いへわすみさかいへぢ 君が家に我が住坂の家道をも我は忘れじ命死なずは釡 0 四 ) も、もと「味が家に我が住坂の」とあった歌が伝誦の間に「君が : : : 」と人称語が転換し、そのために編者 つじつま 集が辻褄を合せて作者を「人麻呂の妻」とした、と想像することも可能であろう。先に見た吹芙刀自の歌二首 葉のうちのあとの方「川の上のいっ藻の花の」の歌が、作者不明の歌を集めた巻十春相聞の中に重出している こうしようせい ことも、この前後の歌が人麻呂関係のみならず概して口誦性に富んでいることの端的な一例証である。 たじひのかさまろ しきのみこ そのあとも作歌事情を知るには説明の足りない題詞の歌が続くが、中に丹比笠麻呂、志貴皇子などの藤原 宮の当時在世した人々の作品が交じっており、その配列順序はおおむね信ずべきものであろう。佐保大納一一一口 おおとものさかのうえのいらつめやかもち 大伴家の人々の歌が現れるのは五一七以下である。その中心的存在は大伴坂上郎女と家持で、自ら詠んだ歌 や聞きおぼえた他人の歌などを書き付けた私家集的編纂物から切り外し、ないし抄写して、この前後の数巻 に収めたのであろう。ここにようやく、家持の意識としての現代が開けたということができる。 やすまろ ただし、五一七と五一八の二首は坂上郎女には両親に当る大伴安麻呂と石川郎女の歌で、一見贈答のようである が、内容的にも年代的にもその可能性が少なく、なお十分に伝誦歌から個人創作歌へ伸展したとは言いがた づみのみこ だいじよう い。その坂上郎女は穂積皇子に先立たれたあと、異母兄宿奈麻呂との間に、後年家持の妻となる坂上大孃ら を儲け、また藤原麻呂の妻問いを受ける。その他にも、あるいは単なる歌の贈答だけの相手もあろうが、か なり多くの男性と交渉があったようで、中には聖武天皇に奉った歌さえも交じる。坂上郎女によって奈良朝 さんいっ 前期の宮廷内外の歌がかなり散逸を免れたことであろう。 じんき その坂上郎女が筑紫へ下ったのは神亀五年 ( 七一一 0 の後半であろうか。郎女には異母兄に当る旅人の妻大 伴郎女の没後、代って家政を見るためかという。五四九から五七一までが大宰府関係の歌である。旅人が大納言と もう われ すくなまろ たびと
けんそん 「筑前国守」とも「筑前国司」ともしており、あるいは後者は長官である身分を包んだいっそう謙遜した書 式であろうか。そして八九三左注以下にそれらの身分も記さないのは、天平三年の後半かその若干後に筑前国 かばね 守を辞して都に帰ったことを示すものと思われる。これらには一貫して憶良の姓「臣」の字がない。旅人の ような上位者に謹上した歌文はもちろん、下位者である麻田陽春に贈ったものにも「臣」と記さず、誰に見 せるという当てもない「沈痾自哀文」も当然のことながら「臣」を略している。このことは、この巻が憶良 の個人的筆録に出たものであることを物語る有力な証跡とみてよい。 言うまでもなく、旅人の述作とみるべき部分は前半に数々あり、建前の上からは正三位大宰帥旅人が主伎、 従五位下筑前国守山上憶良は脇役である。しかし看過できない事実の一つに、旅人が詠んだ歌、書いた詩文 はいずれも誰かに贈る書簡 ( 正しく言えば、誰かに贈っ書簡の写し ) である、ということがある。その点、巻 三・四・六・八などにも旅人の作品は収められているが、それらは書簡でない。