101 中巻 よそたらしひめ 一四孝昭紀には「世襲足媛」とある。 一五のちの孝安天皇。人名中の「帯」はタラ シの当字。帯は結んで垂すから。子孫が長 く続くことを帯にたとえたという。 あそみ 孝昭天皇 一六以下の氏族の順は天武紀十三年に朝臣 かばね の姓を授けられた氏族の順とほば一致する。 みまつひこかゑしねのみことかづらきわきがみのみやま これは『古事記』の編纂が天武天皇と関係が 御真津日子訶恵志泥命、葛城の掖上宮に坐しまして、天下治めたまひ 深いことを示唆する。春日臣は大和国添上 こすめらみことをはりのむらじおやおきつよそ よそたほびめのみことめと 郡春日、大宅臣は同上の添上郡大宅、粟田 き。此の天皇、尾張連の祖奥津余曾の妹、名は余曾多本毘売命を娶りて臣は山城国愛宕郡粟田、小野臣は近江国滋 賀郡小野にそれぞれちなむ氏族。柿本臣は あめおしたらしひこのみこと おほやまとたらしひこくにおしひとのみこと 生みませる御子、天押帯日子命、次に大倭帯日子国押人命〔二柱〕。故、柿本人麻呂を出した氏族で、『新撰姓氏録』 大和国皇別に「家の門に柿の樹有るに依り いろどたらしひこくにおしひとのみこと かすがのおみおほ 弟帯日子国忍人命は天下治めたまひき。兄天押帯日子命は〔春日臣・大て柿本臣氏とす」とある。壱比韋臣は大和 国添上郡櫟井、大坂臣は備後国安那郡大坂 やけのおみあはたのおみをののおみかきのもとのおみいちひゐのおみおほさかのおみあなのおみたきのおみはぐりのおみちたのおみ か、または大和国葛上郡大坂、阿那臣は備 宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣・大坂臣・阿那臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・ 後国安那郡または近江国坂田郡阿那にちな みとしここの むぎのおみつのやまのおみいせ 牟耶臣・都怒山臣・伊勢の鯲高君・師君・近淡海造が祖なり〕。天皇の御年、玖む氏族。多紀臣は丹波国多紀郡か。羽栗臣 は尾張国葉栗郡葉栗、知多臣は尾張国智多 そぢまりみとせみはかわきがみはかたやまへ 郡、牟耶臣は上総国武射郡にそれそれちな 拾参歳。御陵は掖上の博多山の上に在り。 む氏族。都怒山臣は『万葉集』一三 = の人麻呂 たかつのやま の「高角山」の歌で知られる石見国那賀郡都 農にちなむか。飯高君は伊勢国飯高郡、壱 師君は伊勢国壱志郡にちなむ氏族。近淡海 国造の「近淡海」は近江をさす。 宅九十三歳。 天御所市三室の地。 孝安天皇 いろせ あめのした かれ
古事記 280 はたの 合せて九人である〔男七人、女二人〕。その子の中で、波多 やしろのすくね はたのおみはやしのおみはみのおみほしかわのおみおうみのおみはっせべの 八代宿禰は〔波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部之 孝元天皇 こせのおがらのすくね こせのおみさぎきべのおみかる きみ 君の祖先である〕。次に許勢小柄宿禰は〔許勢臣・雀部臣・軽 そがのいしかわのすくね おおやまとねこひこくにくるのみこと かるさかいはらのみや そがのおみかわ・ヘのおみ べのおみ 大倭根子日子国玖琉命 ( 孝元天皇 ) は軽の堺原宮にいら部臣の祖先である〕。次に蘇賀石河宿禰は〔蘇我臣・川辺臣・ ほづみのおみ たなかのおみたかむこのおみおはりだのおみさくらいのおみきしだのおみ 田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣らの祖先である〕。次 っしやって、天下をお治めになった。