4 ないしゃういへ っかいだいしをののたもりあそみらせん 二月十日に、内相の宅にして渤海大使小野田守朝臣等に餞す -4- つん うたげ る宴の歌一首 事ーあをうなはらかぜなみ 二一青海原風波なびき行くさ来さつつむことなく船は早けむ 巻 右の一首、右中弁大伴宿禰家持だまず。 4512 4513 そぞこき いけみづ 池水に影さへ見えて咲きにほふあしびの花を袖に扱人って、日本に連繋を求めて来、日本もこ れに応えて貿易を主とした交流を盛んに した。小野田守が遣渤海大使としていっ れな 渡ったかは『続日本紀』に記事がないが、 翌月初めごろであろうか。ただ、その帰 朝が同年九月十八日であったことは記載 があり、渤海大使揚承慶らが随行来朝し ている。翌月一一十八日に一行に対する昇 いそかげ を叙・賜禄があり、田守は従五位下から従 磯影の見ゆる池水照るまでに咲けるあしびの散らまく惜五位上に、副使正六位下高橋老麻呂は従 五位下を授けられている。 しも g 天平十九年 ( 七四七 ) に従五位下、勝宝 年間に大宰少弐を一一期勤め、宝字元年に 刑部少輔に任ぜられている。これより前、 しらぎ 勝宝五年に遣新羅大使となったが、当時 日羅関係が不穏であったため、不首尾の まま帰朝したことがある。勝宝八歳六月 はしかき 九日付の東大寺図の端書に「左少弁従五 位下小野朝臣田守」の署名が残っている。 巻五の「梅花歌三十二首」の最後に歌 ( 八四 六 ) を載せ、その署名に「小野氏淡理」とあ る、その「淡理」はタモリの音仮名表記。 4 行くさ来さーサは時の意の接尾語か。 ただしカ変にはクサと言った。渤海 への旅は越前から出航するのが普通。ウ ラジオストク辺に上陸したものか。〇っ つむことなく↓四四 0 八 ( つつみなく ) 。 おくらのだいふかむなびのいかごまひと 右の一首、大蔵大輔甘南備伊香真人 うちゅうべん 右の一首、右中弁大伴宿禰家持 いけみづ
右の一一首は、尾。だ原人今城 ちりのおおきみな まとかたのおおきみいた 智努女王が亡くなった後、円方女王が傷み悲しんで作った歌一首 一系統未詳。養老七年 ( 七一三 ) 従四位下、 集タ霧の中で千鳥が鳴いていた佐保道は荒れてゆくことだろうか通うき 0 神亀元年宅 = 巴従三位。ただし、三位以 上には「薨」、四・五位に「卒」の字を用い 葉 かけもないので る例であるため、同名の別人が居たかと おおはらのさくらいまひとさがわ 萬 する説もある。 大原桜井真人が佐保川べりを行った時に作った歌一首 ニ長屋王の娘。母は末詳。天平九年宅 輸佐保川に凍り渡った薄氷のように薄い気持でわたしは思っていない 三七 ) 従五位下から従四位下に進み、宝字 七年正四位上、同八年従三位、神護景雲 藤原夫人の歌一首天武天皇のだである。通称を水上大刀自という 二年正三位。宝亀五年 ( 七七四 ) に薨じた。 朝夕に声を放って泣いていると ( 焼き大刀の ) しつかりした心もなくなっ 7 千烏の鳴きしー「千鳥鳴く佐保の川 瀬 ( 吾六 ) 、「佐保川の清き川原に鳴 てしまった く千鳥」 ( 二一三 ) など、佐保川の千鳥を詠 んだ歌は多い。〇佐保道ー佐保川べりの 道。作者円方女王が智努女王の許を訪れ る時に通った道であろう。 0 荒しやして むーこの荒スは、智努女王の生前作者が たびたび往来した道が荒れてゆくことを 自分を主格にして表したもの。 三長皇子の孫。高安王の弟。もと桜井 王と称した。和銅七年 ( 七一四 ) 従五位下。 天平十一年に高安王と共に臣籍に下り、 大原真人桜井と名乗った。遠江守であっ た時、聖武天皇と歌を唱和したことがあ る ( 一六一四・一六一五 ) 。風流侍従の一人に数え られていた。
