持っ - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集
334件見つかりました。

1. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

吉岡家を訪ねるために敬子が家を出たのは、それから五 けがましい。それは、みだらな感じさえするのだった。 敬子は銀座を歩き、結局、裏通りで高さ二十糎ばかりの日目、雨あがりのうすぐらい土曜の午後であった。 まで ただ つに 吉岡家は静まりかえっていた。只、今迄のばし放題だっ 壺を見つけた。 「これはどこの焼きもの ? 」 た庭に、植木屋を入れたらしく、庭木が放心したように空 * おんたやき の明かるさを受け入れている。見ようによっては、それは 「小鹿田焼と申します」 店員の説明によると、それは九州の大分地方の農民が農いたいたしい変化だった。 そぼく 日本風の門のくぐりを通って、払い残した蜘蛛の巣が一 閑期に焼く素朴な陶器であった。 「ですからこれとこれと二つは同じように見えますけれつ、吹きこんだ雨の玉を光らせている玄関で呼鈴をおそう ど、何しろ手作りですし、釜の火加減その他で決して同じとすると、背後で、 「どなた」 ものはやけないんでございます」 とかすれたような、それでいて女のなまなましいしぶと そう言われてみると並んだ二つの壺は同じように茶がか った素肬をもち、その上に川底の水草のような深い青磁がさとなまめかしさを匂わせたきき覚えのある声がする。ふ り返ると空高く、点々と白い鳥をとまらせたように花を咲 かっているところは同じだが、一つ一つ人間の顔のように たいざんぼく はなばさみ かせた大きな泰山木の下で、吉岡夫人が花鋏を手にじっと どこかしら違っている。二つと同じようにやけない壺は、 二度とくりかえしのきかぬ人間の運命を、素朴に暗示してこちらを見ながら立っていた。 「図師でございます。おくれましたが、明日のお祝いを申 いるようでもあった。 しあげに」 一つを祝いに、もう一つを自分の部屋におくつもりで、 と言うと、花鋏をかちやかちゃと鳴らしながら、 敬子は遺骨箱そっくりのサイズの包二つをかかえて店を出 」ていちょう ら 「まあ、それは御鄭重に恐れいります。清彦も今日は身の ゅ まわりの片づけものをして、家におりますのよ」 敬子は壺というものが好きだった。素朴な壺は働いてい てのひら と言いながら、 たる農婦の掌のように悪気のない温かさを感じさせた。この 壺に花をさすとすれば白い花だった。赤い花をさすと、壺「多美 ! 多美 ! 」 と女中を呼ぶ。 四は当惑しそうだった。まかりまちがっても、赤いカ 1 ネー ションなどは生けてはいけない壺である。 出て来たのは、いっぞやの痴のような娘で、いらっし こ 0 おおいた

2. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

「いや、ここは僕んちなんだ。ちょっと待っててよ、今す俺は少し気分を害した。俺はそんなことを一言だって頼 みはしないのに、こいつは何か着々と事を運んでいる。俺 ぐ戻ってくるから」 はそれが気にくわなかったが、強いて言い争いをするほど 俺はこういう家を何度か外側から見たことはあったが、 実際にそこに住んでいる奴と知り合いになったことはなのことでもないので黙っていた。 。それは大きな古い西洋風の家で、門の間近のうっそう「西村っていうのか」 しげ と繁った木が道路にまで枝をさし伸ばしていた。そのため奴が車を出した時、俺は尋ねた。奴は頷いた。 おやじ にーーということもないのだろうけれどーー家全体が何と「兼三つてのは親爺か」 なくじめじめした感じだった。それは多分桜で、毛虫が落「うん」 「うるせえ犬だな」 ちるだろうと思うと俺はいっそういやな気がした。 塀の中から一匹の犬がきゃんきゃん奴に向かって吠えた殺しちまえばいいのに、と言おうとして俺は黙った。 : しちまえばいいのに、というのはいやな言葉だ。理 てていた。それは番犬の声ではなく、甘やかされた犬の、 由はないが根性の汚い言葉だと思う。やるなら自分でやれ 胸がわるくなるような横暴ななき声だった。 ーししカらだ 0 西村兼三、と俺は表札を読んだ。 俺はしばらく待っているうちにふとばからしくなった。 「俺は、尾根っていうんだ」 こんな家に住んでいて、何で俺と一緒に行こうなどと思う「学生 ? 」 のだろう。 俺は笑った。 俺がおもむろに運転席に移ってひとりででかけようとし「無職さ。さっきから」 た時だった。玄関の戸がばたりと閉まる音がして、灰色の俺はさっき俺の勤めている工場の会計から勿体ぶって、 包を二つ持った奴が現われた。大がもう一度塀の向こうで給料を渡された時のことを思い出した。会計のじいさん は、説教好きの男だった。俺に、給料をもらったら、それ て走りまわりながら、なきたてた。 め「行くか」 を神棚にあげて、少なくとも翌朝までは手をつけぬものだ のぞ などとぬかした。俺はこんなケチな給料には不平こそあ 奴は俺を覗きこみながら包を後ろの座席に投げこんだ。 「寝袋を二つ持って来た。どこで泊まらなきゃいけないかれ、感謝する筋合は全くないと言ってやった。一万二千 円 ! 一カ月働いてようやくもらった金だ。だけど、俺は わからないから」 たぶん かみだな うなす もったい

3. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

高船冾 / イ のか すくまった鳥の首から胸にかけての優しい柔わらかな もっ 丸味や、鳥の形状の全体が持つ小宇宙性には、ある種 のな 時昔 の猫に感じるのと同質の興奮と美というにはもっと痛 当。照 る参切な痛みとして走りぬけるふるえを感じるのである それは丸味をおびたもの、ある種のわたしの感覚の湾 あっち曲面の型にびったりとはまり込む種類の微妙な曲線を ~ 、かなみ 描く物体に対してもいえることだ。桂浜の水族館で見 生所 たカモメと。ヘリカンに比べれば、飛行機の機体の持っ の材る 氏製 丸味はわたしの好みではない。それより船である。船 子はて 恵でしは実際のところ、球体に通する形態を持っているわけ 多在存ではないけれど、船体の微かな曲面、船尾部分の巨き 野現現 河。れな丸味をおびたそれや、形態の持っ曲線には、まるで ーしカ ンス・ヴェルメールのデッサンのように心をそそる りなぬ 亠ま 十′し ものがある あはを のて火 それはさておき、関東の人間にはわけもない関西嫌 いというのがあって、実はわたしもその一人であった。 近しけ これはまったくわけのわからないことで、ただもう何 付失 のよ、つなも 堀焼庫かなんでも嫌いだという一種のヒステリー 頓で倉のであり、うすロ醤油から長襦襷の仕立て方からお茶 道災の 西戦蔵漬のことをぶぶ漬というのから関西出身の人間まで嫌 区い冷 いだというわけで、しかし、関西方面には神戸へ二度 西当」船 「宝行「たことがあるだけで、大阪は空港と万博会場の一 阪 大はし部と高速道路しか知っているわけではなかったのだっ 4 わん

4. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

356 い図星となった。 しめしあわせておいて、それこそ塀越しに手渡したってい 折柄、 いんだし。お母さんなら口止めだってできるでしようよ。 「でも、絶対に出す道がないわけでもないんだわ」 迷い子を預ってもらっていたとわかれば、そりや感謝する そう言って、武子がその方法を述べはじめたので、予めわよ。わたしたちの迷惑するようなこと、洩らすものです それを聞かされ、よろしくなどと言ってある正子はいよ か」 もっと いよ顔があげられない。尤も、そんな彼女の様子は、武子「でも、お母さん、もう警察へ届けているかもしれないわ から冒頭でその手落ちを指摘されたのを気に病んでのことね」 ひとりが、言った。 と、皆には見えたかもしれなかった。 「明後日が月曜でしよ。園田さんが学校へ報告書持って行今まで夢中でしゃべっていた武子は、ちょっとどぎまぎ した。そのことは、全然考えていなかったらしいのだ。 くんでしよ」 美智子はその場にはいなかった。 「それならそれで、すぐ連絡して渡せばいいでしよう」 「わたしが、あとで頼むわよ、警察へ届けを出してもらう武子は、やっと答えた。 で、美智子の報告でそれがまだだったことがわかると、 ように。すぐ隣の駅ですもの」 武子はうきうきした。 「警察がここへ来ないかしら ? 」 ひとりが、言った。 「ね、お母さん、やつばり届けていなかったでしよ。焼け 「シン坊がここにいるなんて、そんな届け方はしないのだされて、とし児の赤ちゃんまで連れているんじゃあ、そ よ。こういう子供を探している人は連絡してくださいっ うテキパキとは動けないわよ。 いろいろありがとう」 せつかく て、わたしの家の住所を書いておくだけ」 「ごめんなさい。折角のあなたの時間を使わせて」 そうして、武子は、自分の家へ手紙を出しておこうとい と正子も言った。 うのだった。スガオ・シンイチという子供のことで、人な「ところで、シン坊は ? 」 り、手紙なりが行くかもしれないが、直接連絡させてはい 美智子が訊く。 けない。家から自分に知らせるように 。その手紙を出「ほかの人たちと遊んでいるの」 すのも美智子に頼む、と彼女は言った。 「ふうん。まだ四日目なのに、あの子、すっかりここに馴 「お母さんに子供を渡すのは、わけはないでしよ。時間をれちゃったじゃあない」 おりから や あらかじ

5. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

そんな風な関係になれば、し 、くらか吉岡氏と会いに行くき「宮本夫人って人は、葉山の土地に、ひどく愛着を持って つかけも、おおっぴらになるのではないかと、女らしい思 いたらしいんです。だから父に手放す時は、やはり随分辛 慮を働かしてのことであろう。 かったんでしよう。父もその時、彼女を慰めるために、い とにかくそういう状態であったから、吉岡夫人も清彦まにお宅のお嬢さんと、うちの清彦が愛し合って結婚する も、吉岡氏の死の直前まで、葉山に王地があることなどは ようにでもなれば、この土地は又両方の家のものになりま 知らされなかった。 すよ、と言ったそうです」 「昨夜も母が言ってましたよ。父がもう少しこういう道楽「お嬢さんがいらしたの ? 」 たくさん をして、もっと沢山ましなものを残して行ってくれればよ「ええ、僕より三つ歳下の綺麗な娘がいたんです。僕も何 も知らずに二、三回彼女と遊んだことがあったな。眼がや かったのに、って」 敬子には、それを言った時の吉岡夫人の態度が目に見えたらに大きくて、ひどく疑い深い娘でしてね。いつも僕は るようであった。 何となく彼女に監視されてるような気がした」 そうちょう 彼女はそれをやや荘重に皮肉めかして言ったに違いなか清彦は笑った。 った。吉岡氏が生きていたなら決して許そうとしなかった「どうなさって ? そのお嬢さん」 はす 筈のさまざまの情事も、当人が死んでしまった今は、もは「一生、病の患者の世話をしてすごす、って瀬戸内海の や何の意味ももたない。それよりも吉岡夫人の情熱が未だ長島のようなところへ入ってしまいました」 うなす に覚めない対象は、物であり、金であった。 敬子は頷いた。驚くよりも、その女の気持が胸にしみて 東京の家の敷地は、もと五百坪ほどあったのを、終戦後わかった。 間もなく三分の二以上を売ってしまったというから、他に「最後に会ったのは多分、僕が兵隊に行く直前だったと思 もちろん ら もそういうふうにして処分した不動産もあっただろうし、 います。勿論、何気なく別れました。後から思うと、既に ゅ まだ葉山あたりにそうして遊んでいる上地があるときくその時、彼女は自分の母親と僕の父とのことを知っていた と、古河に水絶えぬという言葉そのままの豊かさに、敬子んでしよう。二人の親たちが期待していたように愛情が芽 た これは僕の臆測かもしれないけ はむしろ驚く位だった。そして案外、清彦は不動産を売るばえるどころじゃあない。 ことには馴れているのかもしれない、と敬は思いなおしれど、彼女が世の中に背を向けてしまったのには、多分に 僕の父のことがあったと思うんです。自分の母親の不貞は た。むしろ是非そうあってもらいたい気持だった。 らいびよう ひと

6. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

倉橋由美子文学紀行 金井美恵子 幻の土地をもとめて して、ありありと総天然色のペラベラした映像を結ぶ。 《旅》の魅惑 さて、それでは小説を読むという行為もまた、古い 記憶の土地への彷徨なのではなかったか。小説を成立 のつけから打ち明け話をするつもりではないが、ど させる二つの行為、すなわち書くことと読むことを、 ちらかというとわたしは旅行嫌いであり、《旅》をそ旅になぞらえてみるていのレトリ ックは、それ自体と の作品の持つ重要なモチベーションとした小説を書いしてはとりたてて新しいものでもないのだけれど、旅 たことはあるけれど、それはいわば常に時間を逆行すにはどこか心をそそる魅惑が隠されており、倉橋由美 る記憶の不可視の空間を踏破して行くていのものであ子の小説もまたその《旅》の魅惑と無関係に成立して った。だから、実際に旅立っ必要はわたしの内に見出 いるわけではないのである。言うまでもなく彼女には すことは出来ない。 マルセル・プルーストの真似をし「暗い旅』という小説があり、この小説はいわば《旅》 ていえば、貝殼型のプティット・ マドレーヌを紅茶にの持っ性格をかなり的確に透き写しにしたうえに成立 ひたすあの瞬間、思い出そうとしても思い出せなかっ している小説なのだが、あえて言えば、もし《旅》と た幼時の記がありありとよみがえ 0 て来るあの瞬間書く行為を一種のアナロジイというか、この二つの行 にも似て、安あがりにもわたしの心は旅立つ。そのた 為の中に本質的なレミニッサンスをかぎとろうとする めにはたとえば立日楽があればよ い。幻の古い記憶の土のであれば、わたしたちは倉橋由美子の作品の中に、 地は、その時、書くという行為の虚しい情熱の地図と《旅》の持っ最大の秘密を見出すのは、かならすしも

7. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

「そういう人だから、別に改まってお礼なんか言わなくて私は深く頷いた。フォースター氏が、・ハー ハラになぜ好 毬もいいのよ」 意を持っているかという理由の半分くらいは理解できたよ などと、彼女は不思議な理論を持ち出すのだった。 うな気がした。二人は、いわば同郷の出なのであった。 しかしコロレヴばかりではなく、フォースター氏は、私「もしあなたが、本当にラムジーにいらっしやるなら、私 からお願いを一つしてもいいかしら」 に、弟が代りに経営の面倒を見てくれているという、メル ポルンの近くのラムジーの自分の農場へも是非行って見る「どうそ」 ようにすすめてくれたのだった。 私は期待に満ちて、・ハー ・ハラ・フォースターの顔を見つ たば 出発の数日前になって、私は、フォースター氏から一束めた。 「小さなものを一つ持って行って頂きたいんです。そし ぐらいはある轡の紹介状を貰いに彼のオフィスを訪ねた。 するとフォースター氏はたった今、急用ができて、やむをて、ラムジーの町はずれの或る所に、それを届けて頂きた いんです」 得ずでかけたが、紹介状はできていて、代りに・ハー・ハラ・ フォースターが、例の力士の手形が飾ってあるポスの部屋彼女はそう言うと、ちょっと待っていて、という合図を たく で、私を待っていてくれるということであった。 しながら、私に託すものを取りにドアの外へ出て行った。 「ラムジ 1 へいらっしやるんですって ? 」 間もなく彼女は、手に白い封筒を持って戻って来たが、 つりがねがた 柔らかく、底ぬけに温かい握手の感触もまだぬけないう柔らかい薄紙がひらかれると、中から三輪の紫色の釣鐘型 ちに、ソフアに腰を下ろすと、 ・ハラ・フォースタ 1 はの押し花が現われた。 ききよう 私に言った。 「桔梗かしら」 「フォースターさんがすすめて下さいましたから」 「岩桔梗なんですって。ふつうの桔梗と違って、岩の間に 「小宇宙のようなところなの。大都会ではありませんけど生える高山植物らしいわ」 ね。人間の心を受けとめるに必要なものは何でもあるわ」 松本雪子が傍からロをそえた。 私は正直なところ、彼女の言葉の持つ意味がよくわから ・ハラ・フォースターは、この花を、その前の年の たてしな なかった。 夏、蓼科の友人の山荘の庭で見つけたのだった。高山植物 「よく、ご存じなんですか」 は保護しなければいけないと聞いている。しかし友人は、 「私たかは、あそこで育ったんです」 快く、その花を掫んでくれたのであ「た。

8. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

108 「ありますよ。労組の規約はずいぶん立派なのが早々に出世話で貰ったですよ。私がやった結納は、あんた、たった 来ましてね。あちこちの会社の参考になった位です。しかの三十円です。それもまあ、無理してもやった方がいいだ ろうと言われて借金しましたよ。しかし家内はよく出来た し実際はあってないに等しい」 「はあ」 女でね。今までただの一言だって、貧乏をこ・ほしたことは ないな。金に不自由せんようになっても、まだ化粧品一つ 松山は真面目な表情をくずさず、清彦もにこりともしな っこ 0 買わないらしい。私はどんなに若い妾があったって、子供 カ一事 / 達の母さんだから、大切にして尊敬を払ってますよ。四カ 「奥さんがお二人とは、しかしお羨しいことです」 ラットもあるダイヤの指輪も買ってやったし、したい放題 清彦は皮肉ではなく、淡々とした口調で言った。妾とは いっても、まだ若い女のいる前で、そのいい方は冷酷であにさしてますしね」 っこ 0 「はあー ぼんくれ 「一番目の家内は私より年上で、この二番目の家内の光子「これもよく気のつくたちでね。盆暮には家内の顔をた あいさっ てて、ちゃんと挨拶に来ますよ」 は二十六ですよ」 「はあ」 「はあ、それは」 「二十六で年は若いが、苦労して来た娘でしてね。まめま「思えば、私は随分幸運な人間だな」 松山はしょ・ほしょ・ほとした眼をしばたたきながら、素直 めしく私に仕えとるですよ。私がせめてあんた位の男前だ に自分の言葉に感動しているように言った。 と、これもどんなにか幸福だろうと思うのだが、若い頼り 「私はこれで、殆んど人生でしたい放題のことをして来 ない男など魅力ないと言うもんですからね」 た。妾ももったし、山の別荘、これで又海の別荘。竸馬馬 「全くです」 * さっきしよう世きはい 清彦は徴笑しながらつけ加えた。妾の方はさしうつむいも二頭持ってます。一頭は皐月賞に惜敗したが、二頭とも ていた。 地方レースでは成績をあげてる。そのうちに代議士に一ペ 「二人の奥さんを、そうやってうまく統御していらっしゃんうって出て、外国へ旅行すれば、それでもう充分だな」 かす 清彦の顔が微かに赤くなった。 って、家庭内に風波もないというのは大したお腕前です」 「僕はそういうお話をきくと、羨しさに胸が痛くなりま 清彦は話を楽しんでいるようだった。 「年上の家内は、私が職工だった頃に、近所の駄菓子屋のす」 まじめ うらやま めかけ ゆいのう

9. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

たまゆら 111 外ならいつでもいいものだ」 よ」 「そうね」 「そうでしようか」 自分が彼の心の風景から消え去って行くのはいつだろ「もっとも幸子さんから僕にひどい手紙が来ました。あの う、と敬子は思った。もう、本来ならば消えているかもし二人の姉妹は、何か途方もない勘違いをしているらしい。 れない時期であった。 僕のことを諦めて、弥生さんは泣く泣く、好きでもない相 只、自分が、清彦を怨みも諦めもしないところに、その手のところへ嫁った、というんです。あなたを連れて加賀 にじ かす 風景はまるで消えかけた虹の命のように、微かに、ほそ・ほ屋へ行ったことを、何か向うでは、特別な意味を持ってい そと続いているとしか思えなかった。 るように思っているんだろうか」 しゅうち 「お金、どうなさる ? 」 清彦は疑わしそうに敬子の顔を見た。それは当惑と羞恥 「食べてしまいます」 をかくすための下手な芝居だった。それは只そう言わなけ 清彦は微笑した。 れば落ちつきが悪いだけで、強いて答えなければならない 「食べればなくなるわ ? 」 何の理由もないものだった。 「さあ、そうなったらどうするかな。死んでしまうかな」 「幸子さんはどうですの ? 」 ぎわ 一匹の犬が波打際に走り出ると、しきりに遠い海面に向「彼女はあくまで僕を諦めないそうです。僕と結婚する気 かって吠えたてた。 はないけれど、僕が誰か他のひとと結婚して、不幸になる 「そうそう。お手紙の中に話したいことがあるっておっしのを見届けるまでひとりでいるそうです」 やってましたわね」 清彦は淋しそうに苦笑いした。 清彦はちょっと思いっかないといった風情だったが、 「それもいいですわね」 「ええ、大したことじゃないけれど、加賀屋の弥生さんが「敬子さん」 結婚したそうです」 タ・ハコに火をつけようとしていた清彦は、突然、敬子の 「そうでしたの ? 誰と」 方に向きなおった。 つくりざかやむすこ 「造酒屋の息子だそうです。京大の経済を出た」 「あなたはどうですか。僕が他の女と結婚すると言った 「よく決心していらしたわね」 ら、やつばり僕が不幸になるのを見ていてくれるつもりで ひと 「あの人は優しい女だから、どこへ いっても愛されますすか」 さび

10. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

196 た。新しい派手なシャツを買って着て町を歩いてみたこと一一万円台にあがるまでの年数を計算してみた。それはもち はかな ろん、あの工場がつぶれないという前提のもとに立ってで もあったが、おれは儚くて、すぐアパ トへ逃げ帰った。 考えることも、読むものもきれぎれだった。学校で、総理ある。二万円とるようになったら、おふくろは食費のとり 大臣の名前を知らないと言 0 て怒られた時も、は微笑をたてを六千円にふやすだけの話だろう。 泛べるだけの心の余裕を持っていた。あと一、二カ月で俺俺はそれを思うと、体がだるくなるばかりだった。働い うえじ ていれば飢死にもせず、一生芽を吹きもしないという変な は勤めに行くのだ。総理大臣なんか : : : と思った。 * なっせん 小幡さんの世話をしてくれたのは、ビニールの捺染をす安定感が恐ろしかった。俺は、こんなに体がだるくなかっ たら、競輪の選手になれたかも知れない。何万人の観衆の る工場だった。日給で、月に手どりは一万円ちょっとにな った。おふくろが、 注目を浴び、一秒一秒に生命をかけ、金をもうけ、そして 「うちへ入れる食費は三千円でいいよ」 或る日、転倒して頭をうって死んでしまうのだ。痛くも辛 と言ったので俺は腹がたった。俺は今までだってただでくもない。それでさつばり人生を終わるのだ。 食っていたのだから、千円かそこら入れてもおふくろは大しかし現実の俺の生活は一向にさつばりしていなかっ 変たすかるだろうと思いこんでいたのだ。 た。それでも俺は、今朝までとにかく半分息がつまりそう 俺は一年ぐらいの間はそれでも七千円の自由になる金のな暮らしに耐えて来た。それなのに、今日が給料日だと思 魅力につかれて暮らした。体がだるくて、時々何もかもい った瞬間に、俺は何もかもばからしくなったのだ。どうし やになるほか、大して辛いとは思わなかった。俺は、あまてだかーーそんなことは俺にもわかりやしない。 り体がひどくないように仕事の能率を落とすことと、酒を のむことを覚えた。 横浜の洋品屋で、タオルと海水パンツを買い、俺たちは しょちょう 末の嘉子に初潮があった。俺は何となく、それがわかっ江の島に向かった。西村はよく道を知っていた。車は快調 ・こっこ 0 た。おふくろは退屈を知らない女だった。毎日二時になる と、決まって風呂屋に行くらしかった。それは儀式のよう「始終来るのか ? 」 なものだったし、俺と違っておふくろは、体を洗うという と俺はねた。 ようなことにまで情熱をもっていた。 「家中でゴルフをするから」 俺は時々何年か先のことを考えた。収入が一万円台から江の島の水は冷たかった。 っと ふろや