孝霊天皇 くろだ いおとのみや 】おおやまとねこひこふとにのみこと 大倭根子日子賦斗邇命 ( 孝霊天皇 ) は黒田の廬戸宮にい とおちのあがた らっしやって、天下をお治めになった。この天皇が十市県 おおめ くわしひめのみこと 中めし 主の祖先の大目の娘、名は細比売命という方を妻としてお おおやまとねこひこくこくるのみこと 生みになった御子は、大倭根子日子風玖琉命 ( 孝元天皇 ) かすがのちちはやまわかひめ である〔一柱〕。また春日千々速真若比売を妻としてお生み ちちはやひめのみこと いいたかのきみいちしのきみちかつおうみのく : のみや ? 一 おおやま の飯高君・壱師君・近淡海造の祖先である〕。天皇のご享年 になった御子は千々速比売命である〔一柱〕。また意富夜麻 はかたやま とくにあれひめのみこと は九十三歳。御陵は掖上の博多山のほとりにある。 登玖邇阿礼比売命を妻としてお生みになった御子は、夜麻 ととももそびめのみこと ひこさしかたわけのみこと いさせり 登々母々曾毘売命、次に日子刺肩別命、次に比古伊佐勢理 びこのみこと おおきびつひこのみこと やまととびはやわかやひめ 孝安天皇 毘古命で別名は大吉備津日子命、次に倭飛羽矢若屋比売で はえいろど ある〔四柱〕。またその阿礼比売命の妹の蠅伊呂杼を妻とし おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと かずらきむろあきっしまの ひこさめまのみこと わかひこたけきび 大倭帯日子国押人命 ( 孝安天皇 ) は葛城の室の秋津島 てお生みになった御子は、日子寤間命、次に若日子建吉備 みや つひこのみこと やはしら 宮にいらっしやって、天下をお治めになった。この天皇が津日子命である〔二柱〕。この天皇の御子たちは合せて八柱 めいおしかひめのみこと おおきびの 姪の忍鹿比売命を妻としてお生みになった御子は、大吉備である〔皇子五柱、皇女三柱〕。そして大倭根子日子国玖琉 もろすすみのみこと おおやまとねこひこふとにのみこと 諸進命、次に大倭根子日子賦斗邇命 ( 孝霊天皇 ) である命は天下をお治めになった。また大吉備津日子命と若建吉 はりまのくにひ 〔二柱〕。そして大倭根子日子賦斗邇命は天下をお治めにな備津日子命とは、お二人お連れ立ちになって、播磨国の氷 たまてのおか かわ さかがめす った。天皇のご享年は百二十三歳。御陵は玉手岡のほとり河の岬に斎み清めた酒甕を据えて神に征途の平安を祈願し、 きびのくに にある。 播磨国を吉備国にはいる入口として、吉備国を平定なさっ た。ところで、この平定に大功を立てた大吉備津日子命は かみつみちのおみ 〔吉備の上道臣の祖先である〕。次に若日子建吉備津日子命は しもつみちのおみかさのおみ うしかの 〔吉備の下道臣・笠臣の祖先〕。次に日子寤間命は〔播磨の牛鹿 おみ こしのくにとなみのおみとよのくに 臣の祖先である〕。次に日子刺肩別命は〔越国の利波臣・豊国 くにさきのおみいおばらのきみつぬがのわたりのあたい の国前臣・五百原君・角鹿済直の祖先である〕。天皇のご享年 かたおかうまさか は百六歳。御陵は片岡の馬坂のほとりにある。
古事記 280 はたの 合せて九人である〔男七人、女二人〕。その子の中で、波多 やしろのすくね はたのおみはやしのおみはみのおみほしかわのおみおうみのおみはっせべの 八代宿禰は〔波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部之 孝元天皇 こせのおがらのすくね こせのおみさぎきべのおみかる きみ 君の祖先である〕。