れて、まあ一時的の捨児をしたんだな。ここは焼け残ってしら。五つくらいの小さな子が : いるし、食糧はあるし。で、すぐ迎えにくるつもりだったんですけれど」 その人は、つぶやくように訊く。 というんだな。だが、あの日迷い子を見たということは、 生徒は誰も言っていなかった、と答えてある。今は言って「さあ ? 」 という声が、僅かにおこった。 はやれないんだ。あれもあるんだが : : : 」 「見た者は手をあげて」 中尉がそれというのは、動員係室で県管されている、 こつつぼ 中尉が言い、手はひとつもあがらなかった。 さな無名の骨壺なのだった。 さくれつ 「今はどうしてもまずい。ただ、母親が、あのときの生徒 正子はもうたまらなくなっていた。子供の死以来、炸裂 さんに、迷い子を見なかったか、迷い子に構っていた人をしそうになっていた彼女の胸は、自分たちの罪が、この塀 見なかったか、もしいたらどういう人だったか、もしや記の中の外へ出されず、密封されているのだということを、 ほうわ 億に残っている人がないか念のために訊いてみたい、と言教授から聞いたときから、さらに密度を増し、もう飽和状 ってるんだ。今ここへ連れて来る。諸君は何も知らない。 態に達していた。自分の罪を広いところへ出してほしい、 判ったね」 そして、胸の詰まったものも少しは出させてもらいたい。 かすり 白い・フラウスに絣のモンべを穿いた、やつれた、やさし 正子は割れそうな胸を抱えつづけることはもうできなか そうな、その人が連れて来られた。 った。この機会を逃したら、もう駄目なのだ。今、手をあ 「さあ、どうそ」 げさえすればいいのだ。彼女は、自分の罪にも、胸にも、 中尉が言った。 窓を開けようとした。 「あの、皆さんがあのとぎ配給してくださった生徒さん しかし、ためらった。中尉が困るのだ。 あの子は配 中で ? 」 給の日に入って来たのでもなし、視察の日に入って来たの の低い声で、その人が訊きはじめた。皆、すぐには声が出でもない。・ とこから入って来たのでもない。でも、あの子 なかった。かすかに頷く。 は、どこからか、この塀の中へ入って来たのだ。 きれつ 「そうです」 正子の胸には、すでに亀裂が生じかかっていた。だが、 中尉が答えた。 前方には中尉の顔があった。 一体、あの子はどこから 「あのとき、男の子が迷い子になっていませんでしたか ここへ来たのだろう。地からわいたのか。いえ、そうでは だめ 。水色の上衣を着てた うわぎ
312 死んだのだと、他人から聞かされた。・ : しかし、そのとぎ少女の心をそんな状態へ拉致したの カ既に家は潰れ、 主人にも死別していて、全くのひとり。ほっちになってしまは、父の言葉のうちにあったと思われる一抹の実感より かえ むすこ ったお家さんは、そんな父を却って自分の息子のように思も、寧ろ戦争ということへの少女自身の実感だったかもし うようになったのだそうだ。母がそれを知っていたか、どれなかった。 うかは自分も聞いていないけれど、とそのひとは既に三十少女は父と一緒に歩きながら橋にさしかかると、足を停 近くなっていた少女に話した。そのときには、お家さんはめた。夜空に生々とかがやくネオンが揺れながらそっくり まっくら もちろん、父も亡くなっていた。母はまだ生きていた。映っていた川も、今ではやはり真暗で、びたびたと岸を浸 が、少女は最後まで母にそのことはねようとはしなか 0 してくるみち潮の音が静かに伝わってくるのだった。 さびれた盛り場を歩きながら、父はまだ何も知らなかっ た少女に言った。 「お父さんはね、あのおばあちゃんが達者なうちに、一遍 ゆっくり本当においしい物を食べさせてあげたかったん だ。戦争で今、物は片っ端からなくなってゆくんだ。おい しい物だって、じきになくなる。・ほくらはいいさ。戦争に またなん 勝てば、又何だって手に入るようになるんだから。でも、 おばあちゃんはそういうわけにはゆかない。だから、お父 さんは、是非とも今のうちに本当においしいものを : : : 」 父はまだそれを何故あれほどお家さんを労ってきた、母 にも言ってはいけないかということを説明できてはいなか たちま った。が、少女は父のその言葉に忽ち同感し、 「誰にも言わないわ。お母さんにも言わないわ」 とその理由などもう問題ではないというように誓ってい 」 0 」 0 すで いたわ つぶ むし いちまっ
