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検索対象: 完訳日本の古典 第1巻 古事記
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1. 完訳日本の古典 第1巻 古事記

古事記 372 日子八井命 忍鹿比売命 五瀬命 賦登麻和訶比売命 神八井耳命 稲氷命 余曾多本毘売命 御毛沼命多芸志 ( 大倭根子日子賦斗邇命 ) 綏靖天皇 ( 神沼河耳命 ) 美々命 孝安天皇 神武天畠 一下・・・・ー安寧天皇 ( 大倭帯日子国押人命 ) ( 神倭伊波礼毘古命 ) 河俣毘売 ( 師木津日子玉手見命 ) 孝昭天畠 ( 御真津日子訶恵志泥命 ) 一「ー徳天皇 阿久斗比売 ( 大倭日子鍬友命 ) 大物主神ーー伊須気余理比売命 伊迦賀色許売命 弟苅羽田刀弁 崇神天皇 ( 御真木入日子印恵命 ) 御真津比売命 内色許売命 大毘古命 開化天畠 ( 若倭根子日子大毘々命 ) 少名日子建猪心命 日子坐王 意祁都比売命 孝元天皇 ( 大倭根子日子国玖琉命 ) 建内宿禰 布多遅能伊理毘売命 垂仁天畠 弟橘比売命 ( 伊玖米入日子伊沙知命 ) 能大郎女 小碓命 ( 倭建命 ) 本牟智和 景行天畠 気王 沙本毘売命 斯呂和気命 ) 倭比売命 沙本毘古命 成務天皇 ( 若帯日子命 ) 丹波比古多々 須美知能宇斯王ーー比婆須比売命 細比売命

2. 完訳日本の古典 第1巻 古事記

図 系 皇 天 代 歴 神天之日矛 多遅摩前津見息長真若中比売 神功畠后 ( 息長帯比売命 ) 宮主矢河枝比売 仲哀天皇 ( 帯中津日子命 ) 応神天畠 ( 品陀和気命 ) 息長宿禰王 葛城之高額比売 中日売命 字遅能和気郎子 八田若郎女 女鳥王髪長比売 仁徳天畠 ( 大雀命 ) 石之日売命 若沼毛一一俣王 意富々杼王 履中天畠 ( 大江之伊耶本和気命 ) 墨江中王 反正天皇 ( 蝮之水歯別命 ) 允恭天畠 ( 男浅津間若子宿禰命 ) 忍坂之大中津比売命 黒比売 大日下王 若日下部王 市辺之忍歯王 目弱王 木梨之軽王ーー 境之黒日子王 安康天畠 ( 穴穂命 ) 春日大郎女 軽大郎女 雄略天畠 ( 大長谷命 ) 清寧天皇 ( 白髪大倭根子命 ) 韓比売 顕宗天畠 ( 袁祁命 ) 仁賢天畠 ( 意祁命 )

3. 完訳日本の古典 第1巻 古事記

古事記 374 小武 25 長烈 若皇 雀 手白髪郎女 継体天皇 ( 袁本杼命 ) 目子郎女 宣化天畠 ( 建小広国押楯命 ) 橘之中比売命 安閑天皇 ( 広国押建金日命 ) 欽明天畠 ( 天国押波流岐広庭命 ) 岐多斯比売 石比売命 小兄比売 八田王 糠代比売王 舒明天皇 敏達天畠 ( 沼名倉太玉敷命 ) 忍坂日子人太子 笠縫王 石炯王 推古天畠 ( 豊御食炊屋比売命 ) 月子良女 崇峻天畠 ( 長谷部若雀命 ) 間人穴太部王 聖徳太子 ( 上宮之厩戸豊聡耳命 ) 用明天畠 ( 橘之豊日命 ) 比呂比売命 この系図は『古事記』の記載にしたがって作成した ・天皇名は諡号を太字にし、即位の順に数字を付した ・同一の神 ( 人 ) が 2 種以上の名をもつ場合や異なる表記 をもつ場合は、一般的な名、表記を採用した。

