或る夜ひそか りの仲は公然としていたし、彼女たちは同性愛を恥とも考 に我とわが柔らかな肉を裂き、細い血管を破ったのだ。私えていなかった。 は何でもそれを見なければならない。 元来、平塚明子は、王朝の貴女を連想したくなるような ほうたい 長い繃帯が一巻一巻と解けてゆく。一一寸ばかり真一文字上品な端麗な美貌の持主だった。やや浅黒いきめのこまか とびいろ に透明な皮膚の切れ目からビンクの肉がのそいている。もい素顔に、鳶色の目が大きく涼しく切れ、形のいい鼻筋の おさ っと さわ う血は全くでてない。私は腸の動くのを努めて抑えた。そ爽やかさが冷たくみせるのを、燃えるようなやや大きめの ろうそく まっすぐ ほのお してじっと傷口を見詰めながら、真直に燃える蝋燭の烙と厚い唇がふせいでいた。たっぷりあまる黒髪を広い額の真 えいり その薄暗い光を冷たく反射する鋭利な刀身と、熱い血の色中から分け、それを三つ編みにして首筋ひくくまとめてい とを目に浮べた。 る。無造作なその束髪が、知的で静的な明子の容貌に最も とら
もそそくさと次の絵の前に移る。見終っても何の印象も頭 「眠らなきゃあだめだよ」 に残っていなかった。 あおきしげる 「明日だけだね、もう : : : 明日、竹の台で青木繁の遺作展それでも中で一時間はいたらしかった。いつのまにか場 内に人々が群れてきていた。 があるの知ってる ? 見にゆく閑はある ? 」 「行きます」 外に出ると、辻は相変らず怒ってでもいるように口をき 野枝はすがりつくように答えた。汽車の出発は午後一時かずただ先に立ってどんどん歩きだした。野枝が小走りに 追わね・はならないほどの速さだった。広い公園の中は木立 すぎだ。午前中なら時間があった。 ここ一「三日の不眠のせいで野枝はが深く、その下の道をたどれば果しもなく深い森の中に迷 その夜はさすがに、 いこんでゆくようだった。いつのまにか町の騒音もとどか ぐっすり眠った。夢も見なかった。 ただなか ないひっそりとした森の只中につつまれていた。 翌朝目が覚めるとすぐ、野枝はそそくさと身支度して、 千代子にも行先をつげず家を飛びだしていた。上野の桜木疲れて、野枝は立ち止り、傍の木に手をかけて息をつい めがね 町の停留所で待ち合せる約束になっている。電車を降りるた。数歩先から辻がっかっかと引きかえしてきた。眼鏡の 奥の細い目が強く光っていた。普段でも青白い顔がいつも ともう辻が先に来ていた。 どちらもだまって肩を並べる。まだ朝が早いせいか、公より白けている。いきなり野枝は抱きすくめられた。樹に 園の中はひっそりと静まり人影もなかった。自分たちの足押えつけられている背が痛かった。痛いと声をあげるひま ばくらく 音を聞いているうちに、野枝はいよいよ今日、東京を離れもなく唇がふさがれていた。野枝は自分の全身が爆竹のよ るのだと思う感傷が胸につきあげてきて、また泣き出しそうな音をたてはじけ飛ぶような感じに襲われた。目の前が 真暗になり次には無数の花火が火をふくのを見た。男の腕 うになった。辻もさっきからひとことも口を利かない。い につもとはちがう妙に重苦しいよそよそしい態度で黙々と歩の力は強く、唇は冷たく、舌は熱かった。 辻が腕を解いた時、野枝は樹に添ったままその場にずる 舐を運んでいく。 ひぎ あこが 美術館は開いたばかりで、森閑としていた。日頃憧れてっと坐りこんでしま 0 た。膝の力がぬけしばらく立ち上れ いる自分の郷土出身の天才画家の絵を前にしながら、今日なかった。まだ目の前に無数の花火がうち重なって燃えて の野枝にはろくろく目に入って来なか 0 た。 辻がゆっくり動き、思いだしたように歩を運ぶと、野枝辻の顔の上にもその炎の影がゆれうごめき表情も捕え難 しんかん ひま