たまゆら 113 た。まだ決して決めた訳ではないのだが、清彦に縁談としを貸し、娘はその手にすがった。わざとだったのか、彼女 て持って来られた娘は、年は二十五。スチュワーデスとしは、足を踏み滑らせそうになった。清彦はそれをひきよせ くちびる せつぶん て四年も国際線にのっている。今はもう落ちぶれてしまってやる。その瞬間に鶴子は清彦の唇を盗んだ。接吻をする ているが、彼女の父親は、昔、奉天で大きなホテルを経営のに、ひどく扱いやすい女だった。まるで接吻をするため していて、死んだ吉岡氏とも友人であった。 だけに作られた歯車仕掛のロポット人形のように、グロテ 満洲の夢は、吉岡未亡人の心にまだ生き生きと残ってい スクなほど、扱いやすい女だった。 た。今の没落した吉岡の家が本来の吉岡家であると思って もし自分が結婚すると言ったら、あなたは何と思うだろ もらうのは困る。その意味では昔の吉岡家を知っている人う。 僕があなたを裏切ったように思うだろうか、と清彦は 話し終って尋ねた。 夫人はそういう理由で片桐鶴子との縁談に執着したのだ いいえ、と敬子は首をふった。 った。鶴子は奉夫生まれである。 僕はあなたを尊敬しているから、あなたが心にもなく僕 まで 今迄、縁談という縁談冫 こことごとく難癖をつけていた母が他の女と結婚しても平気だなどと言っているのではな が、今度に限って、ひどくのり気で、あの古い座敷に娘をく、本当に僕とは結婚する気はないのだと思う。それと もったい うそ 招んで、一緒に三時のお茶をのみながら、昔のような勿体も、あなたの言葉のどこかには、やはり女らしく嘘がある ぶった笑い声をたてている。根太の腐った家も、今度こそのだろうか。 修理して、若夫婦のために洋室を一間たてたそうとも言っ嘘はなかった。清彦に誰とも結婚してくれるなとおしつ ている。 けることは簡単である。彼も今更、本心から誰かと結婚し 清彦は娘をともなって一度庭に下りたことがあった。外たがっているとは思えない。 国香水の匂いをさせている、腰の細い娘だった。庭には清しかし清彦に結婚するなといい、今のままの二人の関係 たくさん ろ・ばく 彦の父の趣味で、石が沢山いれてある。茫漠とした満洲のを続けてみたところで、この先いったいどれたけいいこと 荒野の中で、仕事をして来た吉岡氏の、日本へ帰った後は があるというのだろう。少くとも清彦の結婚には発展があ 極端に日本趣味になったその名残りであった。 る。憎しみにせよ、愛にせよ、どちらかがまさりどちらか げた その石の庭に大きな重い庭下駄をナイロンのストッキン が色あせて行く変化がある。年をとるということ以外に、 グにつつかけて歩くのはむずかしいことである。清彦は手そうした変化を清彦に味わわせたい。それが生きていると にお ほうてん
とうてい とは必ず思い通りになった幸運な人が、預金封鎖にあった間関係の中に入って行く気には到底なれない。その点では り、財産税払わされたり、あんな目にあったら、それこそ自分のエゴイズムもこの夫人のエゴイズムも、何ら変ると ころはないのである。夫人が息子と二人きりの今の生活に 別な意味でも病気になった筈だと思いましてねえ」 それにしても、床の間の軸も置物も、いかにも主を失っ病的に執着があるなら、その秩序を脅かしそうなものに対 けんちょ ふんいき たらしい雰囲気を顕著にもっていた。