次に許勢小柄宿禰は〔許勢臣・雀部臣・軽 そがのいしかわのすくね おおやまとねこひこくにくるのみこと かるさかいはらのみや そがのおみかわ・ヘのおみ べのおみ 大倭根子日子国玖琉命 ( 孝元天皇 ) は軽の堺原宮にいら部臣の祖先である〕。次に蘇賀石河宿禰は〔蘇我臣・川辺臣・ ほづみのおみ たなかのおみたかむこのおみおはりだのおみさくらいのおみきしだのおみ 田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣らの祖先である〕。次 っしやって、天下をお治めになった。この天皇が穂積臣ら へぐりのつくのすくね うっしこおのみこと うっしこめのみこと へぐりのおみさわらのおみうまのみくいのむらじ に平群都久宿禰は〔平群臣・佐和良臣・馬御様連らの祖先であ の祖先の内色許男命の妹、内色許売命を妻としてお生みに きのつぬのすくね すくなひこたけいごころのみこと おおびこのみこと きのおみつめのおみさかもとのおみ る〕。次に木角宿禰は〔木臣・都奴臣・坂本臣の祖先〕。次に久 なった御子は、大毘古命、次に少名日子建猪心命、次に かずらきのながえの めのまいとひめ ののいろひめ わかやまとねこひこおおびびのみこと 若倭根子日子大毘々命 ( 開化天皇 ) である〔三柱〕。また内米能摩伊刀比売、次に怒能伊呂比売である。次に葛城長江 そっぴこ かがしこめのみこと たまてのおみいくはのおみいくえのおみあぎなのおみ 色許男命の娘の伊迦賀色許売命を妻としてお生みになった曾都毘古は〔玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣らの祖先である〕。 わくごのすくね かわちのあおたま ひこふつおしのまことのみこと えのまのおみ また若子宿禰は〔江野財臣の祖先〕。この天皇のご享年は五 御子は比古布都押之信命である。また河内青玉の娘で、 つるぎのいけなかのおか はにやすびめ 名は波邇夜須毘売という方を妻としてお生みになった御子十七歳。御陵は剣池の中岡のほとりにある。 たけはにやすびこのみこと は建波邇夜須毘古命である〔一柱〕。この天皇の御子たちは、 いつましら 合せて五である。そして若倭根子日子大毘々命は天下を 開化天皇 たけめなかわわけの お治めになった。その兄の大毘古命の子である建沼河別 いぎかわのみや わかやまとねこひこおおびびのみこと かすが ひこいなこじわけのみこと み - 、と かしわでの あべのおみ 若倭根子日子大毘々命 ( 開化天皇 ) は春日の伊耶河宮に 命は〔阿倍臣らの祖先〕。次に比古伊那許士別命〔これは膳 たには お おわりのむらじ おみ いらっしやって、天下をお治めになった。この天皇が丹波 臣の祖先である〕。比古布都押之信命が尾張連らの祖先の意 ゅ ) 」り たかのひめ おおあがたぬし おなび かずらきのたかちなびめ 富那毘の妹、葛城高千那毘売を妻としてお生みになった子の大県主で名は由碁理という方の娘である竹野比売を妻と ひこゅむすみのみこと うましうちのすくね やましろうちのおみ してお生みになった御子は比古由牟須美命である「一柱〕。 は味師内宿禰である〔これは山城の内臣の祖先である凵。また かがしこめのみこと きのくにのみやっこ うずひこ やましたかげひめ また継母の伊迦賀色許売命を妻としてお生みになった御子 紀伊国造の祖先の宇豆比古の妹、山下影日売を妻として みまつひめのみこと みまきいりひこいにえのみこと たけしうちのすくね は、御真木入日子印恵命 ( 崇神天皇 ) 、次に御真津比売命 お生みになった子は建内宿禰である。この建内宿禰の子は ( 本文一〇五ハー )
