巻十八 『万葉集』巻十七以下の四巻が巻十六までのいわば原初『万葉集』に対する増補部分であることは前冊の巻 おおとものやかもち 十七の解説ですでに述べた。この四巻はその大部分が歌にまつわる大伴家持の身辺記録である。年代からい って、天平十八年 ( 七四六 ) 正月以降天平宝字三年 ( 七五九 ) までの、『万葉集』最晩期に当り、家持の年齢でいえ ば二十九歳から四十一一歳までの分が収められている。 じようこく のと えっちゅう その天平十八年は家持が越中国守に任ぜられた年であり、その越中は、上国だが当時は能登をも併せて準 たいこく 大国といってよく、佐保大納言家の若い当主が国守として赴任するのにふさわしい国であった。この人事異 たちばなのもろえすいばん 解動の裏には左大臣橘諸兄の推輓があったのではないかといわれている。諸兄は、天平九年に流行した悪疫 むちまろ のため藤原武智麻呂ら政府の高官が相ついで薨じたあとを受けて累進した人で、元正・聖武両天皇の信頼厚 一 0 、支持者も多かったが、政治家としては資質に欠ける所があり、しだいに頭角を顕して来た武智麻呂の二 解説 各巻の概説 こう
175 巻第十九 4246 ~ 4247 4247 反歌一首 へなみ 沖っ波辺波な立ちそ君が船漕ぎ帰り来て津に泊っるまで 六太陽暦の八月十二日に当る。 セ太政官の第三等官。小事の奏上と官 印の管理とをつかさどる。定員三名。セ ウナフゴンと読むのが正しいが、習慣に 従う。 八 ↓四一一六題詞。しかし、久米広縄は二 あへのあそみおきなもろこしつか 月二日に正税帳使として出発している ( 四 阿倍朝臣老人、唐に遣はされし時に、母に奉る悲別の歌一首 一一三八左注 ) 。この「朝集使」は「税帳使」の誤 あまくも きね あ おも りであろう。朝集使の上京は毎年十一月 天雲のそき〈の極み我が思 ( る君に別れむ日近くなりぬ一日と決。ていた。家持は広縄と逢。て 四 くだり 別れを告げたかったのだが、留守なので こしのみちのなかのだいさくわんたかやすのくらびとたねまろ 右の件の歌、伝誦する人は越中大目高安倉人種麻呂広縄の館に歌を書き残して出発すること にした。この後八月に人って越中を離れ つぎて これなり。ただし、年月の次は、聞きし時のまにまにここにた家持は、越前の大伴池主の館で帰越途 中の広縄と逢っている ( 四一一吾題詞 ) 。 九贈って残す。「貽」は『万象名義』に 載す。 「遺也」とある。 一 0 「載」は「歳」に同じ。天平十八年 ( 七四 六 ) 閏七月に赴任して以来勝宝三年まで足 もち 吐 うなごんせんにん 掛け六年、満五年の歳月が過ぎたことを 七月十七日を以て、少納言に遷任す。仍りて悲別の歌を作 いう。 てうしふしじようくめのあそみひろつなむろつみおくのこ 一一大宝・養老の「選叙令」には「遷代」と 、朝集使掾久米朝臣広縄の館に贈り貽す一一首 ある。 ろくさいき たちませんたいときあ ふる 一ニ機会。 既に六載の期に満ち、忽ちに遷替の運に値ふ。ここに旧きを別一 = 「悽」は『万象名義』に「愴也、痛也」と 一四 かな よ むすぼ もち なみたのごそぞ ある。心が晴れず痛む意。 るる悽しびは、心中に鬱結れ、渧を拭ふ袖は、何を以てか能く一 0 心がふさいで晴れ晴れしないこと。 の ゼんしよう よ たてまっ