「どうぞ」といった。すると、彼女の目の前に車が腕をのっと、寄んな。遠慮しないでもっと寄んな」 ばし招くように優しく扉が開いた。彼女は眉のない目をみ太い、無理に押しだすようなしやがれた割れた声がわめ いている。 はって、もう一度男の目を見た。 「どうぞ」男がそれだけしか知らない単語のように、正確緑色のシャッターのビルは、どこかの家具屋の倉庫にな にいった。彼女は腰を沈め、腰から車に入れ、ついで、両っているらしく、家具屋の名がシャッターの上に白ペンキ そろ 脚を揃えて引きあげた。大きな扉が、そんな彼女を抱きかで書かれていた。人だかりは十一「三人で、立った男たち かえ、誘いこむように、この上ない優しさでおだやかに締に囲まれて、声をはりあげている男は、シャッターを背に 0 ぎ まった。その拍子に男の方からことばのように香料がただして茣蓙を敷き、その上にあぐらをかき、膝の前に茣蓙か びこう よってきた。鼻腔いつばいそれを吸いこむと、彼女は目をらはみだすほど、印刷物を拡げていた。 あんどかん のぞ ひとが込 閉じ、深い、けだるい安堵感が、波のように自分を包みこ伏屋延子は人垣の背後から、茣蓙の上を覗きこんだ。 んでくるのに、無抵抗に身をまかせていった。 「可愛いかあちゃん質にいれても競輪竸馬はわしややめら れませぬわいなあ」 ぎだゅう あご 坐った男は声に義太夫のような妙な節をつけて、顎をつ いくび とうムや ふいに、左の小路から、豆腐屋のらつばの音が鳴りひびきだし、猪首をゆすりあげるようにしてうなった。男をと どぺい いた。音は土塀の渓を走り、本物より大きく高くこだましり囲んでいる見物人たちは、ひとりとして声を出さず、そ あご れでも仕方なさそうに顎だけでつまらなそうに笑ってやっ て、黄色く滲んできた空に駈けのぼっていった。 なお 片側の土塀が尽きて尚、やや行くと、緑色の、塗り替えている。みな一様に黒っぽい身なりをして、着ぶくれてい た。彼女の横には、自転車をかかえている若い店員らしい たばかりのように鮮かなシャッターをおろした小ちんまり した灰色のビルが見えてきた。道路からやや引っこんだ車男もいる。年齢はまちまちで、目を伏せたその顔は伏屋延 ようや よせの地面に、人だかりがしている。伏屋延子は漸く、歩子にはみんな泥人形のように、むやみにふくらんだ顔に見 はず たこ く目標と目的が見つかったように、歩調に弾みをつけ、凧えた。女は彼女の外ひとりもいなかった。 からだ が引き寄せられるように一直線にその人だかりの方へ近づ坐った男は見物人の誰よりも骨太で、がっしりとした躯 あよら いて行く。 つきに、肉もたつぶりついていた。陽にやけた顔が脂ぎ ほこり 「さあ、わかったか。もういっぺん説明してやろうか。ず り、それに埃がしみついているので、いっそうどす黒く濁 たに にか ひろ
窓からテープルの下に伏せた彼女の視線の中に、いきなりれ、男の横顔も、思 0 たより若くはなかった。何の仕事を 4 男の足が入ってきた。 しているのか、陽やけした皮膚が乾いている。 入口の敷居ぎわに、両脚をしつかりと開いて突っ立った 男と目があったのをしおにして、伏屋延子は立ち上り、 男の足には、短い足首から十糎ばかりの革の長靴が穿かれテーブルの端にうどん代を置き、外に出ようとした。男の ていた。靴はよく穿きこなされていて、男の皮膚の一部の前を通るしか入口に向えないので、彼女が、その前を横切 ように、びったりと足首を締めつけていた。その短い、やろうとした時、男の片脚がすっと延び、彼女の歩みを妨げ や埃をかぶった穿きなめされた靴を見た時、伏屋延子は、 ある啓示のようなものが、自分の内部に光を放って貫き走「帽子」 0 たのを感じた。伏屋延子はう 0 とりと酔ったような目っ男の顎が、さ 0 ぎ、彼女がここへ入ってぎた時、無意識 きで、男の足許に目をそそぎつづけた。ひとつの決心が、 にぬいだまま、すっかり忘れきっていたひさしのある帽子 ようやく心に固りかけたその時、先ず最初にあらわれた男を、空いた椅子の上に指している。伏屋延子はどう礼をい が、こんな小粋な靴を穿いていたということまで、彼女に すいしよう ったかも覚えず、帽子をみとると、男の視線に追われる は瑞祥と思いなされてくる。 ように表へ飛びだしていた。 すそ 靴からのびている男のズボンも真黒で、その裾はきゅっ最初、目をあわせたとたん、伏屋延子の顔の上に、一 と足首を巻ぎつけ、靴の中へ折り込まれている。 