たまくらべ しみず 松よ。あせを。もしこの一本松が人であったなら、大刀を佩 それで山をお降りになって玉倉部の清水に着いてお休みに かせようものを、また着物も着せようものを。一本松よ。あ 四なった時、少し正気を回復された。この故事によって、そ いさめのしみず せを ) の清水を名づけて居寤清泉というのである。 一三ロ みえのむら たまくらべ 玉倉部をご出発になって、美濃の当 とお歌いになった。そこからお進みになって、三重村にお もち 事〔を望郷の歌の 芸野のあたりにお着きになった時、 着きになった時、また、「私の足は三重に曲げた餅のよう やまとたけるのみこと に腫れ曲って、ひどく疲れてしまった」とおっしやった。 倭建命は「私の心の中で、こんな状態にならない前は、 それゆえ、そこを名づけて三重というのである。そこから 空をも飛んで行こうと思っていたが、病身になった今、私 は の足は歩けなくなり、たぎたぎしくなって ( 腫れて曲っ さらにお進みになって、能焜野にお着きになった時、故郷 て ) しまった」とおっしやった。それゆえ、その地を名づをおしのびになって、 たぎ 引倭は国のまほろばたたなづく青垣山隠れる けて当芸という。そこからほんの少しお進みになったが、 っえ うるは 倭し美し ひどくお疲れになったのでお杖をついてそろそろとお歩き やまとのくに ( 大和国は国々の中でも最もよい国だ。重なり合った青い垣 になった。それゆえ、その地を名づけて杖衝坂という。こ おつのさき 根の山、その山々の中にこもっている大和は、美しい国だ ) うして伊勢の尾津前の一本松のもとにお着きになったとこ とお歌いになった。そしてまた、 ろ、以前、東征におもむく途中でお食事をなさった時、そ くまかし いのち また たたみこもへぐり こにお忘れになったご帯刀が、なくならないで前のままに 命の全けむ人は畳薦平群の山の熊白檮が葉を うずさ 髻華に挿せその子 あった。そこでお歌に、 をはり ただ をつ ( 命の無事である人は、〈畳薦〉平群の山の大きな樫の木の 尾張に直に向へる尾津の崎なる一つ松あせを きめき たちは 葉をかんざしにさせ。おまえたちょ ) 一つ松人にありせば大刀佩けましを衣著せまし くにしのびうた とお歌いになった。この二首の歌は国思歌という名の歌で を一つ松あせを ( 尾張国の方にまっすぐに向いている、尾津の岬にある一本ある。次にまた、 っえっきさか みの た やまと あをかきやま′一も かし
古事記 294 あなと かさないで下さい。死ぬ前に私は申し上げることがありま た穴戸の神をみな服従させてご上京になった。 やまとたけるのみこといずものくに おうすのみこと す」と申した。それで小碓命はしばらくその申し出を許し 〔四〕倭建命の出雲建征さて上京の途次、倭建命は出雲国 くまそたける におはいりになって、その国の首長 て、熊曾建を押し伏せられていた。そこで熊曾建は「あな伐 いずもたける たさまはどなたでいらっしゃいますか」と尋ね申した。こ の出雲建を殺そうとお思いになり、その家に到着すると、 まきむくひしろのみや れに答えて小碓命は「私は、纏向の日代宮にいらっしやっすぐに親しい友として交わられた。そして、こっそり赤檮 おおやしまぐに おおたらしひこおしろわけのすめらみこと にせたち て、大八島国をご統治なさる大帯日子淤斯呂和気天皇で偽の大刀を作り、それを帯刀として身につけて、出雲建 ひのかわ やまとおぐなのおおきみ と一緒に肥河に出かけて水浴をされた。その際、倭建命は ( 景行天皇 ) の皇子で、名は倭男具那王という者だ。