4. 完訳日本の古典 第1巻 古事記

371 神代・歴代天皇系図 大 山 津 見 神 神代・歴代天皇系図 天之御中主神 高御産巣日神 っ神産巣日神 天 宇摩志阿斯訶備比古遅神 天之常立神 天火明命 天津日高日子 番能邇々芸命 火照命 火須勢理命 火遠理命 ( 天津日高日子穂々手見命 ) 木花之佐久夜毘売 天津日高日子波限 建鵜草葺不合命 石長比売 綿津見大神豊玉毘売命 国之常立神 豊雲野神 代字比地邇神・須比智邇神 七 角杙神・活杙神 世 神意富斗能地神・大斗乃弁神 於母陀流神・阿夜訶志古泥神 イ耶那岐神・伊耶那美神 玉依毘売命 足名椎 手名椎 建速須佐之男命 八島士奴美神 木花知流比売 大年神 宇迦之御魂神 神大市比売 正勝吾勝々速日天之忍穂耳命 天之菩比命 天照大御神天津日子根命 活津日子根命万幡豊秋津 師比売命 熊野久須毘命 月読命 櫛名田比売 淤美豆奴神 大国主神

5. 完訳日本の古典 第1巻 古事記

やましろのおおつつきまわかのおおきみ めのみこと ひこくにおけつのみこと わにのおみ 売命を妻として生んだ子は、山代之大筒木真若王、次に である〔二柱〕。また丸邇臣の祖先である日子国意祁都命の いりねのおおきみ ひこおすのおおきみ おけつひめのみこと 妹の意祁都比売命を妻としてお生みになった御子は日子比古意須王、次に伊理泥王である〔三柱〕。およそ日子坐 かずらきのたるみのすくね わしひめ いますのおおきみ 坐王である〔一柱〕。また葛城垂見宿禰の娘である鸛比売王の子は合せて十一人の王となる。さて、日子坐王の第一 うなかみのおおきみ おおまたのおおきみ あけたつのおおきみ たけとよはずらわけ を妻としてお生みになった御子は建豊波豆羅和気である子の兄である大俣王の子は、曙立王、次に菟上王であ いつはしら ほむじべのきみ さなのみやっこ 〔一柱〕。この天皇の御子たちは合せて五柱である〔皇子四柱、る〔二柱〕。この曙立王は〔伊勢の品遅部君・伊勢の佐那造の ひめだのきみ たぎまのまがりの 皇女一柱〕。そして御真木入日子印恵命は天下をお治めにな祖先〕。菟上王は〔比売陀君の祖先〕。次に小俣王は〔当麻勾 ひこゅむすみのおおきみ おおつつきたりねのおおきみ ささのきみ きみ 君の祖先〕。次に志夫美宿禰王は〔佐々君の祖先である〕。次に った。その兄の比古由牟須美王の子は、大筒木垂根王、 さぬきのたりねのおおきみ くさかべのむらじかいのく : のみやっこ 次に讃岐垂根王である〔二柱〕。この二柱の王の娘は五柱沙本毘古王は〔日下部連・甲斐国造の祖先〕。次に袁耶本王 やましろのえなつひめ かののわけ かずののわけ は〔葛野之別・近江の蚊野之別の祖先である〕。次に室毘古王は いらっしやった。次に日子坐王が山代之荏名津比売、また たにはのかわかみのますの おおまたのおおきみ かりはたとペ わかさ みみのわけ 〔若狭の耳別の祖先〕。その美知能宇斯王が丹波之河上之摩須 の名は苅幡戸弁という方を妻として生んだ子は、大俣王、 まとのひ かす ひばすひめのみこと おまたのおおきみ しぶみのすくねのおおきみ いらつめ 次に小俣王、次に志夫美宿禰王である〔三柱〕。また春郎女を妻として生んだ子は、比婆須比売命、次に真砥野比 おとひめのみこと みかどわけのおおきみ がのたけくにかっとめ さおのおおくらみとめ めのみこと 日建国勝一尸売の娘で、名は沙本之大闇見一尸売という方を妻売命、次に弟比売命、次に朝庭別王である〔四柱〕。この さほびこのおおきみ おざほのおおきみ みかわほのわけ として生んだ子は、沙本毘古王、次に袁耶本王、次に沙朝庭別王は〔三河の穂別の祖先〕。この美知能宇斯王の弟の はびめのみこと さはじひめ やすのあたい みのの いくめのすめら 本毘売命で別名は佐波遅比売「この沙本毘売命は伊久米天水穂之真若王は〔近江の安直の祖先〕。次に神大根王は〔美濃 むろびこのおおきみ もとすのくにのみやっこながはたべのむらじ み・一と 風の本巣国造、長幡部連の祖先〕。次に山代之大筒木真若王 皇 ( 垂仁天皇 ) の皇后になった〕、次に室毘古王である〔四 たにはのあじさはびめ あめの おうみみかみ 巻 柱〕。また近江の御上の神官が謹んでお仕えしている天之が同母弟の伊理泥王の娘である丹波能阿治佐波毘売を妻と かにめいかずちのおおきみ みかげのかみ おきながのみずよりひめ たにはのひ 御影神の娘の息長水依比売を妻として生んだ子は、丹波比して生んだ子は迦邇米雷王である。この王が丹波の遠 かむおおねの つおみ たかきひめ みずほのまわかのおおきみ ・巾・こたたすみちのうしのおおきみ 古多々須美知能宇斯王、次に水穂之真若王、次に神大根津臣の娘で、名は高材比売という方を妻として生んだ子は みずほのいおよりひめ み おきながのすくねのおおきみ かずらきのたかめかひめ おおきみ やつりのいりひこのおおきみ 王で別名は八瓜入日子王、次に水穂五百依比売、次に御息長宿禰王である。この王が葛城之高額比売を妻として そらつひめの おけつひ おきながたらしひめのみこと つひめ 井津比売である〔五柱〕。また、その母の妹である袁祁都比生んだ子は、息長帯比売命 ( 神功皇后 ) 、次に虚空津比売 とお

