九 ) など、しばしば歌に詠まれている。ナ は願望の終助詞。 天地の遠きがごとくーこの遠シは、 時間について悠久無限の意に用いた。 次の「日月の長きがごとく」と対句をなし て「国知らすらし」にかかる。〇国知らす らしー「うべ知らすらし」 ( 一 0 三七 ) と同じ気 持。〇御食っ国ー天皇の御食事の材料と なる物を奉る国。ケは食物。『万葉集』で みつき は御調に海産物を献ずる淡路・伊勢・志 摩の諸国を御食ツ国と呼んでいる。〇日 の御調とー天皇に奉る供御として。日ノ は、天皇を太陽にたとえ、その威徳を讃 反歌一首 えていう美称。ッキは各国から物納税と して朝廷に納める特産品。国によってそ 白波の千重に来寄する住吉の岸の埴生ににほひて行かなの品目は指定されており、『延喜式』によ れば、淡路からは宍 ( 獣肉 ) 、雑の魚、塩 と定められていた。〇野島ー兵庫県津名 くだん 郡北淡町野島。人麻呂の「野島の崎に船 やまのべのすくねあかひと 近付きぬ」 ( 一一五 0 ) と詠んだ所。〇海の底ー 山部宿赤人の作る歌一首并せて短歌 ワタは海の古語。〇いくりー海中の岩礁 ひっき なには漁場として良い地形。〇鮑玉ーあわびの 六天地の遠きがごとく日月の長きがごとくおしてる難波 中の珠。ここは、あわびそのものをいう おほきみ みけ みつき あはぢ か。あわびは主要な海産物で、平城宮址 の宮にわご大君国知らすらし御食っ国日の御調と淡路出土木簡に「薄鰒」「蒸鮑」「生鰒」などと のしまあま あはびたま かづぞ書かれたものがある。〇潜き出ーこのカ の野島の海人の海の底沖ついくりに鮑玉さはに潜き出ヅクは、海中に潜。て魚介の類をとる意。 くるまもちのあそみちとせ 車持朝臣千年の作る歌一首せて短歌 たまも いさなとり浜辺を清みうちなびき生ふる玉藻に朝なぎに ちへなみ いへなみ 千重波寄せタなぎに五百重波寄す辺っ波のいやしくしく け ひ ひみ に月に異に日に日に見とも今のみに飽き足らめやも白 めぐ すみのえ 波のい咲き廻れる住吉の浜 あめっち ちへきょ ゅふ はまへ わたそこおき はにふ あだ 933
に帰って来、百姓は万歳を唱えて迎えた。 十一日天皇は平城宮に還った。その前日、 恭仁京の住民は平城に大移動する。昼夜 を分かたず先を争って行き、引きも切ら ず行列は続いた。以上の三首が詠まれた のは、十七年五月以後であろう。 一難波宮に留守している諸兄の傍らに、 田辺福麻呂は在った。彼はその当時の歌 七首 ( 四 9 六、四 0 六一 l) を記憶していて、後年 家持に伝えている。その中に「夏の夜は 道たづたづし」 ( 四 0 六一 l) の語があり、それ から推して、以下の歌もその前後の作と 考えられる。聖武天皇は十七年八月一一十 八日に難波宮に幸し、約一か月滞在する。 その間に天皇は重病にかかり、一時危篤 状態に陥った。その時の作と考えること もできなくはない。 なにはのみや あり通ふーアリは継続を表す接頭語。 難波宮にして作る歌一首剏せて短歌 〇片付きてーカタヅクは、一部分が わおほきみ 他の或る物に接すること。〇朝はふるー やすみしし我が大君のあり通ふ難波の宮はいさなとり 朝方、鳥がはばたくように風や波が荒々 ひり かたづ はまへ おとさわ しく吹きつけること。〇寝覚ー夜中に独 六海片付きて玉拾ふ浜辺を近み朝はふる波の音騒きタな り目覚めていること。〇いくり↓九三三。 巻 かちおと あかときねざめ 原文に「海石」とあり、海神を意味する ぎに梶の音聞こゅ暁の寝覚に聞けばいくりの潮干のむ海若」の誤りとみて、ワタッミと読む説 もある。〇潮干のむたーシホカレは干潮。 ちどり うらす あしへ たづね : ノムタは、、といっしょに、の意。 た浦渚には千鳥妻呼び葦辺には鶴が音とよむ見る人の 咲く花の色は変はらずももしきの大宮人ぞ立ち変はり ける 反歌一一首 みかのはらくに おはみやひと 三香原久邇の都は荒れにけり大宮人の移ろひぬれば を く惜しも うつ しほかれ 1 % 2