263 巻第二十 4381 ~ 4384 4384 4383 4381 4382 あ - かとき くにぐに さきもりつど ふなの 国々の防人集ひ船乗りて別るを見ればいともすべなし カふちのこ椴りじゃうていみわをみべのしままろ 右の一首、河内郡の上丁神麻続部島麻呂 ふたがみあ 布多富我美悪しけ人なりあたゆまひ我がする時に防人に 差す なぎさふなよそ たぞ 津の国の海の渚に船装ひ立し出も時に母が目もがも 五 しほのやのこり はせつかべのたるひと 右の一首、塩屋郡の上丁丈部足人 しもつけののくにさきもりのことりづかひ たのくちのあそみおほへ 二月十四日に、下野国の防人部領使正六位上田口朝臣大戸 たてまっ が進る歌の数十八首。ただし、拙劣の歌は取り載せず。 五下野国の郡名。『和名抄』に「之保乃 や しおや 夜」とある。栃木県の現塩谷郡および矢 板市の地。 六伝末詳。 七「防人部領使ーとのみあって、国司の 身分を明らかにしていない。下野国は上 すけ 国で、上国の国司は、守 = 従五位下、介 ド、 4 う さかん ⅱ従六位上、掾Ⅱ従七位上、目Ⅱ従八位 下が原則で、ここに正六位上とあるのは 介か。 八宝字四年 ( 七六 0 ) に正六位上から従五 位下に進み、宝亀八年 ( 七七七 ) 従五位上と なっている。その後、日向守、兵馬正、 上野介などを歴任。 暁のかはたれ時ーアカトキはまだ薄 4 暗い時分をいう。カハタレは「彼は 誰」と夜明けの薄暗がりの中の人影を誰 かと問う疑問文がその時分の異名となっ たそがれ たもの。黄昏の「誰そ彼」 ( 一一五四五・三一一四 0) に 対する。〇島陰ーカギはカゲの訛り。島 の向こう側。この島は今日の新淀川河口 辺にあった姫島などをさすか。〇漕ぎに し船ーコギニシはコギ去ニシの約。見え なくなった先発船をさすのであろう。〇 たづき知らずもータヅキは、様子、成り どき 行き、の意。自分たちの不安な気持がこ 暁のかはたれ時に島陰を漕ぎにし船のたづき知らずもめられていよう。 っ くに なすのこり 右の一首、那須郡の上丁大伴部広成 しまかぎ 四 おほともべのひろなり せつれつ わ あも の いた かみ
うちゅうべんおおとものすくねやかもち 右の一首は、右中弁大伴宿禰家持奏上しなかった。 5 春とも著くーシルシは、顕著である、 葉 二月に、だ輔叫臣清麻呂朝臣の家で宴を催した時の歌十五首 明らかである、の意。ここは、春で 萬 % ひどい人であなたはあるよお庭の梅が散り果てるまで見せてくださらなあることがはっきりわかるほどに、の意。 〇植ゑ木ー題詞の「林帷」の木々をいう。 かった 一日は不明。四五一四題詞に「十日」とある ことから推して、この酒宴が行われたの 右の一首は、だ原今城真人 は一日から九日までの間と考えられる。 一一式部省の次官。正五位下相当官。中 見たいとおっしやったらなんでいやと申しましようか梅の花が散り果てる 臣清麻呂が式部大輔になったことは『続 まであなたが来られなかっただけです 日本紀』に漏れている。 おみまろ 右の一首は、主人中臣清麻呂朝臣 三中納言意美麻呂の子。天平十五年 ( 七 四三 ) 従五位下。神祗大副、尾張守などを 歴任し、勝宝三年従五位上に進む。同六 年左中弁に転じ、その後文部大輔参議、 左大弁兼摂津大夫、神祗伯兼中納言など に任ぜられ、位も神護元年従三位となり、 天応元年に致仕した時は右大臣正二位で あった。延暦七年 ( 夫 0 八十七歳で薨じ た。この当時正五位下五十七歳。家持は 十六歳年上で清廉温雅な清麻呂に終始敬 愛の情を持ち続けていたようである。 四清麻呂の邸宅は右京一一条にあり、平 おとどいん 城宮西南方の現在「大臣院」と呼ばれる一 一 ( うちなびく ) 春とはっきりわかるほどうぐいすよ植え木の垣間を鳴き渡 ってくれ
