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検索対象: 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集
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1. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

右金沢本多町付近昔 の土塀がまだ残っている。 「黎明」に詳しい左犀 川べりにある通称坂を登 元神る取材中の鶴羽伸子氏 の浦 町石 多た 本来 しで を仕 工奉 女労 が勤 野下 雪の金沢駅「たまゆら」で敬子は吉 岡清彦に誘われてこの金沢を訪れる 左曾野氏が疎開当時に 住んでいた家 ( もと料亭 ) 犀川べりの高台にあった 26

2. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

注解 年譜 倉橋由美子文学アル・ハム 評伝的解説 河野多恵子集目次 河野多恵子文学紀行 わたし自身の内なる旅 みち潮・ 思いがけない旅・ 明くる日・ 塀の中 : 劇 場・ 最後の時 : 注解 河野多恵子文学アル・ハム 評伝的解説 金井美恵子三九 ・三一三 三話 ・・三公一 ・四 0 八 紅野敏に 日高昭 = 当六 噐六 四七一一 奥野健男噐一 紅野敏郎 日高昭一一当四 噐四 奥野健男哭一 装幀大川泰央 写真撮影増山紀夫 稲葉喬 横田公人 作品校正矢牧住子 編集責任桜田満 製作担当東弘

3. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

このホテルの創立者は山口仙之助氏で、開 業は明治 11 年 7 月 15 日である。その当時の おもかげは庭園や建物の一部に今もなお残 っている。「遠来の客たち」は終戦後のこ のホテルが舞台になっている。 右庭園にある水車小屋訪れる外国人の 目を楽しませる右中特別室の豪華なっ くりを見学する曾野綾子氏と鶴羽伸子氏。 まるで御殿に来たような感がある右下 中庭にある池とホテルの一部どこを見て もすみすみまでその意匠はこらされている 富士屋ホテル案内 この箱根宮の下の富士屋 ホテルは昭和年川月に 連合国軍に接収され、昭 和四年 6 月に返還された 0 左上階段ーっにもその歴 史の古さと重みがある 左下大食堂の内部天井 には極彩色の高山植物の絵 が描かれていて一興である

4. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

94 現イ弋日本の文学 文学紀行Ⅱ鶴羽伸子 金井美恵子 評伝的解説Ⅱ奥野健男 監修委員編集委員 伊藤整足立巻一 井上靖奥野男 川端康成尾崎秀樹 三島由紀夫 北杜夫 曾野綾子集 遠来の客たち たまゆら 永遠の牧歌 初めての旅 倉橋由美子集 妖女のように 蠍たち 。、ツンヨン 河野多恵子集 みち潮 思いがけない旅 明くる日 塀の中 劇場 最後の時 子子子 綾美恵 由多 曾倉河 現代日本の文学 箱根芦ノ湖畔箱根ホテル庭園にてくつろぐ曾野綾子氏 50 をク第を心・第三物・、 = , ・ いを 曾野綾子 倉橋由美子集 河野多恵子 京都大仙院の庭園〈大海〉 ( 倉橋由美子集「暗い旅」 ) 第矛を 264 650-1002 言イ・を ISBN4—05-050260-7 C0593 学研 一学研

5. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

由美子の土佐高校時 代の恩師・小松博行 先生この師から文 学の影響を受けた 真、 , タをで 列年ル賞館 後肪パ長号 和「学 6 と昭学学 同 ( 年大大 一子治治 族美和明明 家由昭で 上中右イ受 に年左上文藝春秋新社刊 ( 昭和三十五年 ) 左中新潮社刊 , 内四 ( 昭和三十六年 ) 左下東都書房刊 ( 昭和三十六年 ) 園和 庭昭 宮 ( 神子 安美 平由 都端 京右 土佐高校時代 ( 昭和 29 年 ) パル豬 倉橋由美子 PARTEI 吉田富士子先生訪問 途中にて ( 昭和 34 年 ) 婚約 倉橋山美 音ン、方長 倉橋山元ア・ ( 撮影田沼武能氏 ) N E T テレビに出演左端が由美子 / 三人目が中山千夏氏 ( 昭和 35 年 )

6. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

下犀川大橋にて疎開当時を互 に語る曾野綾子氏と鶴羽伸子氏 国ゅ 白砂糖がたつぶりかかった御手製のドーナツをごちそ ・ま うになったことがあります。初冬の珍らしくよく晴れ る たある日のこと、私は二十五年りにその辺を訪ねて やはあ は近で みました。松の枝ぶりと言い、家々のたたすまいと言 町付所 のの 戦火もモータリゼーションの波も受けつけぬよう 沢こな に、この台地はあの頃と何一つ変っていませんでした。 金。れ のるら道子は金沢人のねちねちした卑屈さを嫌うと同時に、 雪いれ この土地の持つどことなく間 のびした大らかさに、いを て忘 引かれるのですが、中でも、道子が一番愛したのは、 大もて をし この高台から眺めた犀川の景色でした。兼六園は荒 犀気と れはてていても、川の面に注ぐ月の光は、その輝きを 囲台 沢雰舞惜しみはしなかったでしようから。 金のの 翌年三月、曾野さんは金沢を去りました。それから 上特ら 今日に至るまで、彼女はほとんど毎年のように金沢に やってきました。学生時代には、金沢大学の学生であ った私の仲間と、能登旅行にも出かけましたし、互い に少し金まわりがよくなると、山中温泉へ足をのばし たりもしました。犀川べりの眺望を愛した曾野さんは じん 寺町台の「つば甚」によく宿をとりました。「白膚の 人と塀の町・金沢」の一節を引いてみましよう。 「いっか満月の晩に、私は寺町台にある『つば甚』と いう宿の眺めのよい部屋で、老妓の横笛を聞いたこと 7 もある。曲は何であったか忘れてしまった。他に若い

7. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

鶴羽伸子 には、度はそれらの地を訪れてみなければなります ゼロメートル地世市を一打く だが日本国内には、それとは別の意味で、曾野綾子 めったにないことですが、作家が、風土の放っ強烈の人生にかかわりを持った土地がいくつかあります。 東京の下町と、箱根と、北陸の金沢です。熱帯の赤土 な印象に触発されて、小説を書く場合があります。 曾野綾子は、北タイのサラメタに建設中の、燃えるや、カリブ海の海の色は彼女に強く語りかけ、その創 ような赤土の道を見たばかりに、三年もの年月をかけ作欲を刺激しましたが、この三つの土地は長い時間を かんまん て千一一百一一十八枚の長篇「無名碑」を書きました。まかけて、もっと緩慢にじわしわと彼女の心に分け入り、 ーリョ独裁下その成長に深くかかわり合っそきました。 た「リオ・グランデ」の構想は、トルヒ むしぶろ 昨年の夏、金沢から出てきた私が蒸風呂のような のドミニカの絵のように美しい風光の下に生れたもの です。一九五六年にアジア財団の招きで東南アジアを東京の街を、汗を流しながら観光バスでせっせと見て まわっておりますと、曾野さんが、「この次に出てきた 旅行してから、曾野綾子はすっかり暑い国のとりこに しさっしんしさフめい ら、観光バスなんかが絶対に行かない正真正銘の東京 なってしまいました。そして、オーストラリアからイ ンドまで、はとんど南アジア全域を歩き回ったのです。の下町を見せてあげる」と言いました。彼女は葛飾の ほんてん 本田に生れたので、下町と言う時、いつもちょっと威 南の国々の何がそんなにまで彼の心を捕えたのか、 ひだ この屈折の多い、興味ある作家の心の襞をさぐるため張ったような声を出します。何でも一尺掘れば水が湧 曾野綾子文学紀行 人生にかかわる場所 かっー ) 物

8. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

昭和三十八年 ( 一九六一一 l) 二十八歳ごしてしまう。九月、帰国。十二月末、神奈川県下の田舎に引越 一月、「蠍たち」を「小説中央公論」に、「愛の陰画」を「文芸」す。 三十三歳 に発表。七月、「迷宮」を「新潮」に、八月、「恋人同士」を「芸術昭和四十三年 ( 一九六八 ) 生活」に、九月、「・ハッシ日ン」を「小説中央公論」に、十二月、五月、長女誕生。十月、『たち』を徳間書店より刊行。十一月、 「向日葵の家」を「文芸」に、十二月、「長い夢路」を「新潮」に、 「死刑執行人」を「風景」に発表。 二十九歳「ヴァージニア」を「群像」に発表。 昭和三十九年 ( 一九六四 ) 三十四歳 一月、「宇宙人」を「自由」に、二月、「わたしのしはパパのもの」昭和四十四年 ( 一九六九 ) を「新潮」に、八月、「夢のなかの街」を「文学界」に、十二月、四月、『スミヤキストの冒険』を講談社より刊行。五月、「酢郷に 「妖女のように」を「文芸」に発表。この月の暮れに、熊谷冨裕氏て」を「文芸」に、六月、「ある遊戯」を「小説女性」に、十二月、 と結婚。 「白い髪の童女」を「文芸」に発表。『暗い旅』が学芸書林より復 三十歳刊。 昭和四十年 ( 一九六五 ) アメリカ留学の予定を健康を害したために一年間延期。この間、昭和四十五年 ( 一九七〇 ) 三十五歳 O に通い、英会話のトレーニングにはげむが、いまだに舌のま一月、「霊魂」を「新潮」に、三月、『ヴァージニア』を新潮社より わりは遅い。三月、「結婚」を「新潮」に、六月、「亜依子たち」を刊行。はじめてのエッセイ集『わたしのなかのかれへ』を講談社よ 「中央公論」に発表。八月、最後の少女小説『聖少女』を新潮社より、刊行。四月、「マゾヒスト氏の肖像」を「文学界」に、五月、 り特別書下し作品として刊行。九月、「隊商宿」を「自由」に、「醜「河口に死す」を「文芸」に発表。文庫本『悪い夏』を角川書店よ 魔たち」を「日本」に、十二月、「解体」を「文学界」に、それぞり刊行。七月、「夢の浮橋」を「海」に連載 ( 十月完結 ) 。 れ発表。 昭和四十六年 ( 一九七一 ) 三十六歳 三十一歳三月、『人間のない神』を徳間書店より復刊。二十三日、次女誕生。 昭和四十一年 ( 一九六六 ) アイオア州立大学の creative writing コースに学ぶことが正式に ( この年譜は著者の自作年譜を中心に、編集部で加筆追加いたしました ) 決定。六月十七日出発。一月、『妖女のように』を冬樹社より刊行。 譜八月、「悪い夏」を「南北」に発表。十月、『われらの文学ー高橋 和巳・倉橋由美子・柴田翔ー集』を「講談社」より刊行。 三十二歳 年昭和四十一一年 ( 一九六七 ) 六月までアメリカ中西部のキャンパス・タウン ( アイオワシティ ) で健康的な一年をすごす。各国から集った writer 達と識りあう。 帰国途中ニューヨークに立ち寄り、親切な友人に恵まれ三カ月をす

9. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

444 生士国家試験に合格。しかし、その後ひそかに明治大学文学部フラ ンス文学科に入学 ( 四月 ) 。斎藤正直教授の指導を受ける。 一一十五歳 昭和三十五年 ( 一九六 0 ) 明治大学文学部フランス文学科を卒業。卒業論文にサルトルの「存 在と無」をとりあげる。大学院に入学。この年「パルタイ」を書き 明治大学学長賞を受賞。一月、「パルタイ」を「明治大学新聞」に 昭和十年 ( 一九三五 ) 発表。三月、「パルタイ」を「文学界」に転載。五月、「非人」を 十月十日、高知県香美郡土佐山田町東本町五丁目四の一一九 ( 現在 ) 「文学界」に「貝のなか」を「新潮」に発表。六月、「蛇」、八月、 に、父、俊郎、母、美佐栄の五人きようだいの長女として生まれ「密告」を「文学界」に発表。「婚約」を「新潮」に発表。「パルタ る。父は歯科医。田舎町のわんばく小僧たちをいじめながら、少女イ」を文藝春秋新社より刊行。九月、「囚人」を「群像」に、十一 時代をすごす。 月、「夏の終り」を「小説中央公論」に発表。 六歳 昭和十七年 ( 一九四一 l) 昭和三十六年 ( 一九六一 ) 二十六歳 四月、高知県土佐山田小学校人学。 この年、コルタイ」で女流文学賞受賞。乱作時代に突入する。一 昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) 十二歳月、「どこにもない場所」を「新潮」に発表。一一月、「婚約」を新潮 四月、土佐中学に入学。 社より刊行。三月、「鷲になった少年」を「週刊朝日別冊」に発表。 昭和一一十五年 ( 一九五〇 ) 十五歳『人間のない神』を角川書店より刊行。五月、「ミイラ」を「中央公 土佐中学より四月、土佐高等学校へ進学。高校では園芸部に所属し論」に、七月、「巨刹」を「新潮」に、九月、「死んだ眼」を「マド ていた。このころ、土佐高の小松博行先生から志賀直哉の小説を読モアゼル」に、十月、「合成美女」を「小説中央公論」に、それぞ むことをすすめられ、以後やみつぎになり、文学が好きになった。れ発表。書下し長篇『暗い旅』を東都書房より刊行。「暗い旅」を 昭和ニ十九年 ( 一九五四 ) 十八歳めぐって江藤淳氏とわるくちの応酬。 一一十七歳 なめらかな殻をかぶって学校生活をくぐりぬけ、土佐高等学校を卒昭和三十七年 ( 一九六一 I) 業。医師になることを決意して次の一年を京都ですごす。黄金時代二月、突然父を失う。大学院を中退して、母、大、猫、弟などを相 であった。ただし医師になることはついに断念する。 手に田舎暮らしをはじめしばしば、土佐と東京のあいだで行方不明 になる。ひとりになるための旅。四月、これまでの業績に対して第 昭和三十年 ( 一九五五 ) 十九歳 日本女子衛生短期大学に入学。 四回田村俊子賞を受賞。五月、「輪廻」を「小説中央公論」に、六月、 昭和三十一年 ( 一九五六 ) 一一十一歳「真夜中の太陽」を「新潮」に、「一 8 メートル」を「風景」に発 三月、父の厳命にしたがい日木女子衛生短期大学を卒業して歯科衛表。 倉橋由美子年譜

10. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

戦を迎える。 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) 十五歳 鶴羽伸子三月、東京に帰り聖心女子学院中等科三年に復学する。 昭和ニ十四年 ( 一九四九 ) 十八歳 中河与一氏主宰の同人雑誌「ラマンチャ」の同人となり、曾野綾子 のペンネイムを使う。 昭和六年 ( 一九三一 ) 昭和ニ十五年 ( 一九五 0 ) 十九歳 はんでん 九月十七日、東京府南葛飾郡本田町に生まれる。父、町田英治郎。聖心女子大学に進む。育英会の奨学資金を受け、悪いと思いながら 母、キワ。長女である姉の幽里香が三歳で夭折してから八年目に生それを同人雑誌の費用に当てる。 まれた二女である。ひとり娘として成長する。本名は知壽子。 昭和ニ十六年 ( 一九五一 ) 二十歳 昭和九年 ( 一九三四 ) 三歳五月、「ラマソチャ」にのった「裾野」が、日井吉見氏の目にとま 大森区 ( 現大田区 ) 田園調布へ移る。下町に対する郷愁はいまだにり、文学界の同人雑誌評でとり上げられる。氏の紹介で、第十五次 強く、後に数々の作品の舞台となる。 「新思潮」の同人となる。大阪朝日放送の聴取者文芸の時間に、十 1 、日・諸、ー第 4 昭和十一年 ( 一九三六 ) 五歳二枚のコントを応募し、数篇が採用された。同人に、三浦才「本 芝白金の聖心女子学院幼稚園へ入る。以後、金沢へ疎開した十カ月上兵衛、阪田寛夫などがいた。後に有吉佐和子も加わる。 をのぞき、同大学英文科卒業まで十七年間、一貫したカソリックの昭和ニ十八年 ( 一九五 = l) 一一十一一歳 教育を受ける。宗教教育は母の希望でもあった。 十月、三浦朱門と結婚。コ一一田文学」の編集責任者であった故山川 昭和十ニ年 ( 一九三七 ) 六歳方夫氏に認められ、「三田文学」十一一月号に「鸚哥とクリスマス」を 聖心女子学院初等科へ入学。閉所恐怖症のきらいあり。 寄稿する。 昭和十六年 ( 一九四一 ) 十歳 昭和ニ十九年 ( 一九五四 ) 二十三歳 大東亜戦争勃発。敵性国人の修道女が軟禁され、衝撃を受ける。 三月、聖心女子大英文科卒業。「三田文学」四月号に発表した「遠 譜昭和十八年 ( 一九四 = l) 十二歳来の客たち」が、第三十一回芥川賞侯補となる。十月、「文学界」 聖心女子学院中等科に進学。 に「・ハビロンの處女市气十一月、「文芸」に「海の御墓」、「新潮」 年昭和ニ十年 ( 一九四五 ) 十四歳に「硝子の悪戯」を発表。 五月、石川県金沢市に疎開。県立金沢第一一高等女学校一一年に編入。 昭和三十年 ( 一九五五 ) 一一十四歳 同月、本多町にあった平野化学工場に動員され、最年少の女工とし一月、長男を出産、太郎と命名す。「望郷の歌」を「新攵苑」に、 て特攻機の部品を作る。栄養失調のため病気がちであった。八月終「黎明」を「文学界」に連載。筑摩書房より「遠来の客たち」、一 曾野綾子年譜