反歌 大伴の三津の松原掻き掃きて我立ち待たむはや帰りま 五せ 巻 うなはら みいらく かむづ せ海原の辺にも沖にも神留まりうしはきいます諸の江島の三井楽湾が南路および南島路をと る遣唐使船の最後の寄航地であった。 おみかみ ふなのヘ みちび あめっち 大御神たち船舳に〈反して、ふなの〈にと云ふ〉導きまをし天地「岫」は山頂を意味する字だが、「岬」と通 用したもの。〇大伴の三津の浜辺ー大伴 あま やまと おほくにみたま ノ三津は難波津に同じ。↓一 0 六三 ( 海人娘 の大御神たち大和の大国御魂ひさかたの天のみ空ゅ 子らが乗れる舟見ゅ ) 。大伴は現在の大 を あまかけ 阪市南部一帯の総名。ハマビのビは、辺 天翔り見渡したまひ事終はり帰らむ日にはまた更に大 りの意。 0 直泊てー船が直進して目的地 ふなのヘ みて すみなは に着き停泊すること。〇つつみー事故や 御神たち船舳に御手うち掛けて墨縄を延へたるごとく 傷病などの障害。〇幸くいましてーこの イマスは行クの敬語。題詞の「好去」に当 さき はまび ただは あぢかをし値嘉の岫より大伴の三津の浜辺に直泊てにる。〇はや帰りませー題詞の「好来」に当 る。 さき みふねは 御船は泊てむつつみなく幸くいましてはや帰りませ = 一津の松原ー難波津付近の松原をい うのであろう。その松原は「朝なぎ に真梶漕ぎ出でて見つつ来し三津の松 原」 ( 一一会 ) とも詠まれ、三津の代表的景 物であった。憶良も「大伴の三津の浜松 待ち恋ひぬらむ」 ( 六三 ) と詠んだことがあ り、この歌の松にも待ツの気持がこめら れている。 紐解き放けて立ち走りせむー紐を結 び形を整える余裕もなく、すっ飛ん でお迎えに参りましよう。急いで人を歓 とうし 迎することを漢籍で「倒履」 ( くつを逆さ とうしよう まに履く ) 、「倒裳」などといい、ここは みふねは 難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば紐解き放けて立ち走りそれに暗示を得た表現であろう。 なにはっ へ おとも われ みつ ひもと さ もろもろ ばし 8 %
265 巻第五沈痾自哀文 たまふうまし かむが その霊馮馬子に謂ひて曰く、『我が生録を案ふるに、寿八十余歳に当たる。今い高徳の隠者を表す普通名詞。「任」は姓 しんレ」う で、後漢の任棠か任安であろう。 えうきわうさっ すゼ すなは 妖鬼に枉殺せられて、已に四年を経ぬ』と。ここに馮馬子に遇ひて、乃ち更に八医薬に関する技術方法。 九前出葛稚川 ( 葛洪 ) の著。神仙術に関 せんぶしう して理論的に述べた書物で、服薬・養生 活くこと得たり」といふはこれなり。内教に云はく、「瞻浮州の人は寿百二十 など実践面で詳しい。「抱」は呉音・ハウ、 つつし かむが うったへこれ 漢音ハウ、「朴は漢呉音ともホク。した 歳なり」と。謹みて案ふるに、この数必に此に過ぐること得ずといふにはあ がって・ハウホクシと読むのが最も正確に じゅえんきゃう なんだっ 近いが、今は慣用音によりハウボクシと らず。故に寿延経に云はく、「比丘有り、名を難達といふ。命終なむとする時読んでおく。