おおなむちのかみさきみたまくし 一神代紀の一書には大己貴神の幸魂・奇 天下の事を知れる神なり。 みたま 魂だという。 あれひとり うれ 是に大国主神愁へて告りたまはく、「吾、独して何か能く此の国を得 = ヲサムは神霊を鎮め祭る意。 三大和の、青い垣のように巡らしている 山々の東の山、の意で、桜井市の三輪山を おおみわ 事作らむ。孰れの神か吾と能く此の国を相作らむ」とのりたまひき。是の さす。この山は大神神社の神体山である。 古 あ てら 四 ミモロは神のこもる所の意。ここは三 時、海を光して依り来る神有り。其の神言りたまはく、「能く我が前を 輪山をさす。『出雲国造神賀詞』には、大穴 にみたま - も しか あれ 持命 ( 大国主神の別名 ) が、「自分の和魂を くしみかたまのみこと 治めば、吾能く共与に相作り成さむ。若し然らずば、国成り難けむ」と 鏡につけて、倭の大物主櫛甅玉命と名を 称えて、三輪山に鎮めよ」といったとある。 まを まっさまい のりたまひき。爾に大国主神日したまはく、「然らば治め奉る状は奈何」五年穀の神。↓四四ー注一 0 。以下は須佐 おおやまつみのかみ かむおおいちひめ 之男と大山津見神 0 娘一神大市比売と 0 間 まっ あ やまとあをがきひむがし とまをしたまへば、「吾をば倭の青垣の東の山の上にいっき奉れ」と答に生れた大年神の系譜を述べる。説話の流 れからみると、ここに入れる必然性はない。 みもろのやまへ の しかしここに現れる神には、朝詳の神や帰 へ言りたまひき。此は御諸山の上に坐す神なり。 はた 化人の秦氏の祭神、年穀の神、その他有名 かれそおほとしのかみかむいくすびのかみむすめいのひめめと 故、其の大年神、神活須毘神の女、伊怒比売を娶り神社の祭神が見えて注目される。 六『出雲国風土記』に「出雲郡伊努」と見え、 九 〔 0 大年神の系譜 からのかみ おほくにみたまのかみ 伊努神社がある。 おおやまと て生みませる子、大国御魂神、次に韓神、次に曾富 セ国土の神霊。天理市の大和神社をはじ ←一よひめ りのかみ しらひのかみ ひじりのかみ、つはしら め各国に同名の神が祭られている。 から 理神、次に白日神、次に聖神神〕。又香用比売を娶りて生みませる子、 ^ 朝鮮の神の意。出雲系の神は韓 ( 朝鮮 ) あめちかるみづひめ おほかがやまとおみのかみ と関係が深い。カラは古くは朝詳南部の国 みとしのかみふたはしら 大香山一尸臣神、次に御年神〔一一柱〕。又天知迦流美豆比売を娶りて生みま 名・伽羅」に由来する。 九ソホリは朝詳語「ソウル」 ( 首都 ) と関係 もろひと おきつひめのみことまた おほへひめのかみこ せる子、奥津日子神。次に奥津比売命、亦の名は大戸比売神。此は諸人があるという説がある。 あめのした ここ おきつひこのかみ とも の へ いかによ がた まへ たた
よ 一六対馬。神名のサデは網をいうか 島を先に生めるに因りて大八島国と謂ふ。 一九 宅本州の総称であるが、もとは大和。 かへま きびのこしま たけひかたわけ 然る後還り坐す時、吉備児島を生みき。亦の名を建日方別と謂ふ。次天「八」は聖数。八つの島の名は神代紀と は相違する。 あづきしま おほのでひめ 一九オノゴロ島に帰ること。 ・一じま に小豆島を生みき。亦の名を大野手比売と謂ふ。次に大島を生みき。亦 ニ 0 岡山県の児島半島。往古は島であった。 しようど おほたまるわけ あめひとつね ニ一香川県の小豆島。 の名を大多麻流別と謂ふ。次に女島を生みき。亦の名を天一根と謂ふ。 一三山口県の大島 ( 屋代島 ) か、または愛媛 ちかのしま あめのおしを 県の大三島か く・、さき 次に知訶島を生みき。