萬葉集 186 てんびようしようにう 一衛門府の長官。正五位上相当官。衛 右の一連の二首は、天平勝宝四年二月二日に聞いて、そのままここに載せ 門府は、宮中の諸門を禁衛し、出入・ 0 儀を取り締り、時を定めて巡検すること たものである をつかさどる。 おおじまろ 閏三月に、衛門際大伴悲律の家で、人唐副使の大伴胡麻呂宿 ニ吹負の孫。祖父麻呂の子。「古慈斐」 「怙信備」などとも記し、コジヒ・コシビ らの送別会をした歌一一首 のいずれか不明だが、一応コジヒとする っ ~ からくに 4 % 唐国に行き務めを果たして帰って来るであろうますらおの君にお酒を捧天平十一年 ( 当凸従五位下、勝宝元年従 四位上。同八年出雲守在任中、朝廷を誹 げます をう ざんげん 謗したと讒言され、一時禁固されたこと たじひのまひとたかぬし うがらさと 右の一首は、多治比真人鷹主が副使大伴胡麻呂宿彌を祝福したものである。 がある。この時に家持の「族を喩す歌」 ( 四 櫛も手にせず家の中も掃かないでおきましよう ( 草枕 ) 旅行く君を慎み祝四六五 ) が作られた。また宝字元年 ( 七 ) 土 佐守であった時に橘奈良麻呂の変に座し うと思って〈作者は不明である〉 て任国流罪となったが、後に復位して大 きよっぐ おおとものすくわむらかみ 和守となり、従三位に進み、宝亀八年 ( 七 右の一連の歌は、伝誦したのは大伴宿村上、同清継らである。 七 0 ) 八十三歳で薨じた。 三旅人の甥。天平十七年従五位下。左 少弁を経て、勝宝一一年遣唐副使となり、 同四年に渡唐、六年に帰朝した。後正四 ちんじゅふ 位下左大弁兼陸奥鎮守府将軍となったが、 宝字一兀年橘奈良麻呂の変の首謀者の一人 となり、捕えられて杖下に死んだ。 硯行き足らはしてー行って十分に任務 を果して。足ラハスは、足ルの継続 態足ラフの他動。在唐中、胡麻呂は正月 の朝賀の席次について、日本のそれが不 不明である〉 つつし ひ 0
けんかう 三月三日に、防人を検校する勅使と兵部の使人等と同しく集 ひて飲宴するに作る歌三首 亠ーあささ 第朝な朝な上がるひばりになりてしか都に行きてはや帰り 巻 来む 三太陽暦の四月十八日に当る。 g この勅使は防人を検校するために天 皇が遣わした使者。「軍防令」には、兵士 の征途に就くのを慰労するために、兵士 しもよ ななへか 三千人以上ならば侍従 ( 従五位下相当官 ) 、 うどねり 笹が葉のさやぐ霜夜に七重着る衣に増せる児ろが肌はも 千人以上であれば内舎人を派遣させるべ き規定がある。ここに従四位上の高官を 発遣したのは特例。おそらく二日前の三 みこと たまくらはな 月一日に難波津に整列する防人に、慰労 障へなへぬ命にあればかなし妹が手枕離れあやに悲しも 激励する天皇の勅語を読み聞せたのであ さきっとしさきもり ろう。この三日はその事務から解放され さくわんぎゃうぶのせうろく 右の八首、昔年の防人が歌なり。主典刑部少録正七位上磐たことを祝する宴会が開かれたのである。 れのいみきもろきみせうしゃ 朝な朝なーアサナアサナの約。〇な ひやうぶのせうふおとものすくねやかもち りてしかーテシカは願望の助詞。 余伊美吉諸君抄写し、兵部少輔大伴宿彌家持に贈る。 しびらゆうたい 五紫徴中台の首席次官。正四位下相当 官で定員一一名。紫徴中台は聖武天皇が天 平勝宝元年 ( 七四九 ) 七月に孝謙天皇に譲位 りようげの した一か月後に新設された令外官。従来 の皇后宮職を拡大したものだが、光明皇 太后が孝謙を補佐する名目の下に、藤原 もろえ 仲麻呂が左大臣橘諸兄を抑え、兄の豊成 を超えて実権を握るために、自ら長官 ( 令 ) となった。 六天平九年 ( 当七 ) 従五位下。少納言、 左中弁などを歴任し、勝宝元年従四位上 となり宝字一一年 ( 0 中務卿正四位下で 卒した。 こ ささ と我が来る あ しびのだいひつあへのさみまろあそみ 右の一首、勅使紫徴大弼安倍沙美麻呂朝臣 いも ころも・ま ひと はだ いは