上に引用した語句は、その 「勤求篇」に「人ハタダ死ヌベキ日ヲ知ル まゐ すなは に臨み、仏に詣でて寿を請ひたるに、則ち十八年を延べたり、といふ。ただしコトナシ、故ニ暫ラクモ憂 ( ヌナリ。モ つぎ 五 シ誠ニ之ヲ知リテ、則剿ノ事ダニ、期ヲ よ をさ あひを しゆえうごふうを ながみじか 善く為むる者は天地と相畢はる。その寿夭は業報の招く所にして、その修き短延べ得べクハ、必ズ之ヲ為サム」とある のによったもの。ただし、その「則則」 な したが いまこ たちま きに随ひて半ばと為る。未だ斯の算に盈たずして、ちに死去す。故に末だ半 ( 足を切り鼻をそぐ刑 ) に当る一一字が神宮 文庫本や西本願寺本などの仙覚本には じんちょうくん やまひ ばならずといふ。任徴君曰く、「病はロより人る、故に君子はその飲食を節す」「羽翩」とあり、細井本などの冷泉本系諸 本には「則削」となっていて、疑いがある。 やまひあ うったへ そのうち「羽翩」は、同書「極言篇」に「羽 といふ。斯に由りて言ふに、人の疾病に遇ふは、必に妖鬼にあらず。それ医方 翩参差」とあるのと関係があると思われ る。すなわち、「羽翩」は鳥などの羽をい 諸家の広説、飲食禁忌の厚訓、知易行難の鈍情の三つは、目に盈ち耳に満っこ い ( 「翩」は羽の茎の意 ) 、ここは羽化登仙 九 もとより はうなくし ただ うれすることを意味するのではなかろうか。 と、由来久し。抱朴子に曰く、「人は但その当に死ぬべき日を知らず、故に憂あるいは「別則」が内容的に残酷すぎるこ とを考慮し、憶良がことさらに避けたと うかく これな へぬのみ。若し誠に羽翩して期を延ぶること得べきを知らば、必ず之を為さ考えることもできる。 い これよ ひと い いは ご び の せいろく い とし し じんあん
しらたま ふるひ あかし あした の生まれ出でたる白玉の我が子古日は明星の明くる朝りも神のまにまにとーカカラズ・カカリ は、それぞれ斯クアラズ・斯クアリの約 とこへ たはぶ はしきた ( 0 床 0 辺去らず立れども居れども共」戯「 , 」。 00 0 「。。《。 = 亠 ここも五・四・八の定型破壊が見られる ゅふへ ちちはは 「かかりも、神の」を一句とし、七・五調 れタ星のタになればいざ寝よと手を携はり父母もう への移行を認めたとしても、その下に五 なか 音句の連続がある。作者の心の動転の現 へはなさかりさきくさの中にを寝むと愛しくしが語らへ れか。マニマニは、お心任せに、の意。 あ 〇あざりー取り乱し騒ぐ意か。〇やくや ばいっしかも人となり出でて悪しけくも良けくも見むと くにーヤウヤクニの古形。しだいに。〇 おほぶね かたちくづほりークヅホリは、崩れ、の 大船の思ひ頼むに思はぬに横しま風のにふふかに覆ひ意か。諸本に「都久保里」とあるが、『万 葉集管見』と『方葉代匠記』の一案によっ 来ぬればせむすべのたどきを知らに白たへのたすきを掛て「久都保里」の誤りとする。〇朝な朝な ー「言ふ」にかけて、おはよう、の挨拶と けまそ鏡手に取り持ちて天っ神仰ぎ乞ひ疇み国っ神解するか、「止み , にかけて、日を追。て、 と解するか不明。〇たまきはる↓六夫。 ぬか 伏して額つきかからずもかかりも神のまにまにと立ちあ〇命絶えぬれー巳然形で言い放っ法。 兊四 ( 罷りいませ ) 。〇足すり叫びーじだ あれ んだ踏んでわめき。悲嘆の情の甚だしい ざり我乞ひ疇めどしましくも良けくはなしにやくやくに ことを示す。〇胸打ち嘆きー悲しみの動 あささ や いのち 作を示す中国的表現を用いたもの。〇我 五かたちくづほり朝な朝な言ふこと止みたまきはる命絶え が子飛ばしつー愛児の死んだことを、鳥 巻 をど が飛び去ったように、かっ作者が自らの ぬれ立ち躍り足すり叫び伏し仰ぎ胸打ち嘆き手に持て意志で題。たように言。たもの。〇世の 中の道ー「かくばかりすべなきものか世 る我が子飛ばしつ世の中の道 の中の道」 ( 兊一 l) の気持で言う。 き あ ゅふつづ い い あま あ よ しろ たづさ うつく こ くに お
