名古屋から近鉄宇治山田までは、二階だての特急で直行 する。すっかり都市化したとはいえ、まだ青田や葦原がひ ろがり、白鷺が形よく飛んでいるのを見ると、なるほど、 とよあしはらみずほのくに 豊葦原の瑞穂国だなあという実感がある。 神宮の参拝は外宮からはじめるならわしに従い、まず外 うっそう ・昭和年 8 月引日宮へ。鬱蒼と茂る樹々のなかに参道がつづく。白木の鳥居 とようけの しで の両側に幣をつけた楙が飾られているのが清々しい。豊受 大神とは、五穀を司る神であるが、御食っ国といわれる志 伊勢志摩ー古典文学散歩ー 摩を控えた伊勢に鎮座するこの神には、何となく魚や貝な ど豊富な海の幸を司る感じがある。もともとは丹後の真奈 うつ 尾崎左永子 井原から遷されたといわれ、 - 今でも天の橋立の近くには元 げくう ないくう 伊勢神宮が内宮 ( 皇大神宮 ) と外宮 ( 豊受大神宮 ) の二つ伊勢という所がある。丹後半島は羽衣伝説や浦島伝説の遺 あまぞく から成っていることは、誰でも知っていることだが、このる地で、海人族の根拠地であったのかもしれない。そこの まっ てんそんぞく ほかに別宮、摂社、末社などを含めてじつに百二十三社に神が、天孫族天照大神を祀る内宮と併立しているところに、 やしろ も及ぶ社が、近辺に点在している。一つ一つ見て歩いてい歴史と神話の接点がよみとれるようである。 しレつぐう たら何か月もかかってしまいそうであるが、それだけ歴史正宮の前でかしわ手を打っと、しんと静まったあたりの も古く、永く親しまれてきた神域だともいえるのだろう。空気に、深山に似た杉の香りが立ちこめて清浄の気が漂う。 江戸の庶民が「おかげ参り」や「抜け参り」で息抜きをしさすがに観光化されていないのがありがたい。木深い森の っちの 男宮の土 たのも、神宮詣でという一種の免罪符に頼ってのことで、下に神鶏が遊んでいて、張りのある声をあげる。リ たかのみや みやかぜのみや ひのきお そこに「お伊勢さん」への崇敬と親愛がこめられていたの宮、風宮、石段を登った檜尾山の上の多賀宮、と巡拝して であろう。 いると、突然風のように梢を渡る響きに驚かされた。春蝉 日本の古典月報 9 第 1 巻古事記 おおかみ
369 解説 理念である。先に『古事記』の内容と構成の節で述べたとおり、上巻では高天原系神話と対立する出雲系神 話は、いわば陽に対する陰の関係にあって、この両者を統合したのが天孫降臨以下の筑紫系神話である。そ れ以下の人皇物語は、帝紀を中心に展開する史典の体をなしている。これを純然たる叙事文学とみるのには、 いささか躊躇されるが、全巻を通じて神権統治の理念を軸にして、叙事の展開がみられるという意味におい て、叙事文学性は豊かにあるといえよう。 七『古事記』の諸本 古書には筆写した本があって、しかもそれが系統によって何種類かの本として伝わっている。これを書訷 学では諸本とか伝本とかいう名称で呼ぶのである。『古事記』にも諸本があって、大別して伊勢系諸本とト 部系諸本の二門に分けられる。前者は伊勢神道の流れを汲む真福寺本系の諸本のことで、真福寺本 ( 三冊 ) を始めとして、道果本 ( 上巻一冊 ) 、道祥本 ( 上巻一冊、伊勢本ともいう ) 、春瑜本 ( 上巻一冊、伊勢一本ともいう ) などがある。 後者のト部系諸本は神道家ト部兼永 ( 戦国時代の人 ) の自筆本 ( 鈴鹿登本ともいう。三冊 ) を祖本とする系統 のもので、これには前田家本・近衛家本など三十本近くもある。 以上の両系統の諸本の中で最古の写本は「真福寺本」である。この本は名古屋市中区大須の真福寺 ( 真言 宗 ) の宝生院に蔵された本である。これは同寺第二世の信瑜の命によって、学僧の賢瑜が南北朝時代の広安 四年 (IIIPI) に上・中巻を、翌五年に下巻をそれそれ書写したのである。この本は現存最古の写本で、しか けんゅ 印い