亦の名を天之忍男と謂ふ。次に両児島を生みき。 ニ三大分県国東半島沖の姫島か あめふたや ニ四長崎県五島列島。 亦の名を天両屋と謂ふ〔吉備児島より天両屋島まで相せて六島〕。 一宝所在未詳。五島列島の南、男女群島の 男島・女島か。 を 既に国を生み竟へて、更に神を生みき。故、生める兵国生みの大事を成し終えた神の意か。 ニ六 ニセ 〔三〕神生み 毛岩石や土の男神。 おほことおしをのかみ いはっちびこのかみ 神の名は、大事忍男神。次に石土毘古神を生み、次ニ ^ 岩石や砂の女神。石土毘古神と対偶神。 ニ九家屋の門戸の神か。 ニ九 いはすひめのかみ おほとひわけのかみ 三 0 フキは屋根を葺く意か。 に石巣比売神を生み、次に大一尸日別神を生み、次に天之吹男神を生み、 三一この神までが家屋造営の神々であろう。 おほやびこのかみ かぎもつわけのおしをのかみ 三ニ船や屋根の上につける風見の男神か。 次に大屋毘古神を生み、次に風木津別之忍男神を生み、次に海の神、名 三三ワタは海、ツは「の」と同意の助詞、ミ 三四 三五 おほわたつみのかみ みなと はやあきつひこのかみ は神霊で、海をつかさどる神。 は大綿津見神を生み、次に水一尸の神、名は速秋津日子神、次に妹速秋津 三四河口・港・海峡などの水の出入りする とはしら 門口をつかさどる神。 , 工ひめのかみ 比売神を生みき〔大事忍男神より秋津比売神までせて十神〕。 三五河海に流れ込んだ水を勢いよく飲み込 三六 む男神の義か。 ふたはしら かはうみよ わ 此の速秋津日子・速秋津比売の一一の神、河海に因りて持ち別きて生三六上の兄神が川を、妹神が海を分担して。 し ニ四 おほやしまくに ひめしま 三 0 あめのふきをのかみ ふたごのしま かれ わた いもはやあきっ ふ かぎみ
15 上巻 一九 りくし くわうよたちまが さんせんこ わた て、東国に虎歩したまひき。皇輿忽ち駕して、山川を凌え度り、六師友皇子の軍を各地で破り、武威を発揮した ことを記す。「六師」は天子の軍。「三軍」は ニ 0 ふる さんぐんいなづま ぢゃうばういきほひあ けぶり 雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を挙げて、猛士烟諸侯の軍をいうが、ここは大海人皇子の子、 高市皇子の軍をさす。 かうきつはものかがや かはら せふしん ニ 0 長い矛。武器を示す。 のごとく起り、絳旗兵を輝かして、凶徒瓦のごとく解けき。未だ浹辰 一 = 赤い旗。人麻呂は高市皇子の挽歌 ( 万 ニ五 きれいおのづか 力いてい すなはニ四 葉一究 ) で、大海人軍の旗を風になびく野火 を移さずして、気滲自ら清まりき。乃ち牛を放ち馬を息へ、愷悌して のようだと詠んでいる。「兵」は兵器。 ほこをさ ぶえい といふとど 一三十二支の一巡で、十二日間。史実では 華夏に帰り、旌を巻き戈を戝め、偉詠して都邑に停まりたまひき。歳大 壬申の乱は約一か月続いた。 ニ三邪悪の気、妖気。乱を平定したこと。 りゃうやど けふしようあた あまっくらゐっ 梁に次り、月侠鐘に踵り、清原の大宮に昇りて天位に即きたまひき。道 = 四戦いをやめること。周の武王の故事。 ニ九 一宝勝って心おごらず、やわらぐこと。 けんこうす 三 0 りくがふす てん とゆう は軒后に軼ぎ、徳は周王に跨えたまひき。乾符を握りて六合を捻べ、天兵帝都の意。下の「都邑」も同じ意。 すばる 毛木星が二十八宿の一の昴星、すなわち はつくわうか つぎてととの 西の方角に宿る年。西方は酉の方角で酉年。 統を得て八荒を包ねたまひき。