大伴旅人 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)
18件見つかりました。

1. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

0 天皇年号西暦 関連事項および作品 聖武神亀三七二六九月十五日播磨国印南野に行幸 ( 続紀には十月七日行幸とあり ) 、笠金村らの歌 ( 6 九三五 ) 。十月藤原 宇合知造難波宮事となる。 じゅとうりよう もといのおおきみ 四七二七正月諸王諸臣子等授刀寮に散禁される ( 6 九四八 ) 。五月甕原離宮に行幸。閏九月基王誕生。十月 ひろにわ だざいのそち 葉 阿倍広庭中納言となる。この前後に大伴旅人大宰帥となるか。十一月基王立太子。 いらつめ こた 萬 五七二八四月ごろ大伴旅人の妻郎女死去。六月二十三日旅人「凶問に報ふる歌」 ( 5 七九三 ) を作る。七月二十 ばんか こころかへ 一日山上憶良筑前国守として部内を視察中嘉摩郡において「日本挽歌」 ( 5 七九四 ) 、「惑へる情を反さ かしいの しむる歌」 ( 5 八〇〇 ) などを撰定する。九月基王薨。十一月旅人大宰府官人らと香椎宮を拝み、香椎 たる しように の浦で歌を作る ( 6 九五七 ) 。この年難波宮に行幸あり、笠金村歌中の歌 ( 6 九五〇 ) 。大宰少弐石川足 ひと たしひのあがたもり 人遷任 ( 4 五四九・ 6 九五五 ) 。同大弐丹比県守民部卿となって上京 ( 4 五五五 ) 。旅人吉野離宮を思 すきたの う歌 ( 6 九六〇 ) 、次田温泉で鶴が音を聞く歌 ( 6 九六一 ) などがある。 天平元七二九二月長屋王謀反の罪により自尽させらせる。多治比県守・大伴道足ら権参議となる。三月藤原武智麻呂 ぶにんこうみようし やまとごと 大納言となる。八月改元。藤原夫人 ( 光明子 ) を皇后の地位に進める。十月大伴旅人倭琴を藤原房前に 贈るに当って書簡と歌とを添える ( 5 八一〇 ) 。十一月房前これに返歌 ( 5 八一 (l) を贈る。 まつら 一一七三〇正月十三日梅花歌三十一一首が作られる ( 5 八一五 ) 。四月六日大伴旅人在京の吉田宜に梅花歌・松浦川 そう こまろ いなぎみ に遊ぶ序 ( 5 八五三 ) を含む書簡を贈る。六月旅人脚に瘡を生じ、庶弟稲公・甥胡麻呂を呼び寄せたが ひなもり 治癒し、嫡男家持ら駅使を夷守まで見送る ( 4 五六六 ) 。七月吉田宜、旅人に返書を贈る。九月大納言 多治比池 ~ はじ、十月旅人大納言となる。十一月坂上郎女大宰府出発 ( 6 九六一一 I) 。十二月旅人上京 ( 4 五六八・ 5 八七六・ 6 九六五 ) 。 くまごり 三七三一正月大伴旅人従一一位となる。六月十二日大伴君羆凝死 ( 5 八八四 ) 。七月二十五日旅人薨。八月藤原宇 かつらぎの 合・同麻呂・葛城王ら参議となる。九月藤原武智麻呂大宰帥を兼任。 せつどし 一一月中納言阿倍広庭薨。八月第九次遣唐使を任命。藤原房前・同宇合らを節度使として派遣 ( 4 六一一一 ・ 6 九七一 ) 。 五七三一一一正月県大養橘三千代薨。三月一日遣唐大使多治比広成、山上憶良を訪う。同三日憶良好去好来の歌を作 たしな る ( 5 八九四 ) 。四月遣唐使難波津を出発。六月憶良「老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦み、また こら ちんあしあいぶん 児等を思ふ歌」 ( 5 八九七 ) を作る。沈痾自哀文・沈痾の時の歌 ( 6 九七八 ) もこの前後に成るか。 かまぐん

2. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

ちくどのかみふしいのむらしおおなり 大宰帥大伴旅人卿が上京した後に、筑後守葛井連大成が嘆き悲しんで 作った歌一首 きやま 集今からは城山の道は寂しく思われることだろうわたしがいつもそこを心も 葉 軽く通って行こうと思っていたのに うせつつ たかやすのおおきみ 萬 大納言大伴旅人卿が新しい泡を摂津大夫高安王に贈った歌一首 あびき なにわしようり この服は人に着せてはなりますまいぞ網引仲間の難波小吏の手に触れさ せることはあっても おおとものすくねみより 大伴宿三依が別れを悲しんだ歌一首 天地と共に久しくお仕えしようと思っていたこのお邸の庭よ よのみようぐんおおとものすくねやかもち 余明軍が大伴宿禰家持に与えた歌二首明軍は大納言大伴旅人卿の資人である お目にかかってまだなにほども時は経っておりませんのに年月長く経たよ うに思われる君です へ くだら 一百済系の渡来人。神亀五年 ( 七一一 0 正 六位上から外従五位下に進んだ。全 0 ・一 00 三の作者。筑後 ( 上国 ) の国守は従五位 下相当官。 6 城山の道はー城山は大宰府址の真南 きやま 5 約八・五はじの地にある基山。海抜 はくすきのえ 四〇四。白村江敗戦の後、この山に百 済式の城が築かれたのでその名がある。 城山ノ道はその東部両国峠を通る古代の 駅路で、大宰府から筑後・肥前の国府に 通ずる要路であった。このハは対象語格 に代用したもの。〇さぶしけむー旅人が 大宰府に在った時は、その温容に接する 期待、接し得た幸福感で城山住還が楽し かったことを匂わす。〇我が通はむと ! あと あいかわ 筑後国府の址は久留米市街地東方の合川 町枝光の地に擬せられている。 ニ朝服のいちばん上に着る衣。袖丈が わきあけ 身丈より長く、脇明であった。朝服は一 般官人が朝廷の公事の際に着る服で、親 王および大納言以上の高官は社服を着る 例であった。大納言になった旅人は不要 になった薄紫の朝服を高安王に譲ったの

3. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

萬葉集 64 て お り ま す さみまんい だざいのそちおおとものたびときよう 大宰帥大伴旅人卿が上京した後に、沙弥満誓が旅人卿に贈った歌一一首 あさゆう ( まそ鏡 ) 見飽きることのない君に残されて朝夕ずっと寂しく思いつづけ しらが ( ぬばたまの ) 黒髪が白髪に変ってもつらい思いに出会う時はあるもので だいなごん 大納言大伴旅人卿が唱和した歌一一首 一↓田三五一題詞。 つくし まそ鏡ー見ルの枕詞。〇後れてやー ここからだと筑紫はどちらの方角だろう白雲のたなびいている山の方角 後ルはあとに残る意。一人称に用い であろうか たヤ・ : ムは、こうも、することか、の意 くさかえ 草香江の人江で餌を捜す葦鶴ではないがああたづたづしいことだなじんで、詠嘆的疑問を表す語法。〇さびつつ 居らむーサプは、心が楽しまず荒れすさ だ友も居なくて んでゆく意の上二段動詞。 黒髪変はり白けてもーシラクは白く なること。『万葉集』では髪について いうが、中古以後は、興ざめな事態にな ることに用いた例が多い。満誓は「梅花 歌三十一一首」の中で「青柳梅との花を折り かざし」 ( 全一 ) と詠んでおり、カザスは髪 うはっ に挿す意であることからも、作者が有髪 の沙弥であったことが知られる。〇痛き 恋ー旅人を慕う気持をいう。 ここにありてーココは奈良の都の自 4 宅をさすのであろう。〇筑紫ゃいづ ちーイヅチは方角に関する疑問代名詞。 すね あしたづ しらくも 573 572

4. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

萬葉集 176 雑歌 一↓田解説三六八ハー。ただし巻五は雑 きよう糲う こた だざいのそちおおとものたびときよう そうもんばんか 大宰帥大伴旅人卿が、凶報を受けこれに報えた歌一首 歌ばかりでなく、相聞や挽歌に分類され く十 、るべき内容の作品も混じっており、この 不幸が重なり、凶報が集って来ます。絶えず心も崩れんばかりの悲しみを抱き 標題が原本に由来するか否かについて疑 ひとり腸も断ち切られるばかりの嘆きの涙を流しております。ただ、お二人の 問が持たれている。すなわち、この巻で せんがく つな 非仙覚本系に属する紀州本および細井本 おカ添えをいただき、いくばくもない余命をやっと繋いでいるような有様です。 を初めとする冷泉本系諸本では、目録の 「筆では言わんとすることを述べ尽すことができない」というのは、昔の人も今の人も共冒頭には「雑歌」とあるが、本文の前には うら ない。 に憾みとするところです。敬具。 ニ大宰府の長官。従三位相当官。大宰 世の中はむなしいものだと思い知った時にいよいよますます悲しく思わ府は西海道 ( 九州 ) 全体の内政総管の府で あると同時に、大陸に対する外交折衝の れることです 門戸でもあった。現在の福岡県太宰府市 からその遺構が発掘されつつある。 たびと 三大伴旅人をさす。旅人の帥着任は前 年の神亀四年 ( 七一一七 ) 十月か。↓五四九題詞。 この時六十四歳正三位。卿は三位以上の 萬葉集巻第五 ぞう いだ れいをい せっしよう

5. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

右の三首は、作者がわからない。 おおとものすくねみより 大伴宿彌三依の歌一首 集あなた様はわたくしめを死ねと思っていらっしやるのでしようか逢う晩と一御行 ( 六咒左注 ) の子か。天平二十年 ( 七四 0 従五位下。主税頭、三河守、仁部 葉 とおとうみの 逢わない晩とかわりばんこですね ( 民部 ) 少輔、遠江守、義部 ( 刑部 ) 大輔、 にふのおおきみだざいのそちおおとものたびときよう 萬 出雲守などを歴任。宝亀五年 ( 七四 ) 散位 丹生女王が大宰帥大伴旅人卿に贈った歌一一首 しゆっ あまくも 従四位下で卒した。五大・六五 0 ・六九 0 の作 つくし 筑紫の国は天雲のたなびく果ての遠くであってもこちらの思いさえ届けば 者。 恋い慕ってくださるものでしようか 我が君ー賀茂女王 ( 〈題詞 ) をさす。 女性に用いる場合、戯れの気持が強 きび ご老人が送ってくださった吉備の酒も悪酔したらどうしようもありませんい。〇わけー若輩を揶揄する言葉。転じ ぬきす て自己を戯笑的に称することが多い。〇 貫簀も戴きとうございます 逢ふ夜逢はぬ夜二走るらむー逢う夜と逢 だいにたじひのあがたもりきよう 大宰帥大伴旅人卿が大弐丹比県守卿の民部卿転任に際して贈った歌一 わない夜とが交互に過ぎて行くのだろう か。二走ルは二行ク ( 当「 I) に似て、さら あわ 首 に慌ただしい交替を示す。 ニ系統未詳。天平十一年 ( 七三九 ) に従四 位下から従四位上に進み、天平勝宝一一年 ( 七五 0 ) に正四位上となる。一六一 0 の作者。四 一一 0 の作者丹生王も同一人かという。 そくへの極みーソクへは遠く隔たっ 5 た所。〇恋ふるものかもー主語は相 手。モノカモ↓五一七 ( 触れぬものかも ) 。 古人ー老人。この時六十四歳であっ 5 た旅人をさしていう。〇飲へしめた るー下二段のタマフはタブの古形。高貴

6. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

萬葉集 60 だざいのそちおおとものたびときよう てんびよう 以上の二首は、天平一一年六月、大宰帥大伴旅人卿が思いがけなく足にできも しょてい ちゃく のを生じて、病床で悩み苦しんだ。そこで馳駅をもって朝廷に奏上し、庶弟 ゆいごん みぎのひょう・このすけおお いなぎみおいこまろ の稲公と甥の胡麻呂とに来てもらって遺言をしたいと願った。右兵庫助大 えきれい とものすくわいなぎみじぶしようじようおおとものすくねこまろ 伴宿禰稲公と治部少丞大伴宿彌胡麻呂の二人に勅命を下し、駅鈴を賜って た 出発させ、旅人卿の看病をさせられた。ところが、数十日経って、幸いにも 病気が治った。さて稲公らは旅人卿の病気がすっかり治ったというので、大 宰府を出発して都に上ることになった。そこで大監大伴宿百代・少典山口 ひなもりえき やかもち 忌寸若麻呂、そして旅人卿の子家持らは駅使を送って、一緒に夷守の駅に着 いた。ともかくも、酒宴をして別れを悲しみ、これらの歌を作ったのである。 だいなごん 大宰帥大伴旅人卿が大納言に任ぜられ、上京しようとした時に、大宰府 あしき の官人たちが筑前国の蘆城の駅で送別の宴をした時の歌四首 一「右」に同じ。当時の公文書の慣用語。 ただし、「右ーは一件のみの場合、「以前」 は二件以上を一括してさす場合に用いる。 ニ一日に十駅以上走らせる超特急駅使。 一日二〇〇はじ弱、普通便の四倍以上の 速さで山陽道を走破したのである。大宰 府、平城京間を急使が四日で走破したこ とが、続紀の記事によって知られる。 三腹違いの弟。稲公は五会の左注によ れば坂上郎女の同母弟で石川郎女の所生。 天平十三年 ( 七四一 ) 当時従五位下で因幡守 となり、その後兵部大輔、上総守などを 歴任。天平宝字一一年 ( 七五 0 従四位下大和 きずい 守であった時、奇瑞を奏して賞せられた ことが『続日本紀』に見える。 四「姪」は「甥」に同じ。宿奈麻呂の子か。 一説に田主の子とも。天平十七年 ( 七四五 )

7. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

そちおおともきよう 帥大伴卿の答えた歌一首 ( やすみしし ) わが大君の治めていらっしやる国は大和もここも同じだと 集思う かしいのみや だざいふ 葉 同年十一月、大宰府の官人たちが香椎宮に参拝し、終って帰る時に、馬 萬 を香椎の浦に止め、めいめい胸中を述べて作った歌 帥大伴卿の歌一首 かた さあみんな香椎の潟で ( 白たへの ) 袖まで濡らして朝菜を摘もう 大弐小野老朝臣の歌一首 たまも 時っ風が吹いて来そうになった香椎潟の潮干の浦で今のうちに玉藻を刈 ろう だいにおののおゅあそん しおひ やまと っ 一大宰帥大伴旅人。 食す国ー食スは、お治めになる、の 意。↓九一ズ。〇大和もここもー奈良 もこの筑紫も。 さきもりのつかさ 0 旅人は同じ族人でもある防人司大伴 よっな 四綱から同じような質問を受けた時、望 郷の念を隠さず五首 0 一三一、三 ) の歌を詠 んでいる。足人の歌の無神経さに反発し たのである。 ニ香椎宮。福岡市東区香椎にあり、仲

8. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

十二月、大宰帥大伴旅人卿が帰京する時に、おとめが作った歌一一首 普通の方ならどうなりともしますが恐れ多かろうと振りたい袖もこらえ 集ております やまとじ 葉大和道は雲に隠れていますそれなのにわたしが振る袖を無礼だなどと思 萬わないでください だいな・こん 右は、大宰帥大伴卿が大納言を兼任することになり、京に向って帰途につい 凡ならばーオホは、普通、通り一遍、 みずき やかた の意。あなたが高貴な身分の方でな た。その日、馬を水城に止めて、大宰府の館を振り返って見た。その時、卿 かったら。〇かもかもせむを ! カモカモ あそびめ を見送る大宰府の官人たちに混じって、遊行女婦その名を児島というものが は、ああもこうも、の意。力は、上代語 居た。さて、そのおとめは、別れがいともあっけなく、また逢うことが困難に用例の少ない遠称の指示語の一例。〇 振りたき袖ー袖を振るのは愛情の表現。 なことを悲しんで、涙を拭きつつ、自らこの袖振る歌を口ずさんだ。 願望の助動詞タシは、平安末期になって ようやく確例を見るため、このタシは、 「恋ひ痛し」 ( 一三 0 ) の類の、甚だしい、の 意の接尾語とするのが通説だが、その種 のタシの受ける動詞は飽キ・呆レ・屈シ などの心情表現の語に限られるようで、 ここは願望の助動詞の初出例と認めたい。 然れどもー逆接の接続詞。下の振ル にかかるのであろうが、上下の論理 関係が明らかでない。前の歌の恐シなど の語を気分的に受けているのであろうか。 〇なめしー無社だ、身の程をわきまえな だざいのそちおおとものたびときよう ふ だざいふ そぞ % 5 いつべん

9. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

ちくごのかみふじいたいう 筑後守葛井大夫 あおやぎ 2 青柳と梅の花とを折って髪にさし楽しく飲んだそのあとは散ってしまっ かさのさみ 集てもよい笠沙弥 その 葉わが園に梅の花が散る ( ひさかたの ) 天から雪が流れて来るのだろうか 萬おん 梅の花が散るとはどこのことですそれどころかこの城の山には雪が降っ だいげんばんしのももよ ていますよ大監伴氏百代 梅の花の散るのを惜しんでわが園の竹の林にうぐいすが鳴いている少 げんあしのおきしま 監阿氏奥島 その き しよう おおなり 一葛井連大成。↓六題詞。筑後も上 国で、その国守は従五位下相当官。 青柳梅との花をー「青柳と梅の花と を」というべきところを、敢えて破 格にしたものか。柳はカヅラにするのが 普通だが、時にはカザシにすることもあ った。〇折りかざし↓五七三 ( 黒髪変はり白 けても ) 。 まんぜい ニ満誓沙弥。↓田三五一題詞。従四位上 にまで昇った人であるのに客分の最後に 置いてあるのは出家だからであろう。 天より雪の流れ来るかもーこの流ル は雨や雪または花が続いて降って来 ることに用いたもの。梅の花を雪と見る りくちょう 趣向は六朝以来詩に例が多い。『懐風藻』 に収めた旅人自身の詩にも「梅雪残岸 ( 崩 れた岸 ) ニ乱レ」とある。 三宴の主催者大伴旅人をさす。 散らくはいづくーこの散ラクは散っ ている所の意。前の旅人の歌を受け、 それを疑う気持で言ったもの。現在、太 宰府周辺の梅の満開は普通三月上旬で、 太陽暦の二月四日に当る正月十一二日に落 梅が見られた可能性は少ない。〇しかす 821 822 823

10. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

319 巻第六 954 ~ 955 かしはゼのおきみ 膳王の歌一首 あした うみへ やまと 朝には海辺にあさりしタされば大和へ越ゆる雁しともし ださいのせうにいしかはのあそみたるひと 大宰少弐石川朝臣足人の歌一首 おほみやひと さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君 ざらむ 詞 ) に相当する目録にも同様の小字注が ある。これに類似したものに「笠朝臣金 力さのあそみかなむら あるい 右、笠朝臣金村の歌の中に出づ。或は云はく、車持朝臣千村の歌集に出づ」 ( 一三 = 左注 ) があり、これ らすべてを笠金村の作品と認めてよいか 否か、なお疑わしく、現にこの歌に車持 年の作なり、といふ。 千年の作とする異伝もある。 ニ「膳部王」などとも記す。長屋王の子。 きびのひめみこ 長男か。母は草壁皇子の娘吉備内親王。 神亀元年 ( 七一一四 ) 従四位下。同六年二月、 ざんげん 長屋王が讒言され、罪を得て自決させら れた時、母や弟たちと共に殉死した。 あさりしーアサリは魚介をとること。 人にも鳥獣にもいう。このシはサ変 の連用形。〇雁しともしもーこのトモシ は、羨ましいの意。 つばひ るいもち 右、作歌の年審らかならず。ただし、歌の類を以て、便ちこ = さす竹のー宮・大宮などの枕詞。サ スは、植物の根や枝が伸びる、生長 の次に載す。 する、の意であろうが、かかり方未詳。 〇家と住むーこのトは、、として、、と 思って、の意。〇佐保の山ー佐保山に同 じ。当時この一帯に貴族の居宅が多く、 大伴旅人の家も、その少し西方にあった と思われる。〇思ふやも君ーこの君は旅 人をさす。 やこの歌は作者石川足人が帰京する際に 詠まれたものか。 とせ つぎての ゅふ うち さほ くるまもちのあそみち すなは 955 ↓五四九題詞。