げん - 一う の大合唱である。風宮は元寇のとき神風を起したというだきなかった。先住民族と後からの支配民族との不協和音が けあって、春嬋の声が風のように湧き起り、風のように去聞えてくるようでもある。 っていくのが神秘的であった。 倭姫によって伊勢に祀られた天照大神はまた、皇室の祖 みゆき 外宮から内宮までは約六キロ、御幸道路とよばれる県道先でもある。内宮の神域はひろびろとして明るく、五十鈴 がわ みたらし の中間に、倉田山があり、この付近にはルネサンス風の博川の川縁に設けられた石畳の御手洗場には、木漏れ日が美 ・ちよら・こかん ふ すす 物館「神宮徴古館」と「神宮農業館」、二十四万冊の本をしい斑を作っていた。倭姫が裳裾を濯いだという伝説から みもすそ みそ 収容する「神宮文庫」などがあって、知識を求める人のた御裳裾川ともいうそうであるが、御禊の形がその話の中に やまとひめ めには貴重な資料が多い。神宮文庫のすぐ近くには「倭姫遺っているのかもしれない。正宮の拝殿の前に掛けられた みや ちぎかつお 宮」がある。 白絹をすかして、白い玉砂利と、千木鰹木をそなえた正殿 やまとひめのみこと みずがき あらまつりのみや 内宮をこの地に定めたのは、この倭姫命だといわれる。 が、瑞垣越しにほのかに見える。裏の荒祭宮まで行ったと すいにん せのおほかみのみやいっ 垂仁天皇の皇女であり、『古事記』には「伊勢大神宮を拝き、またしても湧き上がるような春蝉の声にかこまれた。 き祭りたまひき」とある。『日本書紀』によれば、倭姫は衛士の人に訊ねてみると、ヒメワカゼミという小さな翅の うだ 大神を鎮座させるところを求めて、菟田、近江、美濃とますきとおった蝉で、めったにその姿を見ることがないが、 わって、ようやく伊勢に到って天照大神をここに祀ること急激に大合唱が起っては消えるので、時々驚かされること すじん とよすきいりひめ ができたという。前代の崇神天皇の時には、皇女豊鍬入姫があるという。そのもの言いのやわらかさが、旅の心を安 やまとおおくにたまのみことめなきいりひめつ に天照大神を託け、倭大国魂命を渟名城入姫に託けて祭らがせてくれた。 やすか らせたが、渟名城入姫は「髪落ち体痩みて祭ること能はざ 内宮からの帰途、猿田彦神社に寄ってみる。天孫降臨の さるめ りき」という状態だった。この崇神紀の条項は、そのころとき先導をつとめたという猿田彦とアメノウズメ ( 猿女 ) ようやく祭政一致の時代から、神人分離の時代に入ったこ は同族の兄妹で、伊勢を根拠地とする土豪だったと考えら とを示しているともいえるのだろう。そしてまた、天孫族れている。天孫降臨ののち、アメノウズメは猿田彦を送っ さもの ことごとはたひろもの の皇女は天っ神は祀れても国っ神はなかなか祀ることがでて伊勢に還る。そして「悉に鰭の広物、鰭の狭物を追ひ聚 っ べり はね あっ
