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検索対象: 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集
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1. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

有吉佐和子集注解 夸三従と七去三従とは婦人服従の三教。家にあっては父、嫁し ては夫、夫死しては子にそれぞれ従うこと ( 儀礼・喪服 ) ・七去 とは儒教で妻を離縁する七つの条件。父母にすなおでない者、 子のない者、品行のみだらな者、ねたみ深い者、すぐになおら ない病気のある者、多言な者、盗みをする者・ 会国民之友明治一一十年一一月、徳富蘇峰によって創刊された雑 誌。民友社発行。社会評論を主とし、思想・政治・文学に関す る評論を発表。三十一一年八月廃刊。 五四女大学女子修身の要義である「斉家」の心得を仮名文で託 都の花文芸雑誌。明治一一十一年十月から一一十六年六月まで した書。即ち和順の教を本とし、父母、夫、舅姑によく仕え、 刊行。月二回刊、全百九冊。創刊当時の主幹は山田美妙、創作 家政を治めることを説いたもの。江戸時代に女子一般の修身書 を主体とした一般文芸誌としては最初の雑誌。「花車」 ( 美妙 ) 、 として行われた。貝原益軒の著と伝えるが、後人が益軒の童子 っゆだんだん 「初恋」 ( 磋峨の屋御室 ) 、「露団々」 ( 露伴 ) 、「浮雲」第三編 ( 四 訓から抄出したとする説が有力。 そうもん 迷 ) など、当時の問題作が掲載された。 万葉にある妹背山の歌巻四相聞、五四三の笠金村の長歌を さす。歌の大意は、大君は行幸のままに、物部の多くの伴の男〈四万朝報を去る日露開戦の気運が高まるにつれて、それまで うね 非戦論を主張していた幸徳秋水や堺利彦は、主戦論の黒岩涙香 とともに出かけて行った私のいとしい夫は、軽の道を通って畆 と対立、退社して平民社を設立し、反戦社会主義運動の機関紙 傍山をみながら紀州の路に入り立ち、今では真士山をこえてい ると思われるが、紅葉の散り飛ぶのを見ながら私を可愛い女として、明治三十六年十一月に週刊「平民新聞」を発行した。 基底は日露非戦論で、金融業者、銀行がその戦争を起すものと だとも思わずに旅は面白いと思っているだろうと、うすうすは し、帝国主義の本質をつき、階級としての資本家全廃こそ戦争 知っているが、それでもじっとしてはいられないので、わが背 解決の唯一の道たと主張。社会主義者の国際的連帯をもっこと 子の行くに従って追って行こうとしきりに思うけれども、かよ も特色、普選運動などが厳しい弾圧を招き、第六十四号を全部 わい女の身であるから道守にたずねられてもどう答えてよいか 赤刷にして三十八年一月終刊。 わからないので、出かけようとしてつますいてためらってしま みつぐ 〈四内田不知庵 ( 1863 ~ 19 ) 評論家、翻訳家、小説家。本名貢。 交四君子 ( 高潔なことが君子に似るの意 ) 絵画で、梅、菊、 通称、魯庵。不知庵は別号。硯友社文学の戯作性、無思想性を批 蘭、竹の総称。 判し、観念小説、悲惨小説を支持、みすからも社会小説の代表 奎月下氷人 ( 続幽怪録 ) 月下老人と氷人の合成語、男女の縁 作といわれる「くれの廿八日」 ( 明訂 ) を書いた。社会評論家 をとりもつ人、仲人・ としても幅広い活動をした。一一葉亭四迷の教示を受けて訳出し びやま

2. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

から、妙に粗暴な行為に出ることがあった。数え年十八のた。電車賃値上げ反対連動の電車事件にまきこまれ、はじ えびなだんじよう 時上京して順天中学の五年へ入った。この年、海老名弾正めて投獄された時は、獄中でエスペラント語を習得し、そ の本郷教会へ通い洗礼を受けた。矢来町の下宿で外国語学れ以後は入獄のたびに一つずつ外国語を覚えるという一犯 校への入試勉強をしている時、下宿の大学生たちが「谷中一語の習慣をつけてしまった。この年はまた、女と別れ、 ちょうちん 村鉱毒問題大演説会」と書いた幟や高張提燈をおしたてて恋人のいた堀保子と強引に結婚している。明治四十年には わいわいデモに出てゆくのを見て、社会問題に関心を持ち「平民新聞」に書いた論文二つのためにたてつづけに投獄 はじめた。無事、外国語学校へ入学した頃、幸徳秋水と堺され、もういつばしの主義者だった。翌四十一年も赤旗事 ちょうえき 枯川が万朝報を辞し、週刊「平民新聞ーを創刊して、社会件で入獄、一一年六月の懲役を受けた。この入獄が幸いし 主義と非戦論の旗印をかかげて立った。その時はすぐ駈けて、危く大逆事件からはまぬがれたようなものだった。出 つけ参加せずにはいられないほど社会主義に傾いていた。獄して以来は堺利彦の売文社に関係し、もはや一かどのア しんさん かって洗礼の水が少しでも頭によくしみこむようにというナーキズムの主義者として同志と辛酸をなめその名を知ら 目的で、わざわざ五分刈にして洗礼を受けに出かけたようれていた。 な熱意で、雪のふる寒い夜、はじめて数寄屋橋の平民社を「青鞜」創刊に一カ月おくれ、荒畑寒村と月刊誌「近代思 訪れ社会主義研究会に参加した。明治三十六年の暮のこと想」を創刊した。文芸思想雑誌という仮面で官憲のきびし ・こっこ 0 い弾圧の目をごまかし、大逆事件以後完全に押しつぶされ 「軍人の家に生れ、軍人の間に育ち、軍人の学校に教えらた社会主義運動の根を絶やさないために発行されたものだ ぐれつ れて、軍人生活の虚偽と愚劣とをもっとも深く感じているった。大杉は毎月この「近代思想」に評論を載せ、寄稿者 ところから、この社会主義のために一生を捧けたいと思い も各界から広くつのり、在来の文学雑誌には見られない新 あ にますー 風をまきおこした。大杉栄の「生の拡充」「創造的進化」な あいさっ 乱そんな挨拶をして仲間になり、その日を境に、学校の帰どの評論や、「みんな腹がヘるー「何が新しいんだ」等の時 りにはほとんど毎日平民社にまわるというような熱心な同評などは、荒畑寒村の創作と共に文壇にも好評で受け容れ 美 志になっていった。 られていた。自我の確立とか、自由と解放という思想や言 凜々しい美少年だった大杉は性的にもませていた。外国葉は、一種の社会の流行の観念や合言葉になっていたのだ 語学校を卒業する頃はすでに一一十歳も年上の女と棲んでい った。けれども大杉も荒畑寒村も、もうこの程度の生ぬる そばう 、よぎ のばり ささ ごういん

3. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

432 いき、政治支配力は著しく強化された。 国政府は重慶に遷都して抗戦するに及んで長期化し、十六年十 二月八日太平洋戦争に発展した。 一要ノモンハン事件昭和十四年五月から九月にかけて、旧満州 一会共産主義思想の温床昭和十三年一一月司法省発表の「いまや 国西北、外蒙との境に近いノモンハンで日ソ両軍の国境紛争で 民主主義、自由主義の思想は共産主義発生の温床となる危険性 交戦した事件。近代的機械装備や火力、輸送力ではるかに見劣る が多分にある」による。「非常時ーのヒステリックな思想弾圧 日本軍は、一万数千の死傷者を出し、全減に近い師団さえみるほ がみられ、「犯罪が生まれる社会的原因の検討」や「妻のみを ど大きな打撃を受けた。政府牽制のために関東軍はむしろ国境 紛争を奨励するような「国境紛争処置要綱 , を下部に布達する 罰する姦通罪の不当性」を主張した滝川幸辰を団体と相容れぬ など、軍事同盟締結を急ぐ陸軍の性急な行動の結末であった。 「赤化思想」ときめつけたことから発展したいわゆる滝川事 件、国体明徴問題、天皇機関説などにみる美濃部達吉処遇問 一七七大政翼賛会太平洋戦争中、国民統制の中核機関で政府と表 題、東大の矢内原忠雄教授追放、自由主義者でマルクス主義批 裏一体とされた法人格なしの公事結社、第一一次近衛内閣成立後 判者の河合栄治郎さえ教壇を追われた。 の昭和十五年十月創設。終戦と同時に解体。 一六四りべらりすとの文緒表面上、片かな、横文字を忌避する国一尺大東亜共栄圏昭和十五年、当時の外相松岡洋右の声明に由 来する。日本を中心に共に繁栄すべき東亜の諸民族とその居住 策に沿いながら、抵抗からばかりではなく、平仮名で書いて外 する範囲。 国語を使用し、表現の意を尽す法はめずらしくない。文緒の場 合はむしろ、抵抗にかかわってくるところが多く、しかも「り一芫国民学校昭和十六年以降、戦後の改制までの小学校の称。 やまとなでしこ とうす、 べらりすとも開戦と同時に健気な大和撫子に変貌」するほどの一八一大本営戦時に天皇のもとにおかれた最高統部。 「りべらりすとーであり、因襲へのこだわりを残している、限一公一女庭訓江戸時代に行われた女子用の家庭修用書。 りある「新しい女 -J であるにすぎない。そしてそのことは、母、 一九一一・・エリオット Thomas Stearns Eli0t ( 1888 ~ 1965 ) 花を支えている「紀ノ川」からも抜け切れないことを示す象徴 イギリスの詩人、批評家。季刊の文化雑誌「クライティリオ 的な表現である。 ン」を主宰、一号に発表した長詩「荒地」 1922 は、第一次大戦 後の混乱した社会、荒廃した現代文明をえがき、現代詩革新に ・一一六昭和十一年一一月一一十六日、旧陸軍の一一十一一名の青 大きな役割を果した。引用は最初の評論集「聖林」 1920 の「伝 年将校を含む千四百余の下士官らが、急激な国粋的変革をめざ 統と個人の才能」第一章によるもので、個性にそれほどの価値 して、内相斎藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太郎などを があるわけではなく、大切なのは過去から現在につづく文学の 即死させ、侍従長鈴木貫太郎には重傷を負わせた事件。翌日陸 伝統を認め、自分もその大きな秩序の中に生きていることを感 相告示による戒厳令公布で、一時クーデターは成功するかに見 じる「歴史的感覚」だというエリオットの文芸批評の方法は、 えたが、「反乱軍ーとして一一十九日鎮圧された。この事件以後、 この「紀ノ川」のテーマと密接につながっていくものである。 青年将校や右翼にかわって、ファッショの主役は軍部に移って きび

4. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

労働組合が一切の政党活動を排除し、ゼネストや直接行動によ 豊一郎と結婚以来、漱石山房内の詳細な話を夫からきき、その 文学的雰囲気の中で習作「明暗 , を書いて明治四十一年一月に って産業管理を実現し、社会改造を達成しようとする立場。 漱石から詳細な批評の手紙を貰っている。翌月には漱石の紹介六四管野すが ( 1881 ~ 1911 ) 社会主義者。いわゆる大逆事件に で処女作「縁」を「ホトトギスー巻頭に発表、以後「ホトトギ 参加、三十一歳で刑死した。赤旗事件のため千葉監獄中の荒畑 ス」を中心に「中央公論」「国民新聞」「読売新聞」などに作品 に、管野は幸徳との結婚を知らせ、荒畑もそれに同意するとの を載せ、文壇的位置はすでに定着していた。「青鞜」創刊当時 書信を出している。「管野の過去における異性との放縦な関係 社員に名を連ねたが、翌月退社してからは寄稿者となった。 がつねに経済的な問題と関連していた」 ( 自伝 ) と考える荒畑に とって、おのずと諒解するところがあったのであろう。「魔女」 癸 0 宮島資夫 ( 1886 ~ 1951 ) 小説家。恵まれぬ生活を重ねたのち、 「妖婦 . といわれたこの革命婦人に、野枝を重ねあわせてみるの 大杉、荒畑の「近代思想」の影響を受けて、アナーキストとな が作者の目でもあろう。のち瀬戸内は、この管野を主人公に った。宮島らの労働文学の成立は、この「近代思想」の影響な 「遠い声」を書いた。 しには考えられない。階級的自覚を持ちえず、反抗と憎悪と自 暴自棄に生きるほかはないという、明治末期の鉱山労働者が置三九一大杉の「生の闘争」大杉の第一評論集、大正三年刊。生の 拡充とか、生の創造、自我の自由と解放のための社会的闘争と かれていたみじめな実情を、自分の体験にもとづいて写生風に いうテーマが、大杉の強烈な個性によって「近代思想」に発表 描き、直ちに発禁となった「坑夫 , ( 大 5 ) のほか、相場師の されていたが、その主張は非常に個人主義的色濃いもので、む 世界をあっかった「金」、僧の求道生活を書いた「遍歴」などの 自伝的作品がある。 しろスティルナー流のアナーキズムに傾いている。 昊三アルツイ・ハ ーシェフの「サーニン」 MikhaiI Petrovich A ・四 0 四大杉という太陽の光を浴びないかぎり : ・ 「青鞜」はらい rtsybashev ( 1879 ~ 1927 ) ロシアの小説家。帝政ロシア末期 てうの発刊の辞にみるごとく、太陽の光によってかろうじて光 の知識人の絶望と放恣とを描いた。「サーニン」 187 では、虚無 を出しうる受動的な月になりきっている女性を、真正の人、太 主義者サーニンをめぐる恋愛を描き、その大胆な官能描写は当 陽に復帰させるという、女性の人間復活宣言であったはずであ 時サーニズムの流行語をさえ生んだ。 る。だが底に「不意に光りをまきちらすまぶしい宝石に変貌ー しうる女でありながらも、ついに「大杉という太陽の光りを浴 岩三ローザ・ルクセンプルグ Rosa Luxenburg ( 1871 ~ 1919 ) びないかぎり、自ら光りを放てない」木炭でなければならなか ドイツ婦人社会主義者。経済学者。社会民主党の左翼急進派と った。個性の華々しいぶつかり合いにもかかわらず、自ら光を してス。ハルタクス団を組織、第一次大戦直後革命を企図して逮 放っ太陽になりえなかった。「青鞜」の人間復活宣言が、その 捕され、虐殺された。「資本蓄積論」などがある。 意思通り動かなかったことを象徴的に描いている個所である。 三合サンジカリスム運動 Syndicalisme+ 九世紀末から一一十世紀 にかけて発生、とくにフランスで栄えた急進的な労働組合主義。 紅野敏郎 / 小野寺儿

5. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

「そういえばうちにある、昔からの「平民新聞』ね。あれ《私は野枝さんに私と仕事の所有物のすべてを手渡しまし もどっかへかくさなくちゃ」 た》とこれまでに至るを明らかにした。たくまずして ごういん とつぶやいた。大杉は、辻が幸徳秋水の時代の「平民新野枝の強引な、まるでひったくりのような奪い方ともとら おどろ にじ 聞」をみんな持っていると聞いて愕いてしまった。この煮れる厚かましさが、その行間から滲んできた。同時にらい おうよう えきらない小男を改めて見直す気持だった。 てうの引き際は鷹揚で無私無欲の人物のように浮び上っ 「あんなもの構うものですか」 野枝はこともなげにいっている。野枝はその時、話の勢野枝はそんなことにこだわらず、 いで、 个ーーその頃から私の思想の方向がだんだん変ってきたの たびたび いままで 「ああ度々発禁にされちゃあ、紙だけでもたまらないでしを幾らかずつ私は感じだしました。今迄どうしても自分と よう。「青鞜』のを廻しましようか。どうせこっちも毎月社会との間が遠い距離をもっているように思われました。 買うんですもの、ちっともかまわないわ」 そして社会的になることはかくも自分自身を無理するよ むじゅん と申し出た。まだらいてうから受けついだばかりの野枝うに考えられていました。それが何時の間にか矛盾を感じ だいたん がそんな大胆なことをいうのにも大杉は愕かされた。まさられなくなって来たことです。今は社会的な運動の中に自 かすぐ野枝の好意をうけいれるほど大杉も単純ではなかっ分が飛び込んでも別に矛盾も苦痛もなさそうに思われまし たけれど、野枝の好意だけはしつかりと心にうけとめておた。 とにかく私はこれから全部私一個の仕事として引きつぎ らようしよう 世間から危惧され、嘲笑され、孤立感に悩まされていたます。私は私一人きりの力にたよります。私は誰の助力も 野枝にとっては、こんな大杉の突然の来訪と、手放しの激のそみません。そうして社員組織を止めてすべての婦人達 うれ 励は、涙が出るほど嬉しかった。改めて勇気もふるいたっ にもっと解放しようと思います。ーー略ーーーまず私は今迄 て来た。 の青鞜社のすべての規則を取り去ります。 大正四年「青鞜ー五巻一月号には、らいてうの「青鞜と青鞜は今後無規則、無方針、無主張、無主義です。主義 私」と、野枝の「青鞜を引継ぐに就て」という二つの文章のほしい方、規則がなくてはならない方は、各自でおっく りなさるがいし を並べ、野枝は自分の立場を明らかに世間に示した。らい てうは野枝から御宿によこした手紙の一部を公開して、 私はたた何の主義も方針も規定もない雑誌をすべての婦 こ 0

6. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

433 注解 瀬戸内晴美集注解 殺され、隊内の古井戸に投げこまれた事件。 一実田村俊子の生涯を書いた縁昭和三十四年から丹羽文雄主宰 の「文学者」に発表、翌三十五年文芸春秋新社から刊行。同年 創設された田村俊子賞の最初の受賞作品となった。 一岡本かの子について執念深い長い作品昭和三十七年から三 十九年にかけて「婦人画報」に連載された。絢爛で異常な一生 美は乱調にあり を送ったかの子を、東京女子大の卒業論文に選んで以来の研究 = 三五大逆事件明治四十三年五月一一十五日、宮下太吉、新村忠雄、 成果を伝記文学の形で発表した野心作。 新田融、古河カ作の四人が検挙されたのを端緒として、幸徳秋 = 四 0 全く同じ世代の辛酸をなめてきたこの不思議な名をもっ魔 水、管野須賀子ら社会主義者が続々拘引された。社会主義者が 子は、特異な位置にあった両親の子であったがゆえに背負わね 爆弾による天皇暗殺を計画したという重大な陰謀が発覚したと ばならなかった宿命にありながら、いささかの苦悩の色も見せ いうのがその検挙の理由。ほとんど全国におよぶ数百名の検挙 ていない。だがこの不思議な冷静さの中に、逆に並でない辛酸 者のうち、起訴されたのは一一十六名。明治四十四年一月十八日 の痛みを垣間見、きびしい昭和の動乱期をすごした作者も同世 には、有期刑一一名のほか全員死刑の判決を受けたが、そのうち 代人としてその痛みを分担しあうのである。この同世代人とし 十二名が翌日無期懲役に減刑された。実際計画したのは、宮下 ての痛みの分担こそ、ドラマチックな野枝の生涯への関心とと 太吉、新村忠雄、古河カ作、管野須賀子の四名のようだが、桂 もにこの作品を作者に書かせた要因でもあった。 内閣はこの事件を社会主義者撲減に利用し、幸徳秋水を首謀者 = 四一一「最後の大杉」内田魯庵の著名な回想集「思ひ出す人々」 とした。裁判は弁護人申請の証人をいずれも却下、公開禁止の ( 大刊 ) 所収。 なかで、発覚以来六カ月余というス。ヒード結審、訴訟手続上の = 哭村上浪六 ( 00 ~ 一 0 、 4 ) 小説家。作品の多くの撥鬢の町奴を にんきよう 形式にすぎない公判であった。天下の耳目を聳動させたこの事 主人公に登場させ、仁侠の世界をえがき、撥鬢小説の名で呼ば 件は、外、啄木、荷風、蘆花など多くの文学者に影響を与 れた。偏奇な国粋尊重と呼応した「暗く浪漫的な歴史小説」で え、社会主義者は厳しい「冬の時代」を迎えることとなった。 ある。森田思軒によって認められた出世作「三日月」 ( 明 ) の 一一三五大杉栄虐殺事件大正十一一年九月一日の関東大震災による戒 ほか、「奴の小万」など多数の作品がある。 厳令下で、大杉は妻野枝と妹あや子の一子、甥の橘宗一 ( 七歳 ) = 〈 = 大鴉ポ _Edgar Allan poe ( 8 ~ 、 0 ) を一躍第一流の とともに外出先から帰宅途中、甘粕正彦憲兵大尉らに呼びとめ 詩人とみられるに至ったのがこの「大鴉 . ( 1 5 ) である。小説 られ、大手町の東京憲兵隊に連行され、同夜、甘粕の部下、憲 同様、死、美、憂愁をテーマとし、きわめて音楽的な表現に効 兵曹長森慶次郎、同上等兵鴨志田安五郎、本田重雄ら四人に扼 果をみせた。

7. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

一天四グールモンやシェストフやワイルドグールモン Rémy de 一禿「閨秀文学界」成美女学校 ( 英語専門学校 ) の教師であった生 Gourmont ( 1858 ~ 1915 ) はフランス象徴派の代表的な論客で、 田長江主宰の下に、同校内につくられたもので、与謝野品子、 きわめて趣味の幅広い好事家。「愛の生理学」 ( 1903 ) にみる 戸川秋骨、平田禿木、馬場孤蝶、森田草平、阿部次郎らを講師 淡々とした自然観照は独自のもの。シェストフ Leo Shestor として迎えた。平塚らいてうや山川菊栄らがこの聴講生で、「青 ( 1866 ~ 19 & ) はロシアの哲学者、思想家、評論家。既存の権威 鞜ー誕生の契機になったとは文中にもみえる。 を否定する姿勢をもった。「無根拠礼讃」を訳載したほか、シェ 一石一一反応を楽しみながら : : : 野枝の獣のような野生的な匂いや ストフに関する文を辻は書いている。ワイルド Oscar Wilde 熊襲の血を受けた熱血にふれてみたい欲望をうちに秘めながら ( 1856 ~ 1 当 ) イギリス耽美主義の代表作家。宗教、道徳を否定 も、田舎娘の運命にまきこまれてはならないとしてともかく し、芸術を生活の基準とした。辻は「ドリアングレイ」を訳し 「水遁の術」をきめこんでいた。しかし「青鞜」の出現は辻に たほか、佐藤春夫や生田春月の協力を得て「ド・プロフォンデ 「水遁の術」を捨てさせた。むしろ自ら野枝をたきつけ、意識的 イス」 ( 昭和八年刊 ) を出した。 に「炎の女 [ に仕立てていく役割を引き受けていくのである。 一天竹田田能村竹田 0777 ~ 1835 ) 江戸末期の画家。豊後竹田の一石三火の柱明治三十七年一月 ~ 三月「毎日新聞 , に連載した木 人。江戸に出て文晁に学ぶ。清高淡雅な画趣に独自の風格を示 下尚江の小説。キリスト教社会主義者篠田長一一は同志ととも に、政商、軍閥、官僚らの結託による迫害にもめげず、演説 一天水遁の術老子の道経上、易性第八による。最上の善を水の 会、同盟罷業の指導、全国労働者大会開催らの活動を続ける が、ついに投獄されるまでを描く。 性質にたとえた。水は万物に利益を与えていながら、円い器に 入れれば円くなり、四角の器に入れれば四角になるように、決 = 七三白井俊三はすてきだわ白井俊三は木下尚江の小説「良人の して他と争わない。だから決してうらみとがめられることはな 自白」 ( 明 ~ ) の主人公。民主主義を奉ずる青年弁護士白井 。不争謙下の徳を説いたもの。 俊三は、家族制度と妥協した、愛情のない結婚をして自暴自棄 一天「日本及日本人」主筆三宅雪嶺の総合雑誌。明治一一十一年四 になり、身の破減を招いたが、結局立ち直って非戦運動に身を 入れていくという人物。 月創刊の「日本人」を、四十年一月から改名したもの。改名前 は、政府の欧化政策に反対し、同人杉浦重剛や井上円了、志賀一石三文芸協会明治三十九年一一月、文学、美術、演劇などの改善 重曷らと日本人の民族的自覚の覚醒をめざしていたが、陸羯南 進歩を図るため、大隈重信を会頭とし坪内逍遙を中心に、島村 の「日本」と合流改名後は、はじめ条約改正、専制主義批判な 抱月、東儀鉄笛らによって組織された研究団体だが、一」こでは ど政府攻撃の性格が強く、しばしば発売停止された。同人は既 四十一一年改組のもの。研究所内に新築した私演場の舞台開きを に去って雪嶺の個人的雑誌となり、人生訓、処世訓的論説が多 かねて、九月一一十一一日から三日間開演された出しものが、抱月 くなった。大正十二年九月、大震災の打撃で政教社は崩壊した。 訳の「人形の家」だった。 / ラ役の松井須磨子は一躍して新時 くまそ

8. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

さしがや はくさん た。もう八年もつづいた夫婦仲はいたって円満だったし、生来のキリスト者で、小石川指ヶ谷町の白山に向う坂に住 保子もよく大杉の愛に応えて尽していた。 んでいたので白山聖人とあだ名されるほどその人柄が誰か 大杉が野枝をほめる語気に力がこもっていることから、 らも慕われていた。場末の長屋町を歩きまわって子供相手 うわさ 仲間では大杉と野枝の間を早くも予感し、噂にしはじめての一銭移動床屋をして、極貧の中で農民啓蒙の「徴光。と いる。当人自身の自覚するより早く噂の方が先行し、煙のい う新聞を発行しつづけている。床屋のくせに髪ももの ひも 下に火がおこるのが、たいていの場合の情事の発端であび放題にのばし、よれよれの着物に羽織の紐などはいつで り、大杉の時もその例に洩れなかったようだった。大杉はもこよりという風体だったが、その結核の痩せた頬や目に 青鞜講演会で女学生のような初々しい野枝を見ているだキリストのような慈愛がみちていて、誰からも慕われ愛さ け、野枝の早熟な才能に好奇心と興味を押えることが出来れる。辻も人みしりする例にならわず、渡辺政太郎には一 なかった。あれだけの女を仲間にしないのは社会主義のた 目惚れで傾倒してしまった。渡辺の方でも辻が意外なほど めに損失だ。そうだ、あの女なら教育次第で立派な戦闘的社会主義に知識があり、スチルネルを通してアナーキズム な主義者になる。日本のエンマに仕立てることだって出来にも一かどの意見を持っているのを識り親しんだ。旧知の まこと る。俺がやるなら出来る。そんな云いわけを心にしているように出入りするようになり、子供好きの渡辺は一を自分 時、大杉はもう既に野枝に恋に似た気持が芽生えているのの子供のように可愛がり抱きたがった。 を自分では認めていた。 大杉にせがまれた形で渡辺は同道した。 大杉の批評が「近代思想」に出て二カ月ほど後、大杉は玄関へは、いきなり赤ん坊をかかえた野枝があらわれ 仲間の渡辺政太郎につれられてその頃竹早町に移っていた た。大杉はあの女学生つぼかった野枝がすっかり世帯臭 く、色っぽくなっているのに一驚した。 辻の家を訪れた。渡辺は福田英子の家で辻とはじめて逢 それ以来、すっかり意気投合して始終辻のところに出「よくいらっして下さいましたわ。前からお目にかかりた い、かかりたいと思っていましたの」 入りしていた。理髪屋の徒弟から人生に出発した渡辺は、 片山潜の演説を聞いて社会主義にめざめ、幸徳事件後は熱愛想よくいう野枝の目が輝き、あどけなさと肉感的なも くちびる 心なアナーキストになっていた。床屋や大道飴屋をやりなののいりまじった唇から美しい歯がこ・ほれるのを大杉は快 かみそりのど がら主義の宣伝につとめた。剃刀を喉にあてて宣伝すりやく見た。飾り気のない野枝はよく見るほど若々しくいきい じようだん きしていて、よく動く表情に魅力があった。辻は留守だっ あ、誰だってうなずくよ、というのが彼の冗談だったが、 おれ すで あめや した ほお

9. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

くや ざと見むきもしないふりをしたことが悔まれてならなかつ意見を発表するばかりでなく、同性の中からはもっと激越 はとやま 3 た。素直に花のお礼を云うべきだったという後悔がこみあな反対論があびせかけられた。下田歌子、鳩山春子などが のぞ げてきた。誰にもしられず揚幕のかげからこっそり覗き見先にたち、「青鞜ーに対抗して結束した真新婦人会の宮崎 た時の明子の夏より少しやつれた、それだけにいよいよろ光子や日向きむが最も戦闘的で激しい攻撃をしむけてき おもも、リ うたけてみえたなっかしい俤が、菜の花畠の金色のかげろた。社会のどんな誤解や攻撃にもびくともしない明子も、 あら うの中から無数に顕われてくるような気がしてきた。去年二月号が発禁に遇い、これまではたいていのことに目をつ の夏以来、すべてを忘れようとっとめてきた日々が急にむむり娘の自由を認めてくれていた寛大な父の定一一郎から、 なしく色あせたものに思われてきた。博史は画架を金色の「社会主義者の原稿をのせなければならないような雑誌な せき 野に向って立てながら、一向にキャン・ハスを彩らず、堰をら早速止めてもらおう。もしやめられないならとっとと家 きったような激しさでなっかしさのあふれてくる明子の俤を出ていって勝手にやるがいい。社会主義者の出入りなど を追いつづけた。 も一切許さない」 まっこう と、始めて、真向から叱りつけられたのにはこたえた。 桜の咲く頃あたりから野枝の悪阻の苦しみも自然におと社会主義とは関係がないといって、一時は父の怒りをなだ ろえていった。健康が回復するにつれ、野枝は生来の快活めたものの、つづいてらいてう自身の「世の婦人達に」が さと精力的な行動性をとり戻し、家事にも辻のすすめる勉載った四月号、更にらいてうの処女評論集「丸窓より」な どが、内務省によってたてつづけに発禁処分を受けたのに 強にも、「青鞜ーの編集事務にも熱心に活躍しはじめた。 すがも は、さすがの明子も手ひどいショックを受けた。 その頃「青鞜ーの事務所は巣鴨に移っていて、ほとんど 毎日のように明子の丸窓のある部屋に集っていた社員や編警視庁までのりだして四月には代表人として中野初、保 集員は、巣鴨に通い、明子の部屋からは次第に遠のいてい持研子の一一人を呼びつけ「日本婦人在来の美徳を乱すか た。「青鞜」に対する世間の迫害や誤解はますますひどくら、社員は今後行動に慎重を期するように」という警告を な 0 ており、 1 部の文学者をのそいては、世間じゅうから与えた。そんな中でも社員はいよいよ結束を固め、「青鞜」 白眼視されていたといってよかった。文部大臣奥田義人、 の質を落すまいと努力し、文芸講演会なども企画したが、 やまじあいぎん 言論界の長老山路愛山をはじめ教育界の成瀬仁蔵や三輪田これは先ず会場を断られるという冷たい現実にぶつつかっ さたや 元道、下田次郎まで「新しい女」について否定的な論文やて沙汰止みになってしまった。 つわり いつ、 0 い