あまりにも暗いのしては全力をあげてつつかかって行くより世仕方がないだ と、掃除がゆきとどかないのとで、九谷はうっすらと塵がろう。そして、そのつつかかる相手が自分なら、自分も穏 いろつや つもり、あの・ほってりとした赤や緑の色艶まで失っているかにつつかかられているより他にない。 「それであなたは、お勤めでも」 ように見えた。 もう同じ会社で十年も英文タイ・フをやっておりま 昔はこの家がいつもお客で一ばいで、正月など休む暇も「はい、 ない有様、鏡をぬいた酒樽があっという間に空になる程のす」 十年の年月が与えてくれた恩恵と言えば、華やかな刺激 人の出入りだった。それと比べれば、今は本当に静かでい 。母子水入らずで、何事も言わず語らずのうちにお互いもなく、三十を過ぎれば女でも男でもないように他人にも に通じて、何とも言えず穏やかに暮していられる。暇さえ見られ自分でも思い、その中で機械的な落ちつきも生まれ あせ あれば、清彦も早く研究所から帰って来て、二人でいるよて、いっしかこの世で焦ることなどなくなってしまったよ うにしてくれる。ほんとうに男の子というものは案外に親うな感じを持ったことだった。 ・こあいさっ 孝行で、という夫人の御挨拶では、別にそれ以上にこちら「それじゃ、お仕事にはもう殿方以上におなれでしようね え」 から言う・ヘぎ言葉もなかった。 それにしてもうたれるのは、この夫人の自分を守ろうと老夫人に言われた時、微笑して頷きながら、ふとこの褒 らする気力の粘り強さである。それに今改めて考えてみれめ言葉のようなものが、実は前重役夫人という肩書を持 ゅば、人間は誰の為に生きているのでもない。他人の為に生ち、しかもそれを充分に自分で意識している女の、憐れみ の形なのだと気がついた : きているのなら、自分も、清彦を救えるかも知れないとい た う錯覚をもてたのかも知れないが、敬子にはその自信もな 四 、。いや自信がないと言うと体裁がいしが、本当は今の気 楽な一人の境涯を捨てて、あの凝り固ったような母子の人吉岡家を辞した時、みそれは雨に変っていた。気温も、 そうじ ため さかだる はす こ ちり まど おびや あわ
僕も思わない訳じゃないんですが、母と僕は母一人子一人り払っても二東三文にもならぬような骨董ばかり残ってい よせぎざいく いんわん で因縁が深すぎましてね。もう、びっちり寄木細工みたい て、何一つ目新らしい家具や設備もない家だが、あれが残 にお互いが組まれちゃってて、一歩も抜け出せないんでった唯一のめぼしい財産だし、自分がその家にこうしてい もちろん す。勿論、母は僕に結婚をすすめてくれましたし、僕も思るのも、一つには母のような人間と暮すには、どうしても い切って今の生活を変えてみようと思ったこともあるんだ一定の家の広さというものがいるからである。六畳と四畳 けど。いやこんなお話をしてもしようがない。他の方にお半の二間が空中に浮き上ったようなア・ハ 1 トの居住区に、 ただ 話してみてもわかるようなことじゃないし。只一度、折が病的な神経をとがらした二人が押しこめられたら、本当に やじうま あったら、母という人間に会ってみてドさい。弥次馬気分気も狂いかねない。本当は親を捨てて身軽になる事が、自 で」 分を楽にする一番の近道だとは思うし、そうすれば明日に 弥次馬気分で、という時、辛うじて彼は自分の言葉に救も人並みな結婚が出来そうな気がした時もあったけれど、 われたように、ゆとりのある穏かな表情をした。そう言っ どうしても今、たった一人の母と別に住む事は出来ない。 て話をおさめようとしながらも、なお清彦が・ほっり・ほっり いや、住む事は出来るだろうが、絶えず気になって、そん 思い切り悪く語ったところによると な状態では、夫婦が夫婦らしくいられるかどうかもわから 健康で少し鈍感な神経を持った女なら、結婚しても母と 自分との間に極く何気なく割りこんで、母子が目に見えな いっそやの晩、結婚嫌いなどと一口に片づけられてしま いような些細なことで神経をすりへらしている時にも、少ったけれど、あれやこれや考えて、自分には母と二人でこ しも気づかずに平気な顔をしていられるかも知れないが、 うして暮しているのが一番気楽だと思うようになった。