すなわち、吉野離宮での奉 勅作歌あるいは大宰帥着任後に詠んだ望郷の歌、酒を讃むる歌、妻大伴郎女の死を哀傷する歌、また大宰府 たるひと たじひのあがたもり かしい すきたのいぞゅ に近い次田温泉で鶴の声を聞いて詠んだ歌などの独詠歌、大弐丹比県守や少弐石川足人らに贈った歌や香椎 にふのおおきみ の浦で下僚に呼びかけた歌などの対詠歌はあっても、書簡はない。もっとも、巻四・八に都に住む丹生女王 説から筑紫の旅人に贈られた歌 ( 会一一・奏 : 一六一 0 ) が見えるが、旅人からの返歌はない。 さみまんぜい 同じく巻四に筑紫の沙弥満誓から旅人に贈られた歌があり、これには旅人が返歌を贈っている。しかし、 解それは旅人帰京後の贈答であり、おのずから事情が異なっている。これだけでは必ずしも証拠十分といえな いが、この巻の旅人の歌文の大半の実作者は憶良で、時に旅人は都から贈られた書簡を憶良に示し、その返 信の代筆を頼む、というようなことがあったと考えて差支えないのではないか。もちろん旅人への、また旅
こう なって上京しやがて薨じた後も、家持をはじめその周辺の人々の作品が書き留められている。その大部分は 確かに男女間の恋愛感情を詠んだものであるが、一部にその枠から逸脱するもののあることが注目される。 もっとも、坂上郎女から娘の坂上大嬢へ、田村大嬢から異母妹の坂上大嬢へ、というような家族内での贈答 は、それが中国での「相聞」 「相問」に同じく、相手の様子を尋ねることーーの原義的用法だったこと を思えば、この際異とするに当らない。問題は大宰府官人の宴飲の歌をこの巻四の中に収めることである。 せんにん せんえん だざいのだいにたじひのあがたもり ことにそれらが遷任の時の餞宴の作、たとえば大宰大弐丹比県守が民部卿となって上京する際に大伴旅人が 詠んだ歌、 さけやす 君がため釀みし待ち酒安の野にひとりや飲まむ友なしにして ( 五発 ) いなぎみ や、そのあと旅人が病臥し、上奏して下らせた庶弟の稲公ら駅使を見送って詠んだ、大宰大監大伴百代、少 典山口若麻呂らの、 くさまくら うるは しか はまへ 草枕旅行く君を愛しみたぐひてそ来し志賀の浜辺を ( 契六 ) すは いはくにやま たむけ 周防にある磐国山を越えむ日は手向よくせよ荒しその道 ( 五六七 ) などをこの相聞の中に収めたのは不自然である。さらに言えば、旅人その人が、その半年後大納言となって 説上京する時の餞宴歌五交、一は、巻六の突五、突八にすぐ続くべき性質のもので、原資料たる大伴家の私家集 から切り外し、内容によって巻一二・四・六・八などに仕分けするのに、必ずしも厳密な方針を以てせず、多 解少の誤差を無視して大まかに配分したのであろう。 天平三年 ( 当一 ) 秋旅人が薨じた後、家持は叔母坂上郎女の庇護を受けて成長し、その娘の坂上大嬢と恋 かさのいらつめ 歌の贈答をするが、結婚の相手として意識する段階には至らず、彼自身の関心は他氏に向けられ、笠女郎・ てん ももよしよう
五我がやどに盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人も 巻 力、も 我が盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ薬食むともまたをちめ用からこの歌文のて先の人に対する作 者の謙譲の気持が窺われる。 一「梅花歌三十一一首」がまとめられた後 やも にさらに追加した歌。「和ふる歌」は贈歌 に対する答えの歌で、一般にもとの歌の 作者でない別人の作である。「追和」も概 して同じだが、この巻五に限り、もとの 歌と同じ作者が追加した歌をさすことが ある。