295 巻第六 919 ~ 920 わか うら しみく かた あしへ 若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡るを記しており、ここもそのまま信ずべき ものと思われる。 しる たまっしまおみとも 右、年月を記さず。ただし、玉津島に従駕すと個ふ。因りて = ここもき七の題詞と同様、金沢本や 細井本などの冷泉本系諸本は、以下を別 ただしる 行とし、低く書いている。 今行幸の年月を検し注して載す。 み山もさやにー人麻呂の「笹の葉は み山もさやにさやげども」 ( 三 (l) によ ったものか。このミは、吉野離宮を貴び、 いっちう よしのとつみやいゼま それに従属する山に冠したと考えること 神亀二年乙丑の夏五月、吉野の離宮に幸す時に、笠朝臣金村 もできる。〇しば鳴くーシ・ハは、しばし ばの意。〇をちこちにしじにしあればー の作る歌一首せて短歌 ヲチは向こうの方、あちら、の意。コチ の対。シジニは、隙間もなくいつばいに、 にぎ の意。諸王臣が大勢旅宿し、都の賑わい あしひきのみ山もさやに落ち激っ吉野の川の川の瀬の をそのまま移したようであるところから ちどり 清きを見れば上辺には千島しば鳴く下辺にはかはづつま言ったのであろう。〇あやにともしみ↓ 九一三 ( あやにともしく ) 。このトモシは、 おみやひと 心引かれる、ゆかしい、の意。〇玉葛 ! 呼ぶももしきの大宮人もをちこちにしじにしあれば見 絶ュルコトナクの枕詞。タマは美称の接 たまかづら 頭語。蔓性植物の蔓が長く延び、切れに るごとにあやにともしみ玉葛絶ゆることなく万代にか くいことからかけた。〇かくしもがも↓ かしこ 合五。離宮の繁栄や、作者自身を含めた くしもがもと天地の神をそ祈る恐くあれども 諸王臣の安泰が、いつまでも続くように 願っていうのであろう。〇恐くあれども ー行幸に供奉する身でありながら、個人 はばか 的な事を神々に祈願することを憚り多い と思う気持からいう。 反歌二首 しんき あめっち かみへ いの たぎ の しもへ かさのあそみかなむら たづ よろづよ 920
331 巻第六 971 ~ 972 ち よ ろ じんしんふぢはらのうまかひまへつきみさいかいだうせつどし モル ( 守 ) の意で、監視することをいう。 四年壬申、藤原宇合卿、西海道の節度使に遣はさるる時に、 〇山のそきーノキは遠く離れている所。 四 たかはしのむらじむしまろ 離れる意の四段動詞ソクの名詞形。〇伴 高橋連虫麻呂の作る歌一首剏せて短歌 の部ー配下の兵士たち。〇班ちー分配し。 たった っゅしも ゅ いろづ 力は清音。〇山彦ーこだま。反響現象を 叨白雲の竜田の山の露霜に色付く時にうち越えて旅行く 擬人化した呼称。〇たにぐくのさ渡る極 あたまも いへやま つくし み↓八 00 。〇国状ー国の形勢。ここは筑 君は五百重山い行きさくみ賊守る筑紫に至り山のそき 紫の現状をいう。 0 見したまひてーメス こた あかっか やまびこ きは は見ルの敬語。〇冬ごもりー春の枕詞。 野のそき見よと伴の部を班ち遣はし山彦の応へむ極み 語義・かかり方未詳。〇春さり行かば↓ くにかた 九哭 ( 春さり行くと ) 。