萬葉集 28 川白雪の降り敷いている山を越えて行かれるであろうあなたをむしように いきお 息の緒に思います 息の緒に思ふー命がけで思っている。 左大臣 ( 諸兄 ) が下句を改めて、「『息の緒にする』とされよ」と言われた。 息ノ緒は生き続けるための支えとな しかしまた教えて、「初案のようにするがよい」と言われた。 るもの、命の綱、の意。奈良麻呂は家持 が心を寄せている諸兄の後継者なので期 右の一首は、少納言大伴宿禰家持 待する気持をこめていう。 しぶのしよういそのかみのあそんやかつぐ 五年正月四日に、治部少輔石上朝臣宅嗣の家で宴を催した歌三首 一尾句 ( 三へ三左注 ) ともいう。↓国一 0 囲噂がひどくて訪れないうちにお邸の梅の花は雪にしおれて散ってしまわ ( 「発句」 ) 。ここは第五句をさす。 ニサ変動詞スには文脈の上から、思う、 ひとづまこ ないでしようか の意と解される場合がある。「人妻児ろ をにがする」 ( = 九 ) などその一例 右の一首は、主人石上朝臣宅嗣 この場合も諸兄はその用法に従ってこの つをみ 梅の花がみんな咲いている中で蕾のままなのは恋い悩んで引っ込んでいる 別案を出したのであろうか、一般的には あれこ 息の緒にして我恋ひめや」 ( 交一など ) と のだろうかそれとも雪を待っているのか いう状態を説明する修飾句に用いるのが なかっかさのたいうまんだのおおきみ 右の一首は、中務大輔茨田王 通例であるため、家持の原案をよしとし たのであろう。 三天平勝宝五年 ( 三 ) 。 四太陽暦の二月十一日に当る。 五治部省の次官。従五位下相当官。 おとまろ 六中納言乙麻呂の子。天平勝宝三年 ( 七 丑 ) 従五位下となり、参河守、上総守、 文部大輔、大宰少弐、常陸守、中衛中将 などを歴任。天平神護二年 ( 実六 ) 参議と なった。神護景雲二年 ( 実 0 従三位。さ
けふ 一み雪降る冬は今日のみうぐひすの鳴かむ春へは明日にしかという。天平 + 八年 ( 吏 ) 従五位下雅 楽頭となり、勝宝元年従五位上に進み、 みまさかの 同三年甘南備真人の姓を賜る。美作介、 あるらし 備前守、主税頭、越中守などを歴任し、 宝亀三年正五位下、同八年正五位上に叙 せられた。大蔵大輔であったことは『続 日本紀』に見えない。家持と同位であり ながら姓の真人を下に記したのは私的敬 称法。 年行き反りー時間が経過して年が改 まり。〇春立たばー四、五日後に立 春になるので仮定条件で表した。〇まづ 我がやどにー主人三形王の歌の「うぐひ すの鳴かむ : ・」を受けて、山近い拙宅こ そうぐいすの初音を聞くのにふさわしい でしよう、と戯れたもの。↓四四四五 ( うぐ ひすの声は過ぎぬ ) 。 あらたまの年行き反り春立たばまづ我がやどにうぐひす = 太政官の役人。右弁官の次官。正五 位上相当官。家持が右中弁になったこと 8 は『続日本紀』に見えない。 は鳴け 大き海の水底ー深シを起す序。〇思 十 ひつつーこの思フは作者が夫から愛 されていると信じることをいう。〇裳引 第 巻 き平しし↓四四吾 ( 娘子らが玉裳居引く ) 。 ナラスは、地面の凹凸がなくなるまで頻 繁に住来したことを示す。〇菅原の里ー 奈良市菅原町の一帯。 みなそこ もびなら すがはらさと 大き海の水底深く思ひつつ裳引き平しし菅原の里 こよひっくよ かす 一うちなびく春を近みかぬばたまの今夜の月夜霞みたる らむ おうみ 右の一首、右中弁大伴宿家持 くらのだいふかむなびのいかどまひと 右の一首、大蔵大輔甘南備伊香真人 あろじみかたのおほきみ 右の一首、主人三形王 がヘ うちゅうべん あす