105 中巻 開化天皇 ニ四 わかやまとねこひこおほびびのみことかすが いぎかはのみやま あめのした ニ四第九代開化天皇。孝元天皇の皇子。開 わかやまとねこひこおはひひのすめらみこと 若倭根子日子大毘々命、春日の伊耶河宮に坐しまして、天下治めたま 化紀に「椎日本根子彦大日々天皇」とある。 ニ六 こすめらみことたにはおほあがたぬし ゅごり むすめたかのひめ めと = = 奈良師鉢子町率川辺り。率川は春日 ひき。此の天皇、旦波の大県主、名は由碁理の女、竹野比売を娶りて生 山に発し猿沢池の南を流れ、西流して佐保 ニ七 ひこゅむすみのみこと ままははいかがしこめのみこと 川に入る。 みませる御子、比古由牟須美命〔一柱〕。又庶母伊迦賀色許売命を娶りて兵竹野は京都府竹野郡丹後町竹野の地。 うっしこをのみこと みまきいりひこいにゑのみこと 毛内色許男命の女。↓前ハー注八。 みまつひめのみこと 生みませる御子、御真木入日子印恵命、次に御真津比売命〔二柱〕。又丸 = 〈のちの崇神天皇。 だのおみ ( 現代語訳二八〇ハー ) そがのいしかはのすくね そがのおみかはべのおみたなかのおみたかむこのおみをはりだのおみさくらゐのおみきし り〕。次に蘇賀石河宿禰は〔蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸一五ウマシは美称。ウチは大和国宇智郡 ( 五條市周辺 ) の名にちなんだもの。 へぐりのつくのすくね へぐりのおみさわらのおみうまのみくひのむらじ 一六山城国綴喜郡有智 ( 京都府八幡市 ) にち 田臣等の祖なり〕。次に平群都久宿禰は〔平群臣・佐和良臣・馬御職連等の祖なり〕。 なむ名。 きのくに きのつめのすくね くめのまい とひめ きのおみつめのおみさかもとのおみ 宅紀伊国の国造。ウヅは、珍しいもの、 次に木角宿禰は〔木臣・都奴臣・坂本臣の祖〕。次に久米能摩伊刀比売、次に 美しいものを称賛する形状言。 のの いろひめ かづらきのながえのそっぴこ たまてのおみいくはのおみいくえのおみあぎなのおみ 一 ^ 景行天皇から仁徳天皇に至る歴朝に仕 怒能伊呂比売。次に葛城長江曾都毘古は「玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣等の えた重臣で長寿の人であり、神功皇后の朝 わくごのすくね みとし いそぢまりななとせみはか えのまのおみ 鮮進出の時には霊媒者となった。 祖なり〕。又若子宿禰は〔江野財臣の祖〕。此の天皇の御年、伍拾漆歳。御陵究蘇我氏の祖先。蘇我臣は橿原市の曾我 つるぎのいけなかのをかへ 川流域を本拠地とした豪族。 みみずく は剣池の中崗の上に在り。 ニ 0 平群は大和国平群郡平群、ツクは木菟 の別称。仁徳紀元年に命名の由縁譚がある。 いわのひめ ニ一仁徳天皇の皇后の石之日売の父。長江 は葛城地方の地、大和国葛上郡高宮郷長柄。 一三五十七歳。 つるのいけのしまのうへのみさぎき ニ三開化紀に「剣池島上陵」とある。
古事記 340 きようそく またタベの間にもお寄り掛かりになる、あの脇息の下の板に なりたいものでございます。ねえ、みなさん ) しつうた と歌った。これは志都歌という歌曲である。 っちのとみ 天皇のご享年は百二十四歳〔己巳の年の八月九日にお亡く たかわし かわちのくにたじひ なりになった〕。御陵は河内国の丹比の高にある。 清寧天皇 みこしらかのおおやまとねこのみこと 雄略天皇の御子白髪大倭根子命 ( 清 いわれみかくりのみや 〔一〕飯豊王 寧天皇 ) は磐余の甕栗宮にいらっし やって、天下をお治めになった。この天皇には皇后がなく、 みなしろ また御子もいらっしやらなかった。そのため天皇の御名代 な しらかべ として白髪部をお定めになった。こうして天皇がお亡くな みこ りになったのち、天下をお治めになるべき王はいらっしゃ らなかった。