10. 現代日本の文学49:有吉佐和子 瀬戸内晴美 集

ったのかもしれない。先年日華事変が勃発し、官僚勢力でそのときの敬策の暗い眼は、文緒が娘時代にもかって見 ちょうらく たことのないものであった。 固められた近衛内閣が生れて以来、政党は凋落の一途をた どっていたが、真谷敬策は政友会に属する一代議士として「お父さんは何を考えてなさるんやろか、お母さん」 「軍国日本」に抗するよりも、和歌山という一県下のため「さあの、わしには和歌山があるよってと笑うておいなさ に粉骨砕身して励むことを続けていた。 るけどの」 「お父さん、日本のファッショ化を防ぐこともようせん政「お母さんはどう思いなさるんです」 「英一一さんはどういうてなすったえ ? 外国に出てれば日 友会やったんですか」 本を客観することが楽でしようが」 妊娠して帰ってきた文緒に詰られても、 「そない云いな。こないなったら和歌山のことだけでも精「もちろん、ファッシズム絶対反対や」 けんえん 「やけどもジャ・ハはオランダ領でしようが。ドイツと犬猿 一杯でやろうと思うしかないやないか」 の仲の国が、日独伊の三国関係をどない思うてるやら」 と柔らかく受けて返す。 おんしよう 民主主義、自由主義は共産主義思想の温床ときめつけら花の考え深げな言葉に、植民地でのうのうと遊び暮して れていた。政府は反戦を主張する合法左翼の勢力を根こそ いた文緒は自分を反省したのかもしれない。久々で出会っ こうはん ぎ血祭りにあげ、他方では軍部と官僚に広汎な権限を与え た日本の冬に華子が病気続きで、その看病に息つく暇もな ぶんべん る国家総動員法を成立させて戦争体制の強化につとめてい かったせいもあって、ともかく無事に男児を分娩するまで は珍しく鳴かず飛ばすであった。 りべらりすとの文緒も、新聞を読めば、天下の形勢は分 だが文緒一人が静かであっても、真谷家の多忙には変り うず る。 がなかった。敬策の夫人として花がその渦の中心にいるこ 「ほんまやなあ、お父さん。社会大衆党までが軍人さんにとにも変りがなかった。敬策の行く先への心配り、蔭での す 迎合してますわ」 気遣いに、針一つ立つほどの隙も見せまいとしていた。す 「黙れと怒鳴りよるもん相手に、理屈も実情もあれへん。 でに数人の孫を持っ花であったが、仕事ぶりは若いものも 顔まけさせるほど精力的で、煩雑な事務も大どころを押え ・二六このかた、えらいことになってきよった」 しようかいせ、 さば てつぎつぎに捌いてみせた。そんな姿を賰介石の夫人に擬 「どうなるんでしようにの」 そうびれい して宋美齢と蔭ロきく者がいたが、しかし面と向っては敵 「さあ、なあ」