あのり あるいは少し不便だが安乗の民宿で「鰭の広物、鰭の狭 あえ 物」の饗に出逢うのは満足感も大きい。賢島から柿本人麻 ふなの をとめ あかもすそしほ 呂が「安胡の浦に舟乗りすらむ娘子らが赤裳の裾に潮満っ あごわん らむか」 ( 万葉三六一 0 ) と詠んだ英虞湾を船で渡り、御座港、 なきりあのりぎき 大王崎 ( 波切 ) 、安乗崎を巡るコースも抜群で、詩人伊良 ごすずしろ うた 子清白が「いみじくも貴き景色」と謳ったことばをかみし めつつ、日本の神話と歴史の思い出に浸ることの多い旅で ふるいち あった。ほかに「天の岩一尸」「古市」 ( 旧遊廓 ) 「神宮神田」 いぎわのみや 「二見浦」「伊雑宮」など見どころも多いので、旅程はゆっ くり組み、下調べしてから行くのがよい ( 歌人 ) 用するとよい ・味 赤福餅 伊勢といえば赤福というほど有名になりすぎたが、お茶と 赤福は合う。内宮近くに古い看板があるお店。 磯料理 あわび・さざえ・えびなどの活料理。海岸の町では、どこ でも食べられる。ただし、季節があるので注意。 海の幸フランス料理 志摩観光ホテルの名物料理。遠くからくる人も多い 「塩こをろこをろに」考 『古事記』の神話から ・交通 荻原浅男 名古屋ー伊勢市 ( 国鉄参宮線、急行はまゆう 1 時間分 ) 名古屋ー宇治山田 ( 近鉄、特急 1 時間分 ) 一師楽式土器 〇外宮は、伊勢市駅から徒歩 5 分、宇治山田駅からはバス 5 分。 去る昭和四十二年の夏、『古事記』のイザナキ、イザナ 〇内宮へは、三重交通バス燔分。 ミ両神が創成したというオノゴロ島のことで、瀬戸内に浮 いえしま * 問合せ / 神宮司庁弘報課 0 五突ー一一四ー一一一一。 ぶ兵庫県の家島に渡ったことがある。その時に泊った旅宿 猿田彦神社 0 五九六ー = = で、この島の漁業組合長の方から神戸新聞社発行の『家島 明和町役場斎宮跡保存室 0 五九六五ー一一ー 0 一一 0 。 ーーー鳥羽・志摩の方を回る場合は、観光バスをじようずに利群島』という本を借りる機会を得た。この本は三十四年に 【メモ】
101 中巻 よそたらしひめ 一四孝昭紀には「世襲足媛」とある。 一五のちの孝安天皇。人名中の「帯」はタラ シの当字。帯は結んで垂すから。子孫が長 く続くことを帯にたとえたという。 あそみ 孝昭天皇 一六以下の氏族の順は天武紀十三年に朝臣 かばね の姓を授けられた氏族の順とほば一致する。 みまつひこかゑしねのみことかづらきわきがみのみやま これは『古事記』の編纂が天武天皇と関係が 御真津日子訶恵志泥命、葛城の掖上宮に坐しまして、天下治めたまひ 深いことを示唆する。春日臣は大和国添上 こすめらみことをはりのむらじおやおきつよそ よそたほびめのみことめと 郡春日、大宅臣は同上の添上郡大宅、粟田 き。此の天皇、尾張連の祖奥津余曾の妹、名は余曾多本毘売命を娶りて臣は山城国愛宕郡粟田、小野臣は近江国滋 賀郡小野にそれぞれちなむ氏族。柿本臣は あめおしたらしひこのみこと おほやまとたらしひこくにおしひとのみこと 生みませる御子、天押帯日子命、次に大倭帯日子国押人命〔二柱〕。故、柿本人麻呂を出した氏族で、『新撰姓氏録』 大和国皇別に「家の門に柿の樹有るに依り いろどたらしひこくにおしひとのみこと かすがのおみおほ 弟帯日子国忍人命は天下治めたまひき。兄天押帯日子命は〔春日臣・大て柿本臣氏とす」とある。壱比韋臣は大和 国添上郡櫟井、大坂臣は備後国安那郡大坂 やけのおみあはたのおみをののおみかきのもとのおみいちひゐのおみおほさかのおみあなのおみたきのおみはぐりのおみちたのおみ か、または大和国葛上郡大坂、阿那臣は備 宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣・大坂臣・阿那臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・ 後国安那郡または近江国坂田郡阿那にちな みとしここの むぎのおみつのやまのおみいせ 牟耶臣・都怒山臣・伊勢の鯲高君・師君・近淡海造が祖なり〕。