そこで皇位につかれるような王を重臣たちが おしめみのいらつめ いちのへのおしはわけのおおきみ 尋ね求めたところ、市辺之忍歯別王の妹の忍海郎女、ま つのさしのみや いいとよのおおきみ かずらきおしめみたかき たの名は飯豊王という方が、葛城の忍海の高木の角刺宮 こ、らっしやっこ。 やまべのむらじおだてはりまのくに ところで山部連小楯を播磨国の長 〔ニ〕ニ皇子の舞 官にご任命になった時、小楯はその な 国の人民で名は志自牟という者の新築祝いの酒宴に臨席し た。ここでさかんに酒宴に興じて、酒もたけなわになった ころ、貴賤・老若の順序に従ってみな舞った。そして、火 を焚く役にあった少年二人が竈のそばにいたが、その少年 たちも舞うように命じた。ところが、その中の一人の少年 が「兄さんから先にお舞いなさい」と言うと、兄もまた 「おまえから先に舞いなさい」と言って、こうして互いに 譲り合っていた時、その場に集っていた人たちは二人の互 いに譲り合う有様を見て笑った。そして、とうとう兄が舞 い終えて、次に弟が舞おうとする時、声を長く引いて歌う たち たがみ もののふ 物部の我が夫子の取り保ける大刀の手上に丹 あかはたかざ 画き著け其の緒は赤幡を載り赤幡を立てて見 すゑおなびか カ かく れば五十隠る山の三尾の竹をかき苅り末押し縻 しら いぎ ごとあめのした やつを すなす八絃の琴を調ぶる如天下治め賜ひし伊耶 みこいちのへのおしはのおおきみやっこすゑ ほわけのすめらみこと 本和気天皇の御子市辺之押歯王の奴末 たち ( 武人であるわが君が腰につけている大刀の柄に、赤土を塗 さげお りつけ、その下緒は赤い布で飾りつけ、戦陣になびかす赤旗 を立てて、見ると、その赤旗に隠れる山の峰に生える竹を根 もとから刈り、その先を地上に敷きなびかすように威風堂々 ( 本文一一一〇ハー ) わせこ を かまど
103 中巻 させりびこのみことまた おほきびつひこのみこと ひこいさせりひこのみこと やまととびはやわかやひ に比古伊佐勢理毘古命、亦の名は大吉備津日子命、次に倭飛羽矢若屋比三孝霊紀に「彦五十狭芹彦命、亦の名は 吉備津彦命」とある。岡山市吉備津の吉備 売〔四柱〕。又其の阿礼比売命の弟、蠅伊呂杼を娶りて生みませる御子、津神社は大吉備肆彦命を祭る。 一三孝霊紀に「倭迹々稚屋姫命」とある。 ひ・一さしまのみ・一と ひこさめまのみこと わかひこたけきびつひこのみこと たちあは 一四孝霊紀に「彦狭島命」とある。 わかたけひこのみこと 日子寤間命、次に若日子建吉備子日子命〔二柱〕。此の天皇の御子等、井 三孝霊紀に「稚武彦命は、是れ吉備臣の やはしら かれ ひめみこ 始祖なり。とある。 ひおか せて八柱〔男王五、女王三〕。故、大倭根子日子国玖琉命は天下治めたまひ 一六兵庫県加古川市加古川町大野の氷丘の あひそ はりま 下を流れる加古川を氷河岬という。氷丘に き。大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、一一柱相副はして、針間のある日岡神社がその旧跡だという。 宅斎み清めた甕。酒を入れて神に供えた。 ひかはさき いはひへす 、 ) とむやは きびのくに 氷河の前に忌瓮を居ゑて、針間を道のロと為て、吉備国を言向け和した一〈吉備国へはいる道の入口。この記事は 崇神紀十年の四道将軍派遣の一であって、 一九かみつみちのおみ まひき。故、此の大吉備津日子命は〔吉備の上道臣の祖なり〕。次に若日子建他の三将軍派遣は『古事記』では崇神天皇の 条に見える。 ニ 0 しもつみちのおみかさのおみ うしかのおみ 一九備前国上道郡にちなむ氏族。 吉備津日子命は〔吉備の下道臣・笠臣の祖〕。次に日子寤間命は〔針間の牛鹿臣の ニ 0 備中国下道郡にちなむ氏族。