6. 完訳日本の古典 第1巻 古事記

古事記 300 のくくまもりひめ あしかがみ とお歌いになった。この四首の歌は、すべて倭建命のご葬之玖々麻毛理比売を妻としてお生みになった御子は足鏡 わけのおおきみ おきながたわけのおおきみ 儀に歌った。それゆえ、今に至るまでも、これらの歌は天別王である〔一柱〕。また、ある夫人の子は息長田別王 むはしら 皇のご大葬の際に歌うのである。 である。およそ、この倭建命の御子たちは合せて六柱であ せのくに かわちのくにし さて白鳥は伊勢国から空高く飛んで行って、河内国の志 る。そして帯中津日子命は天下をお治めになった。次に稲 いぬかみのきみたけるべのきみ さめき 紀にとどまった。そこで妃や御子たちはその地に御陵を造依別王は〔犬上君・建部君らの祖先〕。次に建貝児王は〔讃岐 みたま あやのきみいせのわけとおのわけまさのおびとみやのおびとのわけ って、倭建命の御魂を鎮座させ申し上げた。こうしたわけ の綾君・伊勢之別・登袁之別・麻佐首・宮首之別らの祖先〕。足 しらとりのみはか かまくらのわけおついわしろのわけ いさりたのわけ で、その御陵を名づけて白鳥御陵という。しかしながら白鏡別王は〔鎌倉之別・小津石代之別・漁田之別の祖先である宀 くいまたながひこのおおきみ 鳥は、またそこから再び空高く飛んで行ってしまった。お次に息長田別王の子は杙俣長日子王で、この王の子は飯 くめのあたい ののまぐろひめのみこと おきながまわかなかつひめ おとひめ よそ、この倭建命が国々の平定に巡行された時、久米直の野真黒比売命、次に息長真若中比売、次に弟比売である ななっかはぎ 祖先で名は七拳脛という者が、いつも料理人として従って、 〔三柱〕。そして上に述べた若建王が飯野真黒比売を妻とし すめいろおおなかつひこのおおきみ お仕え申し上げた。 てお生みになった子は須売伊呂大中日子王で、この王が やまとたけるのみこといくめのすめらみこと しばのいりき しばのひめ この倭建命が伊玖米天皇 ( 垂仁近江の柴野入杵の娘の柴野比売を妻としてお生みになった ふたじのいりびめのみこと 〔九〕倭建命の子孫 かぐろひめのみこと おおたらしひこのすめらみこと 天皇 ) の娘の布多遅能伊理毘売命を子は迦具漏比売命である。そして大帯日子天皇 ( 景行天 たらしなかつひこのみこと 妻としてお生みになった御子は帯中津日子命 ( 仲哀天皇 ) 皇 ) が、この迦具漏比売命を妻としてお生みになった子は はしり - み・ おとたちばなひめのみこと おおえのおおきみ しろがねのおおきみ である〔一柱〕。また走水の海に入水された弟橘比売命を大江王である〔一柱〕。この王が異母妹の銀王を妻とし わかたけるのおおきみ おおながたのおおきみ おおなかつひめのみこと 妻としてお生みになった御子は若建王である〔一柱〕。 てお生みになった子は、大名方王、次に大中比売命であ おうみやすのくにのみやっこ おおたむわけ ふたじ かごさかのおおきみおしくまのおおきみ また近江の野洲国造の祖先、意富多牟和気の娘の布多遅る〔二柱〕。そしてこの大中比売命は香坂王・忍熊王の ひめ いなよりわけのおおきみ 比売を妻としてお生みになった御子は稲依別王である母君である。 きびのおみたけひこ おおきびたけひめ やまのべのみち 〔一柱〕。また吉備臣建日子の妹の大吉備建比売を妻として この大帯日子天皇のご享年は百三十七歳。御陵は山辺道 たけかいこのおおきみ やましろ お生みになった御子は建貝児王である〔一柱〕。また山代のほとりにある。 き