天皇の御年、玖む氏族。多紀臣は丹波国多紀郡か。羽栗臣 は尾張国葉栗郡葉栗、知多臣は尾張国智多 そぢまりみとせみはかわきがみはかたやまへ 郡、牟耶臣は上総国武射郡にそれそれちな 拾参歳。御陵は掖上の博多山の上に在り。 む氏族。都怒山臣は『万葉集』一三 = の人麻呂 たかつのやま の「高角山」の歌で知られる石見国那賀郡都 農にちなむか。飯高君は伊勢国飯高郡、壱 師君は伊勢国壱志郡にちなむ氏族。近淡海 国造の「近淡海」は近江をさす。 宅九十三歳。 天御所市三室の地。 孝安天皇 いろせ あめのした かれ
古事記 132 ここみうたよ ち倭建命、其の刀を抜きて、出雲建を打ち殺したまひき。爾に御歌日み一「出雲」の枕詞。イヅモを「出づる藻」と 解したうえで「八つ藻さす」または「弥っ芽 さす」とする説があるが未詳。 したまは / 、、 一一ッヅラはツヅラフジ科の蔓性植物であ つづらさはま るが、ここでは蔓性植物の総称で、弓や槍 四やつめさす出雲建が佩ける刀黒葛多巻きさ身無しにあはれ の柄に巻いて、補強や装飾に用いた かくはら まゐのばかへりごとまを 三サは接頭語。ミは刀身。木刀だから刀 とうたひたまひき。故、如此撥ひ治めて、参上り覆奏したまひき。 身はない ひむがし やまとたけるのみことの 四感動詞で、ああおかしい、気味がいい ここすめらみことまたし 爾に天皇、亦頻きて倭建命に詔りたまはく、「東の意。鞘は立派だが、中身は木刀なので抜 〔五〕倭建命の東国征伐 くことができず、討たれたことを嘲笑した。 ども ことむ かたとをまりふたみち の方十二道の荒ぶる神、及まつろはぬ人等を一一 = ロ向五重ねて、の意の副詞節 六東海道一 。↓一二ハー注三。 みすきともみみたけひこそ きびのおみらおや きびのたけひこ セ景行紀四十年に「天皇、則ち吉備武彦 け和平せ」とのりたまひて、吉備臣等の祖、名は御鈕友耳建日子を副へ おほとものたけひのむらじみことおほ と大伴武日連とに命せたまひて、日本武 いなび はりまの まか かれみこと やひろほこ つか て遣はす時、ひひらぎの八尋矛を給ひき。故、命を受けて罷り行でます尊に従はしむ」とある。母の針間之伊那毘 能大郎女は吉備臣の祖先で、倭建命と吉備 をばやまとひめの すなはそ 一 0 みかどをろが おほみかみのみやまゐい 臣との関係は深い 時、伊勢の大御神宮に参入り、神の朝庭を拝みて、即ち其の姨倭比売 ^ 柊は悪霊邪気を祓う呪力のある木。矛 一ニあれ みことまを を授けたのは後世の出征将軍に刀を授ける 命に白したまはく、「天皇既に吾死ねと思ほす所以か、何とかも西の方 儀式に通じる。 ほどいま まゐのばこ ども 九伊勢の皇大神宮。当時、この神宮が実 の悪しき人等を撃ちに遣はし、返り参上り来し間、未だ幾時も経ぬに、 在したとは考えられず、その前身の地方神 一ら どもたひら を祭る神社はあったにしても、皇祖を祭る いく * 一 ) とら 軍衆をも賜はずて、今更に東の方十二道の悪しき人等を平げに遣はす神宮とな。たのははるか後代であろう。 一 0 神の宮殿、伊勢神宮をさす。 おも なほあれ らむ。此れに因りて思惟へば、猶吾既に死ねと思ほし看すなりーとまを = 「姨」は母の姉妹をいう。倭比売は倭建 ( 現代語訳一一九五ハー ) また め