瞬、さまよった男の視線の意味を思い描くと、彼女は、自 どう、 伏屋延子は、ふたたび動悸を高めはじめた呼吸を、今は分が早合点しすぎたかも知れないと不安にな 0 た。する どんぶり むしろ快いものに感じながら、さりげなく、丼から目をと、すぐにもあのうどん屋に引 0 かえし、男と改めて黙契 あげ、男の膝、膝から上の腿、更にもっと上の、引きしまを結び直したくな 0 てきた。そのくせ、背後から何かに追 った腰のあたりへと、視線を移していった。男はズ、ポンの いたてられるように、伏屋延子は、少し前かがみに背を丸 おおまた 上に、これも黒皮のジャンパーを着こんでいた。大股に彼め、つんのめるような歩き方になって道を急ぎだした。 女のいるテーブルの方へ歩いてくると、浅い壁際の取り附ビールをのんでくればよか 0 たと彼女は思う。濃いとも けの腰かけに腰をおろし、奥へむかって 思わなかったうどんの汁だったのに、今頃になって、咽喉 だえき から 「かけ、いっちょう」 が乾きあがり、唾液まで辛く味づいているように舌を刺し と声をあけた。スタイルの割に男の声は張りがなくかすた。 かわ
に彼女の咽喉によみがえってきて、あえぎそうになる。土った感じのせせこましい二階の屋根が、はみ出しそうに、 もの うえ、ばち べにがらごうし 塀は両側ともすでに尽き、道は、紅殻格子の入った色町のせり上っていた。雑多な植木鉢に囲まれたむさくるしい物 路地を左に見て、いきなり、せまい、ごみごみした通りのモの上から羊の首ほどもある大きな犬の顔が見下してい る。汚れた ( ンカチのような耳を両頬に垂れ下らせた犬 四つ角に出ていた。 なみだ にじ はんてん 伏屋延子は自分の立っている地点を確めるようにゆっくは、薄茶色の斑点を灰色の毛に滲ませていた。犬は泪のた り足をとめた。せまい細い道が、彼女の目の前に真直一筋まったような大きな目で、じっと伏屋延子を見下した。二 ふぞろ のびている。道の両側には、不揃いな形の妙にけばけばし階の物干に飼われている犬は、そこでまた人間のようなた けしよう い化粧をほどこした半洋館の家が立ち並んでいる。今、とめ息をついた。その家の軒にも、旅館のしるしの軒燈が灯 をまたたかせている。 もったばかりのネオンが、「ホテル」とか、「旅館」とかい う軒並の文字をまたたきながら浮び出させた。道のに犬の目が、伏屋延子からゆっくりと彼女の背後に移って ようや いった。自分の首筋に漸く近づいてくる男の息のぬくみ は、なだらかな山の背が横たわっている。東山なのだろう か。空にはまだ残照の明るさがたなびき、山の樹々の色を、彼女はふと、犬のもののように感じた。 にぬ ふもと も、麓にのそいている神社の塀の丹塗りの鮮かさも、はっ いろど きりと彩られていた。そればかりか、道の正面の、山の中 腹には、おびただしい墓石が、群れかたまって、巨大な白 きんご まっこう 珊瑚のようにタ陽を真向から受け、一基ずつ、枝をのばし たように輝いているのまで見えた。黄昏は、地から湧き出 るものに見えた。彼女の足許から、満潮が上ってくるよう つばさ るに、黄昏はゆるやかに彼女をのみこもうと、灰色の翼をひ 見ろげおし迫ってくる。 墓太い、ためいきのような声を頭上に聞いた。伏屋延子 が、思わず目をあげた時、その声は、もう一度、はっき 四り、「ふう、ふう」と聞えた。すぐ右肩に、黒い板塀が迫 っており、その上に、姆何にもせまい敷地をいつばいに使 2 り , ん峯」ら′
ろうぎいく インドウの中には、蝋細工のビフテキやカレーライスや、女と同じように、眉のない彼女と顔をあわせた瞬間、反射 てんどん 天丼や、赤いトマトケチャップの帯をまいた分厚なオムレ的に口をあけ、目の中に怯えを走らせて立ちすくんだ。そ ほこり ツなどが埃をかぶって並んでいた。どの皿の前にも百八十れから申しあわせたように、自分の方から、恥じいるよう 円とか、二百円とか書いた白いプラスティックの値札が草に目を伏せ、そそくさと彼女の横をすりぬけていった。男 花の品種札のように行儀よく立っていた。分厚い重たそう たちは、とっさに肩をひき、反身になって彼女の顔を見直 ちやわん なコーヒー茶碗の中の蝋細工のコーヒーの上にはクリームし、大きくせわしない目ばたきをしてすれちがった。