二気の正しきに乗り、五行の序を斉へ、 夭十二律の一で月に当てると二月。天武 ならはしすす ひろ しかのみにあらず 神理を設けて俗を奨め、英風を敷きて国を弘めたまひき。重加、智天皇は癸酉の年 ( (l) 二月二十七日に即位。 ニ九古代中国の五帝の一である黄帝。 かうかん ふか ゐくわう あきらかせんだい 三 0 周の文王または武王。賢帝の名が高い。 海浩汗として、潭く上古を探り、心鏡幃煌として、明に先代を覩たまひ 三一天子のしるしで三種の神器。「六合」は 天下。 あまひつぎ 三ニ皇統。天つ日継のこと。「八荒は「八 の 三五 われ 紘」「八表」と同義で、国の八方の果ての意。 じんぎさいし 是に天皇詔りたまはく、「朕聞く、諸家の貴たる帝紀及び本辞、既に 三三神道。天武天皇は神祇祭祀を復興した。 三四歴代天皇の系譜を中、いにした記録。 たが そあやまり 正実に違ひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当りて其の失を改めずば、未三五神話・伝説・歌謡などの記録やロ誦。 とう ニ六 くわか 三三 いかづち 0 はた けんぶと 三四 み ニ•P ほー ) 」い
うましまぢのみこと こもののべのむらじほづみのおみうねめのおみおや 一神武前紀には饒速日命が長髄彦の妹の を娶りて生める子、宇麻志麻遅命〔此は物部連・穂積臣・妹臣の祖なり〕。故、 三炊屋媛を娶って生んだ子とある。 ども ことむやは まつろひとどもそ うねびかし 如此荒ぶる神等を一言向け平和し、伏はぬ人等を退け撥ひて、畝火の白檮 = 物部氏は大伴氏と並んで朝廷の軍事を つかさどる伴造氏族。モノノ・ヘのモノは はらのみやま あめのした 神秘、精霊などの意があって、呪術・神事 事原宮に坐しまして、天下治めたまひき。 にも長じた氏族であった。下の「妹」は「采 四 五 古 かれひむか あた あひ女」とも書き、ウネ・ヘとも訓む。 故、日向に坐しし時、阿多の小椅君の妹、名は阿比 三橿原市の畝傍山の麓に造営された宮殿。 たつみのすみ 〔六〕畠后の選定 らひめめと たぎしみみのみこと 橿原宮。神武前紀には「夫の畝傍山の東南 良比売を娶りて生みませる子、多芸志美々命、次にの橿原の地は、し国の墺区か。治るべ し」とある。 きすみみのみことふたはしらいま おほきさきせ をとめま 岐須美々命、二柱坐しき。然れども更に大后と為む美人を求ぎたまひ四阿多 ( 吾田 ) は、鹿児島県加世田市周辺 ほすそりの ( 七四ハー注一 I) 。小椅君は神代紀に「火闌降 おほくめのみことまを をとめ み・一と し時、大久米命白さく、「此間に媛女有り。是を神の御子と謂ふ。其の命は、即ち吾田君小橋等が本祖なり」とあ 九 るので、阿多隼人の土豪の名であろう。 きもっきあいら みしまのみぞくひむすめ せやだたらひめ かたち 神の御子と謂ふ所以は、三島湟咋の女、名は勢夜陀多良比売、其の容姿五アヒラは大隅半島の肝属郡吾平町周辺 の地名で、この地の姫であろう。 うるは みわおほものめしのかみみめ くそま 麗美しかりき。故、美和の大物主神見感でて、其の美人の大便為る時、六神武前紀に「手研耳命」とある。 七神武前紀にはこの名は見えない。 にめりゃな みぞ ^ 皇后 ( 嫡后・正妃 ) の意。 丹塗矢に化りて、其の大便為る溝より流れ下りて、其の美人のほとを突 九大阪府三島郡地方の豪族か。またはそ すなは の豪族の祭神か。茨木市五十鈴町に溝咋神 爾に其の美人驚きて、立ち走りいすすきき。乃ち其の矢を将ち来て、 社がある。ミゾは「溝」で川屋 ( 廁 ) を、クヒ を一と , 一 たちま すなは は「杭」で男根を連想させ、これが以下の 床の辺に置けば、忽ちに麗しき壮夫に成りて、即ち其の美人を娶りて生矢伝説に発展する。 そや 一 0 セヤは矢じりが金属製の「征矢ーと同じ。 ほとたたらいすすきひめのみこと また ひめたたら みし子、名は富登多々良伊須々岐比売命と謂ひ、亦の名は比売多々良伊タタラは風を送る韈のことで、また「立た ( 現代語訳一一七五ハー ) かく めと 0 ここ へ うるは し をばしのきみいも はら も みかしきやひめめと