旅人かその代作者としての憶良の 作と考えてよかろう。 残りたる雪に交じれるーこのマジル ついわ 後に梅の歌に追和する四首 は色や形などが似て紛らわしいもの どうしが一緒になること。〇雪は消ぬと 残りたる雪に交じれる梅の花早くな散りそ雪は消ぬとももーケは消ュの古形クの連用形。 雪の色を奪ひて咲けるーこのウ・ハフ は、漢詩に多い、相似た色の物を二 っ並べて対比し、一方が他からその色を さらい取ったかのようであるという表現 務いもんるいしゅう 雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも を模したもの。『芸文類聚』 ( 果部 ) の梁簡 文帝「梅花賦」の「機中ノ織素ヲ奪フ」など 例が多い。〇見む人もがもー誰でもよい から一緒に見てくれる人がないものか、 の意。ひとり寂しく見ている趣 散るべくなりぬ見む人もがもー旅人 の萩を詠んだ歌一五四一一の下一一句がこれ と同じであるのを理由に、この一連の歌 を旅人の作とみる説がある。 雲に飛ぶ薬食むよは都見ば賤しき我が身またをちぬべし わ わ さか みやこ いや くすりは あ け 851 850
0 天皇年号西暦 関連事項および作品 聖武神亀三七二六九月十五日播磨国印南野に行幸 ( 続紀には十月七日行幸とあり ) 、笠金村らの歌 ( 6 九三五 ) 。十月藤原 宇合知造難波宮事となる。 じゅとうりよう もといのおおきみ 四七二七正月諸王諸臣子等授刀寮に散禁される ( 6 九四八 ) 。五月甕原離宮に行幸。閏九月基王誕生。十月 ひろにわ だざいのそち 葉 阿倍広庭中納言となる。この前後に大伴旅人大宰帥となるか。十一月基王立太子。 いらつめ こた 萬 五七二八四月ごろ大伴旅人の妻郎女死去。六月二十三日旅人「凶問に報ふる歌」 ( 5 七九三 ) を作る。七月二十 ばんか こころかへ 一日山上憶良筑前国守として部内を視察中嘉摩郡において「日本挽歌」 ( 5 七九四 ) 、「惑へる情を反さ かしいの しむる歌」 ( 5 八〇〇 ) などを撰定する。九月基王薨。十一月旅人大宰府官人らと香椎宮を拝み、香椎 たる しように の浦で歌を作る ( 6 九五七 ) 。この年難波宮に行幸あり、笠金村歌中の歌 ( 6 九五〇 ) 。大宰少弐石川足 ひと たしひのあがたもり 人遷任 ( 4 五四九・ 6 九五五 ) 。同大弐丹比県守民部卿となって上京 ( 4 五五五 ) 。旅人吉野離宮を思 すきたの う歌 ( 6 九六〇 ) 、次田温泉で鶴が音を聞く歌 ( 6 九六一 ) などがある。 天平元七二九二月長屋王謀反の罪により自尽させらせる。多治比県守・大伴道足ら権参議となる。三月藤原武智麻呂 ぶにんこうみようし やまとごと 大納言となる。八月改元。藤原夫人 ( 光明子 ) を皇后の地位に進める。十月大伴旅人倭琴を藤原房前に 贈るに当って書簡と歌とを添える ( 5 八一〇 ) 。十一月房前これに返歌 ( 5 八一 (l) を贈る。 まつら 一一七三〇正月十三日梅花歌三十一一首が作られる ( 5 八一五 ) 。四月六日大伴旅人在京の吉田宜に梅花歌・松浦川 そう こまろ いなぎみ に遊ぶ序 ( 5 八五三 ) を含む書簡を贈る。六月旅人脚に瘡を生じ、庶弟稲公・甥胡麻呂を呼び寄せたが ひなもり 治癒し、嫡男家持ら駅使を夷守まで見送る ( 4 五六六 ) 。七月吉田宜、旅人に返書を贈る。九月大納言 多治比池 ~ はじ、十月旅人大納言となる。十一月坂上郎女大宰府出発 ( 6 九六一一 I) 。