331 巻第二十 4486 ~ 4487 かくさま と言い、また諸王臣を戒めて「此の状悟 りて、人の見咎むべき事わざなせそ」と も言い聞せている。〇天地の堅めし国そ ーこのアメッチは天ッ神・国ツ神をいう。 記紀に見える天地修理固成の創世神話に よっていうが、内実は政敵を倒し、天下 てんびやううじ をわが物とした仲麻呂の増長慢心を物語 天平宝字元年十一月十八日に、内裏にして肆宴したまふ歌一一 っている。 四紫徴内相の略。紫徴中台の長官紫徴 首 令を改称したもの。太政官の右大臣に相 おも当する。 あめっち ひっき 天地を照らす日月の極みなくあるべきものを何をか思 = 藤原仲麻呂。武智麻呂の第一一子。豊 成の弟。天平六年 ( 四 ) 従五位下。民部 卿、参議兼左京大夫を経て、同十七年正 はむ 四位上で近江守を兼ねた。十八年式部卿 従三位、二十年正三位に進む。勝宝元年 大納言兼紫徴令、翌年従一一位。聖武太上 天皇と橘諸兄とが相次いで世を去ると紫 徴内相となって軍事権を掌握し、政敵橘 奈良麻呂を倒した後、身内のような大炊 王を皇太子に推し、やがて即位させ、自 えみのおしかっ らは恵美押勝と改名し、宝字六年正一位 太師 ( 太政大臣 ) に昇ったが、光明皇太后 が崩ずると力を失い、新たに孝謙上皇の ゅイのどうきよう 寵を得て台頭した弓削道鏡の勢力に押さ れて謀反を図り、同八年近江国高島郡勝 野に敗死した。五十九歳。 とに あめっち やまとしまね いざ子ども狂わざなせそ天地の堅めし国そ大和島根は 五 四 ないしゃうふぢはらのあそみ 右の一首、内相藤原朝臣奏す。 だいけんもつみかたのおきみいへ 十二月十八日に、大監物一二形王の宅にして宴する歌一二首 右、大伴宿禰家持作る。 右の一首、皇太子の御歌 たは きは かた しえん うたげ
たしかなる 国一全四たちしなふ 3 三九 00 圈四四四一 ーみをりのさとに圈四三四一たなばたし たそかれと たちておもひ 国一奏 0 ーもとにみちふむ一 0 毛たなばたの ーいほはたたてて 3 一一 0 三四 ーとはばこたへむ国一五四五たちてゐて ーもとにわがたち一一哭九 ーこよひあひなば 3 一一 0 合 ーわれをなとひそ 3 一三四 0 ーすべのたどきも国一一たちばなは ただけふも ーそでつぐよひの 3 一五四五 国一空三 ーたどきもしらず ーとこはなにもが 3 三九 0 九 ただこえの 九七七 ⅱあがこころ 国一八全 ーはなにもみにも圈四一一一一ーーたにせばみ ただこよひ ーみねにはひたる 3 三五 0 七 3 一一 0 六 0 ーみさへはなさへ一 8 九 = おもへども 国一三会 たたさにも 圈四一三一一 ーまてどまちかね圈四一一五三たちばなを ーみねへにはヘる三 0 六七 たたなづく 圈四一一 0 九 三一全たちのしり ーもりへのさとの 3 一一一三一たにちかく たたなめて 三 0 七一 3 三九 0 八 ーさやにいりのに 3 一一一七一一 ーやどにうゑおほし田四一 0 たにはぢの たはことか ただにあはず ーたままきたゐに 3 一三四五たちゃまに ーおよづれことか 3 一四 0 八 ーあらくもおほく合九たちばなの ーふりおけるゆきの四 00 四 ーひとのいひつる団三三三四 ーあるはうべなり国一八哭 ーかげふむみちのエ一孟 ーふりおけるゆきを四 00 一 ただにあはば 四三五一 田一三五 3 四 0 一一四たびころも ーこばのはなりが三四突たちゃまの ただにあひて 六大 圈四一一合たびといへば ーしたでるにはに圈四 0 五九たちわかれ ただにいかず ーことにそやすき 団三三一一 0 三六一一六 