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検索対象: 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集
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1. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

たまゆら 113 た。まだ決して決めた訳ではないのだが、清彦に縁談としを貸し、娘はその手にすがった。わざとだったのか、彼女 て持って来られた娘は、年は二十五。スチュワーデスとしは、足を踏み滑らせそうになった。清彦はそれをひきよせ くちびる せつぶん て四年も国際線にのっている。今はもう落ちぶれてしまってやる。その瞬間に鶴子は清彦の唇を盗んだ。接吻をする ているが、彼女の父親は、昔、奉天で大きなホテルを経営のに、ひどく扱いやすい女だった。まるで接吻をするため していて、死んだ吉岡氏とも友人であった。 だけに作られた歯車仕掛のロポット人形のように、グロテ 満洲の夢は、吉岡未亡人の心にまだ生き生きと残ってい スクなほど、扱いやすい女だった。 た。今の没落した吉岡の家が本来の吉岡家であると思って もし自分が結婚すると言ったら、あなたは何と思うだろ もらうのは困る。その意味では昔の吉岡家を知っている人う。 僕があなたを裏切ったように思うだろうか、と清彦は 話し終って尋ねた。 夫人はそういう理由で片桐鶴子との縁談に執着したのだ いいえ、と敬子は首をふった。 った。鶴子は奉夫生まれである。 僕はあなたを尊敬しているから、あなたが心にもなく僕 まで 今迄、縁談という縁談冫 こことごとく難癖をつけていた母が他の女と結婚しても平気だなどと言っているのではな が、今度に限って、ひどくのり気で、あの古い座敷に娘をく、本当に僕とは結婚する気はないのだと思う。それと もったい うそ 招んで、一緒に三時のお茶をのみながら、昔のような勿体も、あなたの言葉のどこかには、やはり女らしく嘘がある ぶった笑い声をたてている。根太の腐った家も、今度こそのだろうか。 修理して、若夫婦のために洋室を一間たてたそうとも言っ嘘はなかった。清彦に誰とも結婚してくれるなとおしつ ている。 けることは簡単である。彼も今更、本心から誰かと結婚し 清彦は娘をともなって一度庭に下りたことがあった。外たがっているとは思えない。 国香水の匂いをさせている、腰の細い娘だった。庭には清しかし清彦に結婚するなといい、今のままの二人の関係 たくさん ろ・ばく 彦の父の趣味で、石が沢山いれてある。茫漠とした満洲のを続けてみたところで、この先いったいどれたけいいこと 荒野の中で、仕事をして来た吉岡氏の、日本へ帰った後は があるというのだろう。少くとも清彦の結婚には発展があ 極端に日本趣味になったその名残りであった。 る。憎しみにせよ、愛にせよ、どちらかがまさりどちらか げた その石の庭に大きな重い庭下駄をナイロンのストッキン が色あせて行く変化がある。年をとるということ以外に、 グにつつかけて歩くのはむずかしいことである。清彦は手そうした変化を清彦に味わわせたい。それが生きていると にお ほうてん

2. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

そう交互に言いかける。笑いながら、日出子は炬燵に加でいないの。から拭きだけでいいわ。ほら、これ : わろうとした。が、断られた。 美女は後ろへ手を伸ばし、占いタオルを二枚取って、日 「あっ、駄目」 出に投ずた。 美女は、日出子が持ち上げようとした上掛けの端をきっ 和服じゃあ働けない、これに着替えない、と美女は自分 く押えて、 の物を出したが、やせている美女のスカートは日出子には 「ヒデの入る余地はないわよ。ここに入って暖まっているきっすぎる。が、美女は何とかその中へ彼女を押し込んで のは、わたしたちだけじゃあないんですもの。ねえ、ケしまった。 畳の上をい廻りながら、日出子は今夜の歓楽の趣向を じやけん ふたりは笑いだした。邪慳そうな顔をしている日出子慚く察した。何と素敵な人達だろう。その彼等は、向き合 よらや たた に、慚くせむし男が言った。 った炬燵から、巧んだ勝手な口を叩いていた。 なま 「とりが入っているんだよ。もう届いているんだ、今夜の 「怠けちゃ駄目だぜ。・ほくらが監視してるんだ・せ」とせむ 、そう hO ご馳走」 そして、座敷の方へ視線を移し、 「泣きだしそうな顔してる」と美女。 十つよツ、 ' ー 「見ろよ、ガラスだってあんなにきれいになってるだろ」 「火鉢の下もやらないか。 弓ぎ摺るんじゃあ 言われて気がつくと、不断はあんまり手入れもされてい ないってば」とせむし男。 なかったガラス戸が磨かれていて、上の透しのところか 「ヒデ、暖かくなってきたでしよ。炬燵なんていらないわ ことさら ら、日暮れの冬空が殊更冷たく眺められた。 ね。暑すぎるくらいでしよ」と美女。 そうじ 「ふたりで掃除をしたんだよ。ヒデを歓待しようと思って それが済むと、美女は、もうお風呂が沸いていると言っ 場さ。大変だったんだぜ」 た。せむし男は勝手のわきの湯殿の方へ行き、美女も立っ 美女が代った。 て行った。 ひょち やがて、そこから美女が言った。 劇「本当よ。あの大きな火鉢も出したしさ。疲れちゃ 0 たわ 「ヒデ、流してやってよ」 よ。だから、わたしたち、今こうして休んでる」 そして、言うのだった。 ためらっている日出子を、 「だから、今度はあんたが働くのよ。向うの畳がまだ済ん「どーぞ」 なが いす

3. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

いたが、羽織は着ないで、やつばり黄色の三尺帯を結んで「知らないでしよ。わたしはまだほとんど食べていないの あった。 よ。とてもお腹が空いてるの」 一同、とうとうご馳走を囲むことになった。日出子は、 「じゃあ、これをやるよ」 少しずつ酔いはじめた。 せむし男は、肉のなくなった、とりの股骨を、露わな美 「大丈夫だよ」 女の肩に投げつけた。 と言いながら、せむし男が注ぐ。大分さかんにすすめる 日出子は懸命に西ドイツのことを考える。そこにある、 おっくう な、そう思いながらも、彼女はそれを断るのが次第に億劫 : : : という知らない町のことを 。今夜は雪でも降っ ふちかっしよく に感しられ、小さな輪のようにきらめくグラスの縁が褐色ているのだろうか、鐘が鳴っているのだろうか、小包は間 の流れに欠けるのをぼんやりと見ていた。 に合ったかしら、おこわに、おでん 「ヒデ、今日はずいぶん得してるわ。ね、ケン、そう思わ が、駄目だった。けたたましい音を立てて、彼女の手か ない ? 」 らフォークが落ちた。 と美女が言っている。 「どうした、ヒデ」 「思うよ」 とせむし男は日出子を眺めた。稍々あって、 せむし男が答えたようである。 「よしよし、お前もか : : : 」 突然、日出子は、はっとした。美女が立ちあがって、叫そう言って、立ちあがった。 んでいるのだった。 「得だ、得だ、得だッ ! だから、今度はわたしの番。 ね、ケン、お願い」 場美女は黄色い帯を解きはじめた。 せむし男は叶えてやった。洋装の下着ひとつで三尺帯で 縛られ、後ろ手に簟笥の環に結えつけられて、美女は喘い 劇 でいた。 「おいしいでしようね、あんたたち」 うっとりとして、そこから言う。 かな あえ なが あら

4. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

二階のわりあいに恵まれた席には、もう山下未亡人が来 ていた。日出子を誘った人である。 「今夜はどうもありがとうございました。切符を速達にま でしていただいて : : : 」 そう礼を述べる日出子に、未亡人は隣へ移って、今まで いた席を「さあ、どうそ」とすすめた。 そして、日出子の坐るのを待ってから、 「お久しぶりですね。あれ以来じゃあなかったかしら」 と、山下氏の葬儀当時をそれとさして、 「音楽会へはやつばりいらっしやるの ? 」 その日は外人オペラのせいか、ロビーには精気があふれ「最近では、このあいだきていました″カルメンくらい こと ですわ」 ていた。一階は殊にそうだった。 はず 実物に接するのは最初の筈なのに、どうもそんな気のし と日出子は答えた。 ない顔をもつ人たちが、あちこちでひどく親しげな一群に「どなたとご一緒 ? 」 取り囲まれたり、つとそこから泳ぎ出したりする。それを「ひとりです」 ささや ちらと見て囁き合ってから、また急に張りきった、すまし「切符はどうなさったの」 とびら きった様子で扉へと向う若い男女。ソフアに陣取って、正「並んで買いましたわ」 「そう。大変だったでしよう」 面を向いたまま、たばこの煙と一緒に気炎を吐き出してい あきら 「ええ。それで今度は諦めていたところでした」 場る男連中。遠巻きに立っているのは初老の男女が多く、こ の人たちは大抵小グル 1 プをなしており、話しているとき「いつでもおっしゃればいいのに。山下がいなくなって も、そうでないときも、絶えず徴笑を浮かべている。 も、私が頼んであげますから」 皆が手にしている派手な色彩の。 ( ンフレットがあちこち半年ほど前、山下氏が急死して以来、自分がすっかりこ いまさら で揺れてさざ波立っている。その光景を見おろしながら、 の人を粗略にしていたことに、日出子は今更ながら気がひ 杉野日出子は階段をのぼって行った。 けた。

5. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

数日前、少女は一年生以来通学してきた学校での最後の 終業式に出た。学校の門を出るとき、少女は秋になっても 自分はもうこの学校へは来ないのだと考えて、妙な気がし さび た。が、それほど淋しい気持にもならなかった。店はその まま残っているわけだった。これからだって、時々こちら へ来るに違いない。少女はもちろん、少女の友だちもそう 承知しているらしかった。「さようなら」という言葉はあ まり出なかった。少女は、「また遊びましよう」と言い 「いっ来るの ? 」「お休みの間に来られない ? 」などと言わ れた。 うし 一方では、少女の心は今度住むことになった郊外へ飛ん 子供たちは既に着替えをさせてもらい、それそれ帽子ま みじたく でかぶっていた。身支度中の母が、帯をまわしながら言っでもいた。少女は以前に、そこへ二、三度家族と遊びに行 こ 0 ったことがある。海に臨み、山も近く、双方を繋ぐ州の多 し川の両側には、美しい松並木の芝生の土手が続いてい 「皆で堀田のおばあちゃんにお別れしていらっしゃい」 やますそ こ。日上の山裾には、日本一高いすべり台で有名な遊園地 一家は商家で、これまで都会のその問屋街に住み続けてナ丿 があった。少女は帰りを強いる親たちに、「もういっぺん きたが、今度郊外に別に居宅をもっことになったのだっ そび だけ」と言い置くなり、春の西日を受けて聳えたっ、その た。店と住居を別にしたい、空気のよい郊外に住もうとい う話は、前々から出ていた。それが、し 、よいよ実現するこすべり台へをけ寄った。少女はそのときの激しい未練が よみがえ 潮とになったのである。少女が、数えどし十一歳の夏のこと蘇るような気がした。少女はまた、夏、松並木の土手を 行くにつれて潮の香を知り波音が次第に近くなるときの心 にお み居宅は、店まで一時間足らずで来られる土地に定められのときめきを、潮に濡れたゴムの海水帽の匂いと一緒に思 としした いだした。 た。父はそこから毎日通うつもりだった。少女と二つ歳下 の妹とは転校し、まだ幼稚園に行かない弟は新しい土地で少女は、今度の居宅はまた知らなかった。 来春入園する。 「どういうお家 ? 」 みち潮 すで しばふ つなす

6. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

人の子供だった。少女は節季の日でも友だちと往来し、そがついている。少女はそこへマッチを触れさせ、火が移っ たちま して、ままごとをしながら、会社の部長さんとか、知事さたのを見すまして飛び退いた。周囲が忽ち明るくなり、花 あお んとか、ポーナスとか、転勤とかいうような言葉を知るよ火は蒼い火の粉を噴出させつつ、すさまじい勢いで地面を ほとん うになった。授業参観の日、今度の学校では父親の姿は殆廻転した。 どなく、母親ばかりだった。その中に、少女をびつくりさ「色が変った ! 」 せたお母さんが二人いた。洋装で、朱色のふわふわした羽と妹が言った。あたりが黄色になる。続いて赤くなっ りようて 根を掲げた帽子をかぶり続けていたお母さん。もうひとり た。弟が耳に両掌を当てた。パ。、 ーンと鳴って、燃え穀が は、唱歌の時間に、一緒にハミングで歌いだしたお母さ跳んで落ちた。ほっと息をして、妹が言った。 ん。少女は、以前に住んでいた都会の学校では、そんな突「わたし、今のがいちばん好き」 飛なお母さんは見たことがなかった。 そのとき、塀の外から太い声がした。 そろそろ一年経ち、そこでの生活から少女が新しく見聞「花火をしているのは、ここですか ? 」 きすることがもう尽き果てた頃たった。少女の生活が再び少女は今の大きな音を思い出して、「はい」と言った。 変わることになったのである。そして、今度の変化は、少が、それを待ち構えていたかのように、太い声は言った。 女やその家族だけに訪れたのではなかった。中国との戦争「日本は戦争しているんだそ」 むだ が始まったのであった。 口調まで変ってしまっていた。「花火で火薬を無駄づか 軍隊は敵国の領土に進撃し、勝ち進んでいた。少女たち いして、日本が戦争に負けてもいいのか。絶対、花火はや は、そのわが国の兵隊に恥ずかしくないように一生懸命勉めなさい。それが守れないような子は、日本の子供じゃな 強しなければならないと、先生から言われた。また少女た 守れるかどうか、今度また見に来る」 ・こうき くつおと 潮ちは、同盟国ドイツの子供たちが姆何に強健で、剛毅で、 そこで太い声が靴音に変わり、それが次第に遠退いて往 ち素直で、勤勉であるかということを聞かされ、手本にするった。 ようにと言われた。夏休みに入る日、先生の訓示の中で、 少女たちは悄げてしまった。弟でさえ、「次はこれ」と み やはりそのことが繰り返された。 花火に手を出そうとはしなかった。 うすまきがた なん ある夜、少女たちは庭で花火をしていた。渦巻形の花火「何なの ? 」 が地面に置かれた。渦巻の先にロ 1 ソクの芯みたいなもの と言いながら、母が縁側へ出てきた。子供たちは、そち ぼうし きき しょ とおの

7. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

たまゆら 105 しき 「私は独り者ですし、とても秘書を使うような身分ではあ「あんたは見かけによらず、商売がうまそうじゃないか」 松山は言った。悪気のない調子だった。 りません」 「金に困っていますので、是非とも買って頂きたいからで 「お友達かー っふや 松山は呟くように言った。 「いいですなあ、今の若い人たちには友達という関係があ「そうですかね」 ってね。昔はあなた、女と男との間に、交際というものは今度は松山は疑わしそうに呟いた。自動車は丁度御用邸 めかけ の前の、広い道にさしかかっていた。 なかった。女房とか妾とか、女郎とか、女中とか、とにか 敬子は何気なく、清彦の顔を見た。敏感に感じとって、 くどれも対等なもんじゃありませんでしたからねー 請彦は幾分蒼ざめたように見える面持で、じっと敬子を見 「はあ」 「しかし、今は確かに男女の間にも友情というものがあ返した。それはほんの一瞬の動作だったが、敬子は清彦の まな 無言の訴えに似たものを、その時の彼の眼ざしに読みとっ る」 その言葉には、皮肉やあてこすりの調子はいささかも含た。 二人きりになる時も、二人で誰かに会う時も、敬子にだ まれていなかった。むしろそれは自分に言いきかせている ような言葉だった。それにも拘らず、彼は傍らの女のことけは例外なくいつも弱味を見せたがる清彦であった。普通 しつも の夫婦にせよ、恋人にせよ、人間の自然な気持は、、 は無視していた。 少しでも自分をよく見せようとするところにあるのではな 「土地のお話になりますが」 清彦はこれ以上、この話題が発展するのが迷惑がってい いだろうか。 るように一 = ロった。 それというのも、いし 、ところ、美しいところを愛してく れる人間ならば、世の中には掃いて捨てるほどもいるだろ 「大体のことは、おきき下さったでしようか , 「ああ、ききました。二百坪ちょっと欠けるのでしたな」う。しかし卑小さと弱さを見せ尽しても、なお自分を見捨 「御覧頂けばわかりますが、百九十八坪と登記面では出ててずにいてくれる、ということを確かめたがるところに、 ひとなっ います。もうこれだけの場所はあまり残っていません。一孤独な清彦の人懐っこさが、却ってひしひしと敬子の心に もりと 色から森戸あたり一体はべたべたに家が建ち並んでしまっ も通って来るのである。自分をダメな人間にみせること が、敬子に対する彼の甘えであり、好意のあらわれだと見 ていますし、第一眺望の点でも問題になりません」 ごらんいただ ちょうぼう かかわ かたわ あお かえ つく

8. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

418 くだすったほうが、嬉しいですわ″ あないかしら ? どうもそんな気がする」 浅利は、今度の再婚に当たっても事前に自分の本籍を移「どうして ? 」 すかもしれなかった。則子は、相手がこちらの名前を知ら「判らないけれど。何だか : ・ : ・。今どき、あんな部屋代で しよめい すうずう いなか ないかもしれないと思ったので、 " 死別の妻。と署名した。居坐っているなんて図々しすぎるわよ。やつばり田舎者だ すみ 則子はその用紙を剥がすと、やはりそのまま机の隅に載わね」 のちはど せた。後程、夏のガラス器のケースにでも入れておくつも「しかし、きみがいいというから貸したんだろ」 りだった。それから、その人に宛てて、もうひとっ書きは「そりや、そうだわ。だって、家建てるのにお金が要るん じめた。 ですもの。あなたのお給料だけじゃあ、いつになっても建 " すっかり落ちつかれましたようですね。大変よくしてあたないもの」 げてくだすって、嬉しく思います。ますます、よくしてあ「部屋代くらいで、いくら足しになるんだい ? 」 げてくださいませ。 「なってますとも。そうでもしなけりゃあ、建たないわ。 とたん そう書いた途端、則子はその落ちついた妻と浅利との暮お給料は安いし、あなたは飲むし」 らしぶりを想像した。茶の間は、すっかり手狭に、乱雑に箸を動かしながらテレビを見たまま、今夜は禁酒の浅利 なっていた。二階にサラリーマンの下宿人を置いたので、 が顔をしかめた。が、妻は構わず言った。 浅利の机が降ろされたのだった。その机の上にも、わきに「先月だって、お酒屋さんの払いだけでも、八千円以上な も、何だかいろいろな物が置かれていた。妻の着さしの和のよ」 服の普段着が鴨居から垂れ下がっていた。食卓には、ライ「どうした、それが ! 」 スカレ 1 に大根と黔賊の煮つけという、奇妙な取り合わせ と浅利が妻のほうへ向き直った。それから、ふたりは激 の料理が載っていた。二人はテレビを見ながら、黙って箸しく言い争う。 を動かしている。 しかし、数時間後、寝室で妻は言うだろう。 「この歌手、二階のあの人に似てるわね」 「ね、あなた。ほんとに早くわたしたちの家がほしいわ と妻が言った。浅利は返事をしなかった。また、妻が言ね」 そして、浅利は答えるだろう。 「そうそう、あの人といえば、近いうちに結婚するんじゃ 「まあ、通勤に一時間半くらいまでの土地なら仕方はない うれ てま いすわ

9. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

202 その時、たちの車の脇を一頭の馬がかけ抜けた。馬のの前に車を停めさせられた。今度は西村がす早く針金をほ 上には人間が乗っていた。そしてそいつは馬上からすっとどいてエンジンをストップさせた。 あざや 腕をのばして、牛の鼻づらをとると、鮮かな手さばきで、 それは牧場事務所で、応接間と住宅の部分とに分かれて 牛と肥車を十米ばかり移動させてしまったのだ。 いるらしかった。応接間に通されると西村と俺は黙りこく って窓からうぐいすの声をきいていた。やがてあいつが入 俺はもうその時、これこそ、奴に違いないと直観した。 そして俺は感動していた。奴は本当に西部劇にでて来る男って来ると、あいつも黙って向かいのソフアに腰を下ろし くら た。俺たちはめいめいが、ひとり・ほっちでいながら、そこ のように両手を鞍の前で重ね、斜めに身をかまえて、じっ に合計三人がいることを、きびしく感じた。 とふりかえってこちらをみていた。 「お母さんや、お父さんは元気かね」 西村が車の窓から首を出した。 あいつはやっとこれだけ言 0 た。奴は軋のサンダルをは 「伯父さん、僕です」 奴はもう白髪だった。しかし姿勢はよく、青シャツをききかえている。 「ええ」 て青いジ ーパンを長い脚にはいていた。腰のしつかりした うなず 男だった。彼は頷くと、俺たちに後からついて来るように「今日は ? 」 しり 「ちょっと来たくなったから。これ、友達の尾根です」 合図した。馬の尻が俺の前で揺れ、俺は緊張しながらその 後に続いた。小幡さんが自衛隊の戦車兵だったころ ( 本当俺が何も言わないうちに奴はもう何も言うな、という合 は特車部隊とか言うのだろうけど ) 俺が名前も知らなかっ図をした。 「今、どこに住んでいる ? 」 た総理大臣の前を分列行進した事があったと言っていた。 小幡さんはその時、やつばり緊張したといっていたが、恐西村が尋ねた。 らく今の俺みたいだったんだろう。小幡さんが総理大臣を「ここだよ。僕が管理をしているんだがね」 まっぴら 偉いと思わなくても、そして又、戦争で死ぬことは真平だ「牛は ? 」 と思っていても、それどころか自衛隊は単なる就職ロだと「たった十五頭」 思っていても、そういう時に緊張してしまうことが俺は不「馬は ? 」 思議だった。 「僕が乗ってただけさ。あれは僕の馬だ」 俺たちは間もなく、洋風・ハラックと言いたいような建物「僕たちを今夜泊めてくれないかな」

10. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

たまゆら 病状が悪い方にすすめば、もう何も外界の出来ごとを受「何か、今度は御用事がおありになったの ? 幸子さん」 けつけない生ける屍のようになる。その前に、嘘でもいし 敬子が尋ねると、ふと相手の声が遠のいた。もしもしと から、清彦さんの手紙をもらって姉によませてやりたい。 言うと、向うももしもしと呼び返す。廊下を呼び交してい 姉の臨終の願いだと思って聞き届けてやってほしい、と幸る女中らしい声と表通りを通る自動車の警笛が電話に聞え 子は言ったのである。しかし幸子の言葉を正確に伝えてみる。ラジオの声もまじる。もしもしともう一度敬子が呼ぶ めいりよう たところで、石のように狂ってしまうことは、はたのものと明瞭な幸子の声で、 にはいざ知らず、当人にとっては少しも不幸なことでよよ をオ「うるさいところで、電話がよくききとれなくてすみませ い、と清彦は言うだろう。 ん」 あやま それが清彦なのであった。その後むきの姿勢が、敬子に と謝った。騒音があるにはあるが聞きとれていないこと なっか は懐しかった。 はない会話の受けこたえの呼吸である。 「明日行く、幸子」という電報が突然来たのは、金沢へ行清彦は幸いにも研究所にいた。「それなら折角だから伺 ってから丁度一月ほど経った後であった。朝、会社へ出る いましよう。弥生さんにお見舞のお菓子でもことづけまし さっき と間もなく、先刻東京へ着いたから、と電話がかかって来ようか」ということである。「新月」の場所と約束の時間 て、叔母さんが新橋の駅前で、「新月」という小さな旅館を伝えてから、敬子は思わず言った。 をやっていて、そこに自分も泊ることになっている。町中「いたわってあげて下さいな。幸子さんは、大分気分的に ではあるし、旅館とはいっても、商人宿だから、何の風情も疲れているらしいんですから」 もないけれど、叔母も、幸ちゃんが東京へ出て来たら、一 「あなたはどうなんです」 度お世話になった方々をお招びしてお食事でもさしあげな清彦はきき返した。 さい、と言っているから、明晩でも、清彦さんとお二人で「私はひとを傷つける力もいたわる力もないんです」 おいで頂けないだろうか、と幸子は言った。 清彦は一瞬黙ってから言った。 うかが 「どうもありがとう。私は伺いますわ。吉岡さんにも私か「そうでしよう。僕もいたわることなんか真平です」 らそうお伝えしておきましようか。もっとも東京にいらつ「新月」は退勤時のサラリーマンの喧噪の流れの中にあっ しやるかどうかはわかりませんけれど」 た。玄関にはうち水がされてはいたが、旅館の入口から五 「どうそ、そうお願いします」 十米と離れぬところは道路工事中で、大きなトラックが まちなか