十二月旅人上京 ( 4 五六八・ 5 八七六・ 6 九六五 ) 。 くまごり 三七三一正月大伴旅人従一一位となる。六月十二日大伴君羆凝死 ( 5 八八四 ) 。七月二十五日旅人薨。八月藤原宇 かつらぎの 合・同麻呂・葛城王ら参議となる。九月藤原武智麻呂大宰帥を兼任。 せつどし 一一月中納言阿倍広庭薨。八月第九次遣唐使を任命。藤原房前・同宇合らを節度使として派遣 ( 4 六一一一 ・ 6 九七一 ) 。 五七三一一一正月県大養橘三千代薨。三月一日遣唐大使多治比広成、山上憶良を訪う。同三日憶良好去好来の歌を作 たしな る ( 5 八九四 ) 。四月遣唐使難波津を出発。六月憶良「老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦み、また こら ちんあしあいぶん 児等を思ふ歌」 ( 5 八九七 ) を作る。沈痾自哀文・沈痾の時の歌 ( 6 九七八 ) もこの前後に成るか。 かまぐん
あ 夜の夢にをーこのヲは意志や命令な 現実には逢うすべもありません ( ぬばたまの ) 夜の夢にずっと見えてくだ どを表す文中に用いられて強めを表 さい す助詞。〇見えこそ↓六一五 ( 君が枕は夢に 見えこそ ) 。 答えの歌一一首 一最初旅人に手紙を送った在京の某人 葉竜馬をわたしは探しましよう ( あをによし ) 奈良の都に来たいとおっしゃ が旅人の歌に答えた歌。合八は八 0 六を、八 0 九は八 0 七を受けている。 萬る方のため まくら 来む人のたにータはタメ ( 為 ) に同じ。 のり よすか じかに逢わずにいる年月も多く積りました ( しきたへの ) 枕を離れずあな 仏足石歌に「法のたの因縁となれり」 と。も一あ一る。 たの夢に見えましよう あらくも多くーアラクは動詞アリの おおとものたびと 2 大伴旅人の謹状 8 ク語法。この多クは、多いので、の きりわごん っしまゆいしやま 意。〇しきたへのー枕の枕詞。〇夢にし 桐の和琴一面対馬の結石山の小枝です 見えむー自分が相手のことを思うと相手 この琴が、夢に娘となって現れて言うことには、「わたしは、遠い島対馬の高の夢に現れる、という俗信によっていう。 きりかすみ ニタビトという音をタビ・トと分けて 山に根を下ろし、大空の美しい光に幹を照らさせていました。いつも霧や霞に 唐風に記したもの。東大寺に旅人所持の けんもっちょう とりまかれて、山や川のー 弓が献ぜられ、その献物帳に「大伴淡等」 と記されている。「淡」は漢音系の発音で は臼 m 、それをタビに借り用いた。 三「状」は友人親故間で交される書簡。 ふさざき この手紙は藤原房前に宛てたもの。房前 はこの時四十九歳、旅人より十六歳も若 いが、同じく正三位中納言であり、藤原 四子中最も温厚な人物として旅人は親し みを覚え、これに琴を贈り、以下の書簡 を添えたのであろう。 807
萬葉集 324 こけ 奥山の岩に苔が生えて近づきがたいように恐れ多くも仰せられることか 思いも寄らないのに おおとものみちたりすくねだざいのそちたびときよう 右は、勅使大伴道足宿禰を大宰帥の旅人卿の家でもてなした。この日集った ふじいのむらじひろなり 人々が、駅使の葛井連広成をそそのかして、歌を作れと言った。即座に広 成はその言葉に応じて、この歌を口ずさんだ。 