笠臣は かものわけのみこと となみのおみとよのくにくにさきのおみいほばらのきみつめがのわたりの 『新撰姓氏録』などに鴨別命の後裔とある。 はりまのくにうしかのみやけ 祖なり〕。次に日子刺一眉別命は〔高志の利波臣・豊国の国前臣・五百原君・角鹿済 三安閑紀に播磨国の牛鹿屯倉がある。 ニ四 となみ みとしももちまりむとせみはかかたをかうまさかへ あたひ 一三高志の利波臣は越中国砺波郡、豊国の くこイ 1 き 直の祖なり天皇の御年、壱佰陸歳。御陵は片岡の馬坂の上に在り。 国前臣は豊後国国埼郡、五百原君は駿河国 廬原郡、角鹿済直は越前国敦賀にそれそれ ちなんだ氏族。 ニ三百六歳。 ニ四奈良県北葛城郡王寺町王寺小路ロの地。 ひこい 孝元天皇 ひこみこ し
あめのした おほやまとねこひこくにくるのみことかるさかひはらのみやま 一第八代孝元天皇。孝霊天皇の皇子。孝 大倭根子日子国玖琉命、軽の堺原宮に坐しまして、天下治めたまひき。 おほやまとねこひこくにくるのすめらみこと 元紀に「大日本根子彦国牽天皇ーとある。 四 こすめらみことほづみのおみら おやうっしこをのみこといもうっしこめのみことめと クニクルは国を綱で引き寄せる意で、『出 此の天皇、穂積臣等の祖内色許男命の妹、内色許売命を娶りて生みませ 雲国風土記』の国引き神話を連想させる。 五 一三ロ おほびこのみこと すくなひこたけゐごころのみこと わかやまとねこひこおほびびの ニ孝元紀に「都を軽の地に遷す。是を境 事る御子、大毘古命、次に少名日子建猪心命、次に若倭根子日子大毘々 原宮と謂ふ」とある。懿徳天皇の宮と同所。 うましまじのみ・一と むすめいかがしこめのみこと ・ ~ ロみこと 三神武天皇の条に宇麻志麻遅命の後裔と 命〔三柱〕。又内色許男命の女、伊迦賀色許売命を娶りて生みませる御子、 ある。物部氏と同祖。 うっしこをのみこと ひこふつおしのまことのみこと かふちのあをたま はにやすびめ 四開化紀に穂積臣の遠祖「鬱色雄命 . の妹 比古布都押之信命。又河内青玉の女、名は波邇夜須毘売を娶りて生みを色をとある。 五孝元紀に「大彦命」とある。崇神天皇の たけはにやすびこのみこと たちあは いつはしら ませる御子、建波邇夜須毘古命〔一柱〕。此の天皇の御子等、井せて五柱。条に四道将軍として北陸地方に派遣された とある。↓一一二ハー かれ そいろせ すくな 六大毘古命の対称。孝元紀の一云に「少 故、若倭根子日子大毘々命は天下治めたまひき。其の兄大毘古命の子、 ひこをこころのみこと 彦男心命」とある。 たけめなかはわけのみこと ひこいなこじわけのみこと あべのおみ かしはでのおみ セのちの開化天皇。 建沼河別命は〔阿倍臣等の祖〕。次に比古伊那許士別命〔此は膳臣の祖なり〕。 いかがしこめのみこと ^ 孝元紀に「伊香色謎命」とある。 ひこふつおしのまことのみこと をはりのむらじ おほなび かづらきのたかちなびめ 比古布都押之信命、尾張連等の祖意富那毘の妹、葛城高千那毘売を娶〈孝元紀に「彦さ忍命」とる。 一 0 孝元紀に「河内青玉繋の女、埴安媛」。 うましうちのすくね きのくにのみやっこ うづ やましろうちのおみ 一一孝元紀に「武埴安彦命」とある。崇神天 りて生める子、味師内宿禰〔此は山代の内臣の祖なり〕。又木国造の祖宇豆 皇の条に謀反を企てて大毘古命に討たれた たけしうちのすくね やましたかげひめ とある。一一三ハー たけぬなかはわけ 比古の妹、山下影日売を娶りて生める子、建内宿禰。此の建内宿禰の子 一ニ崇神紀に「武渟川別」とある。四道将軍 はたのやしろのすくね の一人として東海地方に遣わされた。 はたのおみはやしのおみはみのおみほしかはのおみあふみの 井せて九〔男七、女二〕。波多八代宿禰は〔波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海一 = 孝元紀には大彦命の後裔とある。 一四天皇の食膳に奉仕する氏族で、孝元紀 こせのをがらのすくね おみはっせべのきみ こせのおみさぎきべのおみかるべのおみ 臣・長谷部之君の祖なり〕。次に許勢小柄宿禰は〔許勢臣・雀部臣・軽部臣の祖な には大彦命の後裔とある。 ここのたり