〇来まさねーマス たにぐくのさ渡る極み国状を見したまひて冬ごもり春は敬語。ネは希求の終助詞。〇にほはむ 時のーニホフは赤い色が発散すること。 たったぢ をかへ さり行かば飛ぶ鳥の早く来まさね竜田道の岡辺の道に丹ツッジの花が赤く咲くことをいう。ノ は同格で「桜花咲きなむ時」に続く。〇山 さくらばな 丹つつじのにほはむ時の桜花咲きなむ時に山たづの迎たづのー迎フの枕詞。ヤマタヅはすいか ずら科の落葉低木にわとこの占名。その まぞ 枝葉が対生するところから、ムカフにか へ参ゐ出む君が来まさば カる 軍ー兵士。〇言挙げー言葉に出して 言い立てること。「あきづ島大和の 国は神からと言挙げせぬ国」 ( 三二と ) など 反歌一首 といわれ、無用な言挙げは忌避された。 ことあ いくさ をのこ おも 五令制で官人を官職に任じ、また位階 叨千万の軍なりとも言挙げせず取りて来ぬべき士とそ思ふを与えること。ここは、その任授に当る 諸司がその位職や年紀を記人した帳簿 右、補任の文に検すに、八月十七日に東山・山陰・西海の節謎をいう。 に 五 にんふみただ ともへ き め き せつ 972 0
ただこ 叨直越えのこの道にてしおしてるや難波の海と名付けけら しも 第 巻 ちうなごんあへのひろにはまへつきみ 中納言安倍広庭卿の歌一首 みじかいのち かくしつつあらくを良みぞたまきはる短き命を長く欲り する の山道をいう。 五伝未詳。忌寸は姓。「神社」の訓は仮 にカミコソとしたが、ミワモリ・モリな ど諸説がある。 難波潟潮干のなごり↓吾一三。〇よく 見てむーテは完了の助動詞ツの未然 形。このムは勧誘を表す。↓七 ( 朝菜摘 みてむ ) 。 直越えのこの道にてしー直越エノ道 は、生駒山を越えて平京から難波 へ出る直線コース。平坦な竜田道に比べ て、勾配はあるが近さのゆえで、時にこ の道がとられた。ただし、生駒山を越え なにはがたしほひ ぜんごんじ 難波潟潮干のなごりよく見てむ家なる妹が待ち問はむるには、善根寺越え、越え、辻子越 く . つがり え、暗峠越えなど幾つかのコースがあ り、そのうちのどれが当時の直越えか不 ため 明。ただこの歌の趣から見て、東大阪市 いけのはた 池之端町から真東に進み、現生駒トンネ ルの少し北で越える日下越えかとする説 が最も自然か。シは強めの助詞。ケラシ と応じる。〇おしてるやーオシテル ( 六一 九 ) に間投助詞が付いたもの。ただし、作 者は登り詰めて振り返り、難波の海の反 照を見、オシテルの由来はこれだ、と直 観したのである。〇難波の海ー大阪湾。 くを、か・ん 草香江釡七五 ) をさしたとする説もある。 六重病 3 ↓二五六ハー注四。 やまのうへのおみおくらちんあ 山上臣憶良、沈痾の時の歌一首 かみこそのいみきおゅまろ 五年癸酉、草香山を越ゆる時に、神社忌寸老麻呂の作る歌 二首 きいう 四 くさかやま よ いも 977
27 巻第四 510 ~ 513 ゅ かへこ 白たへの袖解き交へて帰り来む月日を数みて行きて来まる普通名詞的用法ではないか。 2 穂田の刈りばかー穂田は稲穂が出た 田。刈リ・ハ力は共同で稲刈りや草刈 しを りをする際の各人の個人分担量。今日の 田植えのような正条植えは時代的に新し く、当時は乱雑植えであったろうという。 いせのくにいぞま たぎまのまろま、つきみ それだけになお隣の人と接近しやすかっ 伊勢国に幸せる時に、当麻麻呂大夫の妻の作る歌一首 たと思われる。ただし、根刈り・穂首刈 ゅ なばり けふ りのいずれが一般的であったかなど不明。 