この天皇が穂積臣ら へぐりのつくのすくね うっしこおのみこと うっしこめのみこと へぐりのおみさわらのおみうまのみくいのむらじ に平群都久宿禰は〔平群臣・佐和良臣・馬御様連らの祖先であ の祖先の内色許男命の妹、内色許売命を妻としてお生みに きのつぬのすくね すくなひこたけいごころのみこと おおびこのみこと きのおみつめのおみさかもとのおみ る〕。次に木角宿禰は〔木臣・都奴臣・坂本臣の祖先〕。次に久 なった御子は、大毘古命、次に少名日子建猪心命、次に かずらきのながえの めのまいとひめ ののいろひめ わかやまとねこひこおおびびのみこと 若倭根子日子大毘々命 ( 開化天皇 ) である〔三柱〕。また内米能摩伊刀比売、次に怒能伊呂比売である。次に葛城長江 そっぴこ かがしこめのみこと たまてのおみいくはのおみいくえのおみあぎなのおみ 色許男命の娘の伊迦賀色許売命を妻としてお生みになった曾都毘古は〔玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣らの祖先である〕。 わくごのすくね かわちのあおたま ひこふつおしのまことのみこと えのまのおみ また若子宿禰は〔江野財臣の祖先〕。この天皇のご享年は五 御子は比古布都押之信命である。また河内青玉の娘で、 つるぎのいけなかのおか はにやすびめ 名は波邇夜須毘売という方を妻としてお生みになった御子十七歳。御陵は剣池の中岡のほとりにある。 たけはにやすびこのみこと は建波邇夜須毘古命である〔一柱〕。この天皇の御子たちは、 いつましら 合せて五である。そして若倭根子日子大毘々命は天下を 開化天皇 たけめなかわわけの お治めになった。その兄の大毘古命の子である建沼河別 いぎかわのみや わかやまとねこひこおおびびのみこと かすが ひこいなこじわけのみこと み - 、と かしわでの あべのおみ 若倭根子日子大毘々命 ( 開化天皇 ) は春日の伊耶河宮に 命は〔阿倍臣らの祖先〕。次に比古伊那許士別命〔これは膳 たには お おわりのむらじ おみ いらっしやって、天下をお治めになった。この天皇が丹波 臣の祖先である〕。比古布都押之信命が尾張連らの祖先の意 ゅ ) 」り たかのひめ おおあがたぬし おなび かずらきのたかちなびめ 富那毘の妹、葛城高千那毘売を妻としてお生みになった子の大県主で名は由碁理という方の娘である竹野比売を妻と ひこゅむすみのみこと うましうちのすくね やましろうちのおみ してお生みになった御子は比古由牟須美命である「一柱〕。 は味師内宿禰である〔これは山城の内臣の祖先である凵。また かがしこめのみこと きのくにのみやっこ うずひこ やましたかげひめ また継母の伊迦賀色許売命を妻としてお生みになった御子 紀伊国造の祖先の宇豆比古の妹、山下影日売を妻として みまつひめのみこと みまきいりひこいにえのみこと たけしうちのすくね は、御真木入日子印恵命 ( 崇神天皇 ) 、次に御真津比売命 お生みになった子は建内宿禰である。この建内宿禰の子は ( 本文一〇五ハー )
105 中巻 開化天皇 ニ四 わかやまとねこひこおほびびのみことかすが いぎかはのみやま あめのした ニ四第九代開化天皇。孝元天皇の皇子。開 わかやまとねこひこおはひひのすめらみこと 若倭根子日子大毘々命、春日の伊耶河宮に坐しまして、天下治めたま 化紀に「椎日本根子彦大日々天皇」とある。 ニ六 こすめらみことたにはおほあがたぬし ゅごり むすめたかのひめ めと = = 奈良師鉢子町率川辺り。率川は春日 ひき。