おま 川から先にお上がりになって、出雲建が解いておいた本物 えたち熊曾建の二人が天皇に服従しないで無礼であると天 皇はお聞きになって、おまえたちを殺せと仰せになり、私の大刀を取って腰につけ、「大刀を交換しよう」とおっし やった。すると出雲建は川から上がってきて、倭建命の偽 を遣わされたのだ」とおっしやった。するとその熊曾建は 「まさしくそのとおりでございましよう。西の方では自分の大刀を腰につけた。この好機を逃さず、倭建命は「さあ、 試合をしよう」と挑戦しておっしやった。そこでめいめい たち二人を除いては、ほかに勇猛で強い者はおりません。 おおやまとのくに それなのに大和国では自分たち二人にまさった勇猛な男子がその大刀を抜く時、出雲建のほうは偽の木刀ゆえ抜くこ がいらっしやったのですね。それでは私があなたさまにお とができなかった。一方、倭建命はその刀を抜いて、出雲 やまとたけるのみこ 名前を差し上げましよう。今後は倭建御子とほめたたえ建を打ち殺してしまわれた。この時、お歌に、 つづらさはま て申しましよう」と申し上げた。このことを申し終ったの 四やつめさす出雲建が佩ける刀黒葛多巻きさ身 無しにあはれ で、そこで小碓命は熟した瓜を裂くように熊曾建の体を小 さや ( 〈やつめさす〉出雲建が腰につけていた大刀は、その鞘に 気味よく引き裂いて、お殺しになった。こうしたわけで、 つづら 葛をたくさん巻いて立派だが、中身の刀身がなくて、ああお その時からお名前をほめたたえて倭建命というのである。 かー ) い ) そして大和の都へお帰りになる時に、山の神、川の神、ま いちい み
げん - 一う の大合唱である。風宮は元寇のとき神風を起したというだきなかった。先住民族と後からの支配民族との不協和音が けあって、春嬋の声が風のように湧き起り、風のように去聞えてくるようでもある。 っていくのが神秘的であった。 倭姫によって伊勢に祀られた天照大神はまた、皇室の祖 みゆき 外宮から内宮までは約六キロ、御幸道路とよばれる県道先でもある。内宮の神域はひろびろとして明るく、五十鈴 がわ みたらし の中間に、倉田山があり、この付近にはルネサンス風の博川の川縁に設けられた石畳の御手洗場には、木漏れ日が美 ・ちよら・こかん ふ すす 物館「神宮徴古館」と「神宮農業館」、二十四万冊の本をしい斑を作っていた。倭姫が裳裾を濯いだという伝説から みもすそ みそ 収容する「神宮文庫」などがあって、知識を求める人のた御裳裾川ともいうそうであるが、御禊の形がその話の中に やまとひめ めには貴重な資料が多い。神宮文庫のすぐ近くには「倭姫遺っているのかもしれない。正宮の拝殿の前に掛けられた みや ちぎかつお 宮」がある。 白絹をすかして、白い玉砂利と、千木鰹木をそなえた正殿 やまとひめのみこと みずがき あらまつりのみや 内宮をこの地に定めたのは、この倭姫命だといわれる。 が、瑞垣越しにほのかに見える。裏の荒祭宮まで行ったと すいにん せのおほかみのみやいっ 垂仁天皇の皇女であり、『古事記』には「伊勢大神宮を拝き、またしても湧き上がるような春蝉の声にかこまれた。 き祭りたまひき」とある。『日本書紀』によれば、倭姫は衛士の人に訊ねてみると、ヒメワカゼミという小さな翅の うだ 大神を鎮座させるところを求めて、菟田、近江、美濃とますきとおった蝉で、めったにその姿を見ることがないが、 わって、ようやく伊勢に到って天照大神をここに祀ること急激に大合唱が起っては消えるので、時々驚かされること すじん とよすきいりひめ ができたという。前代の崇神天皇の時には、皇女豊鍬入姫があるという。