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検索対象: 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集
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1. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

僕も思わない訳じゃないんですが、母と僕は母一人子一人り払っても二東三文にもならぬような骨董ばかり残ってい よせぎざいく いんわん で因縁が深すぎましてね。もう、びっちり寄木細工みたい て、何一つ目新らしい家具や設備もない家だが、あれが残 にお互いが組まれちゃってて、一歩も抜け出せないんでった唯一のめぼしい財産だし、自分がその家にこうしてい もちろん す。勿論、母は僕に結婚をすすめてくれましたし、僕も思るのも、一つには母のような人間と暮すには、どうしても い切って今の生活を変えてみようと思ったこともあるんだ一定の家の広さというものがいるからである。六畳と四畳 けど。いやこんなお話をしてもしようがない。他の方にお半の二間が空中に浮き上ったようなア・ハ 1 トの居住区に、 ただ 話してみてもわかるようなことじゃないし。只一度、折が病的な神経をとがらした二人が押しこめられたら、本当に やじうま あったら、母という人間に会ってみてドさい。弥次馬気分気も狂いかねない。本当は親を捨てて身軽になる事が、自 で」 分を楽にする一番の近道だとは思うし、そうすれば明日に 弥次馬気分で、という時、辛うじて彼は自分の言葉に救も人並みな結婚が出来そうな気がした時もあったけれど、 われたように、ゆとりのある穏かな表情をした。そう言っ どうしても今、たった一人の母と別に住む事は出来ない。 て話をおさめようとしながらも、なお清彦が・ほっり・ほっり いや、住む事は出来るだろうが、絶えず気になって、そん 思い切り悪く語ったところによると な状態では、夫婦が夫婦らしくいられるかどうかもわから 健康で少し鈍感な神経を持った女なら、結婚しても母と 自分との間に極く何気なく割りこんで、母子が目に見えな いっそやの晩、結婚嫌いなどと一口に片づけられてしま いような些細なことで神経をすりへらしている時にも、少ったけれど、あれやこれや考えて、自分には母と二人でこ しも気づかずに平気な顔をしていられるかも知れないが、 うして暮しているのが一番気楽だと思うようになった。他 ひと そんな女には又、自分は憎悪か侮蔑を感じないではいられ人には変人とも思われようが、結婚も母を見送ってからに らないだろうし、さりとて、自分の感情をその儘そっくり感しようと思っている。母から解放されるのは四十になるか ゅじとってしまうような女では、とうていあの母とあの家の五十になるか、それもわからないし、早く解放されたいと ま 中で息をし続ける事は不可能だ。せめて息苦しい、倒れか希う人並みな感情と、そう希うのは卑怯だという思いとが せんたく ナかったような古い家だけでも解体して、洗濯ものが一ばい混とんと雑り合って、今では本当は自分でもどうなりたい ひらひらと風になびいている明かるいア・ハート暮しでもしのかわからない。結局、今のままが一番いいという感じで しゅうちゃく てみたいけれど、母はあの古・ほけた家に執着している。売ある。 かろ ふべっ ねが ひきよう

2. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

家の中は少しも変っていなかった。見なれた茶の間に坐だったという。分譲住宅が当たったのだが、どう掻き集め っていると、妙にあたりがなっかしい。 ても必要な頭金にあと少し足りない。ひどく足りないのな あきら 「あなた、どうしてそんなにお困りになるの ? 」 ら諦めてしまうけれども、ほんの僅かで棄権をするのは残 電話で日出子が予め話しておいた用件に触れて、未亡人念だ。まだ一カ月ほど期間があるから、兄さん、七万円ば かり都合してもらえないだろうか、と煩みに来たのであ がねた。 「余裕がありませんの。そこへ急な人用ができたものでする。 から」 彼等は引き受けた。ケンが弱かった頃にはあの妹にも世 杉野は預金帳類は皆どこかへ預けて行ったのだった。会話になったといっか美女が話したとき、日出子は看護の手 社から支給される留守宅用の費用も、女の独りぐらしには伝いくらいに思っていたが、お金の世話にもなったのだっ これだけあれば、と杉野がぎりぎりに計算してきめた額した。それに、一カ月あれば何とかなるとも彼等は思った。 か使えなくて、残りは彼の名前で定期預金にするようにと せむし男は仕事先を廻っていたようだった。 もっと 命じられている。尤も日出子はそういうことはこの人にも「大丈夫かしら」 明かさない。杉野は臨時費用として五万円だけ渡して行っ と案じる美女に、 た。が、今必要としているお金はそれからは出しにくいの 「心配するな。十日でもう三万円集まっているんだぜ」 です、と彼女は最少限の説明をした。 そう威張っているのを、日出子は見たこともある。 「それ、お兄さんにもおっしゃれないの ? 」 が、日が経つにつれて能率はあがらなくなってきた。 だめ 「ええ」 「駄目なら駄目と早くそう言った方がいいわよ。今だとあ 「そう。まあ、いいわ」 と二万くらい、あちらでまた何とかおできになるかもしれ 場電話で、理由はどうかお訊きにならないでと言ってもあないし」 はうめん るので、未亡人は日出子を放免した。 昨日、外から帰ってきたせむし男に美女は言った。 「まだお若いんですものね。 いつでもよろしいです「もう、三日だけ待て」 劇 その問答を傍で聞いていて、日出子は、自分が何とかで そう言って一万円札を二枚置いた。 きると思う、と言ってしまった。二万円くらい都合ができ この前せむし男のところへ妹が来ていたのは金借のためそうな気が、確かに感じの上ではしたのでもあった。 あらかじ わす

3. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

いっせい それから、中尉が生徒の列だけ向ぎをかえさせて、 一斉にとまった。鳴っているのは、確かに警戒警報ではな はず 「今から約三十分、作業場の整理整頓をする。次の・ヘル 、。十二時までは鳴る筈のない・フザーが、構内中で鳴りだ で、今度は十二時半までに寮の清掃をする。終っても部屋 したのだ。 かぎ さと 何かあったのだ。そう生徒たちが悟りかかったとき、坂の鍵はかけないように。視察官が廻られるから」 と言い、解散を命じた。 本中尉が飛び込んできた。 作業場を整えている間、子供をどうするか、と生徒たち 「作業中止 ! 外へ出て整列せよ」 はつぎつぎに正子のところへささやきに来た。彼女たち そう叫んで、またさっと駈け出した。 はげ は、、ちばん心配しているにちがいない正子を励まし、元 正子はまっさおになった。 気づけ、できればいい方法を思いっき、悪くゆけば皆で度 「知られてしまったんじゃあない ? 」 きよう 早足に庭へ出て行きながら、正子は武子の傍へ寄って、胸を決めようとして、正子と言葉を交わすために、彼女と ささやいた。 一緒にナワの東を運・ほうとしたり、彼女の傍のゴミを掃こ 「そんなことないと思うわ。それだと集められるのは、わうとしたりしに来るのであった。 とだな たしたちだけでしよ。ごらんなさい」 「そう言って、先生の部屋の戸棚に隠してもらったら ? 」 しぼ そう言って武子が指さした方を見ると、なるほどもうひ 正子が・ハケツの傍へ来るのをみると、咲子がもう絞りあ ぞうきん とつの学校の生徒たち、それに一般男女工員の列もできっげていた雑巾をまた水へ沈めて言った。正子は首を振っ つある。 た。今ここへきて、どうして先生にそんなことを頼めるだ が、やがて全員集合の理由が判明するにつれ、正子の膝ろうか。 はまたもや激しく震えだした。 三十分はすぎた。正子は駈け出しながら、子供をかくす 中一同がしんとなると、工場長が現われて、ロを開いた。方法を漁り続けた。 ほんしよう ふとん の「本廠から本日午後、視察官がここへ来られる。今、知ら押し入れの蒲団の向うへ落し込んでおけばどうだろう。 塀せがあった。これから、全構内の整理整頓にかかってもら視察官は部屋の入口からちょっと覗くだけだろうし、少し いたい。なお、今日の昼食は十二時半から。済み次第ここくらい泣いても聞えないのではないだろうか。しかし、そ へ来て、一時五分前のベルが鳴ったときには、必らず整列れには危険もある。あの小さな子供の頭上へ蒲団が落ちか を終っているように : : : 」 かり、圧しつけられてゆく。むし屠い押し入れの奥で、泣 ふる ひさ あさ のそ たの

4. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

がらどなりました。「きみみたいにホの情婦になるやつにはいられないのでした。この日はわたしが負けて、とう わらいだけ とはちがうよ、大した腕前だ、ばばあの娘だけのことはあとう笑茸を食べた子どものように笑いこけてしまいまし るね」 た。こうなると、あとは山賊ごっこに移行するのがおきま 「生意気 ! 」と叫んで、うけとったプラムを一口かじってりでした。つまり、くすぐりあいで負けたほうが身ぐるみ 投げかえすと、の眼に命中しました。「あんたもユカリ 剥がれて縛られて、相手にどんなことでもさせるという遊 が好きなの ? どう ? そんならここであの子のことをおびで、これは小さいときから愛好してきた遊びでした。わ もいながらでもするといいわ、ただし部屋にいれると承たしは厳重に縛りあげられて、散乱した雑誌のうえにころ 知しないから」 がされましたが、おなかがすいたので、の掌のうえの葡 というのは男の子が自分を慰めるためにする儀式のこ萄を食べました。そのとき、「必ばあがみてるらしいよ」 となの、わたしたちのあいだではそう呼んでいますわ。そとがいいました。わたしは、ドアのむこうにばばあがい のとき、プラムのあたった眼をおさえていたがいきなりるかどうかをたしかめる役をにおしつけましたが、は 突離してきたので、わたしは身をかわすと小屋に追いこましりごみするんです。「・ほくはいやだよ、まちがいなくそ れる鶏みたいに腕の翼をばたばたさせて逃げまわりましこにいるんだからな」たしかに、鍵穴のむこうでこちらを た。下からばばあの唸り声がブザーのように聞えてきましのそいている眼と眼をあわせれば、だれでもそっとして震 た、どうやらわたしたちの騷動に気がついて警告を発してえあがるにちがいありませんわ、わたしだってそんなこと いるらしかったのですけれど、そこはわたしたちも心得てはまっぴらです。耳をすましていると、巨大ななめくじの いて、無言の格闘には熟達していたんです。格闘って、つようなものが階段をずりおちていくけはいがしました : まりくすぐりあいのことですわ、お望みならやってみましつまりわたしたちはこうしていつも監視されていたわけで ちょうか ? こんなふうに、くすぐりつこするんです。絶対した。もうがまんできないといきまくのあとについて、 たに笑ってはだめ、笑いだしたほうが負けなんですから。なわたしもばばあの部屋へおりていきました。 蠍にしろ、くすぐりかたにかけてはもわたしも専門家の域「おくさん、さっきはなにをしてたんです ? 」とがいい に達していましたから、相手の手が、いそぎんちゃくの触ました。「あたしや、これから食事ですよ、よかったらあ めじりしわ 手みたいに近づいてくると、それだけでもう死にそうなほんたたちもおあがり」そういうとばばあは鼻と眼尻に皺を どくすぐったくなって、悲鳴をあげながらころげまわらずよせてとても気もちのわるい笑いかたをするのでした。も どう ふる

5. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

ーのポケットから現われた彼女は、浅利でなくて、彼の再 げた。こんなものより先に、早く遺書を作らなくてはいけ けわん ない、と彼女は思わぬでもなかった。・ : カ遺書を作り忘れ婚相手と顔を合わせる懸念は多分にあった。 る筈はなかった。急がなくてもいいであろう。それに、時男で、独り者で、四十になったばかりで、子供もなく、 間が足りなくなれば、結局は浅利への遺書だけでもいいのあんまり出世の見込みはないけれども失業もしていないと だし、それだっていくらでも簡単に済ませることができなれば、お酒の問題はあっても、再婚相手に大して不自由 る。先程から書いているもののほうがどれほど大切かしれはしないだろう。殊に、浅利の場合、すぐにも再婚するに 違いなかった。今度則子に死別すれば一層そうなるわけだ やしない。彼女には、そう思えるのだ。 ″ご出張ですか が、浅利はあんまり女房運のいいほうではない。則子との 則子はそう言って、旅行の中からまた浅利に会う筈だ結婚からして、彼にとっては再婚なのだ。そして、則子の 見るところ、浅利のこれまでの過去と気質からすれば、彼 ″ご苦労さまでございます。ご一緒しましようか、よしまは今度こそいい結婚をしようとカみもしない代り、もう結 たくさん しようか。でも、まあ止しますわ。お留守を護っていたほ婚なんて沢山だと考えそうにも思えないのだ。彼は再婚せ うがいいでしよう。その代り、お出かけのとき、ちょっとずにはいられないというよりは、気軽にすぐまた再婚する わたしのことを思い出してください。そうすると、火や戸ように、則子には思われた。 締りの心配がありませんから。ご無事で行っていらっしゃ 浅利は七、八年前則子と知り合ったばかりの頃から、初 婚の相手のことを隠しはしなかった。短い結婚生活で、日 則子が次に現われるのは浅利が年賀状を書くとき必ず取本趣味を衒っていたというその人と、三、四年前に生別し たと、自身で話した。則子は、その人の年も名も知らな り出す、前年の年賀状のからだった。そして、こう言い 、。彼女が入籍する前に、浅利は自分の本籍を移して新し 時ながら消えるのだった。 くしたのだった。 の″・ーーご幸福な再婚を祈っています。来年からはもうお目 則子は結婚する前から、浅利が離婚後彼女と知り合うま 最にかかりません。さようなら。 しかし、則子はそう書き終えるなり、浅利が今年中再婚で異性と無縁だったとは言えないことを本人から聞いてい しない保証はどこにもないことに気がついたのである。彼た。特定の相手もいたらしかった。則子は、浅利と一緒に しばしば 住むようになってからも、彼の持ち物の中に屡女性用の 女が浴衣の袖から現われる時分は兎も角としても、オ 1 ・ハ はす か ( ん ひと こと

6. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

418 くだすったほうが、嬉しいですわ″ あないかしら ? どうもそんな気がする」 浅利は、今度の再婚に当たっても事前に自分の本籍を移「どうして ? 」 すかもしれなかった。則子は、相手がこちらの名前を知ら「判らないけれど。何だか : ・ : ・。今どき、あんな部屋代で しよめい すうずう いなか ないかもしれないと思ったので、 " 死別の妻。と署名した。居坐っているなんて図々しすぎるわよ。やつばり田舎者だ すみ 則子はその用紙を剥がすと、やはりそのまま机の隅に載わね」 のちはど せた。後程、夏のガラス器のケースにでも入れておくつも「しかし、きみがいいというから貸したんだろ」 りだった。それから、その人に宛てて、もうひとっ書きは「そりや、そうだわ。だって、家建てるのにお金が要るん じめた。 ですもの。あなたのお給料だけじゃあ、いつになっても建 " すっかり落ちつかれましたようですね。大変よくしてあたないもの」 げてくだすって、嬉しく思います。ますます、よくしてあ「部屋代くらいで、いくら足しになるんだい ? 」 げてくださいませ。 「なってますとも。そうでもしなけりゃあ、建たないわ。 とたん そう書いた途端、則子はその落ちついた妻と浅利との暮お給料は安いし、あなたは飲むし」 らしぶりを想像した。茶の間は、すっかり手狭に、乱雑に箸を動かしながらテレビを見たまま、今夜は禁酒の浅利 なっていた。二階にサラリーマンの下宿人を置いたので、 が顔をしかめた。が、妻は構わず言った。 浅利の机が降ろされたのだった。その机の上にも、わきに「先月だって、お酒屋さんの払いだけでも、八千円以上な も、何だかいろいろな物が置かれていた。妻の着さしの和のよ」 服の普段着が鴨居から垂れ下がっていた。食卓には、ライ「どうした、それが ! 」 スカレ 1 に大根と黔賊の煮つけという、奇妙な取り合わせ と浅利が妻のほうへ向き直った。それから、ふたりは激 の料理が載っていた。二人はテレビを見ながら、黙って箸しく言い争う。 を動かしている。 しかし、数時間後、寝室で妻は言うだろう。 「この歌手、二階のあの人に似てるわね」 「ね、あなた。ほんとに早くわたしたちの家がほしいわ と妻が言った。浅利は返事をしなかった。また、妻が言ね」 そして、浅利は答えるだろう。 「そうそう、あの人といえば、近いうちに結婚するんじゃ 「まあ、通勤に一時間半くらいまでの土地なら仕方はない うれ てま いすわ

7. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

一本ふれずに部屋を出て行ったに違いない清彦である。 まわない。只僕も僕なりに、あなたの慰め手になりたい。 ただばくん 只漠然とした悲しみと、不幸な予感のようなものが心のあなたがもし心が弱ったように感じる時があって、そして どこかしらにかくされているようではあった。正式な結婚僕のような者でも傍にいれば、、 しくらか気がまぎれるとい の花嫁の初夜は、こんなけだるいはかなさを感じさせるもうのなら、僕はかけつけて行く。そしてあなたに元気が出 のではあるまい。 て、もう僕などいらないという時になったら、僕は邪魔に 雨は夜中降り続け、時折、海風に吹きつけられてガラスならないように出て行こう。 戸に当る音が、二人のとぎれとぎれの言の間をつづって敬子は頷いていた。彼の言うことが正しいかと思う力も なかったけれど、それを否定する理由もなかった。生きて 自分の、あなたに対する心を恋と言うことにやぶさかで いることすら忘れていたい時が多い自分であった。それな うんぬん はないしかし、もう恋を云々する年でもない、 とあなたはのに将来のことなど、何を考える必要があろう。敬子は清 言うだろうし、あなたの僕に対する気持も、いろいろ複雑彦の肉体を限りなく恐れおののき、しかも限りなくしたわ なものだと思う。只、自分としては、優しく何も言わず僕しいものに思いながら、じっと肩に顔を埋めているだけで の傍にいてくれたことが嬉しいし、何と言っていいかわかあった。 らぬ程感謝している、と清彦は言うのであった。時々、ひ どく淋しくなる時がある。そういう時に、ゆっくり会いた ある 第二章雪あかり いと思ったり、或いは只電話でなりと、二言三言話せば、 心が和らげられる時があったら、そういう時に助けてくれ るだろうか。将来のことを約束しないというあなたの条件 ひきよう らは、それを男として受け入れるのは、、、 し力にも卑怯な話だ ゆと思う。しかし最初に会った時からそうだったように、僕自分のような気持は、もはや恋と言うにはおかしいであ まはあなたによく思 0 てもらおうと努力などしなか 0 た。むろう、とあの夜清彦は言 0 た。恋というものには身をやか しろ、もっとずるく、あなたに自分の弱味を見せつけて来れねばならぬということなのか。そしてその結果、総ての 3 た。そういう意味で、あなたが今この瞬間の友情だけを目不可能を可能にい、可能なことも不可能に思うものなの 標にしておこうと言うのなら、僕はそれを受け入れてもか か。そうとすれば、二人の気持は確かに恋ではない。不可 うれ

8. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

らだら坂だ。 は気まずそうに末席に坐っていて、早々に帰って行った。 その次に西村は三島のほうに新しくできたゴルフ場へ両西村は何遍も、ここかな、あそこかな、と迷っていた みどりかわ 親に連れられて行った時、偶然コースの端っこで汚い作業が、やがてついに翠川牧場というべンキのはげかけた看板 を見つけた。 服を着た男に会った。それが奴だった。西村の観察では、 奴はそれでも西村のおやじの顔をみると懐しそうに近寄っ矢印の通りにそこから細い道を右におれるのだ。大型車 わだち て来たので、おやじの方も二言三言喋ったが、この牛飼いだったらとうてい入らないだろう。二本の車の轍の間に、 が兄だということは、役所の同僚の手前何とも恥ずかしか草がのびのびと繁っている。 ゴルフ場は、牧場と地つづきになるらしい。ゴルフ場に ったらしく、遂に紹介もせずに、奴を赤の他人のようなふ りをして、追っぱらってしまった。それ以来、西村の両親行くには、もう少し先の舗装道路を右折するのだそうだ。 メートル というだけの百米ほどで、俺は車を停めた。 は、いつ、奴と顔を合わせるかわからない、 こえおけ まんなか 理由で、そのゴルフ場には足ぶみをしなかった。 肥桶を満載した牛車が、道の真中にほうり出されてい ふろや それは俺が風呂屋でおやじをさけるために女湯に行ったて、黒い牛が俺たちのほうをふり返って睨んだ。 のと似ていた。世の中に、こんなにも似ている感情がある「くせえなあ」 ことを知って俺はびつくりした。 俺は言った。 「下りて、牛車を動かせや」 俺は新しい車にもすぐ馴れた。富士が西陽を負って、影「いやだ」 西村は首を振った。 絵のように見えていた。 俺は昔の風呂屋のべンキ絵の三保の松原の景色から旅と「牛はこわいんだ」 旅いうものを想像した自分を思い云べた。あれから思うと俺「ちえっ ! 」 の は、自分がたくましくなったのを感じた。俺はもう泣かな俺は舌うちをしたが、実は俺も牛をいじったことがなか て めい。俺はただ空想だけを楽しんだりはしない。それは不潔った。牛だけなら車で追い散らせばいいが、肥車がうまく なことだ。俺は思った通りに殻を破って一歩外へ踏み出し動くかどうかわからない。 つの それに牛の角の角度もいやだった。一本は内側にまがっ て、常に正直に行動するのだ。 こ 芦ノ湖をまたたく間に越えて、三島までの下りは長いだているが、一本はやけに外側にのびている。 から しやペ なっか にら

9. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

「信じていますよ。けれども、だからといって、あっさり 死ねることにはなりませんわね」 「それでも、信じていないよりは、ましでしよう ? 」 かえ 「信じられないほうが、却っていいんじゃあないかしら。 霊魂なんて、本当に無力なものだろうと思いますよ。この 世の人間の精神を感じたり、それに作用することはできて も、肉体や、それから物質は見ることもできないし、関わ ることもできないものだと、私は想っているんです、それ に、精神に対してだって、先方さまの感度が鈍かったり、 あお とらそこ 過敏すぎたりして、蒼いサインを捕え損ねられるとか、意 とかく 死ぬことは兎も角としても、そういう形で死ぬのが運命味を深く取りすぎて誤解されるとかというようなことが始 のりこ いらだ だとしても、突然、ただちにと言われると、則子はどうし終でしよう。苛立たしくて、作用を発する気持も失せてし ても承服できなかった。 まう。こちらで感じる、人間の精神だって、ありがたくな ゅうよ しよせん 「猶予をください」 いものばかりが増えてくる。霊魂なんて所詮、苛立たしさ くや と彼女は願い、そして訊かれた。 と口惜しさの塊りみたいなものでしよう。永久にそんな苦 「覚悟がつくまで待ってほしいというのですか ? 」 しみの塊りにさせられるかと想うと、わたしは死ぬのが一 はす そうこわ 「誰にも死ぬ覚悟なんてつく筈はないでしよう」 層怖いのです。死ねば一切が消え失せると考えることので と彼女は答えた。「殊にわたしは、年とった不治の病人きる人たちを羨みます。ーー」 なんそじゃありません。まだ中年で、体は丈夫で、少くと そこで、彼女は叫んだ。「ああ、本当にいつまでも霊魂 からだ も自分では頭も心も確かです。それに、わたしの躰には、 と肉体とが結合していてほしいこと ! せめて、死んでも 昔の武士とやらの血は一滴だって流れていませんもの。余結合だけはーー」 はどてぎわ おうじようぎわ 程手際よく死なせてくださらないと、格別に往生際はわる その思いは余りに激しく、彼女は猶予を願うことさえ一 と、き いでしようよ」 時忘れたくらいであった。 「霊魂を信じていると言っていましたが : 「とにカく : : : 」 0 最後の時 こと うらや かたま いっさし カカ

10. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

残った前脚が宙を掻ぎ、焼ビルでは髑髏のように、荒廃しねえ」 そして、 た窓が黒々と居並んでいる。その下を疲れた人たちが動い ていた。壊れた石段に腰をおろしたまま、いつまで経って「わたしはこの学校へ来てから、もう二十年になる」 とひとりごとのように言った。 も同じ姿勢でいる男もあった。 「ーー・・そう、昭和のはじめに、ここの生徒がある大学の学 列は少しずっしか進まなかった。学校へ行くには、その 地下鉄を終点まで乗り、そこからまたもうひとっ私鉄に乗生と奈良の都ホテルで心中したことがあるんです。幸い未 らなくてはならない。 遂でしたがね。一「三年前までは、これまでにわたしのい でも、正子は、遂にきた。彼女は一年ぶりに学校のちばん困らされた事件はそれだった。しかし、今のわたし ドをくぐった。 の困り方は・ : : こ ・フザーが鳴りはじめた。鳴り終ると、正子は急いで言っ 教務課へ行って、課長に会った。預ってきた封筒を渡し こ 0 こ 0 「よく判っております。先生はできるだけのことはしてく 「どうです、工場は ? 」 ださっております」 訊かれて、正子は返事に困った。 がらんとした校舎にかすかにざわめきが伝わり、一年生 「皆さん、元気ですか ? 」 自分たちのためにこの報告当番の制度をかちとってくれであろう、ひとりの生徒が入ってきて、課長に何か言いか た課長に皆がどれほど感謝しているか、どれほどその日をけた。 楽しみにしているかということを、正子は今、告げたくて大学生と心中ーーと正子は考える。わたしたちがあれほ ならないのだ。が、その気持は強くなりすぎた。彼女は一どしがみついている生命を平気で投げだして、奈良の都ホ 懸いたく テルでーー何んという贅沢な、思いきった、華やいだ、昭 気にこう言わずにはいられなかった。 「皆、学校へ帰りたがっています。来年九月の卒業まで、 和のはじめの事件であろうか。 授業はもう二度とないのだろうかと言っています」 生徒が出て行った。 「そうでしような」 「あの人たちも、間もなくいなくなる。やつばり四カ月通 課長は、正子に椅子をすすめてから、 学したぎりでね。火薬工場です。ほかの工場にしてもらお 「わたしたちも何とかしてあげたいと思っているんですがうと思って、いろいろやってみたんですが、とうとうそん こわ どくろ わか