此の天皇、旦波の大県主、名は由碁理の女、竹野比売を娶りて生 山に発し猿沢池の南を流れ、西流して佐保 ニ七 ひこゅむすみのみこと ままははいかがしこめのみこと 川に入る。 みませる御子、比古由牟須美命〔一柱〕。又庶母伊迦賀色許売命を娶りて兵竹野は京都府竹野郡丹後町竹野の地。 うっしこをのみこと みまきいりひこいにゑのみこと 毛内色許男命の女。↓前ハー注八。 みまつひめのみこと 生みませる御子、御真木入日子印恵命、次に御真津比売命〔二柱〕。又丸 = 〈のちの崇神天皇。 だのおみ ( 現代語訳二八〇ハー ) そがのいしかはのすくね そがのおみかはべのおみたなかのおみたかむこのおみをはりだのおみさくらゐのおみきし り〕。次に蘇賀石河宿禰は〔蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸一五ウマシは美称。ウチは大和国宇智郡 ( 五條市周辺 ) の名にちなんだもの。 へぐりのつくのすくね へぐりのおみさわらのおみうまのみくひのむらじ 一六山城国綴喜郡有智 ( 京都府八幡市 ) にち 田臣等の祖なり〕。次に平群都久宿禰は〔平群臣・佐和良臣・馬御職連等の祖なり〕。 なむ名。 きのくに きのつめのすくね くめのまい とひめ きのおみつめのおみさかもとのおみ 宅紀伊国の国造。ウヅは、珍しいもの、 次に木角宿禰は〔木臣・都奴臣・坂本臣の祖〕。次に久米能摩伊刀比売、次に 美しいものを称賛する形状言。 のの いろひめ かづらきのながえのそっぴこ たまてのおみいくはのおみいくえのおみあぎなのおみ 一 ^ 景行天皇から仁徳天皇に至る歴朝に仕 怒能伊呂比売。次に葛城長江曾都毘古は「玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣等の えた重臣で長寿の人であり、神功皇后の朝 わくごのすくね みとし いそぢまりななとせみはか えのまのおみ 鮮進出の時には霊媒者となった。 祖なり〕。又若子宿禰は〔江野財臣の祖〕。此の天皇の御年、伍拾漆歳。御陵究蘇我氏の祖先。蘇我臣は橿原市の曾我 つるぎのいけなかのをかへ 川流域を本拠地とした豪族。 みみずく は剣池の中崗の上に在り。 ニ 0 平群は大和国平群郡平群、ツクは木菟 の別称。仁徳紀元年に命名の由縁譚がある。 いわのひめ ニ一仁徳天皇の皇后の石之日売の父。長江 は葛城地方の地、大和国葛上郡高宮郷長柄。 一三五十七歳。 つるのいけのしまのうへのみさぎき ニ三開化紀に「剣池島上陵」とある。
古事記 278 つきだのおか とく おおやまとひこすきとものみこと かるさかいおかのみや 十五歳。御陵は衝田岡にある。 大倭日子鈕友命 ( 懿徳天皇 ) は軽の境岡宮にいらっしゃ しきのあがためし って、天下をお治めになった。この天皇が師木県主の祖先 ふとまわかひめのみこと いひひめのみこと 安寧天皇 に当る賦登麻和訶比売命、またの名は飯日比売命という方 みまつひこかえしねの を妻としてお生みになった御子は、御真津日子訶恵志泥 しきつひこたまでみのみことあんねい かたしおうきあなのみや みこと たぎしひこのみこと 師木津日子玉手見命 ( 安寧天皇 ) は片塩の浮穴宮にい 命 ( 孝昭天皇 ) 、次に多芸志比古命である〔二柱〕。そして かわまたび らっしやって、天下をお治めになった。この天皇が河俣毘御真津日子訶恵志泥命は天下をお治めになった。次に多芸 め しきのあがためしはえ あくとひめ ちぬのわけたじまのたけのわけあしいのいなき 売の同母兄である師木県主の波延の娘、阿久斗比売と結婚志比古命は〔血沼之別・多遅麻之竹別・葦井之稲置の祖先〕。