巻 1 また おほいりきのみこと やさかのいりひこのみこと めなきのいりひめのみこと マクハシの序とする。マクハシは美麗。 みませる御子、大入杵命、次に八坂之入日子命、次に沼名木之入日売命、 三崇神紀に「豊城入彦命」とある。 一五・ とをちのいりひめのみこと おほびこのみこと みまつひめのみこと 次に十市之入日売命〔四柱〕。又大毘古命の女、御真津比売命を娶りて一 = 崇神紀に鍬入姫命」とある。天皇は 天照大神 ( 八咫鏡 ) を姫に託して、宮中から かさぬいのむら いっきのみや ′、に。かた一 くめいりひこいさちのみこと いぎのまわかのみこと 大和の笠縫邑に移祭させたとある。斎宮 生みませる御子、伊玖米入日子伊沙知命、次に伊耶能真若命、次に国片 の最初の人。 おほしあまひめ ちちつくわひめのみこと がひめのみこと やまとひこのみこと ひめのみこと 一四崇神紀に「尾張大海媛、八坂入彦命・ 比売命、次に千々都久和比売命、次に伊賀比売命、次に倭日子命「六 渟名城入姫命・十市瓊入姫命を生む」。 たちあは とをまりふたはしら かれ 一五孝元天皇の皇子。↓一〇四ハー注五。 柱〕。此の天皇の御子等、井せて十二柱〔男王七、女王五なり〕。故、伊久一六のちの垂仁天皇。↓一一五注一 = 。 とよ、のみこと 宅崇神紀四十八年に「豊城命以て東を治 めいりびこいさちのみこと かみつけの 米伊理毘古伊佐知命は天下治めたまひき。次に豊木入日子命は〔上毛野・ めしむ。是れ上毛野君・下毛野君の始祖な り」とある。 いもとよすきひめのみこと 下毛野君等の祖なり〕。妹豊鈕比売命は〔伊勢大神の宮をき祭りき〕。次に大入杵天天照大御神を祭る伊勢の皇大神宮。 一九陵墓の周囲に人を立てて埋めること。 のとのおみ みはかひとがき 垂仁紀二十八年に、天皇はこれを傷んで禁 命は〔能登臣の祖なり〕。次に倭日子命〔此の王の時、始めて陵に人垣を立てき〕。 のみのすくわ じたとあり、同三十二年に野見宿禰の献策 こすめらみことみよ えやみさは おほみたから 此の天皇の御世に、侵病多に起りて、人民尽きなで殉死の代りに埴輪を用いたとある。 ニ 0 悪性の流行病。「侵」と「疫」とは通字。 〔ニ〕三輪山の神を祭る かむとこいま 三夢に神託を受けるためにしつらえた床。 むとす。爾に天皇愁へ歎きたまひて、神牀に坐しし 一三偉大な霊力をもって国土を主宰し守護 の おほものぬしのおほかみみいめあらは みこころ する神の義。大国主神の条には、海を照ら 夜、大物主大神、御夢に顕れて日りたまはく、「是は我が御心そ。故、 して来る神として現れ、大国主神の国作り も おほたたねこ わまへ を助け、三輪山に祭られたとある。 意富多々泥古を以ちて我が前を祭らしめたまはば、神の気起らず、国も ニ三崇神紀七年に「大田々根子」とある。タ ただ タは摂津国河辺郡多太神社のある地名か。 たひら はゆまづかひょもあか 亦安く平ぎなむ」とのりたまひき。是を以ちて駅使を四方に班ちて、意ネコは尊称。この人を巫女とする説がある。 しもつけののきみ おや ここ せのおほかみ ひこみこ ひめみこ わ かれ お は一にわ