そのもの言いのやわらかさが、旅の心を安 やまとおおくにたまのみことめなきいりひめつ に天照大神を託け、倭大国魂命を渟名城入姫に託けて祭らがせてくれた。 やすか らせたが、渟名城入姫は「髪落ち体痩みて祭ること能はざ 内宮からの帰途、猿田彦神社に寄ってみる。天孫降臨の さるめ りき」という状態だった。この崇神紀の条項は、そのころとき先導をつとめたという猿田彦とアメノウズメ ( 猿女 ) ようやく祭政一致の時代から、神人分離の時代に入ったこ は同族の兄妹で、伊勢を根拠地とする土豪だったと考えら とを示しているともいえるのだろう。そしてまた、天孫族れている。天孫降臨ののち、アメノウズメは猿田彦を送っ さもの ことごとはたひろもの の皇女は天っ神は祀れても国っ神はなかなか祀ることがでて伊勢に還る。そして「悉に鰭の広物、鰭の狭物を追ひ聚 っ べり はね あっ
291 中巻 ( 本文一二六 たいへん醜いということで、故郷の丹波国へ送り返しなさ くの香の木の実を持って参上いたしました」と申して、つ った。それで円野比売はこれを恥じて、「同じ姉妹の中で、 しに絶叫しながら死んでしまった。その時じくの香の木の うわさ たちばな 容姿が醜いとの理由で返されたとあっては、隣近所の噂に 実というのは、今日の橘である。この天皇のご享年は百五 すがわらみたちの 上ることでしようし、これはまことに恥ずかしいことで十三歳。御陵は菅原の御立野の中にある。また皇后の比婆 やましろのくにさがらか いわきつくり す」と言って、山城国の相楽に到着した時、木の枝にぶら 須比売命がお亡くなりになった時、石祝作を定め、また土 * 、がりき てらまのはか さがって死のうとした。それゆえ、その地を名づけて懸木師部を定められた。この皇后は狭木の寺間陵に葬り申し上 おとくに といったが、今は相楽という。また弟国 ( 乙訓 ) に到着し けわ ふち た時、とうとう険しい淵に落ちて死んでしまった。それゆ おちくに え、その地を名づけて堕国と呼んでいたのだが、今は弟国 景行天皇 というのである。 すいにん おおたらしひこおしろわけのすめらみこと 大帯日子淤斯呂和気天皇 ( 景行天 〔三〕時じくの香の木のまた垂仁天皇は三宅連らの祖先で名 たじまもり まきむくひしろのみや 〔一〕后妃と御子 実 は多遅摩毛理という者を海のかなた 皇 ) は纏向の日代宮にいらっしやっ とこよのくにつか かくこみ きびのおみ の常世国に遣わして、時じくの香の木の実を捜し求めさせ て、天下をお治めになった。この天皇が、吉備臣らの祖先 わかたけきびつひこ はりまのいなびのおおいらつめ られた。勅命を拝した多遅摩毛理がようやくその国に到着の若建吉備津日子の娘で名は針間之伊那毘能大郎女という かげやかげほこやほこ くしつめわけのおおきみ し、その木の実を採って、それを縵八縵・矛八矛にして持方を妻としてお生みになった御子は、櫛角別王、次に な おおうすのみこと おうすのみことやまとたけるのみこと やまとおぐなのみこと ち帰ってくる間に、 天皇はすでにお亡くなりになっていた。大碓命、次に小碓命 ( 倭建命 ) で別名は倭男具那命、 やまとねこのみこと かむくしのおおきみ やさかのいりひ そこで多遅摩毛理は、そのうち縵四縵・矛四アを分けて皇次に倭根子命、次に神櫛王である〔五柱〕。また八尺入日 ひばすひめのみこと このみこと やさかのいりひめのみこと 后の比婆須比売命に献上し、残りの縵四縵・矛四矛を天皇子命の娘の八坂之入日売命を妻としてお生みになった御子 わかたらしひこのみこと いおきのいりひこのみこと の御陵の入口に供えて、その木の実を高く捧げ持ち、悲し は、若帯日子命 ( 成務天皇 ) 、次に五百木之入日子命、次 おしわけのみこと いおきのいりひめのみこと みのあまり大声をあげて泣いて、「ただ今、常世国の時じ に押別命、次に五百木之入日売命である。またある夫人の たにはの′、に みやけのむらじ ささ しべ さき