おおとものさかのうえのいらつめ 十一月、大伴坂上郎女が、大宰帥の旅人卿の家を出発して帰途につい ちくんのくにむなかたぐんなごやま た時、筑前国宗像郡の名児山という名の山を越える際に作った歌一首 おおなむちすくなびこな 大汝と少彦名の神々が名付け始めたということだが名前だけ名児山と いってわたしの恋のつらさの千分の一もなぐさめてくれないことだ その坂上郎女が京に向って帰る海路で、浜の貝を見て作った歌一首 あの人に恋すると苦しい暇さえあったら拾って行こう恋忘れ貝を 奥山の岩に苔生しー第一二句のカシコ クを起す序。霊地の奇岩巨石を神聖 視することは古代信仰の一つの形態。〇 問ひたまふかもーこの問フは要求する意。 即興歌を作れと強要したことをいう。〇 思ひあへなくにー下二段アフは本来抵抗 する意だが、打消と結び付いて不可能を 表すことが多い。このナクニは倒置で、 問ヒタマフにかかっている。突然に歌を 作れと求められて困惑している気持を、 そのまま歌にしたもの。 ↓五六六題詞。 ニ養老三年 ( 七一九 ) 従六位下で遣新羅使 となり、天平三年 ( 七三一 ) 外従五位下。同 十五年新羅使来朝の際、その饗応とし て筑前に派遣され、また備後守に任じ、 従五位下を授けられた。一一十年散位従五 位上の時、その家に聖武天皇行幸あり、 広成夫妻は正五位上を授けられた。もと 白猪史氏で、渡来人系の出身であった しらいのふびと 962
萬葉集 64 て お り ま す さみまんい だざいのそちおおとものたびときよう 大宰帥大伴旅人卿が上京した後に、沙弥満誓が旅人卿に贈った歌一一首 あさゆう ( まそ鏡 ) 見飽きることのない君に残されて朝夕ずっと寂しく思いつづけ しらが ( ぬばたまの ) 黒髪が白髪に変ってもつらい思いに出会う時はあるもので だいなごん 大納言大伴旅人卿が唱和した歌一一首 一↓田三五一題詞。 つくし まそ鏡ー見ルの枕詞。〇後れてやー ここからだと筑紫はどちらの方角だろう白雲のたなびいている山の方角 後ルはあとに残る意。一人称に用い であろうか たヤ・ : ムは、こうも、することか、の意 くさかえ 草香江の人江で餌を捜す葦鶴ではないがああたづたづしいことだなじんで、詠嘆的疑問を表す語法。〇さびつつ 居らむーサプは、心が楽しまず荒れすさ だ友も居なくて んでゆく意の上二段動詞。 黒髪変はり白けてもーシラクは白く なること。『万葉集』では髪について いうが、中古以後は、興ざめな事態にな ることに用いた例が多い。満誓は「梅花 歌三十一一首」の中で「青柳梅との花を折り かざし」 ( 全一 ) と詠んでおり、カザスは髪 うはっ に挿す意であることからも、作者が有髪 の沙弥であったことが知られる。〇痛き 恋ー旅人を慕う気持をいう。 ここにありてーココは奈良の都の自 4 宅をさすのであろう。〇筑紫ゃいづ ちーイヅチは方角に関する疑問代名詞。 すね あしたづ しらくも 573 572
一死後の世界、黄泉の人口にある門。 あの世の門がいったん閉ざされて、また逢うすべもありません。ああ悲しいこ 0- CO 正倉院蔵の『杜家立成雑書要略』に「泉門 とです。 ヲ追想シ実ニ長夜ヲ愁フ」とある。 ニ愛欲の溺れやすいことを河にたとえ 集愛欲の川波は消えてしまって ( 妻は逝ってしまったが ) 、 んのう ていう。「波浪」も、煩悩の縁語的表現。 葉なおまた煩悩の海も渡り終えない ( この世の煩悩は尽きることがない ) 。 三「已」は次句の「亦」と呼応し、並立を えんり 萬 表す。 もとからこの穢土を厭離したいと思っていた、 じようど 四現実世界を苦に満ちた海にたとえた。 本願どおりにあの浄土に命を寄せたい。 五凝結定着することがない。 