117 中巻 こすめらみことさほびめきさきし 此の天皇、沙本毘売を后と為たまひし時、沙本毘売未詳。 九伊勢市の皇大神宮。垂仁紀一一十五年に と上すきいりびめのみこと - も いろせさほびこのおほきみそ 売 「天照大神を豊耜入姫命より離ちまつりて、 命の兄沙本毘古王、其のいろ妹に問ひて日はく、 倭姫命に託けたまふ。爰に倭姫命、大神を いろせいづ 鎮め坐させむ処を求めて、 : ・伊勢国に到る。 かれ 「夫と兄と孰れか愛しき」といへば、「兄を愛しき」と答日へたまひき。 ・ : 故、大神の教の随に、其の祠を伊勢国に いましまことあ あれいましあめの立てたまふ。とあり、豊耜入姫命に次ぐ第 爾に沙本毘古王謀りて日はく、「汝寔に我を愛しと思はば、吾、汝と天 二代の斎宮である。 した すなま←セ しほをりひもかたな いろも 一 0 沙本は奈良市佐保町。穴太部は穴掘り 下治めむ」といひて、即ち八塩折の紐小刀を作りて、其の妹に授けて日部の義で、土木工事に従事した部民か。 いなせのいりびこのみこ かたな = 景行紀四年に「稲背入彦皇子は是れ はく、「此の小刀を以ちて天皇の寝ねませるを刺し殺しまつれ」といひ磨別の始祖なり」とある皇子か。 三小月之山君は近江国栗太郡小槻 ( 草津 はかり 1 ) と みひざま き。故、天皇、其の謀を知らしめさずて、其の后の御膝を枕きて御寝市青地町周辺 ) にちなむ山をつかさどる氏 族か。三川之衣君の「衣」は「許呂母」 ( ↓注 ま し みくび し坐しき。爾に其の后、紐小刀を以ちて其の天皇の御頸を刺さむと為て、 0 と同じか。 一三春日山君は大和国添上郡春日郷。高志 みたびふ こころ かな あた は越国、池は末詳。春日部は安閑天皇の皇 」一一度挙りたまひしかども、哀しき情に忍びず、頸を刺すこと能はずて、 なしろ 后の春日山田皇女の名代にもあるが未詳。 みおも すなは 一四天皇・皇后・皇子などに子のない時、 泣く涙御面に落ち溢れき。乃ち天皇驚き起きたまひて、其の后に問ひて その名を後世に伝えるために設けた部曲 あ かた はやさめふ 一五羽咋は能登国羽咋郡。三尾は近江国高 日りたまはく、「吾は異しき夢見つ。沙本の方より暴雨零り来て、に 島郡三尾 ( 滋賀県高島郡高島町 ) 。 わおもめら ま にしきいろへみわ まつは かく 一六景行天皇の皇子。 吾が面を沾しぬ。又錦色の小蛇、我が頸に纏き繞りつ。如此の夢は、是宅何度も繰り返し鍛えた、紐つきの小刀。 なにしるし ↓四三ハー注一 = 。 おも れ何の表にか有らむーとのりたまひき。爾に其の后、え争はじと以為ほ 〔ニ〕沙本毘古と沙本毘 の せ かれ し。カ あふ ろ は は みくび こた っ やしろ
さんーて 4 う・ 一四口を強く刺激する山椒か。 れじ撃ちてし止まむ 三ヒヒクはロに刺激を感じる意の動詞。 受けた痛手が忘れられない意にかける。 とうたひたまひき。又歌日ひたまはく、 一六「伊勢」の枕詞。 おひし は かむかぜ おひし ・もレ」ほ 宅オヒシを「生石」とする説もあるが、 神風の伊勢の海の大石に這ひ廻ろふ細螺のい這ひ廻り 「大石」と解する。 天小形の巻貝のキサゴで、塩辛にして食 撃ちてし止まむ 用とした。次句は敵軍の右往左往する無力 さの比喩的表現。 とうたひたまひき。 一九 一九シキは地名。奈良県磯城郡、桜井市地 えしき おとしき 又兄師木・弟師木を撃ちたまひし時、御軍暫し疲れき。爾に歌日ひた方の土豪の兄弟。 ニ 0 楯を並べて弓を射る意から頭音イの 「伊那佐の枕詞。 ニ 0 ニ一奈良県宇陀郡榛原町の八咫烏神社の東 なさ たたな 方の山。 巧楯並めて伊那佐の山の木の間よもい行きまもらひ戦へば 一三ョは経過する場所を示す助詞。モは感 われ 動の助詞。 吾はや飢ぬ島っ鳥鵜養が伴今助けに来ね ニ三イは接頭語。マモルは見張る意。ヒは 継続・反復を表す助動詞フの連用形。 とうたひたまひき。 一西「鵜」の枕詞。 