天 とこねつひこい ろねのみこと うねびやままなごだに されてお生みになった御子は、常根津日子伊呂泥命、次に 皇のご享年は四十五歳。御陵は畝傍山の真名子谷のほとり おおやまとひこすきとものみこといとく しきつひこのみこと にある。 大倭日子鈕友命 ( 懿徳天皇 ) 、次に師木津日子命である。 この天皇の御子たち合せて三柱のうち、大倭日子鈕友命は 天下をお治めになった。次に師木津日子命の子は二人いら 孝昭天皇 がすちのいなき っしやった。その中の一人の子は〔伊賀の須知之稲置・那 わちつみのみこと みまつひこかえしねのみこと りのいなきみののいなき かずらきわきがみのみや 理之稲置・三野之稲置の祖先〕。もう一人の子の和知都美命は 御真津日子訶恵志泥命 ( 孝昭天皇 ) は葛城の掖上宮にい あわじみいのみや みこ おわりの 淡路の御井宮にいらっしやった。そしてこの王には二人の らっしやって、天下をお治めになった。この天皇が尾張 はえいろね おおや むらじ おきつよそ よそたほびめのみこと 娘があった。姉の名は蠅伊呂泥といし 、またの名を意富夜連の祖先の奥津余曾の妹、名は余曾多本毘売命という方を まとくにあれひめのみこと はえいろど あめおしたらしひこのみこと おおやまと 麻登久邇阿礼比売命という。妹の名は蠅伊呂杼である。天妻としてお生みになった御子は、天押帯日子命、次に大倭 うねびやま たらしひこくにおしひとのみこと 皇のご享年は四十九歳。御陵は畝傍山のくば地にある。 帯日子国押人命 ( 孝安天皇 ) である〔二柱〕。そして弟の帯 日子国押人命は天下をお治めになった。兄の天押帯日子命 かすがのおみおおやけのおみあわたのおみおののおみかきのもとのおみいちひいのおみおおさかの は〔春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣・大坂 懿徳天皇 おみあなのおみたきのおみはぐりのおみちたのおみむざのおみつのやまのおみ せ 臣・阿那臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟耶臣・都怒山臣・伊勢 ( 本文九九ハー )
319 下巻 やましろ た大根。その根の白さほどのおまえの白い腕を、私が枕とし ( 山城の綴喜の宮で、皇后にものを申し上げる私の兄君を見 なかったのならば、おまえは私のことを知らないといっても ると、私は涙がこばれそうでございます ) よいが、そうは言わせないよ ) と歌った。これを聞いて、皇后がそのわけをお尋ねになっ とお歌いになった。 たので、ロ比売はお答えして、「あれは私の兄のロ子臣で くちこのおみつろき いわの 〔五〕筒木宮の石之日売それでこのロ子臣が綴喜の皇后石之ございます」と申し上げた。 ひめ めりのみ 皇后 日売のもとに参上して、この仁徳天 さて口子臣とその妹のロ比売、それに奴理能美の三人が 皇から託されたお歌を申し上げようとしたが、その時、激相談して、使者を遣わして天皇に奏上させるには、「皇后 しく雨が降ってきた。それでも口子臣はその雨をも避けずがここにいらっしやったわけは、奴理能美の飼っている虫 に、御殿の表の戸口に参って平伏すると、皇后は会うのを で、一度は這う虫になり、一度は繭になり、一度は飛ぶ鳥 嫌われて行き違いに裏の戸口にお出になり、またロ子臣が になるという、三様に変る珍しい虫がございます。皇后は 御殿の裏の戸口に参って平伏すると、皇后は行き違いに表 この虫をごらんになりにおいでになっただけでございます。 の戸口にお出になった。ついに地面に腹ばいになって進ん決して変なお心があるわけではございません」と言うので たかつのみや で行って、庭の中にひざまずいていたが、そのうち雨の溜あった。