291 中巻 ( 本文一二六 たいへん醜いということで、故郷の丹波国へ送り返しなさ くの香の木の実を持って参上いたしました」と申して、つ った。それで円野比売はこれを恥じて、「同じ姉妹の中で、 しに絶叫しながら死んでしまった。その時じくの香の木の うわさ たちばな 容姿が醜いとの理由で返されたとあっては、隣近所の噂に 実というのは、今日の橘である。この天皇のご享年は百五 すがわらみたちの 上ることでしようし、これはまことに恥ずかしいことで十三歳。御陵は菅原の御立野の中にある。また皇后の比婆 やましろのくにさがらか いわきつくり す」と言って、山城国の相楽に到着した時、木の枝にぶら 須比売命がお亡くなりになった時、石祝作を定め、また土 * 、がりき てらまのはか さがって死のうとした。それゆえ、その地を名づけて懸木師部を定められた。この皇后は狭木の寺間陵に葬り申し上 おとくに といったが、今は相楽という。また弟国 ( 乙訓 ) に到着し けわ ふち た時、とうとう険しい淵に落ちて死んでしまった。それゆ おちくに え、その地を名づけて堕国と呼んでいたのだが、今は弟国 景行天皇 というのである。 すいにん おおたらしひこおしろわけのすめらみこと 大帯日子淤斯呂和気天皇 ( 景行天 〔三〕時じくの香の木のまた垂仁天皇は三宅連らの祖先で名 たじまもり まきむくひしろのみや 〔一〕后妃と御子 実 は多遅摩毛理という者を海のかなた 皇 ) は纏向の日代宮にいらっしやっ とこよのくにつか かくこみ きびのおみ の常世国に遣わして、時じくの香の木の実を捜し求めさせ て、天下をお治めになった。この天皇が、吉備臣らの祖先 わかたけきびつひこ はりまのいなびのおおいらつめ られた。勅命を拝した多遅摩毛理がようやくその国に到着の若建吉備津日子の娘で名は針間之伊那毘能大郎女という かげやかげほこやほこ くしつめわけのおおきみ し、その木の実を採って、それを縵八縵・矛八矛にして持方を妻としてお生みになった御子は、櫛角別王、次に な おおうすのみこと おうすのみことやまとたけるのみこと やまとおぐなのみこと ち帰ってくる間に、 天皇はすでにお亡くなりになっていた。大碓命、次に小碓命 ( 倭建命 ) で別名は倭男具那命、 やまとねこのみこと かむくしのおおきみ やさかのいりひ そこで多遅摩毛理は、そのうち縵四縵・矛四アを分けて皇次に倭根子命、次に神櫛王である〔五柱〕。また八尺入日 ひばすひめのみこと このみこと やさかのいりひめのみこと 后の比婆須比売命に献上し、残りの縵四縵・矛四矛を天皇子命の娘の八坂之入日売命を妻としてお生みになった御子 わかたらしひこのみこと いおきのいりひこのみこと の御陵の入口に供えて、その木の実を高く捧げ持ち、悲し は、若帯日子命 ( 成務天皇 ) 、次に五百木之入日子命、次 おしわけのみこと いおきのいりひめのみこと みのあまり大声をあげて泣いて、「ただ今、常世国の時じ に押別命、次に五百木之入日売命である。またある夫人の たにはの′、に みやけのむらじ ささ しべ さき