上述したこの書の文章のロ誦性ということである。稗田阿礼の誦習も太安万侶の撰録も、つまるところ古代 のロ誦伝承を、奈良時代の押し寄せる中国の文字文化の中に、何とかして復活しようとした試みといえよう。 そのためにその表現が具体的であるのが特徴である。この意味において『古事記』は文学史としても口誦伝 承と文字文化の接点に位置する文献であり、この書の文学性の濃度はこの観点から探求するのも一つの重要 な方法である。 こそれが顕著であり、その文学性 このロ誦性は各説話にみられるが、とりわけ説話に採り入れられた歌謡レ を高めている。『古事記』所収の歌謡は百十二首数えられるが、その中には歌謡物語というべきものがあっ こしのくにめなかわひめ やちほこのかみ て、その文学性は顕著である。たとえば八千矛神 ( 大国主神の別名 ) が越国の沼河比売に求婚した時に、互い かるのおおいらつめ かるのおおきみ に歌謡で唱和した物語、あるいは允恭天皇の条にある軽王と実妺の軽大郎女の悲恋を主題にした歌謡物語、 さやあて うたがき へぐりのおみしびのおみ おけのみこと または清寧天皇の条にみえる袁祁命 ( 後の顕宗天皇 ) と平群臣の志毘臣との恋の鞘当を主題にした歌垣 ( 歌の 掛合 ) 物語などは、古代の劇において歌われた傾向さえ見受けられる。さればこそ、これらの歌謡は後代の 宮廷の雅楽寮に採用されて、それそれ歌曲名さえつけられているのである。 また『古事記』の文学性を高める重要な条件として、登場する神や人の諸像が実に生き生きと見事に造型 すさのおのみこと されていることがあげられる。たとえば須佐之男命の大蛇退治の物語では、この神が高天原世界の反逆者で 説 あるということを忘れたかのように、勇武・愛情・知略を兼備した偉大な英雄神として、生き生きと描かれ 解ている。 やまとたけるのみこと 景行天皇の条の倭建命にしても、特にその東征以後の物語においては、中央から追放された反体制者の おとたちばなひめ 王族将軍としての自己の運命を悲しみ、后の弟橘比売とは哀切な純情をとり交し、大和への帰途には尾張の
とねり かに大和にお帰りになり、旗を巻き武器を納め、歌い舞う 思う」と仰せられました。この時、舎人がおりまして、そ うじひえだ 喜びのうちに飛島の都におとどまりになりました。こうし の氏は稗田、名は阿礼と申し、年は二十八歳でありました。 とり て酉の年の二月に浄御原の大宮でご即位なさいました。そ生れつき賢く、一度見た文章はよく暗誦し、一度聞いた話 のご政道は中国の黄帝よりもすぐれ、そのご聖徳は周の文は、いにとどめて忘れることがありません。そこで天皇は阿 王・武王よりもまさっていらっしゃいました。三種の神器 礼に仰せ下されて、帝皇の日継と先代の旧辞とを誦み習わ あまひつぎみくらい を承け継がれて天下を統治し、天つ日継の御位にましまし せられたのです。しかしながら天武天皇は崩御され、時勢 て遠い隅々の国をも残らず統合なさいました。天皇の政治が移り変って、まだその撰録の事業を完成なさるまでには は陰陽五行の運行が正しく行われ、わが国固有の神の道を至りませんでした。 