使者が高津宮に参ってこのように奏上すると、天 り水はロ子臣の腰まで届いてしまった。その臣は赤い胸紐皇は「それなら私もその虫を珍しいと思うから、見に行こ を締めた青染めの衣を着けていたので、溜り水に赤い紐が う」と仰せられて、皇居から山城へ川を上りお出かけにな 浸って、衣の青がすっかり赤い色に変ってしまった。とこ って、奴理能美の家におはいりになったので、その奴理能 くちひめ ろでロ子臣の妹のロ比売は、当時、皇后にお仕えしていた。美は自分が飼っている三様に変る虫を皇后に献上した。そ それで兄の様子を見かねたロ比売は、 こで天皇は皇后のいらっしやる御殿の戸口にお立ちになっ やましろ あせ なみた て、 山代の筒木の宮に物申す吾が兄の君は涙ぐま しも つぎねふ山代女の木鍬持ち打ちし大根さわさ だいこん つつき おみ たま むなひも やましろめ つか まゆ おほね
あめのした おほやまとねこひこくにくるのみことかるさかひはらのみやま 一第八代孝元天皇。孝霊天皇の皇子。孝 大倭根子日子国玖琉命、軽の堺原宮に坐しまして、天下治めたまひき。 おほやまとねこひこくにくるのすめらみこと 元紀に「大日本根子彦国牽天皇ーとある。 四 こすめらみことほづみのおみら おやうっしこをのみこといもうっしこめのみことめと クニクルは国を綱で引き寄せる意で、『出 此の天皇、穂積臣等の祖内色許男命の妹、内色許売命を娶りて生みませ 雲国風土記』の国引き神話を連想させる。 五 一三ロ おほびこのみこと すくなひこたけゐごころのみこと わかやまとねこひこおほびびの ニ孝元紀に「都を軽の地に遷す。是を境 事る御子、大毘古命、次に少名日子建猪心命、次に若倭根子日子大毘々 原宮と謂ふ」とある。懿徳天皇の宮と同所。 うましまじのみ・一と むすめいかがしこめのみこと ・ ~ ロみこと 三神武天皇の条に宇麻志麻遅命の後裔と 命〔三柱〕。又内色許男命の女、伊迦賀色許売命を娶りて生みませる御子、 ある。物部氏と同祖。 うっしこをのみこと ひこふつおしのまことのみこと かふちのあをたま はにやすびめ 四開化紀に穂積臣の遠祖「鬱色雄命 . の妹 比古布都押之信命。又河内青玉の女、名は波邇夜須毘売を娶りて生みを色をとある。 五孝元紀に「大彦命」とある。崇神天皇の たけはにやすびこのみこと たちあは いつはしら ませる御子、建波邇夜須毘古命〔一柱〕。此の天皇の御子等、井せて五柱。条に四道将軍として北陸地方に派遣された とある。↓一一二ハー かれ そいろせ すくな 六大毘古命の対称。孝元紀の一云に「少 故、若倭根子日子大毘々命は天下治めたまひき。其の兄大毘古命の子、 ひこをこころのみこと 彦男心命」とある。 たけめなかはわけのみこと ひこいなこじわけのみこと あべのおみ かしはでのおみ セのちの開化天皇。 建沼河別命は〔阿倍臣等の祖〕。次に比古伊那許士別命〔此は膳臣の祖なり〕。 いかがしこめのみこと ^ 孝元紀に「伊香色謎命」とある。 ひこふつおしのまことのみこと をはりのむらじ おほなび かづらきのたかちなびめ 比古布都押之信命、尾張連等の祖意富那毘の妹、葛城高千那毘売を娶〈孝元紀に「彦さ忍命」とる。 一 0 孝元紀に「河内青玉繋の女、埴安媛」。 うましうちのすくね きのくにのみやっこ うづ やましろうちのおみ 一一孝元紀に「武埴安彦命」とある。崇神天 りて生める子、味師内宿禰〔此は山代の内臣の祖なり〕。又木国造の祖宇豆 皇の条に謀反を企てて大毘古命に討たれた たけしうちのすくね やましたかげひめ とある。