大宰府 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)
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1. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

大宰府都府楼跡 , あの : は第な ーツいを一 , 福岡県太宰府市

2. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

427 参考地図 筑前国要図 20 畑 長門国 ハ若松半島 う企半島 芦屋析 レ ! - 鐘崎 △名児山 宗像 直 筑前 香椎宮 10 大島地 / 島 玄 界 灘 相、 津屋 玄界島 ロ志賀 豊前 行橋 鴨生 ◎福 = 、。宝満山 ゝ山田豊前国 前 津 四寺山△ 嘉穂ー 大ヶ △ 0 太宰 筑紫野 嘉麻峠 ) 脊振山基山 0 夜須 原田 岳減界山 、、 0 甘木 山国 0 日田 豊後国 大宰府付近略図 大城 ー引。四王寺大原山 都府楼跡 一 ( 大宰府政庁 世音ー にしてつつか、ち ・、つか、ち筑紫野 天拝山 △ 258 香岳 △。鏡山 を 能勤博多 姫島 可也山 △ 284 玉島ハ ( 領巾振山 ) 95 m55 久大本線 筑後国府 筑後 国 ル - 野城市 肥前国 佐賀 幵太宰府天満ま - ざいふ 太宰府市 大牟 上水城 至博多 しも、おー みすき 向佐野 大佐野 ふろうま 上大利 課早 島原半島 針 あかいどう 阿志岐 至島栖

3. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

萬葉集 176 雑歌 一↓田解説三六八ハー。ただし巻五は雑 きよう糲う こた だざいのそちおおとものたびときよう そうもんばんか 大宰帥大伴旅人卿が、凶報を受けこれに報えた歌一首 歌ばかりでなく、相聞や挽歌に分類され く十 、るべき内容の作品も混じっており、この 不幸が重なり、凶報が集って来ます。絶えず心も崩れんばかりの悲しみを抱き 標題が原本に由来するか否かについて疑 ひとり腸も断ち切られるばかりの嘆きの涙を流しております。ただ、お二人の 問が持たれている。すなわち、この巻で せんがく つな 非仙覚本系に属する紀州本および細井本 おカ添えをいただき、いくばくもない余命をやっと繋いでいるような有様です。 を初めとする冷泉本系諸本では、目録の 「筆では言わんとすることを述べ尽すことができない」というのは、昔の人も今の人も共冒頭には「雑歌」とあるが、本文の前には うら ない。 に憾みとするところです。敬具。 ニ大宰府の長官。従三位相当官。大宰 世の中はむなしいものだと思い知った時にいよいよますます悲しく思わ府は西海道 ( 九州 ) 全体の内政総管の府で あると同時に、大陸に対する外交折衝の れることです 門戸でもあった。現在の福岡県太宰府市 からその遺構が発掘されつつある。 たびと 三大伴旅人をさす。旅人の帥着任は前 年の神亀四年 ( 七一一七 ) 十月か。↓五四九題詞。 この時六十四歳正三位。卿は三位以上の 萬葉集巻第五 ぞう いだ れいをい せっしよう

4. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

参考地図・ ロ絵目次 樹下美人図屏風・ 大宰府都府楼跡 金沢本万葉集 〈装丁〉中野博之

5. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

とふろう だざいふ 大宰府は西海道における政治・経済・ トルの土壇の上に礎石が並んでいる。 はこの下に在る。現在ここを都府楼跡 しよくに 外交・軍防の中心地であった。『続日南門・中門を通り、中庭を進むと、こと呼ぶのは、後年この地に配流された ごんのそちすがわらのみちざわ いんばん ほんぎ の一一層の正殿が仰がれる。七間 >< 四間権帥菅原道真の詩「不出門」の一節「都 本紀』には「人物殷繁にして天下の一 わずか 都会なり」と評している。この地を中の壮麗な建築物は、藤原宮や平城宮の府の楼には纔に瓦の色を看る」による。 だい ) 一くでん 心として詠まれた歌の数々がまた『万大極殿に当る。この正殿も一一一度にわたその「都府」は、大宰府の唐名「都督 葉集』に収められている。左の写真はる大規模な建替えがなされ、今日見る府」の略称である。 せいでん その政庁の中心をなす正殿跡の西南隅礎石は十世紀後半以後のものだという。 から東を望んだもので、高さ約一メー万葉時代に相当する第一一期の建築遺構 いツをド ととく

6. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

327 巻第六 965 ~ 966 お ださいのそちおとものまへつきみみやこのな ↓五一七題詞・五六八題詞。大宰帥は大納 冬十二月、大宰帥大伴卿の京に上る時に、娘子の作る歌 むちま 言の兼任が多く、旅人薨後も藤原武智麻 呂が大納言兼大宰帥であった。 二首 ニ天智三年 ( 六六四 ) 大宰府防衛のために かしこ 造られた長堤。東は大宰府の北の大野山 凡ならばかもかもせむを恐みと振りたき袖を忍びてあるま・ の山水城から、西は背振山地の先端部 吉松まで、東西約一・一言じ、高さ約一 力、も 三、基底部の幅約八〇に及ぶ大堤が 現在もなお残っている。『日本書紀』には、 「筑紫ニ大堤ヲ築キテ水ヲ貯へシム」とあ やまとぢ ′、、もかく - も り、これについて内部貯水説、単なる土 大和道は雲隠りたり然れども我が振る袖をなめしと思塁とする説などがあ。た。しかし、昭和 五十年の水城大堤の発掘調査の結果、外 ふな 側に幅約六〇の堀の遺構が検出され、 これが、博多湾に上陸した外敵の進撃を だいなごん 右、大宰帥大伴卿、大納言を兼任し、京に向かひて道に上る。阻むために、交通要路に設けた外堀であ ることが確認された。 とど かへりのぞ この日に、馬を水城に駐めて、府家を顧み望む。ここに、卿 = 大宰府の庁舎。 四遊女。『和名抄』に「遊行女児、宇加 四 あそびめ あざなこしまい 社女、一に云ふ阿曾比」とある。 たびひと を送る府吏の中に、遊行女婦あり、その字を児島と曰ふ。こ 五巻三の雑歌の部に「筑紫娘子、行旅 いた やす あ に贈る歌」 ( 三八 D とあり、その注記に「娘 こに、娘子この別れの易きことを傷み、その会ひの難きこと 子、字を児島といふ」とある。おそらく、 なみたのご みづか うた この今の歌と同時の作であろう。ただし、 を嘆き、涕を拭ひて自ら袖を振る歌を吟ふ。 それは天平五年冬十一月の歌のあとに収 められている。 六 ↓二三六ハー注三。 ふり をとめ六 なか し づき をとめ そゼ かた あそび せぶり

7. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

ちくどのかみふしいのむらしおおなり 大宰帥大伴旅人卿が上京した後に、筑後守葛井連大成が嘆き悲しんで 作った歌一首 きやま 集今からは城山の道は寂しく思われることだろうわたしがいつもそこを心も 葉 軽く通って行こうと思っていたのに うせつつ たかやすのおおきみ 萬 大納言大伴旅人卿が新しい泡を摂津大夫高安王に贈った歌一首 あびき なにわしようり この服は人に着せてはなりますまいぞ網引仲間の難波小吏の手に触れさ せることはあっても おおとものすくねみより 大伴宿三依が別れを悲しんだ歌一首 天地と共に久しくお仕えしようと思っていたこのお邸の庭よ よのみようぐんおおとものすくねやかもち 余明軍が大伴宿禰家持に与えた歌二首明軍は大納言大伴旅人卿の資人である お目にかかってまだなにほども時は経っておりませんのに年月長く経たよ うに思われる君です へ くだら 一百済系の渡来人。神亀五年 ( 七一一 0 正 六位上から外従五位下に進んだ。全 0 ・一 00 三の作者。筑後 ( 上国 ) の国守は従五位 下相当官。 6 城山の道はー城山は大宰府址の真南 きやま 5 約八・五はじの地にある基山。海抜 はくすきのえ 四〇四。白村江敗戦の後、この山に百 済式の城が築かれたのでその名がある。 城山ノ道はその東部両国峠を通る古代の 駅路で、大宰府から筑後・肥前の国府に 通ずる要路であった。このハは対象語格 に代用したもの。〇さぶしけむー旅人が 大宰府に在った時は、その温容に接する 期待、接し得た幸福感で城山住還が楽し かったことを匂わす。〇我が通はむと ! あと あいかわ 筑後国府の址は久留米市街地東方の合川 町枝光の地に擬せられている。 ニ朝服のいちばん上に着る衣。袖丈が わきあけ 身丈より長く、脇明であった。朝服は一 般官人が朝廷の公事の際に着る服で、親 王および大納言以上の高官は社服を着る 例であった。大納言になった旅人は不要 になった薄紫の朝服を高安王に譲ったの

8. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

おほぶね ただあ 7 大船の思ひ頼みし君が去なば我は恋ひむな直に逢ふま 四でに 第 巻 ももよ こよひ 今夜の早く明けなばすべをなみ秋の百夜を願ひつるかも 四 ぼしんださいのせうにいしかはのたるひとあそみせんにん つくしのみちのくちあしき 五年戊辰、大宰少弐石川足人朝臣遷任し、筑前国の蘆城の はゆまうまやせん 駅家に餞する歌三首 くさまくら あめっち 天地の神も助けよ草枕旅行く君が家に至るまで あれ 辺の大伴氏関係の歌が六一一 0 まで続く。 反歌 ニ大宰府の次席次官。従五位下相当官。 あまくも よそ わぎもこ 天雲の外に見しより我妹子に心も身さ ( 寄りにしものを定員二名。 三和銅四年 ( 七二 ) 従五位下。神亀元年 従五位上。ここに「石川足人朝臣」と氏名 姓順に記されているのは私的敬称。巻六、 五・九五六で旅人と贈答しているのも、同 じ遷任の宴での応酬であったのかもしれ ない。 ちくしのあしき 四福岡県筑紫野市阿志岐。大宰府址の 東南約四じの地。大宰府の官人たちは しばしばここで遊宴を催した。 五駅路にあって公用で往来する者のた めに馬を用意し、宿を設けた所。蘆城は 筑後・肥後方面に赴く最初の駅家。 六送別の宴を設けること。 9 神も助けよーこの石川足人朝臣が無 事に帰京できるように神も守り助け たまえ。〇家ー石川足人の奈良の家をさ す。 0 大船のー思ヒ頼ムの枕詞。〇恋ひむ なーナは感動の終助詞。↓と八。〇 直に逢ふまでにー作者も帰京し奈良で再 会するその日まで。 島の浦廻に寄する波ーシ「は水に面 した地形を、水上から望み見ていう あひだ うらみ やまとち 大和道の島の浦廻に寄する波間もなけむ我が恋ひまくはことが多い。以上、間モ無シを起す序。 よ い いへ あ ねが

9. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

十二月、大宰帥大伴旅人卿が帰京する時に、おとめが作った歌一一首 普通の方ならどうなりともしますが恐れ多かろうと振りたい袖もこらえ 集ております やまとじ 葉大和道は雲に隠れていますそれなのにわたしが振る袖を無礼だなどと思 萬わないでください だいな・こん 右は、大宰帥大伴卿が大納言を兼任することになり、京に向って帰途につい 凡ならばーオホは、普通、通り一遍、 みずき やかた の意。あなたが高貴な身分の方でな た。その日、馬を水城に止めて、大宰府の館を振り返って見た。その時、卿 かったら。〇かもかもせむを ! カモカモ あそびめ を見送る大宰府の官人たちに混じって、遊行女婦その名を児島というものが は、ああもこうも、の意。力は、上代語 居た。さて、そのおとめは、別れがいともあっけなく、また逢うことが困難に用例の少ない遠称の指示語の一例。〇 振りたき袖ー袖を振るのは愛情の表現。 なことを悲しんで、涙を拭きつつ、自らこの袖振る歌を口ずさんだ。 願望の助動詞タシは、平安末期になって ようやく確例を見るため、このタシは、 「恋ひ痛し」 ( 一三 0 ) の類の、甚だしい、の 意の接尾語とするのが通説だが、その種 のタシの受ける動詞は飽キ・呆レ・屈シ などの心情表現の語に限られるようで、 ここは願望の助動詞の初出例と認めたい。 然れどもー逆接の接続詞。下の振ル にかかるのであろうが、上下の論理 関係が明らかでない。前の歌の恐シなど の語を気分的に受けているのであろうか。 〇なめしー無社だ、身の程をわきまえな だざいのそちおおとものたびときよう ふ だざいふ そぞ % 5 いつべん

10. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

第が大宰府の伐人に任命された時の歌四汽 、 6 ころもそぞ 衣の袖に取りすがって泣く赤子にもまさる思いで別れを悲しむわたしを とねりのよしとし 集残して行かれてわたしはどうしたらよいでしようか舎人吉年 葉 明残して行ったらあなたは恋しがるだろうなあ ( しきたへの ) 黒髪を床に敷い 一伝未詳。「田部」はタノベ、「擽子」は やくさかばわ 萬 イチヒと読む。忌寸は八色の姓の第四位。 て長いこの夜を田部忌寸擽子 ニ大宰府の伐人となることをいう。 あなたを紹介してくれた人のことを恋しさが増さるといっそ恨めしく思 ・取 - り・と、どこほりーこのトリは員五ロ 的用法。トドコホルはからみつくこ と。以上、聞き分けのない幼児のさまを 朝日の光がさして輝いている山に照る残月のように見飽きることのないあいう。〇置きていかにせむー「いかにせ む」の主語について、田部擽子と作者の なたを山のかなたに置いて 二説があるが、「今更に国別れして我は いかにせむ」 ( 三七四六 ) のように、テを挟ん で前後の主語を異にすると思われる例が あり、作者と考えてよかろう 三↓工一吾注記。近江朝の宮廷に出仕 したことのある女官であろう。舎人は氏。 連作の歌の下に作者名を小書するのは漢 なら 詩の形式に倣ったもの。 ころもぞ しきたへのー枕・床・袖・衣手など の枕詞。黒髪にかかるのは寝ている 時の髪を詠んでいるからであろう。〇黒 髪敷きてー夢の中で逢うことなどを願っ しゅしゆっ ての呪術か。一般には髪をしとねの縁に 丸めて寝る習慣であったと思われる。 ざんげつ 492 493 0 あれ へり