その ねずみ まで乗っている。鼠色に汚れた贋クリームの上に蠅が一匹瞬間、薄く口元で笑う者と、眉を寄せ頬をすぼませるよう とまっている。それも造りものかと思って、伏屋延子は思にする者があった。どの顔にも一種の混乱がおこり、そう ガラス わず、ウインドウの硝子に帽子のひさしを打ちあててしま いうショックを与えられたことで、彼女の背後になる足音 った。蠅は死んでいるけれど、本物だった。顔をひきなが は、決って高くなり、乱れがちに遠ざかった。 ら、ウインドウにぼんやり映った自分の顔をたしかめてみ わざわざ、さも用あり気に彼女のいる宣伝部の部屋へ立 おどろ る。さっき女を愕かせた眉のない顔が、文楽の人形のようちよる者も、二、三日は目立って多かった。当座しばら ガラス に白々と無表情に、硝子の中からこちらに白目の多い目をく、 伏屋延子は自分が風のある日の森の中に居るように思 むいていた。 った。目に見えない風が森の樹々の高い枝々を騒がせ、そ こすえ 四条大橋の方へ向って引きかえしながら、伏屋延子は頭れが互にこだましあって、どの樹のどの梢の声とも見分け こみち うず の中に渦まき、湧きたち、ゆっくり形を整えてくる様々な難く、小径という小径、下草という下草の上を駈け廻って ひと 想念の呼びかけに、自分を沈めこもうとした。目的もなく いる。そんな森の中を伏屋延子はいつも独りで歩いていく 道足の向くままに町を歩きまわったり、わけもなく、人の跡ような気がした。決して近づいても来ず、捕えることも出 るを尾けていったりする癖がっき始めた頃と、眉を剃り落し来ず、しかも絶えず鳴りつづけている梢の囁きのように、 見た時と、どちらが先だったのか、もう彼女には決め難くなひそひそ話は彼女を遠まきにしてどこまでもついてきた。 もと 墓っている。 元はやはり、同じ会社にいて、彼女と結婚後、社を辞 一夜のうちに両方の眉を剃り落した伏屋延子が会社にあめ、全く畑違いの世界へ移っていった彼女の夫と、彼女 が、一年ほど前から別居しているとか、いやもう離婚して らわれた時、誰ひとり面とむかって、彼女に眉について問 ちょうど うわさ ようや いただした者はいなかった。女たちは、丁度さっきの若いしまったのだとかいう噂が、漸く社内に流れはじめた頃で くせ うつ にせ はえ おび そりみ ほお ささや
こうたく とめどなく涙を吸わせていた。 することによって、市子は自分が木炭のような光沢のない へんまう 夜になっても、大杉の原稿用紙は白紙のままだった。市物質から、不意に光りをまきちらすまぶしい宝石に変貎し ゆくえ 子は大杉の今日一日の想念の行方を思いやって冷たい笑いたことを感じていた。大杉の人より大きな後頭部、たくま おさな がわくのを感じた。 しいカのみなぎった首筋、そこだけ、妙に稚さののこった はす ・ほんのく・ほ : : : それらを見つめているうちに、市子はその さし向いの夕食も気まずく、話は一向に弾まなかった。 大杉が今、市子の存在そのものを不快に思い堪えている皮膚や、体臭や、体温や : : : なじみきって、今は目に触れ 感じが市子の肌にひしひしと感じられてくる。自分のどこ ただけで直ちに官能に訴えてくる大杉のすべてに対し、愛 からだ が悪いのだろう。市子は夜の燈の色と共に弱く萎えてくる情にみたされてふいに驅がし・ほりあげられるような苦痛を えんこん 自分の怒りや怨恨に目を据えながら、重いため息をもらし覚えてきた。気配にふりむいた大杉が、大きな目を冷たく 見据えて、どうしたと訊いた。市子は、目をみはったまま 大杉を愛さずにはいられなかった自分の熱情を、今でも声が出なかった。この出口なく、汲みとられる期待も絶た ゅうもん 市子はいとおしまずにはいられなかった。数多かった求愛れかけた憂悶のすべてを、声にすれば、死ぬとか殺すとか 者の誰にも感じることの出来なかった愛執が、なぜ大杉ひの短い叫びにしかならないような気がした。床に入ってか とりに向って生れたのだろう。