復興して良俗を奨励し、すぐれた徳風を行きわたらせて、 〔三〕元明天皇と『古事謹んで思いますに、今上陛下は天子 記』の完成 その及ぶ国の範囲を広められました。そればかりではなく、 としての徳を備えておられて、その 海のように広大な英知は上古の事績を深くきわめ、鏡のよ徳光は天下に満ちわたり、三才に通じられて、人民をおい みこころ つくしみなさいます。皇居におられましても、徳は馬の蹄 うに輝く御心は先代の事績をご明察になられました。 ここにおいて天皇は、「私が聞くところによると、諸家の走りとどまる地の果てまで及び、また船の舳先の漕ぎと ずいし・よう・ どまる海原の果てまで照らしていらっしゃいます。瑞祥が で承け伝え持っている帝紀と旧辞は、すでに真実と違い 偽りを多く加えているとのことである。今この時において、現れて、日の光は重なるようにして空に輝き、慶雲は空に 巻 その誤りを改めないならば、幾年もたたないうちに、その たなびいていて、煙でも普通の雲のようでもありません。 本旨は滅びてしまうであろう。この帝紀と旧辞は、すなわさらに連理の枝や一茎に多くの穂をつけた稲など瑞祥の 上 ち国家組織の根本となるものであり、天皇政治の基礎とな数々が現れ、史官は記録する筆を休める暇もないほどです。 のろし 一方、貢使の到着を知らせる烽火が次々にあげられ、幾度 訂るものである。そこで帝紀を書物として著し、旧辞をよく 調べて正し、偽りを除き真実を定めて、後世に伝えようと か通訳を重ねるほど遠い外国から献上された貢物は、宮廷 へさきこ ひづめ
三笠宮を名誉団長とする学者団の家島群島調査の報告書でり、また上述の紀淡海峡の海浜や友ヶ島では、師楽式土器 めら あった。 の系統に属する目良式製塩土器遺跡が、弥生時代から奈良 この書の中でオノゴロ島創成神話の参考になる記事があ朝にわたる間のもので、十八か所も発見されていると報告 しらく った。それはこの島の海岸地帯で発掘された「師楽式土している。 うしまど この瀬戸内の島々や沿岸で発見された製塩用具が、『古 器」のことである。この土器の名は備前の牛窓にある師楽 という海浜で、最初に発見されたことによる命名だという。事記』の創成神話に関係があるのではなかろうかと、私は いっしか想像するようになった。 この土器の形状は深鉢・甕形で、底は丸形・尖底・高台付 あめうきはし はじきすえき 底などのものが多い。家島群島の各島から土師器・須恵器 故、二柱の神 ( イザナキ、イザナミの両神 ) 、天の浮橋に お か 立たして、その沼矛を指し下ろして画きたまへば、塩 と共に発見されているという。 こをろこをろに画き鳴して、引き上げたまふ時、其の ところで、この土器は何に用いられたかが問題である。 さき したた つも 矛の末より垂り落つる塩累なり積りて島となりき。是 この報告書では製塩の用具であると言っている。これを祭 おのごろしま れ淤能碁呂島なり。 器であろうという説もあるが、岡山大学の近藤義郎教授等 の研究によれば、今日では製塩用具とみる説がほば確定的右の文中の「塩こをろこをろに」の詞は、雄略記に見え みな みえのうねめ になっている。 る三重采女の献上した歌謡し こも「水こをろこをろに」と見 ひもと その後、『日本の考古学古墳時代上』 ( 河出書房 ) を繙えるが、これは海水をある器物に入れて煮つめながらかき くと、師楽式土器の分布は、東は前記の家島群島から西は回す時の擬声語に由来するのではあるまいか。その時の製 山口県宇部市付近までの内海の島々と沿岸部の砂浜に及び、塩器物がもしかしたら、海人たちが用いたこの師楽式土器 とりわけ備讃海峡 ( 岡山と香川の両県にはさまれた海峡 ) のではあるまいか ニ古代の製塩法ーー「藻塩焼く 島々と沿岸部は分布密度が濃いと述べている。しかし『古 代の日本 4 中国・四国』 ( 角川書店 ) によると、淡路島の『万葉集』九三五の笠金村や九三八の山部赤人の長歌に、海人の 三原郡の阿万でも師楽式の遺跡が発見されたと報告してお「藻塩焼く」という詞が見える。これは古代の製塩法を表 かれ 力さ