おほやまとたらしひこくにおしひとのみことかづらきむろあきっしまのみやま 大倭帯日子国押人命、葛城の室の秋津島宮に坐しまして、天下治め一第六代哮安天皇【孝昭天皇の第一一皇子。 孝安紀に「日本足彦風押人天皇」とある。 こすめらみことめひおしかひめのみことめと みこおほきびのもろ たまひき。此の天皇、姪忍鹿比売命を娶りて生みませる御子、大吉備諸 = 孝安紀に「都を室の地に遷す。是を秋 津島宮と謂ふ」とある。御所市室の宮山の 四 旨ロ すすみのみこと おほやまとねこひこふとにのみこと かれ 東麓が宮址という。大和の枕国・秋津島」は 事進命、次に大倭根子日子賦斗邇命〔一一柱〕。故、大倭根子日子賦斗邇命 この地名からつけられた。 おしひめ みとしももちまりはたみとせみはかたまてのをかへ 古 三孝安紀には「押媛」とある。孝安天皇の は天下治めたまひき。天皇の御年、壱佰弐拾参歳。御陵は玉手岡の上に 兄、天押帯日子命の娘。 四のちの孝霊天皇。 在り。 五御所市玉手の地。 102 めと 六第七代孝霊天皇。孝安天皇の第一一皇子。 おほやまとねこひこふとにのすめらみこと 孝霊紀に「大日本根子彦太瓊天皇」とある。 セ孝霊紀に「都を黒田に遷す。是を廬戸 孝霊天皇 宮と謂ふ」とある。奈良県磯城郡田原本町 黒田。 おほやまとねこひこふとにのみことくろだ いほとのみやま あめのした 大倭根子日子賦斗邇命、黒田の廬一尸宮に坐しまして、天下治めたまひ〈桜井市、磯城郡地方の豪族。孝元紀に 「磯城県主大目が女」とある。十市県主と磯 こすめらみこととをちのあがたぬしおやおほめむすめ くはしひめのみことめと 城県主は同族という。 き。此の天皇、十市県主の祖大目の女、名は細比売命を娶りて生みませ 九のちの孝元天皇。 九 やまとのくにかひめ おほやまとねこひこくにくるのみこと かすがのちちはやまわかひめ 一 0 孝霊紀には「倭国香媛、亦の名は某 る御子、大倭根子日子国玖琉命〔一柱〕。又春日千々速真若比売を娶りて 姉」とある。 やまとととびももそひめのみこと ちちはやひめのみこと おほやまとくにあれひめのみこと 一一孝霊紀には「倭迹々日百襲姫命」とある。 生みませる御子、千々速比売命〔一柱〕。又意富夜麻登玖邇阿礼比売命を崇神紀 + 年に、この姫が大物主神の妻にな った記事 ( 三輪山伝説 ) が見える。三輪山の やまととももそびめのみこと ひこさしかたわけのみこと 娶りて生みませる御子、夜麻登々母々曾毘売命、次に日子刺肩別命、次麓にある轡はこの姫の墓という。 あめのした
おおなむちのかみさきみたまくし 一神代紀の一書には大己貴神の幸魂・奇 天下の事を知れる神なり。 みたま 魂だという。 あれひとり うれ 是に大国主神愁へて告りたまはく、「吾、独して何か能く此の国を得 = ヲサムは神霊を鎮め祭る意。 三大和の、青い垣のように巡らしている 山々の東の山、の意で、桜井市の三輪山を おおみわ 事作らむ。孰れの神か吾と能く此の国を相作らむ」とのりたまひき。是の さす。この山は大神神社の神体山である。 古 あ てら 四 ミモロは神のこもる所の意。ここは三 時、海を光して依り来る神有り。其の神言りたまはく、「能く我が前を 輪山をさす。『出雲国造神賀詞』には、大穴 にみたま - も しか あれ 持命 ( 大国主神の別名 ) が、「自分の和魂を くしみかたまのみこと 治めば、吾能く共与に相作り成さむ。