他 ひと そんな女には又、自分は憎悪か侮蔑を感じないではいられ人には変人とも思われようが、結婚も母を見送ってからに らないだろうし、さりとて、自分の感情をその儘そっくり感しようと思っている。母から解放されるのは四十になるか ゅじとってしまうような女では、とうていあの母とあの家の五十になるか、それもわからないし、早く解放されたいと ま 中で息をし続ける事は不可能だ。せめて息苦しい、倒れか希う人並みな感情と、そう希うのは卑怯だという思いとが せんたく ナかったような古い家だけでも解体して、洗濯ものが一ばい混とんと雑り合って、今では本当は自分でもどうなりたい ひらひらと風になびいている明かるいア・ハート暮しでもしのかわからない。結局、今のままが一番いいという感じで しゅうちゃく てみたいけれど、母はあの古・ほけた家に執着している。売ある。 かろ ふべっ ねが ひきよう
きんらん るほど、それが本当の紺サージなので、余計にそうしたく 女中が父の前に、紫色の金襴の巻物を置いた。何かしら なるのだ。 と、少女は思った。が、父は黙ってその巻物を取りあげ、 「いいサージでしよう。これが、もう最後でしてね」 「ここは今でもそれなんですね」 と洋服屋は言った。そうして、今着ている惨めな制服の とお家さんが言った。父はそれには答えず、巻物を展げ 上から少女の寸法を取りにかかり、 「なるほど、これじゃあお厭でしようね」 「何にしますかな」 なが そう言うのであった。 そう言いながら、眺めている。 ごちそう 「今日は御馳走してやるよ」 お家さんは、その料理屋へはかなり以前に来たことがあ 外へ出ると、父は少女に言った。ふたりは歩いて、そこるらしかった。一度ではないようでもある。が、それはい から近い料理屋へ行った。ところが、座敷へ通ると、テー っ頃のことなのだろうか。まだ戦争の始まらない頃のこと すで プルの前には既に人が坐っていて、それは堀田のお家さんなのか、自分がまだ小学校へも上らない時分のことなの なのである。しかも、父は、 か、自分が生まれてもいなかった時代のことなのかは、少 女には判らなかった。 「どうも、こちらが遅くなりまして」 そうお家さんに挨拶するのだ。そして、お家さんはそれ料理がきて、父から勧められたとき、お家さんは、 しようばん を軽く受け流し、 「それじゃ、お相伴させていただきます」 「まあ、こんなに立派におなりで : : : 」 と言って、ちょっと頭を下げた。 と少女の成長ぶりに見とれるばかりなのである。 「さあ、どうそ」と父が言い、少女も何気なく、 少女には、ここへ来るまでお家さんを招いてあることを「どうそ」 と言った。 父が黙っていたことが不思議に思われた。それに、かねが もつば ねお家さんを労っていたのは専ら母なのだった。父はそれ「どうそ、だって ? ーーーお前がお相伴だよ」 と父は笑った。 に反対こそしなかったようだが、少女は、お家さんと口を ほとん 利く父をさえ殆ど見たことはなかった。しかし、今ここ お酒の好きな父だが、その日はほんの少ししか飲まなか で、そんな疑問を口にすべきでないことくらいは、少女もった。三人はまず、少女たちが郊外へ移って以来の生活の 承知していた。 ことを話し合った。そのうち、少女は、父とお家さんとの あいさっ みじ て、 ひろ