7. 完訳日本の古典 第1巻 古事記

うな みや しきとみとよあさくらのあけたつのおおきみ 師木登美豊朝倉曙立王といった。そして曙立王と弟の菟宮にお迎えして、早馬の急使を天皇のもとへ差し上げた。 ひながひめ かみのおおきみふたはしらみこ ところでロをきくようになった御子は、一夜、肥長比売と 上王の二柱の王をその御子に従わさせて、出雲に向けて ともね おとめ ならやまごえ 共寝なさった。その折、その乙女をそっとのそき見られる お遣わしになったのだが、「奈良山越の入口から行けば、 きロ おおさかごえ めくら と、姫の正体は蛇であった。それを見て恐れをなし、その いざりや盲に出会って不吉であろう。また大坂越の入口か 事 うな ら行っても、同じくいざりや盲に出会うであろう。ただ紀宮殿からお逃げになった。一方の肥長比売は悲しんで、海 古 わきづき まっちゃまごえ 伊の入口である真土山越だけは、〈掖月の〉よい入口であを照らして船で追って来るので、御子はますます恐れを なして、山の低くなった所で乗って来たお船を引き上げ、 る」と占って、おいでになる時、お着きになる土地ごとに ほむじべ 山を越えて大和へ逃げ帰って行かれた。そして二柱のお供 御子の名を記念して品遅部をお定めになった。 の王は天皇に復命して、「出雲大神を拝まれましたので、 さて、出雲に到着し、大神を拝み終えて大和へ帰り上ら すばし ひのかわ れる時に、肥河の中に黒い丸木の簀橋を作り、仮の宮殿を御子さまはものをおっしゃいました。それで帰って参りま いずものくにのみやっこ した」と申し上げた。これを聞いて天皇はお喜びになって、 造り申して、そこに御子をお泊めした。そして出雲国造 きひさつみ の祖先で名は岐比佐都美という者が、御子を迎えるためにすぐに菟上王を出雲に引き返させて、大神の宮をお造らせ ととりペ かりやま かわしも になった。そして天皇はその御子にちなんで鳥取部・鳥甘 青葉で飾った仮山を作り、肥河の川下に立てて、お食事を おおゆえわかゆえ 部・品遅部・大湯坐・若湯坐をお定めになった。 差し上げようとする時、その御子が口をおききになり、 さほびめ また皇后の沙本毘売が以前進言され 「この川下にある青葉の山のようなものは、山のように見 すいにん いわくまのそのみや 〔四〕丹波の円野比売 たことばに従って、垂仁天皇は美知 。もしかしたら出雲の石餉之曾宮 えるが本物の山ではない のうしのおおきみ おとひめのみこと ひばすひめのみこと あしはらしこおのおおかみ に鎮座される葦原色許男大神 ( 大国主神 ) に斎み謹んで仕能宇斯王の娘たちの、比婆須比売命、次に弟比売命、次 うたごりひめのみこと まとのひめのみこと よはしらき寺、き に歌凝比売命、次に円野比売命、合せて四柱を妃としてお える神主の祭場ではないか」とお尋ねになった。それでお 供に遣わされた曙立王たちは、このおことばを聞いて喜び、召し上げになった。ところが比婆須比売命・弟比売命の二 ながほの びろう このご様子を見て喜んで、御子をば檳榔の葉で葺いた長穂柱だけを宮中にとどめて、あとの妹君二柱は、その容貌が ふ とりカい