にんばんか 六この世を汚れた世界として厭い離れ 日本挽歌一首 した ること。原文「厭離穢土」は、清らかな安 つくし せいちょう 大君の遠い政庁として ( しらぬひ ) 筑紫の国に泣く子のように慕って来楽世界に生れることを願い求める意の ごんぐ ひといき られて一息さえ人れる間もなく年月もまだ経たぬうち死なれるなど心「欣求浄土」と共に仏語。「厭」の音はエン。 オンは慣用音。 あいだ にも思わない間にぐったりと臥してしまわれたので言うすべもするす七最初からの願いとして。 八極楽浄土。 べもわからず石や木に尋ねることもできない。家に居たら無事だったろう 九日本語の挽歌。以上の漢詩文に対し いた に恨めしい妻がこのわたしにどうしろという気なのかにお鳥のようにていう。作者憶良は旅人の妻の死を悼み、 ふたり 旅人の身になって作った。ただし、純粋 二人並んで夫婦の語らいをした心を裏切って家を離れて行ってしまわれた に旅人その人になりきっていないため、 故人に対して敬語的表現がなされている。 大君の遠の朝廷ー都から遠く離れた 天皇の行政官庁、またはそこに派遣 される官人をいう。ここは前者で、大宰 府の政治的重要性を特に強く意識した表 現。〇しらぬひ↓田三三六。〇慕ひ来まし てー旅人の妻が志願して旅人の筑紫下向 えど ふ い あ 794 おを
人からの全書簡が巻五に収録されているわけではなく、歌を含まないため憶良が除いたものもあろう。旅人 自身漢籍の素養の持主だが、おそらく漢文の運用にかけては憶良の才に及ばないことを知って、格別に文飾 集を凝らしたい時、彼に依頼したのではなかろうか。 やまと 葉 冒頭の「大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌ーや、在京の某人からの来書に答えた歌の前文、天平元年十月倭 萬 琴を藤原房前に贈った時に添えた「謹状」など、いずれも憶良が旅人の依嘱を受けて起草したとみてよいの りくちょう ではないか。「梅花の歌三十二首」の序も漢籍の語句を借り用いた文であり、「松浦川に遊ぶ序」にも六朝詞 ゅうせんくっ らくしんふ もんん 華集『文選』の「洛神賦」や唐代小説『遊仙窟』などの詞句がちりばめられている。一見したところ、いかに も旅人がその梅の園に大宰府管内の全官人を招いて飲宴を催し、彼らに呼びかけて落梅の歌を詠みたまえと にうかく 誘うがごとく見え、また「蓬客」と名のって松浦川に遊び、仙女たちに逢って『遊仙窟』まがいの体験をし たかのように記している。しかし、それぞれ脚注にも記したように、それらは多分に虚構性に富んだもので よしだのよろし あり、筑紫の風流かくこそあれ、と競い立っ心を都の吉田宜に示すための遊びであったのではなかろうか。 おも いた こきうおも ところが、吉田宜からの返書の内容から察すると、「古旧を懐ひて志を傷ましめ : : : 平生を憶ひて涙を落 とす」のような苦衷を訴える字句を有する書簡が添えられていたようである。ただ、そのような巻全体の諧 調を破る類の語は巻五の表面には残されていない。それは旅人自らの韜晦とも考えられるが、むしろ編纂者 としての憶良の配慮が働いたのではなかろうか。このように解釈することによってのみ、この巻五を一個の ちんかいせき 有機的文学作品と理解することが可能であろう。その署名がないことから鎮懐石の歌の作者が旅人か憶良か 疑問が持たれているが、目録に「山上臣憶良、鎮懐石を詠む歌一首」とあるのに照らすまでもなく、憶良で あることは確実である。 ごと とうかい いしよく