我が背子はいづく行くらむ沖っ藻の名張の山を今日か越〇か寄り合はばーカ寄リ合フは離れてい たものが互いに寄り合うこと。力は接頭 ゆらむ きロカ〇そこーそのこと。 四↓田題詞。 おうばら 大原ー奈良県高市郡明日香村小原。 ぶにん 天武天皇の藤原夫人に賜った歌に見 える「大原の古りにし里」 ( 一 0 「 l) と同地。 草嬢の歌一首 〇この市柴のーイチシ・ハは「このいっ柴」 秋の田の穂田の刈りはかか寄り〈ロはばそこもか人の我を ( 一一のイッシ・ ( の音転か。そのイツは ィッ藻 ( 四九一 ) のそれと同じく植物の繁茂 こと するさまをほめた接頭語。以上イチーイ 言なさむ ツの類音によってかけた序。コノの語の 使用から、この歌が大原で詠まれたこと が知られる。〇いっしかー「いっしか見 四 しきのみこ みうた む」の略。ィッシカまたはイッカが、文 志貴皇子の御歌一首 末のムと応ずると、早く、したい、また は、早く、してほしい、のような願望な こよひあ おもいも いちしば 粥大原のこの市柴のいっしかと我が思ふ妹に今夜逢へるいし希求を表す。 わせこ しろ おはら くさのをとめ そぞと おきも あ よ こ 513
251 巻第五 892 あさぶすま 除きて人はあらじと誇ろへど寒くしあれば麻衾引き被焚きする土器。〇火気ー煙または湯気。 〇甑ー米を蒸すための瓦製または木製の うが ぬのかたぎぬ り布肩衣有りのことごと着襲へども寒き夜すらを我よ蒸し器。底に蒸気を通す穴を穿ち、また 簀を張って用いた。〇蜘蛛の巣かきてー まづ ちちはは 四段のカクは複数の支点で宙吊りする場 りも貧しき人の父母は飢ゑ寒ゆらむ妻子どもは乞ひて 合にいう。〇飯炊くーカシクは蒸すこと。 こわいい な よ クは清音。当時の米食は蒸炊方式の強飯 泣くらむこの時はいかにしつつか汝が世は渡る が一般であった。 0 ぬえ島ーとらつぐみ あめっち あ ひっき の古名。寂しい声でヒーヒー鳴くところ 天地は広しといへど我がためは狭くやなりぬる日月は からノドョフの比喩に用いた。〇のどよ あか たま あ しかひーノドョフは細々とした声を出すこと。 明しといへど我がためは照りや給はぬ人皆か我のみや然〇いとのきて短き物を端切るー当時の諺 きず そそ の一つか。↓二五九謇 ( 痛き瘡に塩を灌 ひとなみ はしき るわくらばに人とはあるを人並に我もなれるを綿もなき、短きは端截る ) 。イトノキテは、 そうでなくてさえ、の意か。中古語のイ ぬのかたぎぬ みる 、中世語のサナキダニと同じような き布肩衣の海松のごとわわけ下がれるかかふのみ肩に 意味用法か。〇しもとー刑具の杖笞。長 ひたっち わらと さは三尺五寸、径四、三分 ( 杖 ) 、三、 うち掛け伏せ廬の曲げ廬の内に直土に藁解き敷きて父 分 ( 笞 ) という規定がある。ここは賦役を さいく うれさまよ 催駈するためのむち。〇里長が声ー「戸 母は枕の方に妻子どもは足の方に囲み居て憂へ吟ひ 令」に「凡ソ戸ハ五十戸ヲ以テ里ト為セ、 いひかし 里毎ニ長一人ヲ置キ、戸口 ( 戸数と人口 ) かまどには火気吹き立てず甑には蜘蛛の巣かきて飯炊く ヲ検校シ農桑ヲ課殖セシメ非違ヲ禁察シ、 賦伎ヲ催駈スルコトヲ掌ル」とある。里 ことも忘れてぬえ鳥ののどよひ居るにいとのきて短き物長は原文に「五十戸良」とあり、その「良」 はし ねやどは「長」に同じ。ガ↓八 0 四 ( いづくゆか皺が を端切ると言へるがごとくしもと取る里長が声は寝屋処来りし ) 。 お まくらかた ふ あ い どり ま い う あとかた きそ こしき こ を さ さ くもす あれ かくゐ さとをさ われ かがふ