8. 完訳日本の古典 第1巻 古事記

をろち ひながひめうれ このヨリは手段を表す格助詞。 蛇なりき。即ち見畏みて遁逃げたまひき。爾に其の肥長比売患へて、海一 ニタワは山の鞍部、峠。タヲリともいう。 はらてら ますます みふね 三復命。↓六一ハー注一 = 。 原を光して船より追ひ来れば、益見畏みて、山のたわより御船を引き 四幼児に湯をつかわせる役の婦人。↓一 一三ロ かへり ) 」とまを 一一〇ハー注八。 事越して逃げ上り行でましき。是に覆奏言さく、「大神を拝みたまひしに いな ものの まゐのば 古 五沙本毘売が兄の沙本毘古王とともに稲 因りて、大御子物詔りたまひき。故、参上り来つ」とまをしき。故、天 城にこもった時のことばをさす。↓一二一 よろこ 皇歓喜ばして、即ち菟上王を返して神の宮を造らしめたまひき。是に天〈以下四人の娘のうち、開化天皇の系譜 四 には歌凝比売の名は見えない。また垂仁紀 とりかひべ ほむぢべ おほゅゑわかゆゑ 皇、其の御子に因りて鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐を定め + 五年には丹波の五人の女を後宮にれた ひばすひめまとのひめ とあって、そのうち日葉酢媛と真砥野媛の たまひき。 二人だけが、この名と一致している。 セ恥ずかしい、肩身が狭い。『万葉集』兊 そ きさきまを まにまみちのうしのおほきみむすめ 又其の后の白したまひし随に、美知能宇斯王の女三に「世の中を厭しとやさしと思へども飛び 立ちかねっ鳥にしあらねば」。 〔四〕丹波の円野比売 たちひばすひめのみこと おとひめのみこと うたごりひめの 〈京都府の東南端の相楽郡。 おとくに 等、比婆須比売命、次に弟比売命、次に歌凝比売 九京都市の西南の一部と京都府乙訓郡と たかのひめかの み , ) と よはしらめ まとのひめのみことあは を含む地方。垂仁紀には竹野媛が葛野で、 命、次に円野比売命、拜せて四柱を喚し上げたまひき。然るに比婆須比 自ら輿から落ちて死んだので、そこを「堕 とど おとみこ いとみにく 国」といったとある。 売命・弟比売命の二柱を留めて、其の弟王二柱は、甚凶醜きに因りて、 一 0 『新撰姓氏録』に「三宅連。新羅国の王 - も、と 子、天日桙命の後なり」とある。新羅系帰 本っ土に返し送りたまひき。是に円野比売慚ちて言はく、「同じ兄弟の 化人の氏族。 たじま = 垂仁紀に「田道間守」とある。但馬 ( 兵 なか となり * 、と 中にて、姿醜きを以ちて還さえし事、隣里に聞えむ、是れ甚慚し」と、 し庫県 ) の国守の義。応神天皇の条の天之日 124 すがた みかしこ ととりべ かへ やさ よ いろえいろど うな

9. 完訳日本の古典 第1巻 古事記

古事記 さいがわ 出かけになって、一晩おやすみになった〔その川を佐韋河と 女たちの先頭に立っていた。そこで天皇は、その乙女たち いすけよりひめ やまゆり いうわけは、その川のほとりに山百合がたくさん生えていた。そ をごらんになって、お心の中で伊須気余理比売が真っ先に れゆえ、その山百合の名を取って佐韋河と名づけたのである。山 立っているのをお知りになり、歌によって、 ま え さキ、だ一 百合のもとの名は佐韋というのである〕。のちになって、その かつがつもいや先立てる兄をし枕かむ さんだい ( たいした者はいないが、まあまあ、いちばん先に立ってい 伊須気余理比売が宮中に参内した時、天皇のお歌に、 さや わ あしはら をや すがたたみ る、年上の娘を妻にしよう ) 加葦原のしけしき小屋に菅畳いや清敷きて我が ふたりね おおくめのみこと 一一人寝し とお答えになられた。このお歌を聞いた大久米命は、天皇 ( 葦の茂った原の粗末な小屋で、菅で編んだ敷物を音もいち のこのおことばをその伊須気余理比売に伝えたが、その時、 だんとさやさやと敷いて、私はおまえと二人で寝たことだ ) 伊須気余理比売は大久米命の入墨をした鋭い目を見て、不 とお歌いになった。こうしてお生れになった御子の名は、 思→に思って、 かむめなかわみみのみことすいぜい とめ ひこやいのみこと かむやいみみのみこと 日子八井命、次に神八井耳命、次に神沼河耳命 ( 綏靖天皇 ) あめつっちどりましととなど黥ける利目 しとと あまどりつつ ( 胡子・鶺鴒・千鳥・鵐のように、あなたの目は、どうし の三柱である。 て入墨をした鋭い目をしているの ) 〔セ〕多芸志美々命の反さて神武天皇がお亡くなりになった たぎし 逆 のち、その三皇子の異母兄の多芸志 と歌った。すると、大久米命は答えて、 すけよりひめ をとめ ただあ わ みみのみこと 美々命は、天皇の皇后である伊須気余理比売を妻としたが、 円嬢子に直に遇はむと我が黥ける利目 ( 娘さんにじかにお会いしようと思って、私の目はこんなに その三人の異腹の弟たちを殺そうとたくらんだので、三皇 大きく鋭いのです ) 子の母君の伊須気余理比売は腹立たしくもまた苦しくも思 って、歌によってその皇子たちに危機をお知らせになった。 と歌った。そこでその乙女は「お仕えいたしましよう」と さいがわ 申した。ところで、その伊須気余理比売命の家は狭井河のその歌に、 さゐがは 幻狭井河よ雲立ちわたり畝火山木の葉さやぎぬ ほとりにあった。天皇はその伊須気余理比売のところにお うねびやまこ な