一一三ハー たけぬなかはわけ 比古の妹、山下影日売を娶りて生める子、建内宿禰。此の建内宿禰の子 一ニ崇神紀に「武渟川別」とある。四道将軍 はたのやしろのすくね の一人として東海地方に遣わされた。 はたのおみはやしのおみはみのおみほしかはのおみあふみの 井せて九〔男七、女二〕。波多八代宿禰は〔波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海一 = 孝元紀には大彦命の後裔とある。 一四天皇の食膳に奉仕する氏族で、孝元紀 こせのをがらのすくね おみはっせべのきみ こせのおみさぎきべのおみかるべのおみ 臣・長谷部之君の祖なり〕。次に許勢小柄宿禰は〔許勢臣・雀部臣・軽部臣の祖な には大彦命の後裔とある。 ここのたり
103 中巻 させりびこのみことまた おほきびつひこのみこと ひこいさせりひこのみこと やまととびはやわかやひ に比古伊佐勢理毘古命、亦の名は大吉備津日子命、次に倭飛羽矢若屋比三孝霊紀に「彦五十狭芹彦命、亦の名は 吉備津彦命」とある。岡山市吉備津の吉備 売〔四柱〕。又其の阿礼比売命の弟、蠅伊呂杼を娶りて生みませる御子、津神社は大吉備肆彦命を祭る。 一三孝霊紀に「倭迹々稚屋姫命」とある。 ひ・一さしまのみ・一と ひこさめまのみこと わかひこたけきびつひこのみこと たちあは 一四孝霊紀に「彦狭島命」とある。 わかたけひこのみこと 日子寤間命、次に若日子建吉備子日子命〔二柱〕。此の天皇の御子等、井 三孝霊紀に「稚武彦命は、是れ吉備臣の やはしら かれ ひめみこ 始祖なり。とある。 ひおか せて八柱〔男王五、女王三〕。故、大倭根子日子国玖琉命は天下治めたまひ 一六兵庫県加古川市加古川町大野の氷丘の あひそ はりま 下を流れる加古川を氷河岬という。氷丘に き。大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、一一柱相副はして、針間のある日岡神社がその旧跡だという。 宅斎み清めた甕。酒を入れて神に供えた。 ひかはさき いはひへす 、 ) とむやは きびのくに 氷河の前に忌瓮を居ゑて、針間を道のロと為て、吉備国を言向け和した一〈吉備国へはいる道の入口。この記事は 崇神紀十年の四道将軍派遣の一であって、 一九かみつみちのおみ まひき。故、此の大吉備津日子命は〔吉備の上道臣の祖なり〕。次に若日子建他の三将軍派遣は『古事記』では崇神天皇の 条に見える。 ニ 0 しもつみちのおみかさのおみ うしかのおみ 一九備前国上道郡にちなむ氏族。 吉備津日子命は〔吉備の下道臣・笠臣の祖〕。次に日子寤間命は〔針間の牛鹿臣の ニ 0 備中国下道郡にちなむ氏族。笠臣は かものわけのみこと となみのおみとよのくにくにさきのおみいほばらのきみつめがのわたりの 『新撰姓氏録』などに鴨別命の後裔とある。 はりまのくにうしかのみやけ 祖なり〕。次に日子刺一眉別命は〔高志の利波臣・豊国の国前臣・五百原君・角鹿済 三安閑紀に播磨国の牛鹿屯倉がある。 ニ四 となみ みとしももちまりむとせみはかかたをかうまさかへ あたひ 一三高志の利波臣は越中国砺波郡、豊国の くこイ 1 き 直の祖なり天皇の御年、壱佰陸歳。御陵は片岡の馬坂の上に在り。 国前臣は豊後国国埼郡、五百原君は駿河国 廬原郡、角鹿済直は越前国敦賀にそれそれ ちなんだ氏族。 ニ三百六歳。 ニ四奈良県北葛城郡王寺町王寺小路ロの地。 ひこい 孝元天皇 ひこみこ し