にぎはやひのみことまゐおもむ 一宝鵜で魚を取るのを職とする部民。 故、爾に邇芸速日命参赴きて、天っ神の御子に白さく、「天っ神の御 ニ六物部氏の祖神。 ニ九 ま すなはあま まゐくだ 毛伊波礼毘古命をいう。 中あも 子天降り坐しっと聞きしかば、追ひて参降り来つ」とまをして、即ち天 = 〈神武東征は天孫降臨を背景にしている ので、「天降り [ と観念した。 いもとみやびめ 9 っしるしたてまっ 津瑞を献りて仕へ奉りき。故、邇芸速日命、登美毘古の妹、登美夜毘売ニ九神宝。この献上は服属する意を表す。 まっ ニ四 うかひとも ニセ みいくさしま す しただみ まを もとほ
古事記 224 ぬなくらの に豊御気炊屋比売命も天下治めたまひき。次に長谷部之若雀命も天下治第三 + 代敏達天皇。敏達紀に「渟中倉 太珠敷天皇」とある。 よはしら ニ敏達紀四年に「遂に宮を訳語田に営る。 さきたまのみや めたまひき。拜せて四王、天下治めたまひき。 是を幸玉宮と謂ふ」。奈良県桜井市戒重か。 うぢのかひたこのひめみこ 三敏達紀五年に「菟道貝鮹皇女」、別名は うぢのしつかひのひめみこ 「菟道磯津貝皇女」、皇太子聖徳太子に嫁す とある。 四敏達紀にはない。欽明天皇の条に同名 敏達天皇 の皇子が見える。↓前ハー十行目。 五『上宮聖徳法王帝説』に聖徳太子が尾治 めと 王を娶ったとあるが、それと同一人か みこめなくらふとたましきのみことをさだのみやま あめのした とをまりよ 御子沼名倉太玉敷命、他田宮に坐しまして、天下治めたまふこと十四六敏達紀に「田眼皇女」、舒明天皇に嫁す とある。 こすめらみことままいもとよみけかしきやひめのみことめと うねめ セ敏達紀四年に「采女、伊勢大鹿首小熊 歳なりき。此の天皇、庶妹豊御食炊屋比売命を娶りて生みませる御子、 うなこのおまとじ が女を菟名子光人と日ふ」とある。『続日本 しづかひのおほきみまた かひたこのおほきみ たけだのおほきみ をかひのおほきみ 紀』天平勝宝元年 ( 七四九 ) に伊勢大鹿首の名が 静貝王、亦の名は貝鮹王、次に竹田王、亦の名は小貝王、次に小 見える。 あらてひめのみこ かづらきのおほきみ うもりのおほきみ ためのおほきみ ^ 敏達紀に「糠手姫皇女」、別名は「田村 治田王、次に葛城王、次に宇毛理王、次に小張王、次に多米王、 皇女」とある。 おきながのまてのおほきみ さくらゐのゆみはりのおほきみ せのおほかのおびとむすめをくまこのいらつめ 九敏達紀に「息長真手王の女、広姫を立 次に桜井玄王〔八柱〕。又伊勢大鹿首の女、小熊子郎女を娶りて生み てて皇后とす」とある。息長真手王は継体 ふとひめのみこと たからのおほきみ めかでひめのおほきみ 天皇の系譜にも見える。↓二二〇ハー五行目。 おしさかのひこひとのおほえのみこ ませる御子、布斗比売命、次に宝王、亦の名は糠代比売王〔二柱〕。 一 0 敏達紀に「押坂彦人大兄皇子」、別名に まろこのみこ おきながまてのおほきみ ひろひめのみこと おさかのひこひとの 「麻呂古皇子」とある。舒明天皇の父。 又息長真手王の女、比呂比売命を娶りて生みませる御子、忍坂日子人 = 敏達紀に「菟道磯津貝皇気」、『古事記 伝』は「磯津貝」の三字は五年の条の菟道磯 ひつぎのみこ まろこのおほきみ さかのばりのおほきみ うぢのおほきみかすがのなかっ 太子、亦の名は麻呂古王、次に坂騰王、次に宇遅王。又春日中津貝皇女 ( 注 = ) の名が紛れ込んだのであろ ( 現代語訳三四七ハー ) とせ はりだのおほきみ い七 をはりのおはきみ を