おきながたらしひめのみこと かづらきのたかぬかひめめと ながのすくねのおほきみ 一仲哀天皇の皇后。神功皇后。 長宿禰王。此の王、葛城之高額比売を娶りて生める子、息長帯比売命、 ニ品遅は備後国治郡品治。阿宗は播磨 おきながひこのおほきみ そらつひめのみこと きび ほむぢのきみはりま 国揖保郡大宅郷阿宗。 次に虚空津比売命、次に息長日子王〔三柱。此の王は吉備の品遅君・針間の 三河俣は河内国若江郡の地。 1 三ロ おほたむさかの かはまたのいなよりびめ あそのきみ 四但馬国造。 事阿宗君の祖〕。又息長宿禰王、河俣稲依毘売を娶りて生める子、大多牟坂 五道守臣は未詳。忍海は大和国忍海郡の 四 かみ たぢまのくにのみやっこ 亠ロおほきみ たけとよはづらわけのおおきみちもりのおみおし地。御名部は『万葉集』一六六九に見える「三名 王〔此は多遅摩国造の祖なり〕。上に謂へる建豊波豆羅和気王は〔道守臣・忍 部の浦」の地か。稲羽 ( 因幡。鳥取県 ) の忍 海部は大和の忍海部造から分れたものか。 よさみのあびこ たかののわけ ぬみべのみやっこみなべのみやっこいなば 海部造・御名部造・稲羽の忍海部・丹波の竹野別・依網之阿毘古等の祖なり〕。天皇の丹波の竹野 ( 一〇五【、注実 ) 。依網は河内国 丹比郡依羅か。アビコは大化改新前の姓で、 いぎかは みとしむそぢまりみとせみはか 畿内とその周辺の豪族に与えられた。 御年、陸拾参歳。御陵は伊耶河の坂の上に在り。 六六十三歳。 かすがのいぎかはのさかもとのみさギを セ開化紀に「春日率川坂本陵とある。 奈良市油阪町の地。 ^ 第十代崇神天皇。開化天皇の皇子。崇 神紀に「御間城入彦五十瓊殖天皇」とある。 崇神・垂仁・景行の三帝の時代にはイリヒ コ・イリヒメの名が多い 九 みつかきのみや みまきいりひこいにゑのみことしきみづがきのみやま 九崇神紀には「瑞籬宮」とある。宮址は三 しきのみあがた 御真木入日子印恵命、師木の水垣宮に坐しまして、 輪山の東南麓、桜井市金屋の志貴御県神社 〔こ后妃と御子 あら こすめらみこときのくにのみやっこ あめのした の地という。 天下治めたまひき。此の天皇、木国造、名は荒 一 0 崇紀に「紀伊国の荒河戸畔の女、遠 むすめとほっあゆめまくはしひめめと とよきいりひこの津年魚眼々妙媛とある。荒河は紀伊国那 かはとべ 河刀弁の女、遠津年魚目々微比売を娶りて生みませる御子、豊木入日子賀郡荒川か。ト・ヘは女子の人名の接尾語。 一一『古事記伝』に、トホッを『万葉集』一一会 をはりのむらじおやおほあまひめ とよすきいりひめのみこと みこと 命、次に豊鈕入日売命〔二柱〕。又尾張連の祖、意富阿麻比売を娶りて生の「遠津の浜」、アユメを「年魚群」の意で、 108 崇神天皇 へ
おほやまとたらしひこくにおしひとのみことかづらきむろあきっしまのみやま 大倭帯日子国押人命、葛城の室の秋津島宮に坐しまして、天下治め一第六代哮安天皇【孝昭天皇の第一一皇子。 孝安紀に「日本足彦風押人天皇」とある。 こすめらみことめひおしかひめのみことめと みこおほきびのもろ たまひき。此の天皇、姪忍鹿比売命を娶りて生みませる御子、大吉備諸 = 孝安紀に「都を室の地に遷す。是を秋 津島宮と謂ふ」とある。御所市室の宮山の 四 旨ロ すすみのみこと おほやまとねこひこふとにのみこと かれ 東麓が宮址という。大和の枕国・秋津島」は 事進命、次に大倭根子日子賦斗邇命〔一一柱〕。故、大倭根子日子賦斗邇命 この地名からつけられた。 おしひめ みとしももちまりはたみとせみはかたまてのをかへ 古 三孝安紀には「押媛」とある。孝安天皇の は天下治めたまひき。天皇の御年、壱佰弐拾参歳。御陵は玉手岡の上に 兄、天押帯日子命の娘。 四のちの孝霊天皇。 在り。 五御所市玉手の地。 102 めと 六第七代孝霊天皇。孝安天皇の第一一皇子。 おほやまとねこひこふとにのすめらみこと 孝霊紀に「大日本根子彦太瓊天皇」とある。 セ孝霊紀に「都を黒田に遷す。是を廬戸 孝霊天皇 宮と謂ふ」とある。