若し然らずば、国成り難けむ」と 鏡につけて、倭の大物主櫛甅玉命と名を 称えて、三輪山に鎮めよ」といったとある。 まを まっさまい のりたまひき。爾に大国主神日したまはく、「然らば治め奉る状は奈何」五年穀の神。↓四四ー注一 0 。以下は須佐 おおやまつみのかみ かむおおいちひめ 之男と大山津見神 0 娘一神大市比売と 0 間 まっ あ やまとあをがきひむがし とまをしたまへば、「吾をば倭の青垣の東の山の上にいっき奉れ」と答に生れた大年神の系譜を述べる。説話の流 れからみると、ここに入れる必然性はない。 みもろのやまへ の しかしここに現れる神には、朝詳の神や帰 へ言りたまひき。此は御諸山の上に坐す神なり。 はた 化人の秦氏の祭神、年穀の神、その他有名 かれそおほとしのかみかむいくすびのかみむすめいのひめめと 故、其の大年神、神活須毘神の女、伊怒比売を娶り神社の祭神が見えて注目される。 六『出雲国風土記』に「出雲郡伊努」と見え、 九 〔 0 大年神の系譜 からのかみ おほくにみたまのかみ 伊努神社がある。 おおやまと て生みませる子、大国御魂神、次に韓神、次に曾富 セ国土の神霊。天理市の大和神社をはじ ←一よひめ りのかみ しらひのかみ ひじりのかみ、つはしら め各国に同名の神が祭られている。 から 理神、次に白日神、次に聖神神〕。又香用比売を娶りて生みませる子、 ^ 朝鮮の神の意。出雲系の神は韓 ( 朝鮮 ) あめちかるみづひめ おほかがやまとおみのかみ と関係が深い。カラは古くは朝詳南部の国 みとしのかみふたはしら 大香山一尸臣神、次に御年神〔一一柱〕。又天知迦流美豆比売を娶りて生みま 名・伽羅」に由来する。 九ソホリは朝詳語「ソウル」 ( 首都 ) と関係 もろひと おきつひめのみことまた おほへひめのかみこ せる子、奥津日子神。次に奥津比売命、亦の名は大戸比売神。此は諸人があるという説がある。 あめのした ここ おきつひこのかみ とも の へ いかによ がた まへ たた
299 中巻 ( 本文一三九ハー ) わぎへかた くもゐ 引愛しけやし吾家の方よ雲居立ち来も きな白鳥に姿を変えて、空高く飛び立ち、浜に向って飛ん しの ( ああ、なっかしい、わが家の方から、雲が湧き起ってくる で行った。これを見て、その妃や御子たちは、その小竹の よ ) 切株で足を傷つけても、その痛さをも忘れ、泣いて追って かたうた ロしになった。これは片歌という形式の歌である。こ 行かれた。この時に妃や御子たちは、 きとく あさしのはら の時、ご病気が急変して危篤になった。その時のお歌に、 浅小竹原腰なづむ空は行かず足よ行くな をとめ とこペ わ たち ( 丈の低い小竹の原を進もうとするが、腰に小竹がまつわり 引嬢子の床の辺に我が置きしつるぎの大刀その 大刀はや ついて歩きづらい。白鳥は空を飛ぶのに、こちらは空を飛ん たち ( 乙女の床のあたりに、私が置いてきた大刀。ああ、その大 では行けないで、足で歩いて行くことよ ) 刀よ ) とお歌いになった。また妃や御子たちは、その浜の海水に と歌い終るやいなやお亡くなりになった。そこで従者たち はいって、難渋しながらお進みになった時に こうきょ うみが おほかはら は倭建命の薨去を知らせるため、早馬の使者を朝廷に差し 算海処行けば腰なづむ大河原の植ゑ草海処は 上げた。 いさよふ やまと ( 海を行くと、腰まで水に浸って歩きづらい。広々とした川 そこで、大和にいらっしやる妃たち のばの 〔 0 天翔る白鳥みこ の水面に生えている水草が漂うように、海は足をとられて思 や御子たちは、みな能煩野に下って うように進めないことよ ) きて御陵を造り、そしてその地に付属する田を這いまわっ て、声をたててお泣きになって、 とお歌いになった。