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検索対象: 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)
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1. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

をふ 乎布の崎漕ぎたもとほりひねもすに見とも飽くべき浦にとみなし、全体を仏足石歌体と解すべき か。第二句の別案とする説もある ◆前の四 0 三六の歌に対する返歌。 あらなくに〈一に云ふ、「君が問はすも」〉 玉櫛笥ー明クの枕詞。〇いっしか明 かみ けむーイツ ( シ ) カ・ : ムは、いつにな 右の一首、守大伴宿家持 ったら、するだろうか、という内容の疑 問文だが、早く、したい、早く、してほ しいと願い望む場合に限って用いられる。 たまくしげ ゅ ひり 0 布勢の海ー「市勢の水海」に同じ。下二 一玉櫛笥いっしか明けむ布勢の海の浦を行きつつ玉も拾句の内容からみて、玉や貝の打ち寄せら れている外海と勘違いしていると思われ はむ る。〇玉も拾はむーこのモは並立を示す。 舟に乗って美景を眺めるだけでなく、と いう気持を裏に含む。 9 音のみにーこの音は噂の意。一説に、 音のみに聞きて目に見ぬ布勢の浦を見ずは上らじ年は経前年税帳使として上京した家持から 福麻呂が三究一・三究一一の布勢の水海に遊ぶ 歌を示され、話にだけは聞いていた、と ぬとも 言ったのであろうとする。〇見ずは上ら じー見ないで上京することはしまい。 4 ・ 0 行きてし見てばーシは強め。見テ・ハ ゅ おみやひと 4 のテは完了の助動詞ツの末然形。〇 わ布勢の浦を行きてし見てばももしきの大宮人に語り継ぎ ももしきのー大宮の枕詞。「百石木」「百 第 石城」などの表記から、多くの岩石を敷 巻 てむ き詰め組み合せた堅固な土壇の上に築い た建築物の意と考えられる。〇語り継ぎ てむーこのテも完了の助動詞ツの未然形。 ふせ あ のな

2. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

梅の花が散っているその「園、にわたしは行こうあなたの使いをじっと 待っていられなくて 集藤波のだんだん咲いてゆくのを見るとほととぎすの鳴くはずの時が近づ 葉 いて来た たな・ヘのふびとさきまろ 萬 右の五首は、田辺史福麻呂 明日の日の布勢の浦辺の藤波にもしゃ来鳴かないでみすみす散らしてし まうのではないか〈一案では初句が「ほととぎす」〉 右の一首は、大伴宿彌家持が返したものである。 以上の一連の十首の歌は、二十四日の宴で作ったものである 二十五日、布勢の水海に行く時に、途中馬上で大声で詠んだ二首 ふせ みすうみ その 梅の花咲き散る園にー複合語咲キ散 ルの咲キにはほとんど意味がない。 園は氷見市街地南方の地名。市勢の水海 の湖岸、乎市の崎の北端辺に当る。この 歌は巻十「春の相聞」の「花に寄する」の中 にある一九 00 の小異歌で、家持から布勢の 水海に「園」という地名があると聞いて興 味を覚え、その古歌を唱詠したもの。四 0 三一一題詞の「古詠」の一つ。新暦四月下旬で 梅の花期は過ぎている。〇片待ちがてら ー片待ツは、ひたすらに待つ、の意。ガ テラは、上代語ではガテリが一般的で、 、しついでに、の意だが、「恋ひつつ居 りき君待ちがてり」 ( 三占 ) 、「迎へ舟待ち がてり浦ゅ漕ぎあはむ」 ( 一一一 8 ) などのそ れは、カネテと同じような意味と考えら れる。ここもその一例 藤波ー藤の雅語。その花の色や揺れ るさまを波にたとえた。〇ほととぎ す鳴くべき時ー四月をいう。「ほととぎ

3. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

ていたときに、この中から頂戴して、友人ともども、春苑、「布勢の円山」にたどりついた。ト / さな、円墳のような丘 桃苑と名乗っていたことがある。 なのだが、この石段の急峻なこと。頂上の社は式内社布勢 こら まっ ゃぶつばき ところで、この歌の作られたのが、家持の館の苑である神社で、裏に回ると、家持を祀った祠と碑がある。藪椿の なら、どうしても国守館跡を見なければなるまい。場所は、真紅の花が、いちめんに落ちていた。「巨勢山のつらつら 勝興寺門前から坂を少し下りたところの、測候所の敷地が椿の歌を、「円山の」と言いかえたい程に、たくさんの それである。 花が連なって、椿の古木を彩っている。やわらかな春風が、 少し小高くなった館跡に立っと、今は人家が密集していさやさやと渡ってくる。 るものの、それを越えた真向いに海が見える。奈呉のあた まわりにひろがる水田は、昔の「布勢の水海」で、橘諸 はる さきまろ りである。「朝床に聞けば遥けし射水川朝漕ぎしつつ唱ふ兄の使者としてやって来た田辺福麻呂を舟遊びに誘ったと ふなびと 舟人」 ( 四一五 0 ) というのだから、ついこの丘の下に、射水ころであるという。これを湖として考える人が多いようだ すなど をふ たるひめ 川が流れ、漁りをしていたのであろう。 が、「乎布の浦に霞たなびき垂姫に藤波咲きて浜清く白波 さわ いま見回す高台には、黄水仙が咲き乱れているものの、騒き : : : 」 ( 四一全 ) という歌句を見ると、前にも記したよう 桃李の姿は見当らない。しかし、昔はこの館の苑に、桃のに、このあたりは人江であって、湖といっても外海に通じ 花が咲き、李の花びらが雪のように散ったのである。「桃ていたという感じがあるのを、どうしても否定できなかっ えうえう の夭々たる」という『詩経』の影響を受けたにせよ、あのた。 桃李の歌は家持の歌境をぐっとひろげた画期的な一首だっ いずれにしても、家持はこの地方にあって歌の境地を一 たことに変りはない。巻十九のトップにこの二首をおいた歩も二歩も大きくしたのだった。そして春の花の咲くごと 家持は、ただ日付順に並べただけではない、一種の自負をに、「心悲しもひとりし思へば」の近代的感覚にとらえら 持っていたのではないか。そう思わせる充実が、あの歌にれつつ、春愁のうちに望郷の念を禁じ得なかったであろう。 はたしかに在る。 今回の旅によって、私はその心に一歩近づいたような感 ( 歌人 ) 有磯海の海岸ぞいに氷見の町に立ち寄ってから、待望の覚をもって帰途についたのであった。 ひみ もろ

4. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

萬葉集 14 4039 乎布の崎は漕ぎまわりつつ一日じゅう見ても飽きるような浦ではないの に〈また「あなたが尋ねられることよ」〉 右の一首は、守大伴宿彌家持 ( 玉櫛笥 ) 早く夜が明ければよいに布勢の海の浦を行きつつ玉をも拾おう に うわさ 噂にだけ聞いてまだ見ていない布勢の浦を見ずには帰京しまい年は過ぎ ても おおみやびと 布勢の浦を行「て見たなら ( ももしきの ) 大宮人に語り伝えましよう かみ ふせ 乎布の崎ー布勢の水海南岸の一一上山 麓が複雑な曲線を描きつつ岬をなし ていた部分であろう。現在の氷見市下田 子の辺から園・大浦を経て堀田に至る丘 陵地がそれに当ると思われるが、多粘の 崎、鷭の崎などとの関係を明確にしが たい。 0 漕ぎたもとほりータモトホルに は、迂回する、先へ進めず同じ所をうろ うろする、などの意がある。ここはその どちらでも通ずるが、佳景に心を奪われ て前進できないと解して後者を採る。〇 ひねもすにー一日じゅう。「終日」 ( 一五 ) と記した例もある。 0 見ともー見ルなど の上一段動詞はラム・ラシ・ペシ・トモ などの助動詞・助詞へはその連用形から 接続した。〇「君が問はすも」ー第六句 4037 その

5. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

おおとものやかもち 大伴家持の妹である。 ふせみずうみ 十二日に、布勢の水海に遊覧した折、多砧の浦に舟を泊めて、藤の花を 眺めやって、各人思うところを述べて作った歌四首 葉藤波が影を映す水海の底が清いので沈んでいる石も玉とさえわたしには 萬見えた 大伴宿禰家持 一太陽暦の五月一一十一日に当る。家持 多砧の浦の底まで輝く藤波を髪にさして帰ろうまだ見ない人のために は下僚と共に六日前の四月六日にも布勢 すけくらのいみきなわまろ 介内蔵忌寸縄麻呂 の水海に遊覧している。京官は毎月六 加もうだめだろうと思って来たが多砧の浦に咲いている藤を見て一夜過し十二・十八・二十四・三十日の六の倍数 日が休日であったといわれている。地方 たいほどだ 官もこれに準じてそれらの各日に休暇を とることができたのであろう。家持らは それを利して、また布勢の水海を訪れた のである。 ニ布勢の水海南岸の湾人部。氷見市宮 田に上田子、下田子の小字名があり、そ の辺を湾奥とした小湾が当時あったと想 像される。現在下田子に藤波神社という 社があり、直径一尺以上の白藤の老樹が 這い、五月ごろ開花する。 9 影なす海ー影を映している湖岸。〇 沈く石ーシヅクは沈んで底に固定し ている意。沈ムが徐々に沈んで行くこと

6. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

みずうみ 六日に、布勢の水海に遊覧して作った歌一首と短歌 したやみ ↓四 0 三六題詞。 気の合ったますらお仲間が木の下闇のように深い憂いを見て晴し気を 7 思ふどちー気の合った者同士。〇ま こめぐ すらをのこー越中の国庁の官人をさ 集紛らそうと布勢の水海に舟を連ねて櫂を取り付け岸を漕ぎ巡れば乎布 かすみ たるひめ す。〇木の暗ー晩春・初夏の木立の茂り。 葉の浦には霞がたなびき垂姫の崎には藤の花が咲いて浜は清く白波は立 ここは繁キ思ヒの比喩をなし、枕詞の用 萬ち騒ぎますますほれぼれするが今日きりで満足できようかこのように法に近い。原文に「許能久礼」とあるが、 あるいは「礼」の下にあった「能」「乃な なおも毎年春の花の咲き盛る時に秋の葉の紅葉する時に何度も通って どの仮名が落ちたものか。〇繁き思ひー 絶え間ない思慕の情。〇見明らめー ( 布 見ては賞でようこの布勢の水海を 勢の水海を ) 見て心を晴し。〇心遣らむ 藤の花の満開の時にこのように浦を漕ぎ巡っては毎年賞でよう とーもやもやした気持を一掃しようとし うえちんのくにのじよう て。〇小舟つら並めーツラ並ムは多数の 鵜を越前国掾大伴宿禰池主に贈る歌一首と短歌 ものを一列に並べること。〇ま櫂掛けー ( 天離る ) 鄙暮しなのであなたもわたしも同じ気持だ奈良の家を離れて マは接頭語。カイは舟を漕ぎ進める具。 カヂに比べて比較的小型の舟に固定せず 幾年も経たので人並みに物思いも絶えないそれ故に気を紛らせるため に操ることが多いが、同じく布勢の水海 かちかいぬ ほととぎすの に遊覧する歌 ( 三究三 ) に「ま梶櫂貫き」とも あり、必ずしも厳密な使い分けはなかっ たとも思われる。〇い漕ぎ巡ればーイは 接頭語。布勢の水海の湖岸線が複雑なの で「漕ぎ巡る」と言った。 0 しくしくに ひっきりなしに。〇恋は増されどー恋は、 本来、眼前にないものを思慕することを 表す語。その原義に忠実に解するならば、 この「恋」は上の「繁き思ひ」と同じく、官 人たちの都に残して来た家族を思う気持 4189 4188 かい

7. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

せみづうみ をさすと思われる。しかし文脈の上から 六日に、布勢の水海に遊覧して作る歌一首剏せて短歌 は、現在眼前に見ている布勢の水海に心 くれしげ みあき 思ふどちますらをのこの木の暗繁き思ひを見明らめ心引かれる思いをいうようである。それに しても、「増さりて」などとあるならとも こ な かい めぐ をぶね かく、「増されど」と逆接になっているの 遣らむと布勢の海に小舟つら並めま櫂掛けい漕ぎ巡れば は疑問。〇いや年のはに↓四一交。〇もみ たるひめ をふ かすみ さわたむ時にーモミツはタ行四段活用。 乎布の浦に霞たなびき垂姫に藤波咲きて浜清く白波騒 、、ルは、まわる、巡 8 浦漕ぎ廻っつー けふ 引る、の意。上一段活用。 0 年にしの きしくしくに恋は増されど今日のみに飽き足らめやも はめー年ニは毎年一度。シノフは賞美す る意。 しげ かくしこそいや年のはに春花の繁き盛りに秋の葉のも = 鵜。烏のように色が黒く、また字音 が通じるので『万葉集』ではこのように 「水烏」と書かれることがある。家持が鵜 みたむ時にあり通ひ見つつしのはめこの布勢の海を 飼に使う鵜は、能登の七尾市の東北、観 音崎近くの鵜崎断崖で捕えた海鵜であろ み 鄙にしあればー越前も越中も隣国同 藤波の花の盛りにかくしこそ浦漕ぎ廻っつ年にしのはめ 引士で都から遠く離れた田舎であるか ら。原文「夷等之在者 [ とあるが、「等」は 4 「尓」の誤りとみて改める。〇そこここも 九 こしのみちのくちのじよう 同じ心そーソコは池主、ココは家持をさ 十 水烏を越前判官大伴宿禰池主に贈る歌一首并せて短歌 す。異郷に在って共に都が恋しいことを 第 ひな おな いへざか 〕あまざか いう。〇そこ故にーソコは上記の、鄙に 天離る鄙にしあればそこここも同じ心そ家離り年の経住む身は物思うことが絶えない、という 内容を受ける。〇心なぐさにー気晴しと ゅ ものもひしげ ぬればうっせみは物田 5 繁しそこ故に心なぐさにほととして。下の「遊ばむ、にかかる。 4187 4189 ま はるはな ふぢなみ こ あだ へ

8. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

奈呉の海に潮のはや干ばあさりしに出でむと鶴は今そ鳴特の香気を発し、これが邪気を払い疫病 を除くといわれて、端午の節句に使用さ れた。カヅラは蔓性植物や柳の枝などを くなる 輪状にして頭に載せる装飾。〇こゅーコ はここ。このユは通過点を示す。 や一九会に重出。題詞の「古詠」に当る。 ひみ 一富山県氷見市南部にかってあった湖 水。東は窪・島尾、南は二上山北麓の西 ( うしろ あわら 田・上田子・下田子・神代、西は粟原、 もお 北は万尾・矢崎にまで広がり、湖岸には 至る所に小湾や岬があって風光絶佳であ った。家持ら越中国司はしばしばこの地 に遊び、その時に詠んだ歌がこの後多数 収められている。近世に至ってもなお極 めて複雑な湖岸の凹凸があった実状を写 あすのひせ みづうみ おもひ した十九世紀前半の『越中地図』が残って ここに、明日布勢の水海に遊覧せむと期し、仍りて懐を述べ、 いるが、その後急速に干拓が進み、現在 しゅうにちょうかた は矢崎近くに十一一町潟という細長い水路 各作る歌 -4 がわずかに当時の面影を偲ばせている。 われとど 0 いかにある布勢の浦そもここだくに君が見せむと我を留【かにある布勢の浦そもーどの程度 現地に案内されて「おろかにそ我は思ひ むる し」 ( 四 0 四九 ) と言っていることから考えて、 第 家持が自慢するほどのことはなかろうと 巻 この時福麻呂は想像していたようである このソは疑問的用法。結びは留ムル。〇 君ー大伴家持をさす ほととぎす厭ふ時なしあやめぐさ縵にせむ日こゅ鳴き 渡れ おのもおのも 右の一首、田辺史福麻呂 たのべのふびとさきまろ 右の四首、田辺史福麻呂 いと かづら い たづ

9. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

ばん じん いただき 二上山の二つの峰の、雄山の頂に立っと、「うらうらに神のような石仏に、淡い春の日がとまっているばかりだっ ありそうみ はるひ 照れる春日」に、能登の奥は霞に溶け、見はるかす有磯海た。 かえ しぶたに めいさっしようこうじ もおぼおぼとやわらかい光を反している。奈呉の海、渋谿名刹勝興寺。豪壮な総門を人っていくと、まるでお城の の崎など、万葉に見えている地名を思い起す。 ような石垣と堀があって、いちめん桜の花ざかりであった。 山上から見渡して驚いたのは、見はるかす低山と平地と堀の水に散る花びらがとめどもない。ここは国府跡とか。 おとめはじ うつむ の関わりが、そのまま太古の入江の形を示していることで群生するカタクリの花が、北陸少女の羞らいを含んで俯向 あった。海岸線から内部に向って、緑濃い丘や森が点々といて咲いていた。半透明のうす紫の花を見ていると、例の やそをとめ かたかご つづいて見え、その間にひろがる平地の形は、まさしく昔 「もののふの八十娘子らが汲みまがふ寺井の上の堅香子の まる の人江である。その中にぼつんと小高いのが「布勢の円花」 ( 四一四三 ) の印象が、急に実感されてくる。 やま 山」だという。 寺井というのだから、もしかすると国分寺の泉での歌な みづうみ すると、今見えている平地は昔の「布勢の水海」なのかのだろうか。あの荒れさびた国分寺跡では思い浮ばなかっ 2 もしれない。「布勢の海の沖っ白波」とあるからには、海た万葉のおとめたちの声が、やわらかな風に乗って聞えて ともつながっていたものだろうか。 くるようでもある。それとも、家持が清水を汲み乱う、と ふしきいちみや 高岡市内に下りると、伏木一ノ宮は祭りの最中だった。 うたったのは、井のほとりに乱れ咲くかたかごの花そのも この伏木ということばは、古くは府敷、つまり国府の敷地のだったのだろうか の意だとの説もあるように、このあたりに国府があり、碁家持には、なぜか春の花の印象がっきまとう。かたかご、 盤の目のように整備された街になっていたともきく。祭礼山吹、藤。中でも、天平勝宝二年 ( 七五 0 ) 三月一日のタぐ えちごじし そのとうり の山車とともに歩く少年たちが、ちょうど越後獅子のようれ、春の苑の桃李の花を眺めて作った二首は圧巻で、「春 わ がしら そのくれなゐ したぞ をとめ な、緋の新子頭をかぶっていた。横笛を巧みに吹きながらの園紅にほふ桃の花下照る道に出で立っ娘子」、「我が園 すもも 歩いている。その行列をすり抜けて、越中国分寺跡へ行っの李の花か庭に散るはだれのいまだ残りたるかもー ( 四一三九、 どうそ てみたが、荒れさびた堂がひとっ遺っているだけで、道祖四一四 0 ) ーー優艶でじつに美しい。少女時代、同人誌を作っ ひ ふせ 0 まが

10. 完訳日本の古典 第7巻 萬葉集(六)

奈呉の海に潮が引いたらすぐにも餌を求めに出ようと鶴は今や鳴いてい る ぐさ 集ほととぎすよいやな時などないぞあやめ草を縵にする日はここを鳴いて 葉 過ぎよ たなべのふびとさきまろ 萬 右の四首は、田辺史福麻呂 ふせみずうみ その時、明日布勢の水海に遊覧しようと約束し、そこで思いを述べて、 各人が作った歌 % どれほどの布勢の浦なのですかこんなにもあなたが見せようとわたしを 引き留めるとは 右の一首は、田辺史福麻呂 かずら あさりしにーアサリスは四段動詞ア サルをサ変に再活用させた語。アサ ルは食料となるものを求めて動きまわる 意。人や獣についてもいうが、鳥類に用 いることが多い。このニは目的を示す。 〇鶴は今そ鳴くなるー上代語のタヅは、 たんちょう ( 丹頂 ) やまなづる・なべづる などの鶴類に限らず、白鳥やこうのとり ・あおさぎなど水辺にいる大型の鳥をさ したと思われる。鶴は一般に、秋飛来し 春三月上旬に北帰する習性で、この歌に 見るように、新暦四月下旬越中海辺に見 られる鳥はこうのとりなどをさしたもの か。このナリは伝聞推定を表す。 厭ふ時なしーイトフは、単にいやが るだけでなく、対象物に顔をそむけ 避けようとすることを表す。〇あやめぐ さ縵にせむ日ー五月五日をさす。アヤメ グサは水辺に自生するさといも科の多年 草。初夏花茎の中程に肉穂花序の黄白い 小花をつける。根茎・葉など全体から独