をとめうだのおびとどもむすめ おふを たまふ美人の手を取りき。其の娘子は菟田首等の女、名は大魚なり。 爾に袁祁命も亦歌垣に立ちたまひき。是に志毘臣歌ひて日はく、 1 三ロ おほみや はたですみかたぶ 事大宮のをとっ端手隅傾けり すゑ 古 とうたひぎ。如此歌ひて其の歌の末を乞ひし時、袁祁命歌日ひたまはく、 五 おほたくみ六 大匠をぢなみこそ隅傾けれ とうたひたまひき。爾に志毘臣亦歌ひて日はく、 おほきみ おみ . しばかき 王の心をゆらみ臣の子の八重の柴垣入り立たずあり ここみこ とうたひき。是に王子亦歌日ひたまはく、 しほせ なをり しびはたで 潮瀬の波折を見れば遊び来る鮪が鰭手に妻立てり見ゅ いよよいか とうたひたまひき。爾に志毘臣愈怒りて歌ひて日はく、 おほきみ やふじま しまもとほ 王の御子の柴垣八節結り結り廻し切れむ柴垣焼けむ 212 柴垣 とうたひき。爾に王子亦歌日ひたまはく、 107 109 をとめ また かたぶ うた 一大和国宇陀 ( 奈良県宇陀郡菟田野町 ) の 土豪か。「首」は地方豪族の姓。 ニ「志毘」という名と後出の歌謡に見える 「鮪」とから作られた名であろう。 三袁祁命の御殿。 四ヲトはヲチ ( 遠 ) の古形。ツは「のと同 意の助詞。ハタデは端の所の義で、ここは 軒のこと。この歌は片歌形式で、次の歌と ともに問答歌を成す。 五タクミはエ匠、大工。「大」をつけてエ 匠の長、頭梁の意 六拙劣の意のヲジナシの語幹に理由を表 す接尾語ミがついた形。 セ袁祁命をさす。 : ヲ : ・ミは理由を表す語法。ュラシは ゆる 「緩し」の同義語で、だらしがない意。 九志毘臣をさす。 一 0 自分たち臣下の厳重な柴垣の中に入れ ないでいる、すなわち乙女の手を取ってい る自分たちの所には近寄れないと揶揄する。 次歌とともに短歌形式に転じる。 = 潮の流れている早瀬。 一ニ波が折り重なっている所。 一三魚のシビ ( 鮪 ) に名前の志毘をかけた。 ハタデは魚のひれの所の意。志毘のかたわ らの意をかける。志毘を嘲笑した答歌。 一四次の「御子」と同格。
1 下巻 はちげん と、また八絃の琴の調子を上手に調えるように平安に、天下命はそれに付けて、 おほたくみ いぎほわけのすめらみこと いちのへのおしはのおおきみ をお治めになった伊耶本和気天皇の、皇子市辺之忍歯王の、 大匠をぢなみこそ隅傾けれ とうりト - う・ 私は子どもですそ ) ( 頭梁の大工の腕がったなかったので、その隅が傾いたのだ よ ) と名のった。そこで小楯連はこれを聞いて驚き、椅子から ころ むろや ふた 転げ落ちて、その室屋にいる人たちを追い出して、その二 とお歌いになった。すると志毘臣がまた、 ひぎ す はしら おほきみ おみ 柱の皇子を左右の膝の上にお据えして泣き悲しんで、そし 王の心をゆらみ臣の子の八重の柴垣入り立 たずあり て人民たちを集めて仮の宮殿を造らせ、その仮の宮殿に二 やまと ( 皇子さまの心がしつかりしていらっしやらないので、私の 皇子をお住わせ申し上げて、早馬の使者を大和へ奏上した。 いいとよのおおきみ しば嚇 ~ き 家の幾重にも厳重にめぐらした柴垣の中には、おはいりにな すると二皇子の叔母の飯豊王はこの知らせを聞いて、お かずらきつのさしのみや れないでいらっしやる ) 喜びになって、二皇子を葛城の角刺宮に上らせなさった。 おけのみことけんそう さて袁祁命 ( 顕宗天皇 ) が天下をお と歌った。これに答えて皇子はまた、 しほせ なをり 垣 〔三〕歌 治めになろうとしているころのこと、 潮瀬の波折を見れば遊び来る鮪が鰭手に妻立 へぐりのおみ しびのおみ うたがき 平群臣の祖先で名は志毘臣という者は、歌垣に参加して、 てり見ゅ ( 潮の流れる早瀬の、波が幾重にも折り重なった辺りを見る その袁祁命が求婚なさろうとする乙女の手を取った。