ーしたふくかぜの圈四三七一たづがなき ただにこず 3 三七四三 団三一一毛 Ⅱすくなくも ーしまにしをれば 3 一三一五たづがねの ただひとよ 六三八 ーきこゆるたゐに 3 一三四九 ⅱすべもなく 3 三七六三 ーしまのみやには田一七九 ただひとり 圈四三 団三一一一三 ーてらのながやに 3 三八一三 ーけさなくなへに 3 一一一三八たびとへど たたみけめ 圈四三三八 ーてれるながやに 3 三全三たっかゆみ 圈四一一五七たびなれば たたみこも ーとをのたちばな圈四 0 天たったやま 圈四三九五 ーおもひたえても三六会 索 ーにほへるかかも 3 三九一六たつのまも ーよなかにわきて 3 一六九一 合六 句たちかはり 初 ーっきかさなりて 3 一七九四 ーにほへるそのに 3 三九ズたつのまを 合八たびにありて ーふるきみやこと一 0 哭 ーはなちるさとに 3 一九夫たてもなく ーこふればくるし団三一三六 ーものをそおもふ三一五八 田たちかへり ーはなちるさとの 3 一四当たどかはの 一 0 三五 3 三吉九 たちこもの 昊六九 圈四三五四 ーはやしをうゑむ 3 一九天たなぎらひ 3 一六四一一たびにあれど
87 巻第十八 4132 ねなし ゑ ったのではないかと憂える。家持から示 された好意に甘えて、冗談とはいえ訴状 紛いの手紙を出したことを反省していう。 九未詳。「嘱」は託する意。「羅」には、 うすもの、の意があり、あるいは池主が 家持に、羅の着物を頂戴したいと頼んだ さらおこ ようなことがあったのであろうか。 更に来贈する歌一一首 一 0 地方官。ここは国守家持をさす。 はゆまづかひ かがのこほり 一一『遊仙窟』の「 ( おもゆ ) ヲ乞ヒテ酒 駅使を迎ふる事に依りて、今月十五日に、部下加賀郡の境にヲ得ル ( 腿神ロ ( ロの望み願うところ ) 四 いた R) ナリ」による。 おもかげいみづさと れんしょふかみのむらむす 到来る。面蔭に射水の郷を見、恋緒深見村に結ぼほる。身は胡一 = 官吏が法律に違反する行為をしても、 よ それが己れのためにしたのではなく、能 ばこと く時宜に適し、人民がそれによって利便 丐に異なれども、心は北風に悲しぶ。月に乗じて俳徊れども、 を得たのであればその罪を問うべきでは やくやらいふう しかしか 曾て為す所無し。稍くに来封を開くに、その辞云々とあれば、ない、の意。前の手紙は悪ふざけが過ぎ たが、本心からそう思ってしたのではな おそ わた われしよくら いことを懸命に弁解していう。 先に奉る所の書、返りて畏るらくは疑ひに度れるかと。僕嘱羅 一三家持が池主に送ったが「脱漏」した返 な もとよりよ かつがっしくん それ一一 歌をさす。 を作し、且使君を悩ます。夫水を乞ひて酒を得るは従来能き 高表現技巧が優れていること。 しる ことわり・ カ - つり・ っ 一五『遊仙窟』の別れの朝の悲しみを述べ ロなり。時を論じて理に合はば、何せむに強吏と題さむや。尋 た部分に、「ヒトリ眉ヲヒソミテ、水ク結 一四 しぜんく ひざむだひと ポホレ、空シク膝ヲ抱キテ長ク吟ズ」と ぎて針袋の詠を誦するに、詞泉酌めども渇きず。膝を抱き独り あるのを、ここは笑いの場面に転用した。 よ 一六うっとりと。歌を貰って満足してい うれ のぞ おく 笑み、能く旅の愁へを觸く。陶然に日を遣り、何をか慮らむ何ることを表す。 右の歌の返報歌は、脱漏し探り求むること得ず。 よ ほくふう っ たもとほ はか
