正子 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集
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1. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

まどわく 三分の二ほどの高さまで、その樽でふさがれている。窓枠「だから、おとなしくひとりで遊んでいるのよ。さ、行き にの・ほらなければ、男だって覗き込むことはできないし、 ましよ。積み木も持ってあげる」 そこへの出入りも、樽の周囲が大きく張り出しているの 正子が積み木をかかえると、武子が子供を抱いてあとか よそ で、他所からは見えないだろう。 ら続いた。急がせて、子供を怯えさせてはならない 、と正 用をすませた子供に、正子はできるだけ落ちついて言っ子はなるべくゆっくり歩こうとする。が、足は自然に速く こ 0 なるのだ。 「あのね。ここ、これからお掃除するの。 いつものお掃除「来たわよ、来たわよ」 じゃあなくて、大掃除を : : : 」 同じその二階にある角部屋へ駈け込むと、そこで待って 「ふうん」 いた生徒たちが言った。準備を進めていたらしく、非常用 「だから、シン坊、そのあいだ面白いところへ連れて行っのなわ子の金具が、窓に接した酒樽の縁からのそいてい てあげるわ」 る 0 「おばちゃんも一緒 ? 」 太く張り出したタガを足場にして、正子は樽の中を見お 子供が不安な顔をして訊く。何か感づいているな、と正ろした。底はびつくりするほど広く、深く、そこへとなわ 子は懸命に続けた。 梯子が長々と垂れている。彼女は言った。 こわ 「鹿ね。おばちゃんもお姉ちゃんと一緒にお掃除するん「駄目。さきに、誰かはいって。怖がるから」 じゃあないの。それから、またいつものお仕事があるでしすぐ三人ばかり、樽の向うへ消えて行った。 よう。でも、お休み時間になったら、じき迎えに行くわ。 「さあ、シン坊も行きましよう」 うなが このお家のすぐお隣だもの」 皆が促す。 中後ろで、正子を突っついて、早くするように言ってい 「ご飯どうするの ? 」 のる。武子が助けた。 子供が訊く。 「シン坊。樽のおうちょ。ね、面白いでしよう。シン坊、 「あるわよ、あるわよ」 塀 うさぎか、リスみたいでしよ」 ひとりが押し入れにとびつき、頭を突っ込み、すぐ聽っ しいも 「うん」 て、「ほら、これ」と乾芋を四、五本握らせた。 一同、ほっとした。 「わたしが抱いて行くわ」 のそ おもしろ おび

2. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

正子はハンカチを出して乾芋を包んでやりながら、 正子は子供を引ぎ寄せた。 訂「それがいいわ。おばちゃんがいい」 「お休み時間になったら、すぐ来るわ。だから、お利口に しているのよ」 皆、忙しく笑った。 さかだるふち と言って、子供の様子をイた。 正子は酒樽の縁を乗り越え、両手でそこをみながら、 なわ梯子に足をかけると、言った。 子供は後ろ手に、樽の裾を片手で擦って歩ぎながら、こ 「さあ、シン坊をちょうだい」 んなところへ連れて来られたことを喜んでいいのか、悲し りようて んでいいのか、定めかねている風だった。その間に、正子 抱かれてきた子供の両掌には乾芋が握られている。 はさりげなく梯子に手をかけた。皆もそれにならった。 「あ、それはあとで。積み木と一緒にあとで」 正子は乾芋を取りあげさせ、片腕をさしだしたが、そこ部屋へ移ろうとして、正子は下を見た。子供はこちらを へ子供の重みがきたとき、彼女のもう片方の腕はビンと張見上げたつもりらしい。が、その視線は樽の中ほどまでに しか届いていなかった。広い、深い酒樽の底で、その子の り、酒樽の縁を攤んだ掌まで開きかかった。 「ちょっと取ってよ」 姿は如何にも小さく、頼りなさそうに見えた。 あ攴 「あの酒樽、アルコールがまだ発散してるんじゃあないか 正子は喘いだ。子供は引きあげられた。 しら」 「とても重くて。背負うわ」 正子は不安そうに言った。 正子は窓の方へ、頭から背中をさしのべた。 「シン坊が中毒するって ? とんでもない」 「しつかり、つかまるのよ」 と武子が言った。 彼女は背中の重みへ言った。 さら さあ、掃除掃除。 「カラカラに晒されきっているわ。 「危つかしいわね。今、縛るから、そのまま」 あと十一分しかない」 と上ではいう。 正子の眼の下から、酒樽の底が次第にせりあがってき最後の生徒が、酒樽の縁からこちらへ飛び込んだ。忽ち なわ梯子が手繰りあげられ、流れ込むような速さで部屋へ た。さあ、降りた。底にいた三人の生徒が子供を取ってく 移ってきた。正子はもう一度子供の様子を見ようとして、 れた。 まどわく それぞれの胸に、乾芋と積み木を片手でかかえた生徒が窓枠に足をかけた。と、後ろから引き戻されてしまった。 ふたり、続いて降りてきた。 ばし・こ すそ こす たちま

3. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

けるわよ」 子供が来てから、もう二十日あまりになる。その間、武 最後のこんにやくを頬張って、それでようやく食事を終子は家からの手紙を二度受け取っていた。が、最初の手紙 えた子供の前から、武子が食器を引き寄せた。取りあげた には、そういう人はまだこないけれど承知しました、とあ 箸と一緒に洗いに立った。 り、二度目には何にも触れてはなかったのだ。 「お風呂、ちょっと待ってね」 「何だか心配になってきたわ」 正子は最後の糸を切って、子供を迎えにきている生徒た戻ってきた武子に、正子は言った。 ちに言った。 「シン坊のお母さん、どうかしたんじゃあないかしら」 「シン坊。これを着てごらんなさいな」 「そんなことないと思うけれど」 タオルの洋服に着せ替えて、 子供の食器をしまうと、武子は正子の傍へ坐りにきた。 「どう、おかしい ? 」 「あの配給のときにはいたわけですもの。少くともあの空 正子は子供をその生徒たちの方へ押しだした。 襲では死んではいないでしよう」 「そうねえ。ちょっとかみしもみたいだわ。ね、肩がビン 「でも、その後に : ・ 。いいえ、そうではなくても、あの となっていて。そう思わない ? 」 届けに気がっかないとか、気はついても何かわけがあると ひとりが言う。 かして、いつまでも迎えに来なかったら ? 」 「この肩のところ、少し落せば ? こういうふうに : ・ : こ 「いつまでも置いてやりましようよ。そのうち梅雨がすぎ 別のひとりが、角ばったタオルの肩先を倒して言った。 るわ。ここも空襲されるでしよ。工場だから、恐らく爆弾 「そういうことだわね」 でね。シン坊もわたしたちも、皆死んでしまう。それでお しまいよ」 正子は頷いて、それを脱がせた。裸になった、子供の小 たた 中さな背中をポンと叩いて言った。 武子は大きくでた。彼女はそれによって、正子のさしあ の「そのままでいいわ。いっていらっしゃい」 たりの心配を吹きとばそうとしたにちがいない。が、その 「行かない ? 」 仮定はあまりに実現の可能性がありすぎ、暗くありすぎ たちま 正子にそういい置いて、咲子たちも後を追った。 た。正子はさっと怯え、武子も忽ち感染した。 正子は、子供の温さの移っている、手拭の服の肩を斜め 二人は押し黙った。稍々あって、 に縫いながら、武子の戻るのを待っていた。 「ごめんなさいね、変なこといって」 におば おひ

4. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

ながら、四角い空かんに入れた可をっている女がい て待ちかまえている、あの工場ではないのだ。出発なのだ。 家と学校へ向って、いよいよ出発するのだ。正子は、自分た。正子は、通りすがりに訊いてみた。 かたて だけ肩から掛けている防空袋を片手で押えた。そこには朝「この辺に以前スガオさんというお宅がありましたでしょ 食後、動員係室で受け取った、報告書と外出許可証が昼食うか ? 男のお子さん、それにとし児の赤ちゃんのある すで 用の乾パンの袋と一緒に既に入っている。彼女は袋の垂れ おりから きよめいぎよじ 蓋を握りしめて、力強く、最後の " 御名御璽 ~ を唱え終え折柄、女の眼を煙が掠めたらしかった。女は片手で大豆 を煎りつづけ、一方の手を眼に当てて、正子の方は見ない 列が動きはじめた。坂本中尉や教授たちは立ち去ろうとで答えた。 していた。正子は列外へ一歩踏み出して、待った。列は動「知りませんですよ」 正子は礼をいい、駅へ急いだ。 きが大きくなり、進んでゆき、正子は取り残された。 カ終点の都会へ近づくにつれて混 もういいだろうーーー正子は、門へと向った。ふり返る電車は空いていた。・、、 と、工場の窓から、一一、三の顔がこちらを見ている。手がみ出した。ある大きな駅では、ずっと向うの線路に焼けた あがった。誰だかわからなかったが、正子は大きく手を振だれた車両がどっさりと並んでいた。混むわけだ、これだ だめ こた け車両が駄目になれば : って、それに応えた。 天気は快晴だった。梅雨がすぎて、いよいよ夏がきてい 混雑は地下鉄に乗り換えるときには、一層ひどかった。 た。 地上の交通機関が大半役に立たないので、皆、地下へとも まっしろ 軍用道路が真白にかがやいていた。その片方にひろがるぐろうとする。だが、そのもぐるのが容易でない。並んだ 焼跡から、独特の臭気が朝風におくられてくるのを正子は乗客の列は地上へ、そしてさらに駅の建物の構外へまで延 たちき 中知った。燃え残りの立木、ガラスの破片、赤錆びたトタンびている。 わす のなどが、嘗ってそこに人が住んでいたことを僅かに示して下で切符を買 0 て来て、列の最後にくつつくと、正子は いた。元の姿で残っているのは、その軍用道路だけだっその都会の変り果てた姿を見るのであった。 同じ戦災地でも、出がけに見た、もとは住宅街ーーーそれ も三流のーーーだったもののそれのようにさつばりとはして 途中、軍用道路のすぐ傍の焼跡に小屋がひとつ。入口に かいめつ きぎれ いない。潰減したガソリン・スタンドではベガサスの折れ 石で築いたカマドができ、その前にしやがんで木片をくべ こ 0 かす

5. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

「そして、毎年落第しましようか。そうすれば、四カ月ず なことになってしまってねえ。あなた方はまだよかった。 つだけは、家から学校へ通えますから」 ああ、これを拝見しなくちゃ」 「そう。しかし、試験もないですから、落第させてあげる 課長は封筒を取りあげ、正子は、 こともできないなあ。ね、よかったら、来ませんか ? 」 「ちょっとその辺を見てきます」 つな と席を立った。 正子は、結局行かなかった。しかし、隣の部屋とを繋い とびら 階段を昇りながら、正子は二度目のブザーを聞いた。二だ扉へ引き寄せられてゆき、そこで授業に耳をすました。 階のいちばん奥にある教室のあたりだけ、両側の窓が開け英語のテキストを訳しているらしい生徒の声が洩れてく られ、ざわめぎが洩れてくるが、手前の廊下の窓も閉される。っと、それが途ぎれて、はっきりした教授の声に変 たまま静まりかえっており、向うの一握りのざわめきと互った。 きわ そりや、ちょっと に侘しさを際立たせあっていた。正子は廊下を行き、ざわ「″彼女はそれを彼の頭に置いた〃 めいている教室の手前の戸を引いて、いてみた。入り込変ですな」 むと、埃の匂いとむし暑さとが一緒になって襲いかかって皆、笑っている。 くる。彼女は、庭に向いた窓をひとっ開けた。 「″彼女はそれを彼に気づかせた″ですね」 ″リットル・ウイメン″だな、と正子は思った。去年の今 「おう」 ごろ、正子たちもやつばりそれのそこを読んだのだった。 と声がする。 入口に本を手にした教授が立っていた。 正子は、大急ぎで行われた幾つかの短い授業のことを思 こり 「いらっしゃい」 いだしながら、埃だらけの教室を見まわした。そうなの 「お久しぶりです」 だ、ここが自分たち二年生の教室なのだ。が、そこで授業 つきそ 中「ほくも来月はあなた方の附添いです。工場で、また皆さを受けたことは一分もないのであった。朝のブザ 1 にせか せつかく ところで、折角学校へ来られたされながら息を切らせてここへ駈け込んできたことも、答 のんにお目にかかれる。 んだ。ちょっと一緒に読んでゆきませんか ? 」 えられなく赤面したことも、つと授業に魅き入れられ、心 が高みへ運ばれるような気がしたそのときを、ほんのたま 教授は隣の教室の方を指していった。 よろこ えがた さかの得難いひとときだったのだとあとから自覚する歓び 「一年生にしていただけますなら」 を味わったこともないのである。 と正子は答えた。 わび こりにお

6. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

370 ぎ声も届かず、やがてそれが絶えてしまう。 とてもそで、時計が十二時六分を指しているのを見た。あと二十四 んなことはさせられない、と正子は知る。が、同時にそう分しかない。彼女は、かあっと熱くなった。 した過失に一気に直結させてしまったときの、すがすがし「どうするの ? 」「どうするんですって ? 」 さを思う心もちらりと起きた。 幾人かの生徒が入って来て、咲子や文子に訊いている。 かぎ 咲子が鍵をはずす間ももどかしがった正子は、せわしく上を向いたまま、正子は言った。 戸を引くと、子供のいるのを確めた。子供は木片の積み木「シン坊におしつこさせといて」 で遊んでいた。 「おしつこ ? そうね、 そうだわ。ここでしなさい」 「早いでしよ、ちょっとご用ができたのよ」 咲子が・ハケツを置いた。元気のよい音が聞えはじめた。 咲子にそう言われると、子供は、 廊ドに重なって足音が聞え、生徒たちがなだれ込み、そ 「ご飯まだなの ? 」 の先頭で武子がいった。 とがっかりした 0 「あの子はどこ ? 」 正子はそれには構わず、押し入れを開けて上段によじの 「おしつこ」「今、ここでおしつこ」 てんじよう てごた ・ほり、天井板をあちこち押してみた。が、動きそうな手応武子は、ずかずか踏み込み、正子を引きおろすと、抑え えは得られなかった。 た声でいった。 「何してるの ? 」 「早くしなきや駄目じゃあないの。すぐ、あそこへ入れな 文子が言う。 さい。それ、あの樽ーー」 じよ′ - う 「いえ、ね」 構内の防火用水のうち五カ所ほどには、もと醸造用のも 正子は飛びおりて、 のだったらしい酒樽があてられていた。小座敷ひとっ入っ 「天井裏へね、 できないかと思って」 てしまうくらい大ぎくて、水を張るには下から投げ入れた せん じゃぐち と子供のほうを眼顔で指した。 消火栓のホースを使う。下の方に大きな蛇口が三つつけて 「ちょっとこれを押えていてくれない ? 」 あった。 正子はトランクを引きずり出し、それを部屋の隅に縦に その樽のひとつが正子たちの寮のはずれにもあったが、 みすも 立てて言った。押えてもらい、それにの・ほって、またもやこれは水漏りがひどくて、使われてはいない。武子は、そ 天井板をあちこち突く。彼女は下から見あげる自分の手首れを言うのだ。それに接した角部屋の片方の窓は、一一階の きぎれ たる

7. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

いっせい それから、中尉が生徒の列だけ向ぎをかえさせて、 一斉にとまった。鳴っているのは、確かに警戒警報ではな はず 「今から約三十分、作業場の整理整頓をする。次の・ヘル 、。十二時までは鳴る筈のない・フザーが、構内中で鳴りだ で、今度は十二時半までに寮の清掃をする。終っても部屋 したのだ。 かぎ さと 何かあったのだ。そう生徒たちが悟りかかったとき、坂の鍵はかけないように。視察官が廻られるから」 と言い、解散を命じた。 本中尉が飛び込んできた。 作業場を整えている間、子供をどうするか、と生徒たち 「作業中止 ! 外へ出て整列せよ」 はつぎつぎに正子のところへささやきに来た。彼女たち そう叫んで、またさっと駈け出した。 はげ は、、ちばん心配しているにちがいない正子を励まし、元 正子はまっさおになった。 気づけ、できればいい方法を思いっき、悪くゆけば皆で度 「知られてしまったんじゃあない ? 」 きよう 早足に庭へ出て行きながら、正子は武子の傍へ寄って、胸を決めようとして、正子と言葉を交わすために、彼女と ささやいた。 一緒にナワの東を運・ほうとしたり、彼女の傍のゴミを掃こ 「そんなことないと思うわ。それだと集められるのは、わうとしたりしに来るのであった。 とだな たしたちだけでしよ。ごらんなさい」 「そう言って、先生の部屋の戸棚に隠してもらったら ? 」 しぼ そう言って武子が指さした方を見ると、なるほどもうひ 正子が・ハケツの傍へ来るのをみると、咲子がもう絞りあ ぞうきん とつの学校の生徒たち、それに一般男女工員の列もできっげていた雑巾をまた水へ沈めて言った。正子は首を振っ つある。 た。今ここへきて、どうして先生にそんなことを頼めるだ が、やがて全員集合の理由が判明するにつれ、正子の膝ろうか。 はまたもや激しく震えだした。 三十分はすぎた。正子は駈け出しながら、子供をかくす 中一同がしんとなると、工場長が現われて、ロを開いた。方法を漁り続けた。 ほんしよう ふとん の「本廠から本日午後、視察官がここへ来られる。今、知ら押し入れの蒲団の向うへ落し込んでおけばどうだろう。 塀せがあった。これから、全構内の整理整頓にかかってもら視察官は部屋の入口からちょっと覗くだけだろうし、少し いたい。なお、今日の昼食は十二時半から。済み次第ここくらい泣いても聞えないのではないだろうか。しかし、そ へ来て、一時五分前のベルが鳴ったときには、必らず整列れには危険もある。あの小さな子供の頭上へ蒲団が落ちか を終っているように : : : 」 かり、圧しつけられてゆく。むし屠い押し入れの奥で、泣 ふる ひさ あさ のそ たの

8. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

「やめとく」 そう皆へと言った。そして、眼を閉じた。 「やめとく ! どうして ? 」 正子は、膝からタオルの服を取りあげた。斜めに縫った 「仕方ないもんー 肩の始末に取りかかった 皆、笑い出し、正子も思わず苦笑した。が、彼女の気持 「シン坊。わたしにもしてくれる」 は自分でもびつくりするほど、しつつこくなっていた。 傍からひとりが訊く。子供は踏みつづけながら答えた。 同室の生徒たちはもちろん、子供のことではどれだけ自 「してあげる」 分が皆をあてにし得ているかということは、正子自身、充 「みんなにもしてあげなきや」 分知ってはいた。が、子供があまりに共有物化してゆくの 「してあげるよ」 が、彼女には気に入らないのである。今しがた、子供が皆 横になっている生徒が、眼を閉じたまま言った。 からなぶられているのを見せつけられると、世話になる段 「みんなにしてあげたら、またわたしにするのよ」 皆、笑 0 た。ただ、正子だけは笑わなか 0 た。今の言葉ではいやでもこらえなければならなか 0 た、その勝手な と皆の笑いーーそこに、彼女は、ふと残忍の匂いを嗅いだ不満が正当性を主張する時を得たかのように、正子は露骨 ふきん のだ。うつむいて、針を運ばせていた。文子がからかっ に不機嫌になった一のだ。八方美人にさせたみんなも、なっ カ結局、彼女は子供に迫るし た子供も腹立たしいのだ。・ : 「シン坊がいちばんにクンクンしてあげないから、おばちか仕方がない。 彼女には、トンボの浴衣まで妬ましくなった。折柄仕上 ゃん、怒ってる」 った手拭の洋服を、手荒く畳んで後へ押しやると、子供に 子供は相変らず踏みつづけてはいたが、正子の意を迎え 言った。 るように晉ロった。 「シン坊。おばちゃん、もうすぐいなくなるのよ」 中「おばちゃんもクンクンしてほしい ? 」 ようや 彼女は慚く近づいてきた、報告当番のことを言ってい の「いらないわ」 塀座がちょ 0 と白けた。正子はあわてて、冗談らしく振舞た。 「どこへ行くの ? 」 おうとした。 「おばちゃんがいらないって言ったら、シン坊、どうす子供は驚いて、踏むのをやめた。確かに利き目があっ る ? 」 しまっ びさ こ 0

9. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

「ひどいことをするのねえ」 を思いついたのは自分たちだ、誰が言いだしたかは忘れて さかだる しまったが、それを思い出せないほど、日ごろあの酒樽を彼女は、思わずそう洩らしていた。 元の形を残しているのは、額くらいのものだった。細ま 見なれていた自分たちは自然に思いついたのだ、武子はそ びこう った眼と小さくなった鼻孔。両頬は腫れあがって頤まで二 れを伝えただけだと主張していた。 かっ それを最初に思いつくなり、ロにするなりしたのが誰で重になり、一体に紫がかっているなかに、ところどころ褐 しよく わか あるかは、その五人以外には最後までとうとう判らなかっ色を帯びた畝が走っている。その顔からは、自分の本当の たけれども、取り調べのたびに何かと思いきったロを利く顔というものを、正子は思い浮かべかねた 武子を、中尉は次第にそうと思うか、思いたくなっている「冷やしてあげてよ」 その夜は今のところまた難を受けていない他のふたりに らしかった。そして、武子はまたそれに応じて行った。 そう言いおいて、武子は出て行った。 「あなたに来てほしいって」 正子は横になった。濡れたタオルをあててもらうと、確 へから戻ってきた正子は、武子に言った。 かに持・かいし 「そう」 答えながら、武子は正子を見たが、その視線が急に凝集「悪いわねえ。散々迷惑かけたり、飛抱してもらったり」 「そういうことはいわないの」 した。 と咲子が制した。 「何よ、あなたの顔 ! 」 「腫れてるでしよ」 子供が死んだその場から動員係室へ呼ばれて行ったあの こうふん 正子はをに当てた。 ときこそ、正子は亢奮して、何の答えもできなかったが、 「腫れてるどころじゃあないわよ。 いっぺん鏡を見てごら二度目からは取り調べのたびに、彼女は大抵のことについ ては素直に、本当のことを答えていた。が、子供をここへ んなさい」 なぐ 中尉に擲られたのは、正子はその夜がはじめてではな置いた理由を訊かれる段になると、ただ、 ぐあい 「慈善のつもりだったのです」 手を当てたときの感じでは、頬のほてりとしこり具合 がいつもより少しはひどく思えたが、今夜が特にひどく擲としか答えないのである。あとはときに応じて、「野宿 られたという気もしなかった。 をさせるのがかわいそうでしたから」「日が暮れかかって が、鏡で自分の顔を見たとき、 いましたので」「ながく置くつもりではありませんでした。 あご

10. 現代日本の文学50:曾野綾子 倉橋由美子 河野多恵子 集

348 たちの学 きず、軍用道路や工場周辺の立退疎開跡へ立ちつくして、 体にかけられたその毛布のうさぎの方へ、泣いているそ それを見守っている。自分たちの家もこのようにして焼けの子の眼がときどきゅく。で、そこを外側にして毛布を縛 たのだ、このようにして焼けるのだ。生徒たちは異常な注ってあてがうと、子供はうさぎの耳を撫でつつ眠ってしま 意をこめて、その光景に接した。 ったのである。 隣室の生徒たちがあらためて入って来た。子供の泣き声 その夜のことである。正子たちの部屋には、五つだといを不審がり、そのときただちにきたのだが、折柄こちらは う男の子が泊っていた。その子の一家も罹災しているらし子供を宥めるのに夢中だったし、子供が眠った時分には、 かった。 もう点呼に行かなくてはならなかったのだ。 正子たちが九時の点呼から戻ってきたとぎ、子供は残し今ふたたび、彼女たちに入ってこられると、室長の咲子 て行ったときと同じ姿勢で眠りつづけていた。 がまず言った。 「大丈夫らしいわね。さっきのようじゃあ、夜通し泣かれ「明日は届けるのよ」 るかと思ったわ」 そんな相淼はまだしたわけではないので、隣室の生徒た 室長の滝本咲子はそういって、閉めておいた窓を開けちの手前を繕ったのだろう。 正子と同じ女学校から進学し、ここでも同室になってい 「こんなことなら、早くに毛布を抱かせるんだったのに」る、北村武子が正子の方を見て言った。 正子は、黒い蔽いのかかった電燈を動かしてゆき、丸い 「今夜は、曾根さんが抱いて寝るそうよ」 明りの中に掬い入れた子供の寝姿を上から見おろした。毛それも正子は知らない。 まくらがわ たた 布を小さく巻いて縛ったのが、枕代りの畳んだタオルのそ その日、正子たちの作業は午前中で中止となった。午後 ばにあった。 から罹災者への食糧配給を手伝ったのである。 それは子供用のもので、原文子が待避用に持参していた 工場にある食糧を一時立て替えるのだという。焼跡にで ものだった。もう古・ほけてはいたが、桃色地に、満月とばきた臨時の町会務所で罹災証明書をもらって来た人たち もち かに耳の大きな二匹の子うさぎが餅つきしている図が白抜に、家族二人単位で乾パンとかん詰を一箇ずつ渡すのだっ きで描かれている。横向きに寝ている子供の上側の手が、 た。小雨はまだやまなかった。工場の門のところにテント うさぎの耳のあたりへのびていた。 が張られ、正子たちはそこで働いた。何よりも応対に骨が おりから