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検索対象: 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)
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1. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

はアプスの継続態。アプスは余ってこぼ れる意の下一一段動詞アプル ( 溢 ) に対する しようずい 他動詞。〇瑞ー祥瑞。古代では不思議な 自然現象が起ると、祥瑞と称し、天下善 みやこ らかじ じえんおうせう 政の兆とみなされ、その発見者・報告者 しよくに 京に向かふ路の上にして、興に依りて予め作る侍宴応詔の歌 に禄が与えられた。『日本書紀』や『続日 んぎ 本紀』にその類の記述は多く、それによ 一首せて短歌 って改元したことも少なくない。聖武天 しまやまと あまくも いはふね 皇の代に陸奥国から産金したごときはそ 一あきづ島大和の国を天雲に磐船浮かべ艫に舳にま櫂し の代表的な祥瑞であった。↓四 0 九四。〇申 こ はらたひら したまひぬー申シタマフは申スのさらに じ貫きい漕ぎつつ国見しせして天降りまし払ひ平げ千 ( りくだ。た語。〇手抱きてー手をこま しようしょ っ ぬいて。ムダクはイダクの古形。『尚書』 あまひつぎ かむ すいきよう ( 武成 ) に「垂拱シテ天下治マル」とある。 代重ねいや継ぎ継ぎに知らし来る天の日継と神ながら 徳を以て治めれば、自ら手を下さなくて あめしたをさ やそともを 我が大君の天の下治めたまへばもののふの八十伴の緒をも天下が治ることをいう。〇天地日月と 共にー天地・日月は永遠に変らぬものの な を 撫でたまひ整へたまひ食す国の四方の人をもあぶさはず代表に挙げたもの。〇記し継がむそー記 録して後代に伝えられるであろう。〇や めぐ いにしへ しるしたび まう つん すみししー我ガ大君の枕詞。〇しが色々 -4 一 恵みたまへば古ゅなかりし瑞度まねく申したまひぬ手 にーシはそれ。文脈指示語として用い、 九むだ みよ あめっちひっき しる ここは秋の花をさす。イロイロは種々の + 抱きて事なき御代と天地日月と共に万代に記し継がむ 色それぞれをいう。〇見したまひー見ス 巻 わおきみ は見ルの敬語。〇明らめたまひーこの明 そやすみしし我が大君秋の花しが色々に見したまひ ラムは心を晴す意。〇酒みづきー酒ミヅ あき けふ たふと クは酒盛りをする意か。〇栄ゆるーここ 明らめたまひ酒みづき栄ゆる今日のあやに貴さ は盛大に賑わい楽しむことにいう。 わおほきみ よかさ はぎ ざしつる萩 さか さか よ あも よろづよ ともへ かい

2. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

をさたべのこいはさき したたり落ちる意。〇嘆きのたばくーノ 右の一首、他田部子磐前 タ・ハクはノリタマフの約音形ノタブのク かみつけののくにさきもりのことりづかひだいさくわん 二月二十三日に、上野国の防人部領使大目正六位下上毛語法形【〇鹿子じものージモノは、鳥ジ モノ・鹿ジモノなどのように用いられ、 ののきみするがたてまっ 、のように、の意を表す。鹿は一産一子 野君駿河が進る歌の数十一一首。ただし、拙劣の歌は取り載せ の動物。ただし、この場合は以下三句の 比喩的枕詞。以下「言問ひせむ」まで、両 親の語った言葉。〇朝戸出ー朝早く戸を 開けて出て行くこと。ここは、防人とし て出発することをいう。〇かなしき我が 子ーこのカナシは、心にしみていとしい こころの 防人が悲別の情を陳ぶる歌一首剏せて短歌 意。〇悲しびませばーマス ( イマス ) は敬 語動詞。底本や元暦校本には「可奈之備 ま しまもり わ 大君の任けのまにまに島守に我が立ち来ればははそ葉の麻世婆」とあるが、類聚古集などには「可 奈之備伊麻世」とあり、後者は已然形で みこと もすそっあ 母の命はみ裳の摘み上げかき撫でちちの実の父の命は言い放っ法。おそらく家持に両案あった のであろうが、已然形で言い放っ法は理 しら うへ なみだた たくづのの白ひげの上ゅ涙垂り嘆きのたばく鹿子じもの由・原因を表すのが通例で、この場合不 適と考えて「・・麻世婆」の方を成案とした あ あさとぞ のであろう。↓四一六 0 ( 流らへ来れ ) 。〇囲 ただひとりして朝戸出のかなしき我が子あらたまの年の み居ーカクムはカコムの古形。『法華経 ことど あひみ けふ 音訓』にも「擁、カクム」とある。貧窮問 かた 一一緒長く相見ずは恋しくあるべし今日だにも言問ひせむと 答歌 ( 兊一 l) の「父母は枕の方に妻子ど あと うれさまよ もは足の方に囲み居て憂へ吟ひ」 惜しみつつ悲しびませば若草の妻も子どももをちこちにの模倣か。〇春鳥のー声吟フの枕詞。〇 はるとり さまよ たづさ吟ひーサマヨフはうめき声を発する意。 さはに囲み居春鳥の声の吟ひ白たへの袖泣き濡らし携〇携はりー手を取り合って。 おきみ かくゐ 0 な せつれつ そぞ み かみつけ

3. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

おおきみ 8 ますらをの心振り起しーマスラヲノ 大君の仰せのままに妻と別れるのは悲しいがますらおがその心を奮い したく 心↓四三三一。いかにもますらおらしい 起し支度を整え門出をした時 ( たらちねの ) 母は撫で慈しみ ( 若草の ) 勇猛心をいう。振リ起スは奮い立たせる じゅうぐ こと。〇取り装ひー戎具や携行衣食類を 集妻は取りすがり「何とか無事に居てわたしたちは慎み守ろうつつがなく ふ 身に着けて。 0 平けくー残る者が元気で 葉すぐ帰って来ておくれ」と両袖で涙を拭きしやくり上げながら物を言う 居ることを約束していう。以下「帰り来」 まで、母や妻が別れ際に言った言葉。 0 萬ので ( 群鳥の ) 発つのもつらく去りかねて振り返りつつしだいに遠く なにわ ま幸くてー防人が無事なことをいう。〇 国を離れて来だんだん高く山も越え去り ( 葦が散る ) 難波に到着しタ潮 ま袖もちーマノデは左右両方の袖。モチ に船を浮べて朝なぎに漕ぎ出そうとて潮待ちしてわれわれがいる時は、用いて、の意。〇むせひつつームセ フのフは清音。〇群鳥のー出デ立ツの枕 春霞が島辺に立って鶴が鳴くのが悲しく聞えると遥かに家を思い出し 詞。鳥の群れが朝早くねぐらを飛び立っ 習性によってかけた。〇出で立ちかてに 背負った矢がひゅうと共鳴するほどに激しくため息をついてしまった ー出デ立ッ↓四三当 ( 出で立っ我は ) 。カテ 海原に霞がたなびき鶴の声の悲しく聞える晩は故郷が思い出される ニは可能を表す下二段活用のカツに「偲 あしべ はく知らに」 ( 四一九五 ) などのニが付いた形。 家を思い眠れずにいるともの憂げに鶴が鳴いているその葦辺も見えない 0 いや遠にー次の「いや高に」と対をなす。 さか 春の霞で 人麻呂の「いや遠に里は離りぬいや 高に山も越え来ぬー ( 一三 I) などの模倣か。 0 船を浮け据ゑー浮ケは浮べ、据ヱは安 定させ、の意。「み船下ろ据ゑ」 ( 四三六一 (l) に 同じ。〇舳向け漕がむとー船首を進行方 向に向けて漕ぎ出そうとして。〇さもら ふとーサモラフは伺い待つ意。ここは潮 時や出発の合図などを待っことにいう。 トは、、とて、の意。 0 島廻ー島の周り。 ここは八十島と呼ばれることもあった、 4398

4. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

ばんか 0 一・四一一二などのそれと同じく、懐かしい、 挽歌一首剏せて短歌 の意と解せなくもないが、ここは、なん やそともを あめっち ということだ、痛ましいことだ、のよう 天地の初めの時ゅうっそみの八十伴の緒は大君にまっ な感動詞的な用法。以下「留めかねつ」ま ひなざか みことかしこ つかさ さだ で伝言の内容。ただし間接話法に改めて ろふものと定まれる官にしあれば大君の命恐み鄙離る ある。〇君ー左注の藤原一一郎をさす。〇 ことかよ ただ をさ へな か・せく・も うらさびてー心が楽しまず淋しく思って。 国を治むとあしひきの山川隔り風雲に言は通へど直に 0 世の中の憂けく辛けくーウケク・ツラ を たまほこ いき あ ケクはそれぞれ形容詞憂シ・辛シのク語 逢はず日の重なれば思ひ恋ひ息づき居るに玉桙の道来法。憶良のの歌からの借用。以下「常 なくありけり」まで、伝言者の感想の形 こレ」 る人の伝て言に我に語らくはしきよし君はこのころうを借りた家持の慰めの言葉。〇時にー時 の経過に従って。〇御母の命ー二郎の母 なげ らさびて嘆かひいます世の中の憂けく辛けく咲く花もをさす。 0 なにしかも時しはあらむを↓ 3 三九五七。 0 まそ鏡ー見ルの枕詞。〇玉の みはは 時にうつろふうっせみも常なくありけりたらちねの御母緒のー同音によって惜シキのヲにかけた 枕詞。〇玉藻なすーナビクの枕詞。〇な みこと びき臥い伏しー臥ュは横たわる意。〇行 の命なにしかも時しはあらむをまそ鏡見れども飽かず く水のー流れ行く水のように。 0 留めか -4- ら . きり を を ねっー藤原一一郎の母が死んだことをいう。 4- 玉の緒の惜しき盛りに立っ霧の失せぬるごとく置く露の 0 狂言ー発圧して口走る言葉。オョヅレ とど ゅ たまも 九け と共に、計報などの思いがけない知らせ + 消ぬるがごとく玉藻なすなびき臥い伏し行く水の留めか を聞いて驚く場合に多く用いる。 0 爪引 まよけ 巻 っ あづざゆみ たはこと およづれ く夜音のー警護の武士などが策除のため ねっと狂言か人の言ひつる逆言か人の告げつる梓弓に夜中に指先で弾き鳴らす弓弦の音のよ なみたうに。以上二句は遠音を起す序。〇遠音 よおと とおと 爪引く夜音の遠音にも聞けば悲しみにはたづみ流るる涙ー遠方からの噂。〇にはたづみ↓巴六 0 。 4214 つまび っ かさ われ つね こ う ふ おほきみ

5. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

萬葉集 210 萬葉集巻第一一十 やまむら 山村に行幸された時の歌一一首 先の太上天皇 ( 元正 ) がお付きの諸王臣に向って、「諸王卿らよ、これ の返歌を詠んで奉るがよい」と仰せられて ) すぐ朗誦されたお歌 ( あしひきの ) 山に行っていたら山人がわたしにくれた山のみやげだよこ とねりのみこ 舎人親王が詔に答えてお返しした歌一首 ( あしひきの ) 山に行かれたという山人のみ心も計りかねますその山人と れは は誰でしようか おびとけ 一奈良市山町。桜井線帯解駅の東 方一帯。平城宮の東南約七 ) の地。 ニ元正天皇。↓四 0 五六題詞。舎人親王の 姪で、親王よりも四歳年下。 三 ↓四一一六八題詞。 しいか 四詩歌の類を作ること。 五大声を発すること。 3 山人ー人里離れた山中に住む人。山 村の住民をさすのであろうが、仙人 を匂わしていると思われる。〇山づとそ これー山のみやげであるぞこれは。この ットが何をさすか不明。 とりもの ◆神楽歌の「採物」にはこの「山人」を詠ん だ歌がいくつかある。「逢坂を今朝越 え来れば山人の我にくれたる山杖 ぞこれ山杖ぞこれ」もその一つ。題詞 に「御製歌」などとなっていないのは、元 正太上天皇がこの歌の実作者でなく、既 存歌を唱えただけであることの証か、と する説もある。ヤマの音を意識的に繰り 返した歌。 六天武天皇の第三皇子。実際は第九子 にいたべのひめみこ か。母は天智天皇の皇女新田部皇女。養 いつん 老二年に一品となり、『日本書紀』編纂の 総裁として尽力した。天武天皇の皇子の 最後の生き残りであったが、天平七年 ( 七 こう 三五 ) 十一月知太政官事で薨。六十歳。太 にお

6. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

別なる所心一首 あかと☆、 なの 0 暁に名告り鳴くなるほととぎすいやめづらしく思ほゅ 八 十るか・も 第 巻 こた しよしん 越中守大伴宿家持の報ふる歌、并せて所心三首 あまざか こひ ひなやっこ あめひと 天離る鄙の奴に天人しかく恋すらば生ける験あり が、アリには形容詞と同じく情態や情意 を表す場合があり、違例ではない。 常の恋ー不断の、坂上郎女・大嬢ら を思う作者の心。〇荷なひ堪へむか 、しおおせ もー下二段アフは、耐える、 る、、できる、の意の補助動詞。四 0 八一の 歌を受けている。 名告り鳴くなるーこのナリは伝聞推 定。ほととぎすの声を聞いて、鳥が 自分の名を告げていると解していう。鳥 名にはその鳴声に由来するものが多い。 つね や 常の恋いまだ止まぬに都より馬に恋来ば荷なひ堪へむ 0 ほととぎすーここは懐かしく思う人坂 上郎女にたとえた。〇いやめづらしくー イヤは、ますます。このメヅラシは慕わ 力、も しい意。 一四月四日のことか。「四月」の誤りと する説、「四月四日」とあったうち「四月」 が落ちたとする説などがある。ただし、 元暦校本には「右四首附使 : ・」 ( 原文 ) とあ り、これによれば、もと日付がなくかっ 四 0 八三と四 0 会との間に「所心一首」としても う一首歌があったかと思われる。もっと も、一兀暦校本もその「首」を見せ消ちにし、 右に別筆で「日」と記してあり、また四 0 全 の別提訓および四 0 会の本文が脱落してい るなど、なお疑問点があり、今は底本の ままにする。 右、四日に使に付して京師に贈り上す。 みやこ あは の い に しるし あ

7. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

家持の長歌の秀作の一つといってよい。また、いつの日か吉野行幸のことがあり、その際に特に指名されて 応詔歌を求められることもあるやも知れぬと、晴れがましく面目をほどこす自己の姿を思い描いて、予作歌 きようてい 集 ( 四 0 九 0 を詠む。内容は平凡で、この後この種の予作歌を作っては未奏に終り、篋底に貯えられることが多 くなる。その発端という点でこの歌は注目される。 いけぬし えちぜんのじよう 転勤の時期は明らかではないが、かって越中掾として公私両面で家持に近かった大伴池主が隣国越前掾 となっているが、相変らず音信を届けてくれる。ただ当然のことでもあろうが、量も少なくなり、質の上 あいさっ さかのうえのだいじよう さかのうえのいらつめ でも挨拶の範囲を出ず、また都に残して来た妻の坂上大嬢そしてその母坂上郎女からも文通は途絶えが たちばな たなばたうた ちで、この前後歌日誌の捗り具合が思わしくなく、家持は独りほととぎすを詠み、橘を歌い、七夕歌などを 詠んでいる。また大嬢に贈る真珠が手に人ればよいのにと嘆き、また夜中の花を見ては妻の手枕もせずに旅 寝する所在なさを綴っている。 おわりのおくい あそびめ その点やや特色があるのは、史生の尾張少咋が国庁周辺の遊行女婦の色香に迷い、他人の失笑を買いなが ら同居するという一件が起ったのを教喩した、という趣向で作った歌 ( 四一 0 六 ) であろう。その前文に、 しちしゆっれいい 七出例に云はく、 をか すなはい ただし一条を犯さば、即ち出だすべし。七出無くして輙く棄つる者は、徒一年半なりといふ。 さんふきょ 三不去に云はく、 あくじっ 七出を犯すとも、棄つべからず。違ふ者は杖一百なり。唯し鼾を犯したると悪疾とは棄つること得とい ふ。 りゃうさいれい 両妻例に云はく、 はかど たが ぢゃう たやすす ただかん ひと づ う

8. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

く、それら三首の作者も家持より下位の者ばかりである。古慈斐邸での胡麻呂餞宴に家持が欠席していたら しいことと共に、このことは彼の一族の中で占める位置を象徴するかのごとくである。この年の秋、家持は たかまど 集高円離宮を思う独詠歌を詠んでいる。この宮は平城京の東高円山の頂き近くにあり、以前は聖武天皇がよく 葉行幸された所であるが、今はその天皇も平城宮内で病身をいたわっているため廃墟に近い状態になっている。 家持が高円の宮を思う歌を詠む心の底には孤独の帝王に対する同情がある。 ひょうぶのしよう この頃家持は兵部少輔に転じている。兵部省は文官で、中衛府などのような武官でないが、親衛氏族大伴 さきもり・ヴ , ルこう 氏にはゆかりが深い。その職掌から翌年の勝宝七年二月に交替する防人を検校する業務のため難波に赴いた。 『万葉集』に百首近い防人歌が集録されることになったのは、その縁からである。防人は西海防衛のために ぶりようし 駆り出された兵士であるが、この当時専ら東国から派遣され、毎年数千人が諸国の部領使に率いられて難波 に集い、そこから船に乗せられて西航するのである。その防人たちを検閲する任に当っている家持は、部領 しゆっきよう 使を通じて彼らの出郷時や途中、難波での作、はたまた留守家族の歌の提供を求め、合計百六十余首の歌 を得た。ただその中で約半数を拙劣と認めて採択しなかった。 その中心的テーマは妻や恋人、父母などの家族との別離の情で、中には、 たて われ かへり おきみしこ 今日よりは顧みなくて大君の醜のみ楯と出で立っ我は ( 四三七三 ) ことあ のように、国土防衛の堅い決意を言挙げする者もあるかと思えば、 ふたがみあ 布多富我美悪しけ人なりあたゆまひ我がする時に防人に差す ( 四 lll<ll) と、指名した者を憎む防人もあって、防人歌全般に流れる精神もまた単一ではなかった。 家持はつぎつぎ届けられて来る各国の防人歌を見て感慨なきを得ず、その間に彼自身の所感、同情の気持

9. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

萬葉集 26 4058 玉を敷かなかったと君が悔んで言われる堀江には玉を敷き詰めて続いて 通いましよう〈あるいは「玉を解き敷いて」〉 右の二首の歌は、上皇のお船が堀江をさかのぼって遊宴を催された日に、左 大臣が奏上した歌と上皇の御製とである。 御製の歌一首 たちばな 橘枝もたわわになった橘いつまでもわたしは忘れないだろうこの橘を 河内女王の歌一首 橘の木陰も輝く庭に御殿を建てて酒盛りをなさるわが大君よ あわたのおおきみ 粟田女王の歌一首 月の出を待って家には帰りましようわたしが髪にさしております赤い橘を 影に映しつつ くや おおきみ 玉敷かずーこの下に引用を示す助詞 トが省かれている。〇君が悔いて言 ふー以上一一句、「堀江」の連体修飾格。〇 玉敷き満ててー下二段活用の満ツは満た す意。〇「玉扱き敷きて」ーコクは、房状 についた花実や穀類を手早くしごき取る じゅず 意。ここは数珠状に貫いた玉をばらばら にすることをいう。 一諸本共「右一首件歌者・ : 」 ( 原文 ) とあ るが、「右二首件歌者 : ・」の誤りとする 『万葉代匠記』の説による。 橘のとをの橘ータチ・ハナはみかん科 の小高木。現在のこみかんに当る。 花期は初夏。冬三、五の実がなる。ト ヲはトヲム・トヲヲと同源で、枝がたわ むほどに多く実がなることをいう。橘諸 兄の姓にちなんで、そのゆったりとして ゆとりある人柄をほめた。〇八つ代にも ー八代も続く長い治世の間も。 たけちの ニ高市皇子の娘。天平十一年 ( を九 ) 従 四位上、同二十年正四位下、天平宝字一一 年 ( 七五 0 従三位に上ったが、その後無位 ふわの に落された。不破内親王の事件に座した ためかという。宝亀四年 ( 七当 ) 正三位に

10. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

萬葉集 60 おおとものすくねやかもら 右は、五月十四日に、大伴宿禰家持が興を覚えて作ったものである。 さと ししようおわりのおくい 史生尾張少咋を教え喩す歌一首と短歌 しちしゆっれい 「七出例」に云わく、 「そのうちただ一か条犯しても、ただちに妻を離別してよい。七出に該当する とけい みだ 一国司の下にあって記録を担当する官。 事実もなくて妄りに遺棄する者は、一年半の徒刑に処する」と。 さんふきょ ニ越中国官倉納穀交替帳にも、勝宝三 「三不去」に云わく、 年六月ごろ従八位下で同国の史生であっ 「七出を犯しても、この場合は遺棄してはならない。違反する者は杖一百の刑たことを知る記述がある かんつう あくしつ す 三夫が妻を離別できる七つの離婚原因。 に処する。ただし姦通者、悪疾者は棄ててもよいーと。 ①無子 ( 五十歳を過ぎても嫡男子が生れ 響、ゆら′こ いんいっ りようさいれい ない ) 、②淫 ( 不倫 ) 、③舅姑に仕えな 「両妻例」に云わく、 とうせつ い、④ロ舌 ( ロ数が多過ぎる ) 、⑤盗竊、 「妻があるのにさらに娶る者は一年の徒刑に処する。女子は杖一百を加えて離⑥嫉忌 ( 嫉妬 ) 、⑦亜 ( 白願 ) をいう。た だし、当時行われていた『大宝令』には⑦ を含まず「六出」とあったらしく、ここに 「七出」とあるのは唐の戸婚律によったか A 」・もい - っ 0 g 「徒」は禁固刑。一年から三年まで、 半年刻みに五段階があった。昼間は道路 工事・架橋作業などの労伎に服した。 五『養老律』 ( 逸文 ) には「徒一年」とある。 唐律によったものか。 一 ( 七出に該当しても妻を離婚できない 三つの場合。①夫の両親の喪事 ( 三年間 ) を助けたもの。②娶る時は貧しかったが、 別させよ」と。 しようしょ 詔書に云わく、 ぎふせつぶ 義夫節婦らをいつくしんでやれ」と。 い めと じよう めと 0