初句索引 395 こひこひて ーしたゆこひあまり ーけふはあらめど団一一八八四こまやまに ーあひたるものを六六七 ーけふはくらしつ 3 一九一四こむといふも 日しらなみの 三 0 一一三 ーあへるときだに六六一 ーのちもあはむと印一八交こもちゃま Ⅱしらなみの 3 三空五 ーのちもあはむと印一九 0 四 ーをらむとすれど 3 三四七五こもまくら ーしたゆこふれば国一四四一 こひごろも 団三 0 八八 こひといへば 国一空九こもよ ーしたゆはこひむ三 0 一一一 こひしくは こひにもそ 第五九八 こ、もり冫、の こもりのみ ーかたみにせよと 3 一一二九こひはいまは 六九五 ーとよはっせぢは印一五二 ーこふればくるし ーけながきものを 3 一一 0 一七こふといふは 四 0 七八 ーはっせのかはの Ⅱなでしこが こひしけく 3 一一 0 三九こふること Ⅱかみっせに 三一一六三 やまのはゆ 3 三八 0 三 こひしけば ーなぐさめかねて印一四一四 Ⅱかみっせに 団三三三 0 ーをればいぶせみ 3 一四七九 ーかたみにせむと 3 一四七一 ーまされるいまは団三 0 会 ーはっせのくにに団三三一 0 こよひの ーきませわがせこ 3 三四こふるひの 3 一三夫 ーはっせのやま 団三三三一 ーあかときぐたち 3 一三六九 ーそでもふらむを 3 三三七六こふるひは 3 一一 0 七九 ーはっせのやまに ーありあけのつくよ国一六七一 こひしげみ 3 三六一一 0 こほろぎの Ⅱかすみたち 3 一四 0 七 ーおほっかなきに 3 一九五一一 こひしなば ーあがとこのヘに 3 一三一 0 Ⅱてるつきは ーはやくあけなば五哭 ーこひもしねとや ーまちょろこぶる 3 一三六四 ーはっせのやまの田四一一八こらがいへぢ 田三 0 一一 Ⅱたまほこの 団一一三七 0 こまっくる 3 一一一会五 ーはっせのやまは 3 一五曁こらがてを Ⅱほととぎす三夫 0 こまつるぎ 団一一究三 ーはっせをぐにに ーまきむくやまに 3 一八一五 Ⅱわぎもこが 団一一四 0 一こまなめて 3 二哭 Ⅱつましあれば三三二 ーまきむくやまは 3 一一一交 こひしなむ こまにしを」 よばひせす三三一一一こらがなに 3 ズ一八 ーそこもおなじそ七哭 ーひもときあけて団一一四 0 六 ーはっせをとめがエ四一一四こらしあらば 一 000 ーときはなにせむ契 0 ーひもときかはし 3 一一 0 九 0 こもりづの 国一七九四これやこの ーのちはなにせむ国一堯一一 ーひもときさけて 3 三四六五こもりどの 印一四四三 ーなにおふなるとの 3 三六三八 こひするに 国三九 0 ーひものかたへぞ印一三五六こもりには 団一一夫四 ーやまとにしては 田三五 こひつつも ころ・もし・も ーひものむすびも国一九こもりぬの 団一一全九 ーいなばかきわけ 3 一三三 0 こまひとの 印一四突 ーしたにこふれば印一七一九ころもで 盟一 0 天 至七 3 三四九四 3 一四一四