また白鳥が浜から飛び立って、岩石の いながら ・もレ . 一ほ ところづら めなづきの田の稲幹に稲幹に匍ひ廻ろふ野老蔓多い磯にとまっている時、 いそづた やまいもつる ( 御陵のそばの田の稲の茎に、這いまつわっている山芋の蔓 浜っ千鳥浜よ行かず磯伝ふ よ ) ( 浜の千鳥のいる平坦な浜を行かないで、白鳥は岩石のごろ やまとたけるのみこと ごろした磯づたいに行くことだ ) とお歌いになった。そうしている間に、倭建命の魂は大 な や わ きさき ちとり ぐさ
古事記 270 さらにその国からお上りになった時、亀の甲に乗って釣を しながら左右の袖をはばたいて来る人に、潮流の速い海峡 はやすいのと の速吸門でお会いになった。そこで伊波礼毘古命がその人 かむやまといわれびこのみこと を呼び寄せて、「おまえは誰か」とお尋ねになると、「私は 神倭伊波礼毘古命 ( 神武天皇 ) は、 いっせのみこと その同母兄の五瀬命とともに二柱で国っ神です」とお答え申し上げた。また「おまえは海路を たかちほのみや 高千穂宮におられ、ご相談なされて、「いったいどこの地知っているか」とお尋ねになると、「よく存じております」 まつり ) 一と にいたならば、平安に天下の政を治めることができるだ とお答え申し上げた。さらに「私に従って仕え申すか」と お尋ねになると、「お仕え申し上げましよう」とお答え申 ろうか。やはり東の方に都の地を求めて行こうと思う」と さお つくしのくに ひむか し上げた。それで棹を先方にさし渡し、そのお船に引き入 仰せられて、さっそく日向をおたちになって、筑紫国にお とよのくにうさ さおねつひこ いでになった。その途中、豊国の宇沙にご到着になった時、れて、そして名前をお与えになって、槁根津日子とお名づ うさつひこ うさつひめ やまとのくにのみやっこ けになった〔この者は大和国造らの祖先〕。 その国の土豪で名を宇沙都比古・宇沙都比売という一一人が、 ちそう なみはやのわたり あしひとつあがりのみや さて、その国から上って行かれる時、波の荒い浪速渡を 足一騰宮を造ってお迎えし、ご馳走を差し上げた。さら あをくも すね おかだのみや しらかたのつ にそこからお移りになって、筑紫の岡田宮に一年間ご滞在経て、〈青雲の〉白肩津にご停泊になった。この時、脛の あきのくにたけ とみのながすねびこ になった。またその国からお上りになって、安芸国の多祁長い登美能那賀須泥毘古が軍勢を集めて、皇軍を待ち迎え たて りのみや 理宮に七年間ご滞在になった。またその国から移りお上り て戦った。そこで伊波礼毘古命はお船に入れてあった楯を きび たかしまのみや になって、吉備の高島宮に八年間ご滞在になった。そして、取って下船し、その楯を立てて防戦なされた。それゆえ、 神武天皇 征 古事記中巻 のば
かむあが 一神代紀に「彦火々出見尊崩りましぬ。 ち其の高千穂の山の西に在り。 たかやのやまのうへのみさぎき 日向の高屋山上陵に葬りまつる」とあり、 あいら あまつひこひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと 是の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、其の姨玉依毘売命を娶りて『陵墓要覧』に鹿児島県姶良郡溝辺村大字麓 旨ロ 字菅ノロとある。現在の溝辺町麓 四 わかみ みけぬのみこと いなひのみこと いっせのみこと 一一ィッは「厳」、セは稲の意。