その うだのおびと おうお と、泳いでくる鮪のひれのところに、妻が立っているのが見 乙女は菟田首の娘で、名は大魚といった。そして袁祁命も える ) またこの歌垣にご参加になった。ここにおいて志毘臣が袁 いど 祁命に挑んで、 とお歌いになった。これを聞いた志毘臣はいっそう怒って、 しま - もレ」ま おほみや はたですみかたぶ おほきみ やふじま 9- 砺大宮のをとっ端手隅傾けり 川王の御子の柴垣八節結り結り廻し切れむ柴 のき すみ ( あなたの御殿のあっちの軒は、その隅が傾いていますよ ) 垣焼けむ柴垣 しも ( 皇子さまの御殿の柴垣は、結び目を多く縛り、、しつかりと と歌った。こう歌ってその歌の下の句を所望した時、袁祁 おとめ かたぶ しびはたで
古事記 いんぎよう あなほのみこ 〔一〕根臣の陰謀と大日允恭天皇の御子の穴穂御子 ( 安康さった。 いそのかみあなほのみや 芻下王 天皇 ) は石上の穴穂宮にいらっしゃ 〔ラ目弱王の復仇と大このことがあってからのちのこと、 かむどこ って、天下をお治めになった。さて、天皇は、同母弟の大長谷王 安康天皇は神託を得るための神床に はっせのおおきみ さかもとのおみ いらっしやって昼寝をしておられた。この時、天皇はその 長谷王 ( 雄略天皇 ) のために、坂本臣らの祖先の根臣を おおくさかのおおきみ つか ながたのおおいらつめ 皇后長田大郎女にささやいて、「おまえは何か心配なこと 天皇の叔父に当る大日下王のところにお遣わしになって、 わかくさかのおおきみ 「あなたの妹の若日下王を大長谷王と結婚させたいと思う があるか」と仰せられると、皇后はそれに答えて、「天皇 から、妹を差し出しなさい」と伝えさせられた。すると、 の厚いご寵愛をいただいておりますから、何の心配事がご ざいましよう」と申し上げられた。ところで、その皇后の 大日下王は四度も拝むという丁重な礼を尽して、「もしか まよわのおおきみ したらこのような勅命もあるかもしれないと存じましたの先夫との間に生れた子の目弱王は、当時七歳であった。 で、妹を外にも出さないで大事にしておりました。まこと この皇子は、ちょうどその時、天皇のいらっしやる御殿の に恐れ多いことです。勅命に従って妹を差し上げましょ下で遊んでいた。一方、天皇はその幼い皇子が御殿の下で う」と申し上げた。けれども、ただことばだけで承諾の返遊んでいるのにお気づきにならず、皇后に向って、「私は 事を奏上することは無礼であると思って、すぐに妹からの いつも心配していることがある。何かというと、おまえの おしき おおくさかのおおきみ たまかずら 贈物として、押木の玉縵という冠を根臣に持たせて献上し子の目弱王が成人した時に、私がその父の大日下王を殺 た。ところが根臣はその贈物の玉縵を横取りして、大日下したことを知ったら、かえって反逆心を起すのではなかろ 王のことを偽って告げロして、「大日下王は勅命を受けな うか」と仰せられた。そこでその御殿の下で遊んでいた目 いで、『私の妹は同族の者の下敷などになるものか』と申弱王は、このことばをすっかり聞いてしまい、そして天皇 たち して、大刀の柄を握ってお怒りになりました」と奏上した。 がおやすみになっている隙をそっとうかがって、そのかた たち そこで天皇はひどくお恨みになって、大日下王を殺してしわらに置いてあった大刀を取り、すぐにその天皇の首を打 みこ ながたのおおいらつめ つぶらおおみ まい、その王の正妻の長田大郎女を奪って来て、皇后にな ち斬って、都夫良意富美の家に逃げ込んでしまった。天皇 ねのおみ おお すき