あさとりの あさぎりのかよはすきみが なっくさの おもひしなえて ・朝鳥一云朝霧往来為君之夏草乃念之萎而自分の不明ばかり連ねて来たが、昨日 ( 昭和六十二年七月 ゅふつづの かゆきかくゆきおにぶねのたゆたふみればなぐさもるこ ( ろ タ星之彼往此去大船猶豫不定見者遣悶流情二十四日 ) は、大学院の学生から斬新な解釈を聞いて啓発 もあらず 毛不レ在 : ( 巻一一一突 ) された。 の「猶豫不定」も「たゆたふ」と訓むことに疑いはない。 しのひつるかも いきしにのふたつのうみをいとはしみしひのやまを この「猶豫不定」に対して、「全集」「完訳」は言及なし。 生死之一一海乎見潮干乃山乎之努比鶴鴨 「猶豫不定と書いたのは、上の句の彼往此去に対した作意 ( 巻十六三会九 ) に出ずるもの」 ( 金子元臣・評釈 ) という指摘くらいは紹介 すべきであった。 「生死の二つの海」、「全集」の頭注は「人間の生死の苦し 「猶豫不定」の文字自体について、もっとも留意した注はみを海にたとえた。仏典に例が多い」と記す。しかし「生 『万葉集講義』である。 死の海」を「二つ」と数えた例などありはしない。「完訳」 これは「猶豫」の外に「不定」の二字を加へてその意の脚注には「作者はその内容を、生の海と死の海という二 もちろん を明確にしたるならむ。 ( 四一八頁 ) つの海があるように考えたか」。勿論、裏付けは無い。 この「猶豫不定」が、仏典頻出の四字熟語であることを院生佐竹真由美さん ( 姓偶合 ) によれば、「生死之二海」 うら 注し漏らしたのも、「会に合はぬ花」の憾み。 の「二」は、「久」からの誤写で、「生死之久海」、すなわ 此魔波旬今雖発菩提心猶豫不定如畳毳。 ( 大方ち、「生死のヒサシキ海」だったのではないかという。 等大集経・巻第十八・虚空蔵菩薩品第八之五 ) 「久」↓「々」↓ 「二」、誤写の可能性は十分あり得るし、 世尊凡夫心軽猶豫不定。 ( 同右・巻第五十二・月蔵分第傍証の支えもある。流転してやむことの無い「生死の海」 十一一諸魔得敬信品第十 ) こそ、まさに「久しき海」であろう。 答日所以不称者以彼人心猶豫不定故。 ( 出曜経・巻 衆生如是久処愚痴生死大海。 ( 大般涅槃経・巻第九 ) 第十五・利養品下 ) 是故流転久処生死没大苦海。 ( 同右・巻第十五 ) 心之為物猶豫不定。 ( 同右・巻第一一十八・心意品第三十一 l) 私たちの「会に合はぬ花ーは、これから若い研究者が、
ーうへにおきたる あきやまに ーけなばけぬべく国一四天 ーかひやがしたの天一八 Ⅱしらっゅの 3 一六 0 八 ーたなびくのヘに 3 一九四 0 ーけぬべくのみや三 0 ーおつるもみちば 811119 日しらっゅの 3 一一孟四 ーしもふりおほひ 3 一一一一四三 ーけやすきいのち 3 三七五 ーたなびくやまを三一会 ーうへにしらっゅ 3 一三発 ーもみつこのはの 3 一五一六 ーはるひのくれば 3 一全六あさぢはら ーえだもとををに あきやまの ーかりしめさして一一五 ーやまずたなびく 3 二八一 Ⅱおくっゅの ーこのしたがくり 田九一一あさがほは 3 一五九五 3 一一一 0 四 ーちふにあしふみ団三 9 七 Ⅱおくっゅの 3 一三天 ーこのはもいまだ 3 一一一三一一あさかみの 七一一四 ーっぱらつばらに田三三三 ーをのにしめゅひ 。っゅしもおき 3 一一一七 0 ーしたひがしたに 3 一一一三九あさかやま 0 七 " むなことも ーこひもっきねば 3 一一一四五 団三 0 六三 ーしたへるいも 工二七あさがらす 三 0 九五 Ⅱむなことを 国一四奕 ーさきたるのへの 3 一一一 ーもみちあはれと 3 一四 0 九あさぎりに ーさきちるのへの 3 一三 ーもみちをかざし 3 三七 0 七 ーしののにぬれて 3 一会一あさづくひ ーむかひのやまに 3 一一一九四 ーさけるのヘには 3 一一一吾一 ーもみちをしげみ囚一 0 八 ーぬれにしころも 3 一六奕 