男に尽すことに何の抵抗もらも、市子は、今にもまた、昨夜のように野枝の電話がか ひしよう 感じなかった。大杉の前では市子は常に自分が卑小で非才かってくるような予感に悩まされつづけた。 たの なような劣等感に捕われた。しかもその事が何と愉しく甘「気になるでしよう。野枝さんが」 い感じで自分を包んできたことか。気の強さも、女として沈黙の重さに堪えかねて、背をむけた大杉に市子は声を ひくっ の袿力のなさも、人間的な未熟さも、市子は自分の欠点のかけた。自分のことばの卑屈さに傷つき、ほとんど無意識 すべてを大杉の前では実質以下に評価し、そういう自分をに、起きて下さいと、大杉の手をつかんでひつばった。 「いいかげんにしろ」 認め愛してくれる大杉を、ほとんど仰ぎ見るような気持だ ったのを思いだした。大杉という太陽の光りを浴びないか「ね、私たち、話しあう方がいいと思うわ」 口をきってしまうと、市子は押えきっていた激情があふ ぎり、自らは光りを放てない星屑のひとっとしか自分を評 価して来なかった。大杉は市子の人並より歩みの遅い長いれだし、自分を押し流すようなめまいを覚えた。受けた汚 じよく 青春がようやくさぐりあてた生命の光源だった。大杉を愛辱と、屈辱のすべてをも押し流す力がほしかった。 おそ
った。すぐ横に手をのばせば触れるところにくちなしのよ案の定、そこに博史の姿はなく、博史の持物も何もなか にお からだ 3 うに匂っている明子の軅がまぶしく、目も頭も冴えるばか った。反射的に夜具に触れてみると、すでに体温さえ残っ もみ′、らノ c ′、こっこ 0 ていない。やはり紅吉を苦しめた妄想は的中していたのだ 「眠れないの」 った。その夜まんじりともしないで悶え明かした紅吉が夜 明子はやさしく手をのばし博史の額に手をおいていたの明けるのを待ちかね、明子の家へ駈けつけてみると雨戸 びん が、すっと、かやをぬけだすと青いペパアミントの瓶を持が閉っている。漁師の妻が顔をだし、紅吉の血相の変った って来た。目をとじていた博史は、唇に柔かなものを感じ顔をみておろおろした。ばつの悪そうなそのうろたえ顔を て、はっと思った時はなめらかな舌が歯を割ってすべりこみただけで紅吉はすべてを察した。部屋の中にはかやの中 かぐ み、それと共に、香わしいペパアミントがロ中に流れこんに枕が二つ並んでおり、部屋の隅には博史の絵の道具がそ だ。むせて博史は咳きこんだ。その背を明子の腕がかかえ つくり置いてあった。涙がふきあげてくる目で海岸をみる おお なぎさ こみ、重い熱い軅が博史を掩ってきた。酒はすっかり博史と、渚の方から一枚の毛布にくるまって、明子と博史がみ の明喉に流しこまれていたが、明子の唇はまだ花にとりつずみずしい朝日を浴びながら散歩しているのが見えた。 ちょう いた蝶のように博史の唇から離れようとはしなかった。 庭先の真赤なカンナの群が紅吉の目の中で燃え上り、軒 どうして、明子の下から逃けだしたのか覚えがなかつの赤いガラスの風鈴が、ちりちりと鳴った。すべてはおだ あらし た。 やかで明るい、夏の嵐のすぎ去った朝のぬぐったような海 かやの外に坐って震えている博史を、かやの中から明子の風景だった。 ただ なが の声がやさしく呼んだ。 《これを書く私の手があんまり震えるのを私は只じっと眺 「入っていらっしゃい。もうおとなしく寝かせてあげますめているのです。あれからいつも楽しいこと悲しいことば かり夢見てる私をどうそときどき思いだして下さい から : : : ほんとにかわいい坊やなのね : : : 」 その頃、博史のぬけだした林の中の家では紅吉がまっ青私の子供 ( 紅吉 ) はあなたからもう便りがありそうなも な顔をして坐っていた。雷が鳴りだした時から紅吉は不思のだと云っています。私の子供を可愛がってやって下さ しっと 。嫉妬深い心にも同情してやって下さい 議な予感にさいなまれ、いてもたってもいられなくなって げんえい きた。払っても払っても浮び上る幻影にじれて、夢中で病私は三十日までここにおります。それまでにあなたの絵 室をぬけだし林の中へ走りこんでいた。 をぜひ一枚頂きたい。あなたの自画像ならなお好いのです ふる