本文現代語訳 四伊耶那美命の死と火之迦具土神 : ・ : : 一一五・ : : 一一三七 上巻井せて序 五伊耶那岐命の黄泉国訪問 六伊耶那岐命の禊祓 : 本文現代語訳 一古代への回顧 : 七三貴子の分治 : ・ 二天武天皇と『古事記』撰録の企て : ・ : 一四 : ・ ・ : 一三 0 八須佐之男命の啼きいさち・ 三元明天皇と『古事記』の完成 : ・ : 一一三一天照大御神と須佐之男命 創世の神々 一須佐之男命の昇天・・ 一五柱の別天っ神 : 二二神の誓約 : 二神世七代 : 三須佐之男命の勝さび : 伊耶那岐命と伊耶那美命 四天の石屋戸こもり・ 一淤能碁呂島の聖婚・・ 五須佐之男命の追放と五穀の起源・ : : : 四 0 : ・ 二国生み : 須佐之男命の大蛇退治 三神生み : 一八俣の大蛇 : 凡例 : 目次 : 一一三四 : ・一一四三 ・ : 一一四六
旧 ~ 〔巾大社。主祭神は大国主神。大社のでは高さ八丈 ( 二四余 ) 、方六間 ( 一等分され、上段・下段に分れ、後ろの上 みたま たいしゃづくリ 本殿の建築様式は、いわゆる大社造と称一 弱 ) 四面になっている。屋根は切妻段には大国主神の御霊を祭る内殿が安置 かつおを、 づくリひわだふき しんめいづくリ され、伊勢神宮の神明造とともに古代の造檜皮葺、大棟の上には三本の鰹木と一一されている。 すいらん 神社建築の一一大典型とされる。社伝によ対の巨大な千木が、八雲山の翠巒を背に幾多の試練を切り抜け国造りの偉業を重 ねて、後世には「大国さま」と愛称された れば古くは三一一丈あったのが、のちに一して天空を摩している。 うすはしら 六丈になったという。後世、何度もの改殿内の中央には、巨大な宇豆柱が立ち、大国主神の鎮座するこの本殿は、宏壮で 築によって、その規模を縮小して、今日内陣はこの柱を通る左右の線で前後に一一ダイナミックな美の極致を表現している。 ' 、哽ツ きりづま 引ⅢⅢ盟に 出雲大社本殿島根県饋郡大社町
も善本であることから国宝に指定されている。今日の活字印刷本の『古事記』は、そのほとんどがこの本を 底本としている。本書もこの本を底本として、これを訓み下しているのである。 11 = ロ なお真福寺本の影印本は、大正十三、四年に古典保存会から、昭和二十年に京都印書館から、同四十九年 事に講談社から、同五十三年に桜楓社から、それぞれ刊行されている。またこの印刷本には西宮一民編『古事 古記』 ( 昭和四十八年、桜楓社 ) がある。 参考文献 本書読解のための注釈書 ( 昭和三十年以降刊行のもの ) を次に掲げておく。 古事記・祝詞 ( 日本古典文学大系 ) 倉野憲司岩波書店昭三三 古事記 ( 日本古典全書 ) 神田秀夫・太田善麿朝日新聞社昭三七 ~ 三八 古事記全講尾崎暢殃加藤中道館昭四一 古事記・上代歌謡 ( 日本古典文学全集 ) 荻原浅男小学館昭四八 古事記全註釈倉野憲司三省堂昭四八 ~ 五五 古事記 ( 新潮日本古典集成 ) 西宮一民新潮社昭五四 古事記・風土記・日本霊異記 ( 鑑賞日本の古典 ) 曾倉岑・金井清一尚学図書昭五六 古事記 ( 日本思想大系 ) 青木和夫他岩波書店昭五七 370