ーしたばのもみち 3 一一一一 0 九あきやまを ーむかふつげくし国一五 00 3 一一一八四あさぎりの ーしたばもみちぬ 3 一三夐あけぐれの 3 一二元 ーおほにあひみし究九あさっゅに ーちりすぎゅかば 3 一一一五一一あけぬべく 印一八 0 七 ーけやすきあがみ八会 ーさきすさびたる 3 一三八一 ーちりのまがひに 3 一会 0 あごのうみの ーにほひそめたる 3 一一一七九 団三一一四四 ーたなびくたゐに圈四一三四 ーちりゆくみれば 3 一一一五 0 あごのうらに 三六一 0 ーたなびくをのの 3 一一一ズあさっゅの ーはなののすすき 3 一三会あごのやま ーやヘやまこえて ーけやすきあがみ国一六兊 あきはぎは あさかげに 3 一毫九 ⅱほととぎす 3 一九四五あさとあけて ーかりにあはじと 3 一二一一六 ーあがみはなりぬ 圈四一五 0 Ⅱよぶこどり・ 3 一九四一あさとこに Ⅱからころも ーさかりすぐるを 3 一九 印一六一九あさぐもり 田ズ八あさとでの 索 〕Ⅱた士かを」る ーさきぬべからし 3 一五一四 ーきみがあゆひを国三造 団一三九四あさごちに ④毛一七 句 初あきはぎを たまかぎる 団三 0 会あさごとに 3 一六一六 ーきみがすがたを 3 一九孟 ーちらすながめの 3 一一一一六一一あさかしは 団一一毳四あさごろも 3 二奈あさとりの 田哭三 ーちりすぎぬべみ 3 一三九 0 あさがすみ あさされば 三六毛あさとを 団一一五 あさなぎに ーっまどふかこそ 3 一七九 0 ーかひやがしたに 3 一一一一六五あさしもの
面変りせずに 反歌一一首 集去年の秋逢ったまんまで今日見るとお顔が見違えるばかりだ都会の紳士 葉 萬 こうしてちゃんと逢えるのにほんとうに年月を経ると恋しかったよ にととぎす 霍公鳥の鳴く声を聞いて作った歌一首 昔から賞でてきたのでほととぎすの鳴く声を聞くと懐かしいことよ 上京する時に、貴人を見また美人に逢い飲宴する日の用意に、 4118 4119 〇面変はりーしばらく見ない間に容貌が 変ること。『日葡辞書』には、ただ人間に だけいう、との但し書きがある 去年の秋ー越中は上り十八日で、十 月末に平城京に着くためには十月十
萬葉集 96 萬葉集巻第十九 しゅんえんとうり てんびようしようう 天平勝宝二年一二月一日の夕方、春苑の桃李の花を眺めて作った二首 くれないいろ その 春の園の紅色に咲いている桃の花の下まで輝く道にたたずむおとめよ すもも Ⅷわが園の李の花が庭に散っているのだろうかそれとも薄雪がまだ残って 一七五〇年。その三月一日は太陽暦の いるのであろうか 四月十一日に当り、前の巻十八の最後か かけしぎ ら十二日後にこの巻は始っている。 飛び翔る鴫を見て作った歌一首 ニ「李」は中国から渡来したばら科の落 川春となってそぞろ悲しい時に夜もふけてはばたき鳴く鴫は誰の田に住ん葉高木。春白い花が群がり咲く。球形の 実は酸味が強く、果樹として教培された。 あんず でいるのであろうか ここは杏の類をも含めて言ったか。 三やや遠くから眺めること。「矚」は 「視」に同じく、注視する意。 9 にほふーここは、赤く照り輝く意。 〇下照る道ーその木の下までも照り 輝いている道。テは連濁してデとなる。 したそ 四 9 九の「橘の下照る庭」の原文も「・ : 之多 泥流尓波」とあった。 ◆この「娘子」を妻大嬢かとする説もある が、題詞に忠実に解するならば、人物は 想像による点景であろう。 なが