奈良県磯城郡田原本町 黒田。 おほやまとねこひこふとにのみことくろだ いほとのみやま あめのした 大倭根子日子賦斗邇命、黒田の廬一尸宮に坐しまして、天下治めたまひ〈桜井市、磯城郡地方の豪族。孝元紀に 「磯城県主大目が女」とある。十市県主と磯 こすめらみこととをちのあがたぬしおやおほめむすめ くはしひめのみことめと 城県主は同族という。 き。此の天皇、十市県主の祖大目の女、名は細比売命を娶りて生みませ 九のちの孝元天皇。 九 やまとのくにかひめ おほやまとねこひこくにくるのみこと かすがのちちはやまわかひめ 一 0 孝霊紀には「倭国香媛、亦の名は某 る御子、大倭根子日子国玖琉命〔一柱〕。又春日千々速真若比売を娶りて 姉」とある。 やまとととびももそひめのみこと ちちはやひめのみこと おほやまとくにあれひめのみこと 一一孝霊紀には「倭迹々日百襲姫命」とある。 生みませる御子、千々速比売命〔一柱〕。又意富夜麻登玖邇阿礼比売命を崇神紀 + 年に、この姫が大物主神の妻にな った記事 ( 三輪山伝説 ) が見える。三輪山の やまととももそびめのみこと ひこさしかたわけのみこと 娶りて生みませる御子、夜麻登々母々曾毘売命、次に日子刺肩別命、次麓にある轡はこの姫の墓という。 あめのした
219 下巻 とせ ( 現代語訳三四五ハー ) 一〈第二十五代武烈天皇。仁賢天皇の皇子。 をはっせわかさぎきのすめらみこと おお 武烈紀に「小泊瀬稚鷦鷯天皇」とある。大 はっせわかたけのみこと おおさぎきのみこと 長谷若建命 ( 雄略天皇 ) と大雀命 ( 仁徳天 皇 ) の名を併合した名。↓一六八ハー注一・一 武烈天皇 九八ハー注一 0 。 たかみくらはっせ なみき 一九武烈紀に「壇場を泊瀬の列城に設けて あまつひつぎしろしめ をはっせのわかさぎきのみことはっせなみきのみやま あめのした や陟天皇位す」とある。奈良県桜井市出雲の 小長谷若雀命、長谷の列木宮に坐しまして、天下治めたまふこと捌 地・レ ) い , つ。 みなしろ こすめらみことひつぎのみこまさざ かれみこしろし をはっせべ ニ 0 御名代に同じ。↓一六八ハー注一五。 歳なりき。此の天皇、太子无りき。故、御子代と為て小長谷部を定 = 一顕宗天皇の陵と同地。それを南陵とい うのに対して北陵という。↓注三。 みはかかたをかいはっきのをか めたまひき。御陵は片崗の石坏崗に在り。 一三応神天皇。↓一五一ハー注一セ。 ニ三のちの継体天皇。 かむあが ひつぎ みこまさぎ ほむだのすめらみこといっ 天皇既に崩りまして、日続知らすべき王無りき。故、品太天皇の五一西継体前紀によれば、崩御した武烈天皇 おおとものかなむら ニ四 に子がなかったので、大連の大伴金村らが たしらかのみことニ六 つぎひこをほどのみことちかつあふみのくに 協議して、越前の三国から袁本杼命 ( 継体 世の孫、袁本杼命を近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合せて、 天皇 ) を迎えたとあるが、三国は母方、近 江は父方の故郷である。 天下を授け奉りき。 一宝仁賢天皇の皇女。↓注一 = 。 ニ六アハスはめあわす意。 毛継体紀によれば、大臣・大連・諸臣ら に擁立されて即位したとある。 夭第二十六代継体天皇。応神天皇の系譜 おほほどのおほきみ みくにのきみ 継体天皇 に「意富々杼王」が見え、越前の三国君の 祖とある。↓一六七ハー二行目。 ニ九継体紀一一十年に「磐余の玉穂に都す」と たまほのみやま ほむだのおほきみいつつぎひこをほどのみこと 品太王の五世の孫、袁本杼命、伊波礼の玉穂宮に坐しまして、天下ある。桜井市池之内付近という。 ニ七 まっ のば ニ九 いはれ あめのした