10. 完訳日本の古典 第1巻 古事記

ーも さしくにわかひめ さば、汝待ち取れ。若し待ち取らずば、必ず汝を殺さむ」と云ひて、火一刺国若比売をさす。ミは尊敬の接頭語。 オヤは親・先祖であるが、ミオヤという場 まろ を以ちて猪に似たる大石を焼きて転ばし落しき。爾に追ひ下すを取る時、合は母親を尊んでいうことが多い 旨ロ 一一出雲系神話にはこの神が司令神。巻首 みおやみことな すなはそ 。↓一三ハー注五。 に現れた造化参神の一 事即ち其の石に焼き著かえて死にたまひき。爾に其の御祖の命哭き患へて、 三赤貝を人態化した名。『出雲国風土記』 かむむすひのみこと 古 すなはきさがひひめ うむぎひめ あめまゐのば かむむすひみことこ 島根郡加賀郷の条に「神魂命の御子、支佐 かひひめのみこと 天に参上りて、神産巣日の命を請ひし時、乃ち蠻貝比売と蛤貝比売とを 加比々売命」とある。 はまぐり 四蛤を人態化した名。『出雲国風土記』 遣はして、作り活かさしめたまひき。爾に貝比売きさげ集めて、蛤貝島根郡法吉郷の条に「神魂命の御子、宇武 かひひめのみこと をとこ おもちしる そ加比々売命」とある。 比売待ち承けて、母の乳汁と塗りしかば、麗しき壮夫に成りて出で遊行五ックルは「繕ふ」に近い意で、修理する、 治療する意。 六キサグは削り落す意の下二段活用の動 びたまひき。 詞。赤貝の貝殻を削り落すのである。 是に八十神見て且欺きて山に率て入りて、大樹を切セ削り落した粉を受け取って、の意。 ^ 赤貝の殻の粉を蛤の出す汁で母乳状に 〔三〕根国行き ひめやそ り伏せ、茹矢を其の木に打ち立て、其の中に入らし溶いて塗る治療法。古代の民間療法である。 オモは母・乳母の意。 ゅゃう ほけ一レ - ろ・ 、つ こ , 一また みおやな すなは 九原文「遊行」は『法華経』にある語。復活 むる即ち、其の氷目矢を打ち離ちて拷ち殺しき。爾に亦其の御祖哭きっ した神として出歩く意。 みう っ 0 兄弟の神々の迫害を逃れるため、大国主 っ求げば、見得る即ち、其の木を拆きて取り出で活して、其の子に告げ 神は紀伊国に行くが、ここにも難が迫り、 ため つひ 根国に赴く。ここで須佐之男命からの厳し て言りたまはく、「汝は此間に有らば、遂に八十神の為に滅ばさえなむ」 い試練を切り抜けて、ついに王者のしるし じゅき の呪器を手に入れ、国作りを始める。 すなはきのくにおほやびこのかみみもとたがや とのりたまひて、乃ち木国の大屋毘古神の御所に違へ遣りたまひき。爾一 0 次の「氷目矢、も同じで、木の割れ目に つか ま の 七 なれ 、つ ひめや ここやそがみ また うるは なれ ここ ゐ おほき きの