ただけなのだ。 子供は聞かれれば何んでもしゃべってしまうだろう。かと 「ひどいの、混雑が : : : 」 いって、報告当番なり、通いの工員なりに頼んで連れ出して 今、美智子は言った。 もらうわけにもゆかないのだ。供など同伴していれば、 ゆく たず 「行方不明の家族を探しに来ている人がずいぶんいたわ。訊ねられる。リ、ツクか何かに入れて行っても、子供がは 警察では、それを紙に書かせて綴じ込んでいるのね。で、 いれるほどのものならば、やつばり中身を調べられる。そ 調べてもらったけど、その中にスガオ・シンイチっていう こまで、武子が話したとき、咲子は心細そうにいった。 子のはまだないんですって。届けをしておいたわ」 「じゃあ、いつまでも出せないの ? 」 「手紙も ? 」 、、え。そんなことないわ」 武子が訊く。 しかし、武子はなおも子供を出せない理由のほうを言う 「ええ、出しておいた」 のだった。 ばしご 子供が二度目の夜の眠りについたあと、正子たちはその 「これが荷物か何かだったら、夜中に消火梯子でも塀に掛 子の処置について相談した。というよりも、武子が自分のけるかして、放り出してしまえばいいんだわ。でも、子供 案を発表し、皆納得させられてしまったのだ。その場にをそんなことしてごらんなさい。後で誰かに発見されたと は、他の部屋の生徒たちも幾人か顔を見せていた。 き、子供はここにいたこと話すにちがいないわ。さっきも 「よく考えてみるとね、先生や中尉に届け出るなら、子供言ったように、口止めなんか利かないんですもの。聞いた が見つかったとき、曾根さんがすぐその場から連れてゆか人は、きっとここへやって来るでしようよ」 いまさら なきや駄目だったのよ。今更言ってみたってしようがない 「入ることは入ったが、出ることはできない。シン坊は、 しよくしゅま けど、曾根さんの手落ちだったのよ」 まるでいそぎんちゃくの触手に捲き込まれた小ェビだわ 中武子は彼女らしく強引なゆき方ではじめた。 の「時間が経てば、もう子供を内緒でここへ置いたってこと ひとりが、その子の寝姿の方を顧みて、面白そうに言っ になるんですもの」 門には昼夜、門衛がいて、あの配給のとき以外に子供が 正子は、顔をあからめた。子供の方から入って来たので はす 入り込める筈はないのだ。もっとも遅れて届け出ても、今はあったが、最早や彼女の気持の上では連れ込んだという 見つか 0 たばかりです、と言えないことはないけれども、感じのほうが濃厚で、今の冗談は彼女にと 0 てはエまぬ鋭 ごういん 」 0 かえり
私は清里の名を・・・・・・今までに何 度か耳にしていたのだった。私は その土地の特徴をたすねた。 光が一刻として同しトーンを見 せない澄んだ土地、というのがそ の答えだった。「冬が透明で激し くていいなあ」 ( 「砂糖菓子が壊れるとき」 ) 山梨県清里高原
その言葉は嘘ではないように敬子は思った。光子は清彦「ちょっとお待ち下さい。今、お茶をおひとつお入れして がひとりで訪ねて来ることなど信じていなかったに違いなまいります」 敬子がとめようとする間もなく、光子は立ち上った。そ かった。 ちょうどたんな 「丁度、旦那さまがおでかけになったばかりでした。旦那の瞬間、彼女はさりげなく、鼻たれ子供が鼻をふくような さまがいらして下さったら、お話相手にもなれたのに、私動作で手の甲で両方の眼をこすった。お茶は口実で、彼女 は教養もありませんし、ほんとはとても困ってしま 0 たのは思い出の甘さの中に乏んだ涙を、敬子に見られたくない ためにだけ、席を立ったとしか思えなかった。 ですけれど、上って頂きました」 ただ 海はさえざえとした青い秋の海であった。幸子の悲痛な 「吉岡さんは話などしなくてもよかったんですわ。只黙っ 歌にあったように、この海がタ陽を受けて紅に燃えること ておいてあげれば」 うなす があるなどとは想像出来なかった。その別離の歌と、雪あ 光子は深く頷いた。 「本当にお話することがないのでしようかと思っていましかりの加賀屋の家で、今度このような雪の日を迎えるとす れば、その時には是非とも清彦に死んでいてほしいと思っ たら、吉岡さんが、横浜へ映画に誘って下さいました」 た自分の気持が、くしくも同じだったことを敬子は思っ 「そうでしたの ! 