厳しき稲の 事生みませる御子の名は、五瀬命、次に稲氷命、次に御毛沼命、次に若御 神の義。以下の兄弟の神もすべて稲に関す あめのおしほみみのみこと 古 かれ かむやまといはれびこのみこと とよみけめのみこと けぬのみことまた る名を負う。天之忍穂耳命以下の皇統の 毛沼命、亦の名は豊御毛沼命、亦の名は神倭伊波礼毘古命〔四柱〕。故、 子孫の名に共通する理念である。 いなひのみこと しうな三神代紀の一書に「稲飯命」とある。ヒは 御毛沼命は浪の穂を跳みて常世国に渡り坐し、稲氷命は妣の国と為て海 霊の意。稲霊の神。 四神代紀に「三毛入野命」とある。ミケは はら 原に入り坐しき。 御饌、ヌは主の義。 五次の別名とともに御毛沼命と同義の名。 かむやまといはれ 六後の神武天皇。神武紀に「神日本磐余 ひこのすめらみこと 彦天皇」とある。イハレ ( 磐余 ) は奈良県 桜井市中部から橿原市東南部に当る。しば しば皇居が置かれた。 セ海のかなたにある理想郷。↓三八ハー注 ^ 「妣」は亡き母の義で、玉依毘売命をさ す。「海原」は海神の宮のある所である。 なみ とこよのくに ま は ^ めと
古事記 ずいしよう られる瑞祥として、雁が卵を生んだのに違いありません ) 出かけになったところ、その島には雁が卵を生んでいた。 たけしうちのすくねのみこと ほきうたかたうた そこで天皇は建内宿禰命をお呼びになって、歌によって と歌った。この歌は寿歌の片歌という歌曲である。 いずみのくに 雁が卵を生んだ有様をお尋ねになった。その歌に、 この仁徳天皇の御世のこと、和泉国 うちあそな ながひと とのきがわ 〔 0 枯野という名の船 たたまきはる内の朝臣汝こそは世の長人そらみ にある兔寸河の西に一本の高い木が やまと っ倭の国に雁卵生と聞くや 生えていた。その木の高いことは、朝日に当ると影が淡路 かわちのくにたかやすやま うちあそみ ( 〈たまきはる〉内の朝臣よ。おまえこそこの世の長寿者だ。 島にまで及び、夕日に当ると河内国の高安山を越えるほど やまと だから尋ねるが、〈そらみつ〉大和の国で、雁が卵を生むと であった。そこでこの木を伐って船を造ったところ、非常 からの いう話を聞いたことがあるか ) に速く走る船になった。当時、その船を名づけて枯野とい った。そしてこの船を使って、朝夕、淡路島の清水を汲ん とお歌いになった。すると建内宿禰は歌によって、 たかひか うべ 高光る日の御子諾しこそ問ひたまへまこそに できて、天皇のご飲料水を献上した。そのうちこの船が壊 あれ 問ひたまへ吾こそは世の長人そらみつ倭の国れてしまったので、その廃材で塩を焼き、その焼け残った 雁卵生と未だ聞かず 木を用いて琴を作ったところ、その音は遠く七村にまで響 ( 〈高光る〉日の御子よ。ようこそお尋ねくださいました。 き渡った。そこで当時の人々が、 ほんとうによくお尋ねくださいました。私こそこの世の長寿 乃枯野を塩に焼き其が余り琴に作りかきくや となか 者であります。しかし〈そらみつ〉大和の国で雁が卵を生む 由良の門の門中の海石に触れ立っ浸漬の木の という話は、まだ聞いたこともございません ) さやさや ( 枯野という船の廃材を塩を採るために焼き、その余りで琴 と申し上げた。このように申し上げて、天皇からお琴を賜 を作って、それをかき鳴らすと、その音は由良の海峡の、そ な こむ つひ がんしよう の海中にある岩礁に揺れながら生えている海草のように、さ 汝が御子や終に知らむと雁は卵生らし ( あなたさま、日の御子が長生きをされて、末長く国を治め やさやと鳴り響くことよ ) ふ