おおはらのいまき 主人大原今城が伝誦した。 しようにう だいけんもつみかたのおおきみ 勝宝九年六月一一十三日に、大監物三形王の家で宴を催した時の歌一首 集移り行く時の流れを見るたびにせつないほどに昔の人のことが思い出さ一七五七年。この年号は正しくは噐〈一 の「三月四日」の上にあるべきもの。 葉れることです ニ太陽暦の七月十三日に当る。山背王 ひょうぶのたいう 萬 が橘奈良麻呂らの陰謀を密告する五日前 右は、兵部大輔大伴宿彌家持の作 である。 咲く花はうつろい変る時がある ( あしひきの ) 山菅の根こそ長く切れない 三監物の長官。従五位下相当官。定員 すいとう 一一名。監物は中務省に属し、官物出納の ものなのだ 鍵を監察する所。 右の一首は、大伴宿禰家持が自然の風物の移り変ることを悲しんで作ったも 四系統未詳。勝宝元年 ( 七四九 ) 従五位下、 宝字三年 ( 七五九 ) に従四位下木工頭となる。 のである。 奈良麻呂の変にも加わらず、仲麻呂側で もなかった点で家持の立場に近かった。 四季折々の花は見れば見るほど懐かしいこのように見て気を晴されるがよ 大監物であったことは『続日本紀』に漏れ い秋が来るたびに ている。 移り行く時見るごとにー橘諸兄が薨 ずると早速仲麻呂は反対派の動きを ことさらに挑発するかのような施策をつ ぎつぎに打ち出す。これに対して、奈良 麻呂や安宿王・大伴胡麻呂・同池主らが 仲麻呂打倒の謀議を凝らし始める。家持 はやがて起るべき両者の衝突を予測して この語を発したのであろう。〇昔の人ー 誰をさすか不明。あるいは、仲麻呂の父 武智麻呂らが自家の繁栄のために神亀か やますげ
-4 4 ・ 4- 九 みんぶのせうふたちひのまひとはにし 十 民部少輔多治比真人土作の歌一首 第 巻すみのえ いつはふり かむ・こし J ゅ 住吉に斎く祝が神言と行くとも来とも船は早けむ 4242 だいしふぢはらのあそみきよかは 大使藤原朝臣清河の歌一首 かすがの いつみもろ Ⅷ春日野に斎く三諸の梅の花栄えてあり待て帰り来るまで おほぶね からくにや 大船にま梶しじ貫きこの我子を唐国 ( 遣る斎 ~ 神たち二人のうちのいずれかに決することは困 難。藤原氏の嫡流という点では豊成がふ しの さわしいが、すでに兄を凌ぐ実力を発揮 し始めていた仲麻呂が兄を越えて一門代 表のように振舞うことがあったろうとは 可能な想像である。一説に、清河出発直 うるう 前の勝宝四年閏三月に仲麻呂の第六子 刷雄が留学生として従五位下を授けられ たことを考慮し、仲麻呂がわが子との別 れを惜しんで詠んだのが混人したとする。 だいなごん にふたうしら 天雲のー行キ帰ルの枕詞。〇ものゆ すなはあろじ 4 大納言藤原家の人唐使等に餞する宴の日の歌一首即ち主人卿 ゑにー逆接の接続助詞。 ニ民部省の次官、従五位下相当官。民 ゼんそ 作る 部省は、地籍、戸口、課役、田柤、山川 道橋などのことをつかさどる。 ゅ あまくも 天雲の行き帰りなむものゆゑに思ひそ我がする別れ悲 = 左大臣臨の孫。天平十一一年従五位下。 摂津介、民部少輔などを歴任し、勝宝元 しびだいちゅう 年に紫微大忠を兼ねた。その後、尾張守、 しみ 文部大輔、左京大夫などに任ぜられ、宝 亀一一年参議治部卿従四位上で薨じた。多 治比土作が藤原一門の餞宴に列したのは、 紫徴大忠でもあったからかという。 3 住吉に斎く祝ー住吉は住吉大社。同 社は海神を祭る神社。海外渡航する 人々はこの社に航海の安全を祈った。ハ フリは神官。特に下級のそれをいう。〇 神言とー神のお言葉であるぞとて。 かち せん さか うたげ いは