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検索対象: 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)
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1. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

百重にも来しかぬかもと思へかも君が使ひの見れど飽かざらむ ( 四究 ) において、この題詞では意を尽さない。四首のうち初めの二首は人麻呂の歌というにふさわしいが、あと二 / 首は人麻呂の妻の返歌である。一部にはこの題詞の示すままに四首とも人麻呂の作で自問自答と解する向き もあるが、先の吹英刀自の歌が男女の作を合せたものであったことを思えば、ここも必ずしも題詞に縛られ た解釈をしなくてよかろう。原資料にそのように一括して収められていたというだけのことで、等しく人麻 呂の作と銘打ってあっても、中にいくぶん人麻呂らしいもの、人麻呂の周辺の人々の歌が交じることがあっ て不思議でないところに、その巻の、特に巻初にある歌々の類型的一面が認められる。 事実、このあとの、 柿本朝臣人麻呂の歌三首 をとめ そゼふるやまみ・つかき われ 娘子らが袖布留山の瑞垣の久しき時ゅ思ひき我は ( 五 01) いも をしかつのつかま 夏野行く小鹿の角の束の間も妹が心を忘れて思へや ( 五 0 一 I) たまぎぬ 玉衣のさゐさゐしづみ家の妹に物言はず来にて思ひかねつも釡 0 三 ) についても、最初の「娘子らが」の歌は巻十一の柿本朝臣人麻呂歌集中の「娘子らを」 ( 一一四一五 ) と形の上で 説酷似し、最後の「玉衣の」の歌も巻十四、三哭一の同じく人麻呂歌集中の「あり衣のさゑさゑしづみ」に近く、 共に相互に異伝関係にあると思われる。これらの人麻呂作歌と人麻呂歌集の歌との間に重なり合いの認めら 解れる例を集めて、厳密には両者間に境界がなかったとする試みは古くから行われ、さらには人麻呂歌集の歌 の大半を人麻呂の若いころの作品と解する考えもある。それを思えば、そのあとの、 柿本朝臣人麻呂の妻の歌一首 きぬ

2. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

かきのもとのあそんひとまろ 柿本朝臣人麻呂の歌四首 ももえ はまゆう あ くまの 朝み羆野の浦の浜木綿のように百重にも心では思っているがじかには逢え 集ないことだ 古に生きていた人もわたしと同じように妻を恋い慕って寝られなかっ 萬 ただろうか 今の世だけのことではありません古の人こそもっと恋の苦しさに声をあ げて泣きさえしたのです 明何度でも来てくれればよいと思うせいかあなたの使いはいくら見ても飽 きることがありません 一↓工一一九題詞。 み態野ーミは接頭語。熊野は旧紀伊 むろ 国牟婁郡をさし、現在の東・西 ( 和 歌山県 ) 、南・北 ( 三重県 ) の四牟婁郡に 当る。〇浜木綿ーひがんばな科の多年草。 熊野の海岸に自生し、夏期白い花をつけ ようしよう る。その茎のように見える偽茎は葉鞘が 幾重にも重なったもので、それによって 百重ナスの序とした。〇百重なすーナス は、、のように、の意。〇心はー心ニハ に同じ。 や巻一二・四の中の人麻呂作歌は、巻一・ 二のそれに比して作歌事情の記述が簡略 ぞんしよう である。そのため人麻呂作として伝誦さ れた他人の歌も混じり、人麻呂歌集に近 いと言ってよい。この歌は浜木綿の葉に 添えて贈られたものかとする説もある。 古にありけむ人もー現在の自己と同 じ体験をした者がかってあったろう か、という気持。人麻呂歌集の二天に類 歌がある。〇寝ねかてずけむーカテは可 能を表す下一一段活用の補助動詞カツの未 497 496

3. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

おおとものすくねやかもち 大伴宿彌家持がおとめに贈った歌一一首 ワ】 おおみやびと 硼 ( ももしきの ) 大宮人は多いけれどわたしの心にのしかかるようにして離 集れないあなたのことが 葉愛想のない人だねあなたという人はこれほどまでにわたしに心を千々に 萬 砕かせるとは おおとものすくねちむろ 大伴宿千室の歌一首よくわからない あきづの こんなふうにして恋しつづけることか秋津野にたなびく雲が消えるように 思いが晴れるというわけでもなく ひろかわのおおきみ かみつみちのおおきみ 広河女王の歌一一首穂積皇子の孫娘で、上道王の息女である 恋草を力車に七台も積むほど重荷の恋をするのも身から出たさび にづみのみこ 一『万葉集』で「何娘子」と記された者は、 おおむね卑姓出身の女性かという。この あとにも、家持が「娘子」に贈った歌、と あるものが、七 00 ・七一四・七八三・一究六など ある。これらは、あるいは同一人物か ももしきのー大宮の枕詞。〇大宮人 ーここは主として女官をさすか。〇 心に乗りてー相手のことが念頭を去らず、 心に覆いかぶさったように思われること を表す常套句。 うはヘなき↓六三一 ( うはヘなきものか も人は ) 。〇人の心を尽くさく思へ ばーこの「人」は作者自身をさす。心ヲ尽 クスは、擦り減るほどに心を痛めつける ことをいう。 ニ伝末詳。四一一究の作者。その歌は天平 691 692

4. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

萬葉集 10 一雑歌・挽歌と共に『万葉集』の三大部 立の一つ。↓田解説三六八一 ( ー。 ニ難波天皇は第十六代仁徳天皇をさす か。難波に都した天皇は他に三十六代の 孝徳天皇があるが、編纂者は仁徳天皇を やたのひめみこ これに擬し、その異母妹の八田皇女の作 と考えたのであろう。紀州本や神宮文庫 せんがく 相聞 本その他の仙覚本系統の古写本には「難 しゃ 波天皇」の肩に朱または赭で「仁徳天皇」 と小字で書き人れてある。仁徳天皇は身 難波の天皇の妹の皇女が大和にいらっしやっている兄の天皇に差し上げ 寄りのない八田皇女を妃として宮中に人 いわのひめ れてやりたいと思ったが、磐姫皇后の反 たお歌一首 対にあい、容易にその志を遂げられなか 一日ぐらいならあなたを待っこともできます長い間こんなに待ったら生ったことが記紀に記されている ( ↓田九 0 左注 ) 。この歌の作者を八田皇女に擬す きていられそうにありませぬ る考えの背後には、巻二の冒頭の歌と共 おかもとのすめらみこと 岡本天皇のお歌一首と短歌 通する理解があろう。ただし、仁徳天皇 あふ が大和に在ったとの記述は記紀にない。 神代の昔から生れつづけてきたので人がいつばい国土に満ち溢れてあじ 人も待ち良きー「人も」は「人をも」の 鴨の群れのようにⅡ 意。この「人」は皇兄をさしながら一 般的に述べたもの。待チ良キは、待つの が容易だ、の意、待チ良シの連体形。コ ソの結び。〇長き日をーケは長い日数を いう。〇かくのみ待たばー原文「如此所 待者」とあり、古くは「カクシマタレ・ハ 「カクマタルレ・ハ」などと読まれていた。 かみよ 萬葉集巻第四 そう なにわ もん やまと

5. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

じゅとうりようさんきん 皆を授刀寮に散禁し、みだりに外出すべからず、ということになった。そこ で心も晴れず、この歌を作ったのである。作者はわからない。 なにわのみや 神亀五年、難波宮に行幸された時に作った歌四首 やまばん 葉天皇が境界を定められて山番を置き見張らせているという山でも人らず 萬にはおかぬ 見渡せば間近いのだが岩に隠れてきらめく玉でも取らずにはおかぬ からこ 1 つも 唐衣を着ならすー奈良の里の妻待っー松の木に玉を付けてくれるような 立派な方があればよいなあ おじか 雄鹿が鳴いている山を越えて行く日さえもあなたはやはり逢ってくださ らないのではなかろうか じんき うつうつ 一心が鬱々として晴れないこと。 ニ七二八年。この行幸は『続日本紀』に 記事がないが、九五三の内容からみて時期 は秋か。 境ひたまふとー境界をお定めになろ うとして。〇山守ー無断で他人の山 や官有山林に侵人し、その木を伐採する 者を監視する番人。〇人らずは止まじー 警戒厳重な所でも危険を冒して人らずに はおかないぞ、という決意を示す。 ◆譬喩歌であろう。近づきがたい官女か 人妻などを手に人れようとする内容か。 近きものからーモノカラは逆接の接 続助詞。〇かがよふ玉ーちらちら揺 れて光る玉。美人のたとえ。 ◆これも譬喩歌か。近くにありながら、 たやすく手に入れられない女性を、わが 物にしようという内容であろう。 2 韓衣着奈良の里ー韓衣は大陸風の衣 9 服。カラ↓五六九 ( 韓人 ) 。ここは「韓衣 950 951

6. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

ついわ 後の人の追和 ト山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上に領巾を振 五りけむ 巻 ここゅ やくやくさうは おもぶをみなめまつら さよひめ 消えるほどであることをいう。『文選』別 棹して言に帰き、稍に蒼波に赴く。妾い松浦〈佐用姫〉、この別 賦に「黯然ニ魂ヲ銷ッハ唯別レノミ」とあ やす あ かた すなは れの易きことを嗟き、その会ひの難きことを嘆く。即ち高き山るのによる。 六佐賀県唐津市の東方、虹の松原の南 さ みね ちゃうぜんきもた あんぜん にある鏡山の別名。高さ二八二。 の嶺に登り、遥かに離り去く船を望み、悵然に肝を断ち、黯然 遠つ人↓会七。〇松浦佐用姫ー原文 たまけ ひれ かたはらひとなみた に「麻都良佐用比米」とあり、その に魂を銷つ。遂に領巾を脱きて麾るに、傍の者涕を流さずとい 「米」は、『古事記』や『万葉集』一般の例で 六 なづ ひれふるみね すなは は上代特殊仮名遣 ( ↓工三三六「しらぬひし ふことなし。因りてこの山を号けて、領巾麾嶺といふ。乃ち歌にいう乙類メの仮名に当り、「売」など甲 いは 類メを用いるべき「姫」のメを表すのに適 を作りて曰く、 当でない。これは、中国音韻史の上から 上古音と呼ばれる漢魏のころの発音では、 と まつらさよひめつまごひ ひれ 遠つ人松浦佐用姫夫恋に領巾振りしより負へる山の名「米」が乙類性の発音であったのに、隋唐 のころの中古音では甲類性の発音に変っ たこと、そして山上憶良が遣唐少録とし て中国本土に渡りその中古音を習得して 帰って来た人であること、この二つの事 実によって誤用でなかったことが証明さ れよう。なお、この歌の第五句「負へる」 のへも「返」とある。↓会四 ( 家はあれど ) 。 セ ↓八六一題詞。「後の人」とあるが、全一 の作者と別人とは限らない。次の「最後 の人」「最々後の人」以下八七五までの作者 は明らかでない。 言ひ継げとかもー後の世まで語り継 げというつもりからか よそひ いとのち 最後の人の追和 はろ よ なげ ゅ ふ お 872

7. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

267 巻第五沈痾自哀文 もちみ すなは やまひけだこ む」と。ここを以て観るに、乃ち知りぬ、我が病は蓋し斯れ飲食の招く所にし金宝を出してこれを争い求めたとある。 四死人には一文の価値もない、の意。 われ はくこうりやくせついは あた て、自ら治むること能はぬものか、と〉帛公略説に曰く、「伏して田 5 『遊仙窟』に「少府謂ヒテ言 ( ム、『児 ( 是 九泉ノ下ノ人』ト、明日外ニ在リテ談リ い あたひ もち お せいむさな みづかはげ テ道〕ハム、『児一銭ニダニ直セズ』ト」と ちょうぶんせいしゅうじよう ひ自ら励むに、斯の長生を以てす。生は貪るべし、死は畏づべ ある。それは、主人公張文成が十娘と ごそう だいとくせい その義姉の五嫂の二人の女性を両方共手 し」と。天地の大徳を生といふ。故に死にたる人は生ける鼠に に人れようと考えていることを知って十 ひとひいきた 娘が、わざとすねてみせた言葉の一部分 だに及かず。王侯なりと雖も、一日気を絶たば、積みたる金山で、「少府 ( 若殿張文成をさす ) はわた しのことを亡者も同然だとおっしやるで たれ いきひ のごとくありとも、誰か富めりと為さむ、威勢海のごとくありしよう。明日外に出られたら、わたしの ことを一文の値打もない女だと言い触ら たふと いうせんくっ とも、誰か貴しと為さむ。遊仙窟に曰く、「九泉の下の人は、されるでしよう」と言っているのである。 すなわち情痴の世界の捨てぜりふだが、 あたひ へんえき 一銭にだに直せず」と。孔子曰く、「之を天に受けて、変易す憶良はその一部を抜き、全く別な内容に 五 移したのである。「九泉」は「黄泉」に同じ。 かたち せいえき べからぬは形なり、之を命に受けて、請益すべからぬは寿な死後の世界をいう。 五自己の利益が増大するように人に頼 きは たふと きこく さうにんしょ み込むこと。 がっしよう り」といふ。〈鬼谷先生の相人書に見ゅ〉故に生の極めて貴く 六鬼谷先生は、戦国時代合従策を唱 そしん もち ことき - は えて諸国を歴訪した有名な弁論家蘇秦の の至りて重きことを知る。言はむと欲へど一一一口窮まる、何を以て 師で、鬼谷に隠遁したといわれる伝説的 人物。その人の著と言い伝えられた人相 か言はむ、慮らむと欲へど慮り絶ゅ、何に由りてか慮らむ。 判断に関する俗書であろう。 七以下の対句は、生命の極めて貴いこ ことごと さたん さい おもひみ 惟以れば、人賢愚となく、世古今となく、成悉くに嗟嘆す。歳とを述べたもの。 し はか ひと こ も いへど よ な も よ 四 くがね とし

8. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

萬葉集 266 とある。このことから考えると、わたしの病気はおそらく飲食の招くところであって、自 はっこうりやくせつ 分で治せるようなものではないらしいということを知った〉帛公略説に、「伏しては せいどんよく はげ 思い自ら励むのは、この長生きしようということのためである。生は貪欲に惜 しむべく、死は恐るべきものである」と見えている。天地の最大の福徳を生と ねずみ いう。だから、死んだ人は生きている鼠にも劣るのである。王者諸侯といって も、いったん息の根が絶えると、積み上げた金が山のようにあったとて、誰が 富裕だと思おうか、威勢の広大なことが海のようであったとて、誰が高貴だと もん ゅうせんくっ 言おうか。遊仙窟に、「あの世の人は一文の値打ちもない」とある。また孔子 も、「天から授かり、勝手に変更できないものは形体である、運命として受け一『抱朴子』や『神仙伝』などに見える帛 和 ( 白和・帛仲理とも ) という名の仙術秘 きこくせんせいそうにんしょ 取り、増してもらえないものは寿命だ」と言っている。〈鬼谷先生の相人書に見法を行ったと伝える道士の著かというが、 きわ 明らかでない。単にその名に仮託した俗 える〉それで生が極めて価値のあるものであり、命がはなはだ貴重だという 書とも考えられる。 ことがわかる。言おうと思っても言いがたい、何と言えばよかろうか、考えよ ニ『抱朴子』勤求篇から引用したもの。 もとは『周易』繋辞下に見える。「大徳」は うとしても考えるすべがない、何によって考えたらよかろうか。 偉大な徳。「死にたる人は生ける鼠にだ この さて思うに、人には賢愚の別もなく、時代には古今の差もなく、すべての人が に及かず・ : 」も『抱朴子』の「死王生鼠ヲ楽 ム。帝王タリトイへドモ、死ヌレ・ハ鼠ニ 死を嘆き悲しむ。歳月はⅡ ダニ及・ハズ : ・」 ( 『太平御覧』猷部鼠引用 ) によっている。 ↓七四一。通俗小説で、中国で早く散 逸し、伝来した日本にのみ残った。『新 ちょうせん 唐書』張薦伝には、新羅や日本の使者が はく

9. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

五我がやどに盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人も 巻 力、も 我が盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ薬食むともまたをちめ用からこの歌文のて先の人に対する作 者の謙譲の気持が窺われる。 一「梅花歌三十一一首」がまとめられた後 やも にさらに追加した歌。「和ふる歌」は贈歌 に対する答えの歌で、一般にもとの歌の 作者でない別人の作である。「追和」も概 して同じだが、この巻五に限り、もとの 歌と同じ作者が追加した歌をさすことが ある。旅人かその代作者としての憶良の 作と考えてよかろう。 残りたる雪に交じれるーこのマジル ついわ 後に梅の歌に追和する四首 は色や形などが似て紛らわしいもの どうしが一緒になること。〇雪は消ぬと 残りたる雪に交じれる梅の花早くな散りそ雪は消ぬとももーケは消ュの古形クの連用形。 雪の色を奪ひて咲けるーこのウ・ハフ は、漢詩に多い、相似た色の物を二 っ並べて対比し、一方が他からその色を さらい取ったかのようであるという表現 務いもんるいしゅう 雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも を模したもの。『芸文類聚』 ( 果部 ) の梁簡 文帝「梅花賦」の「機中ノ織素ヲ奪フ」など 例が多い。〇見む人もがもー誰でもよい から一緒に見てくれる人がないものか、 の意。ひとり寂しく見ている趣 散るべくなりぬ見む人もがもー旅人 の萩を詠んだ歌一五四一一の下一一句がこれ と同じであるのを理由に、この一連の歌 を旅人の作とみる説がある。 雲に飛ぶ薬食むよは都見ば賤しき我が身またをちぬべし わ わ さか みやこ いや くすりは あ け 851 850

10. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

101 巻第四 646 ~ 649 大伴坂上郎女の歌一首 夏葛の絶えぬ使ひのよどめれば事しもあるごと思ひつる カ・も 人の言こそ繁き君にあれーあなたは 不実な人だという評判が専らである、 の意。ただし、「君には人言繁くあり」と 言おうとして、音数の制約のためにこの ような変則的な表現がなされたのであろ う。「極まりて我も逢はむと思へども人 の言こそ繁き君にあれー ( 三一一四 ) も同じよ うな破格の歌である。 日長くなりぬー日数が積もり久しく なった。〇いかに幸くやーこのイカ ニは、どのように、の意の一般的疑問副 詞のそれでなく、どうですか、どうして あいさっ います、などと相手に語りかける挨拶と して用いたもの。王羲之の「周参軍帖」に 大伴宿彌駿河麻呂の歌一首 「不審尊体何如」とあるのを初めとして、 けなが さき 相見ずて日長くなりぬこのころはいかに幸くやいふかし中国の書簡に例の多い「何如」や「如何」に 当る。サキクは、平安で、無事で、の意。 わぎも 〇いふかしー右の「不審」に当り、ほとん 我妹 ど疑問性を含まない。イフカル・イフカ シのフは清音。 夏葛のー絶工ズの枕詞。葛はまめ科 ななくさ の多年草。秋の七種の一つ。夏刈り 取って、その繊維で葛市を織った。その つる 蔓は強靱で、引いても切れないのでかけ た。〇よどめればーこのヨドムは人の訪 れがとだえることをいう。〇事しもある ごとーコトは事情・事故の意。 おほとものさかのうへのいらつめ 大伴坂上郎女の歌一首 こと おも 心には忘るる日なく思へども人の言こそ繁き君にあれ なげ ますらをの思ひわびつつ度まねく嘆く嘆きを負はぬもの 力も なっくず あひみ たび お