」 「私、ああいう外国映画を見たのは久しぶりなんです。ジた。その望みは今達成されたのかもしれなかった。 ナ・ロロプリジーダがとてもすてきでした。旦那さまと行清彦はこの上もなく利己的で、この上もなく高慢な人間 くと、いつも日本映画ばかりですから。映画を見てから港に違いなかった。幸子や弥生や光子や、そして自分や、そ の見えるレストランでお食事をして、横浜駅まで送って頂の他のさまざまな女たちの心を受け入れることすら出来な ひきよう いてお別れしました。ほんとに楽しくて、お礼を申しあげかったほどの卑怯な人間だった。それを今、敬子ははっき たびたび たいのですけど、何だか、私が度々お手紙をさし上げるのり言い切ることが出来るような気がした。そう言い切るの ひきよう は御迷惑じゃないかという気がして。それつきりになっては、自分の心を救うためだった。清彦が、卑怯な人間であ います。どうそあなたさまからよろしくお礼を申しあげてろうとなかろうと、本当はもはやどちらでもよかった。問 下さいまし」 題はそれそれの女たちが心に抱いている架空の清彦だけで 敬子が、吉岡の話をしかけようとした時に、光子は立ちあった。ひとりの人間を限りなく誤解し、限りなく夢み はす て、そして生きて行く筈だった日々のもろさが敬子の胸に 上った 0
あへん やくばら し同時に、それが満洲では阿片禁止運動をやりながら、支までもそうして儺自身の心の厄払いをして来てから、あな なじん 那人には阿片を売っていた日本人の政策だった。子供の僕たと本当に楽しい生活を始めたい。 むじゅん にもその矛盾はわかった。 という訳で承諾の返事をしました。僕の勝手ですが、許 もちろん 僕はその時、ひどい発作をおこしました。勿論、意識的して下さい。プラジル行き以外のことは、新家庭の設計に にケシの花と僕の喘息とにそれほど密接な関係があるわけついてもすべてあなたの言う通りにします。半年の期間は ちょうど じゃありません。今になって、僕は或いは、その両者の間むしろ丁度よくはありませんか。明日又、電話します。決 には何かの関係があったのではないかと思いついたので心を決めて、今夜はよく眠れるでしよう」 す。 手紙はそう結んであった。 兵隊検査で不合格になった時以来、僕の喘息はびたりと やみました。僕は、あれほど嫌っていた軍隊を、これ以上 おもしろ 第八章イタリリ駅 面白くあざむけることはないと田 5 って、実に楽しかった。 僕は買出しにでも何でも行き、隣組のロうるさい連中の前 では、少しは病人らしくしてはいましたが、後は全く元気 でした。 と そして最近まで僕は、僕の喘息はもう殆んどなおったよ 商船の移民船りおでじゃねいろ丸は、五月一一十七日の うな気がしていたのです。 午後四時に出航することになっていた。 このまま今の生活を続けていたら、僕は何となく始終病船は前日、神戸から移民をのせて入港している。横浜か 気がおこって苦しめられそうな気がしてたまらない。何からの移民乗船者は一五七名で、その朝十時には出国手続を ら 僕の持病をふっとばすだけの変化がおこればいいのだといすませて乗船を終った。 いまさら ゅ っても、今更、日本にクーデターがおきることも考えられすがすがしく晴れた朝であった。敬子は清彦と夜っぴて ま たないし、僕自身に今革命的な生活の変化をつける方法も思語りあかした。二人は前夜おそく桟橋のみえるホテルに入 い当らない。転地といったような生ぬるいものではなしった。清彦と最初の晩を過したあのホテルである。部屋は ちんせん はず 引に、僕は何かしら僕自身に沈潜することを防ぎたいので違った。二人の心もその時とは違っている筈だった。二人 なお す。僕を忘れたいと言った方がいいでしようか。癒らない は結婚の相談をした。予算が限られていることも、必要な きら ある