神亀 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)
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1. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

( 天雲の ) 遠くに見た時からずっとあなたに心も身も離れられなくなって 集しまいました 葉 今夜が早く明けたらなんともたまらないので秋の夜の百夜の長さを神に 萬 願ったことです えき たざいのしようにいしかわのたるひとあそん ちくぜんのくにあしき 神亀五年に、大宰少弐石川足人朝臣が転任したので、筑前国蘆城の駅で 送別の宴をした時の歌三首 天地の神も助けたまえ ( 草枕 ) 旅に出る君が家に着かれるまで ( 大船の ) 頼りに思っていた君が行ってしまわれたらわたしは恋しく思うこ あ とだろうなじかに逢う日まで うらわ やまとじ 大和道の島の浦曲に寄せる波のように絶え間もなかろうわたしの恋しく 思う気持は 550 549 反歌 心も身さヘー心はもちろんのこと、 肉体までも。〇寄りにしものをーヨ ルは物と物との接近を意味するのみなら ず、心の親近、帰依をも表す。このモノ ヲは詠嘆的終止形式としての用法。 すべをなみースペナシのミ語法。 「早く明けなば」という仮定条件を受 けて「すべなかるべみ」という方が合理的 なようにも思われるが、受ける語がスペ ナシのような形容詞である場合、ムやべ シのような推量の助動詞を必要としない。 一神亀五年 ( 七一一 0 。『続日本紀』には大 たびとだざいのそち 伴旅人が大宰帥となった記事がないが、 前年十月阿倍広庭が中納言になっている 橋てん のは旅人の転任による補填人事で、その 少し前に旅人は大宰帥に任命されたもの かという。以下、天平一一年冬に旅人が大 納言となって帰京し、翌年薨じた後も、 やかもちさめのうえのいらつめ その子家持や坂上郎女をはじめその周 547 548

2. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

かさのあそみかなむら 笠朝臣金村 たまほこ ゅ あまくも 三香の原旅の宿りに玉桙の道の行き逢ひに天雲の外の ことと 7 み見つつ言問はむよしのなければ心のみむせつつあるに ことよ あめっち ころもぞか 四天地の神一一一口寄せてしきたへの衣手交へて自妻と頼める 第 ももよ 」こよひ 今夜秋の夜の百夜の長さありこせぬかも ゅ あとふもと お せき - もり・ 我が背子が跡踏み求め追ひ行かば紀伊の関守い留めてむ 力も わせこ しものを いっちう みかのはらとつみやいぞま をとめ 二年乙丑の春三月、三香原の離宮に幸せる時に、娘子を得て 作る歌一首せて短歌 よ やど き あ おのづま とど よそ ↓五三七 ( 君いしなくは ) 。 一神亀二年 ( 七一一五 ) 。神亀四年五月に三 香原行幸があったことは『続日本紀』に記 されているが、二年春にも行幸したとい う記事は洩れている。山部赤人が概して 作歌の年紀を記さないのに対して、金村 は丹念にメモする習慣であったもののよ うである。↓九一一 0 題詞。 そうらく ニ京都府相楽郡加茂町、鹿背山丘陵の 東方に広がる盆地。「甕原」「瓶原」など とも書くことがある。十五年後の天平十 一一年冬ここに遷都し、久邇京が造営され るが、それ以前すでに離宮が造られ、元 明天皇は四回も行幸したことが『続日本 紀』に記されている。宮址は明らかでは つけじの ないが、鹿背山丘陵の北端法花寺野の辺 。かン」い - っ 0 道の行き逢ひにー道での巡り逢いで。 〇天雲のーヨソの枕詞。雲を手の届 かない遥かかなたのものとしてかけた。 〇外のみ見つつーヨソノミはヨソニノミ の意。ョソは遠く離れていて無縁なもの。 〇神言寄せてー神が縁を取り持って、の 意か。〇衣手交へてーこのカへはカハシ に同じ。〇ありこせぬかもーコセは下二 段に活用し、 、してくれる、の意の補助 動詞コスの未然形。ヌカモは希求。

3. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

萬葉集 292 右は、年月がわからない。ただし、歌が類似しているところからこの順序に ようろう 載せておく。或本には、養老七年五月に吉野の離宮に行幸された時の作だと いう。 やまべのすくわあかひと しようむ きいのくに 神亀元年十月五日、聖武天皇が紀伊国に行幸された時に、山部宿彌赤人 が作った歌一首と短歌 さいかの よろずよ ( やすみしし ) わが大君の万代の宮として造られた雑賀野の離宮からか しおひ なぎさ なたに見える沖の島の清い渚に風が吹くと白波が立ち騒ぎ潮が干ると たまっしまやま たまも 海人は玉藻を刈っている神代の昔からこうも貴いこの玉津島山は 反歌一一首 あらいそ 沖の島の荒磯の玉藻が潮が満ちて来て隠れてしまったら思いやられるこ とだろうなあ じんき しお 一九一五・九一六の或本の反歌一一首をさす。 ニ七二四年。養老八年二月に元正天皇 おびとのみこ は甥の首皇子 ( 聖武天皇 ) に譲位した。同 時に年号も神亀と改元された。 ↓五四三題詞。この行幸に笠金村は従 駕していない。 四↓田三一七題詞。 やすみししーワゴ大君の枕詞。語義 ・かかり方未詳。〇わご大君ーワガ 大君の転。聖武天皇をさす。赤人はワゴ : の形を用いることが多い。 0 常宮 ! 水 久に変らない御殿。〇仕へ奉れるーこの 仕へ奉ルは建物を築造することにいう。 しよくにんぎ 『続日本紀』には、この時天皇が現在権現 山と呼ぶ岡の東に離宮を造らせ、その造 離宮司らに禄を賜ったことが記されてい る。〇雑賀野ー和歌山市の南部、和歌浦 野の西北に接する岬地。有史以前は独立 ふきあザ した海島であったが、砂州 ( 吹上の浜 ) の 917

4. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

萬葉集 230 にちやじんせい 暮れには亀を放してやったとかいう故事のように、地方にあっても日夜仁政を一『晋書』孔愉伝に、孔愉が余小亭とい ぎようせきこうせい ちょうしようちょうこうかん う所を過ぎる時、捕えられていた亀を買 施され、漢の張敞や趙高漢のような立派な官吏としての業績を後世に長く残し、 い取り、放してやったところ、その徳で せきしようしおうしきよう 後年その地の亭長となった、とあるのに 仙人赤松子や王子喬のように千年の長寿を保たれますことです。 0 よる ばいえん わうと なおまたお見せいただいた、梅苑のかぐわしいばかりの宴席で、多くの歌人の ニ『文選』北山移文に「張趙ヲ住図ニ籠 んろく まつらがわ 方々が作られた歌、また松浦川玉島の淵での、仙女との贈答の作は、それぞれメ、卓魯ヲ前鱇ニ架ク」とあるのによる。 らくしんじようふ こうこうぜいが こうし 張は張敞、趙は趙高漢、共に漢代の良吏 きようだんかくげん 孔子とその弟子との杏壇各言の作にも似、また洛神の情賦に見える衡皐税駕の として有名。「架ク」は称揚するために記 作かと思うほどに結構でした。むさぼり読んだり吟じたりして、心から感謝し録に残す意。 三「松」は赤松子、「喬」は王子喬、共に 喜んでいる次第です。 著名な仙人。 四多くの文人たちが文章を綴られ。 私があなたをお慕いするまごころは、大や馬が主人を慕う心にも優り、あなた 五「玉」は美称。玉島の意もこめてある。 きかく の高徳を仰ぐ心は、葵蕾がいつも太陽の方を向いているのと同じです。しかし 六孔子が杏壇の上に休坐し、その側で あおうなばら つくし 弟子が読書していた、という『荘丘』漁父 筑紫と奈良との間には、腎海原が地を分ち、白雲が天を隔てています。むなし の記事による。「杏壇」は講義の演壇。 なぐさ こうやちょう くもひたすらお慕いしているばかりで、どのようにして苦しいお気持をお慰め七『論語』公冶長篇にある故事、孔子が なんち 側の顔淵・季路に向って「ナンゾ各爾ノ すればよいでしよう。今日は折から初秋七月七日の節句にあたりますが、伏し 志ヲ言ハザル」と言ったというのによる。 すもう ことりづかい てお願いすることは、日に日に多幸なられんことです。いま相撲の部領使に頼梅花の宴を孔子とその弟子の集りにたと えた。 んで、謹んで短いお手紙をことづけます。謹んで申し上げます。敬具。 八『文選』曹植の「洛神賦」に「鯤ヲ皐 諸人の梅花の歌に唱和する一首 ニ税ク」とあるのによる。「衡皐 - 」は「 ~ 衡 みそのう 皐」に同じく香草の生えた沢をいう。「税 お仲間に加われずに長い恋をするくらいならいっそ御園生の梅の花にでも 駕」は馬を車から離して休むこと。「税 ク」は解く意。「松浦川に遊ぶ序」が「洛神 なった方がましでございます どこ かめ こうゆ

5. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

295 巻第六 919 ~ 920 わか うら しみく かた あしへ 若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡るを記しており、ここもそのまま信ずべき ものと思われる。 しる たまっしまおみとも 右、年月を記さず。ただし、玉津島に従駕すと個ふ。因りて = ここもき七の題詞と同様、金沢本や 細井本などの冷泉本系諸本は、以下を別 ただしる 行とし、低く書いている。 今行幸の年月を検し注して載す。 み山もさやにー人麻呂の「笹の葉は み山もさやにさやげども」 ( 三 (l) によ ったものか。このミは、吉野離宮を貴び、 いっちう よしのとつみやいゼま それに従属する山に冠したと考えること 神亀二年乙丑の夏五月、吉野の離宮に幸す時に、笠朝臣金村 もできる。〇しば鳴くーシ・ハは、しばし ばの意。〇をちこちにしじにしあればー の作る歌一首せて短歌 ヲチは向こうの方、あちら、の意。コチ の対。シジニは、隙間もなくいつばいに、 にぎ の意。諸王臣が大勢旅宿し、都の賑わい あしひきのみ山もさやに落ち激っ吉野の川の川の瀬の をそのまま移したようであるところから ちどり 清きを見れば上辺には千島しば鳴く下辺にはかはづつま言ったのであろう。〇あやにともしみ↓ 九一三 ( あやにともしく ) 。このトモシは、 おみやひと 心引かれる、ゆかしい、の意。〇玉葛 ! 呼ぶももしきの大宮人もをちこちにしじにしあれば見 絶ュルコトナクの枕詞。タマは美称の接 たまかづら 頭語。蔓性植物の蔓が長く延び、切れに るごとにあやにともしみ玉葛絶ゆることなく万代にか くいことからかけた。〇かくしもがも↓ かしこ 合五。離宮の繁栄や、作者自身を含めた くしもがもと天地の神をそ祈る恐くあれども 諸王臣の安泰が、いつまでも続くように 願っていうのであろう。〇恐くあれども ー行幸に供奉する身でありながら、個人 はばか 的な事を神々に祈願することを憚り多い と思う気持からいう。 反歌二首 しんき あめっち かみへ いの たぎ の しもへ かさのあそみかなむら たづ よろづよ 920

6. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

かんしなしん しんき ちくぜんのこくしゅやまのうえのおくら 一七二八年。干支は戊辰。この巻五は、 神亀五年七月二十一日、筑前国守山上憶良献上します。 すべてこの種の年干支の記人を省略する。 心の迷いを直させる歌一首と序 ニ太陽暦の八月一二十日 三↓田六左注。憶良の筑前国守赴任は ある人がいて、父母を尊敬することは知っているが、孝養を尽すことを忘れ、 集 かろ はきもの ばいぞく神亀三年 ( 七一一六 ) か。この年六十九歳。巻 かばね 葉 妻子のことは考えないで、あたかも脱ぎ捨てた履物よりもこれを軽んじ、倍俗 五では憶良の署名は姓の「臣」を略してあ の 萬先生と自称している。盛んな意気は空の青雲の上にも上らんばかりだが、自分る。 しようこ ちり しようしゃ 四詩文の前書き。『万葉集』に八例あり、 自身は相変らず世の塵の中に居る。仏道修行を積んだ聖者というべき証拠もま そのうち七例が憶良の作と考えられる。 ごきよう さんたくなうめい 五世俗に背を向けた隠遁者。「倍」は背 だなく、山沢に亡命した民とでもいうべきか。そこで、三綱を示し、五教をさ く意。この「先生」は敬称だが、ここはや らに説くべく、こんな歌を贈り、その迷いを直させることにする。その歌といや皮肉をこめて用いた。 六「亡命」は「亡名」に同じく、名籍 ( 戸 うのは、 うしな 籍 ) を亡うこと。「亡命山沢」の語は「賊盗 繝父母を見れば尊いし妻子を見ればいとしくかわいい世の中はこうあっ律」謀叛の条に見え、課伎を忌避して人 気のない深山沼沢に逃れ、国司の召喚に てあたりまえもち鳥のように離れずにかかりあいたいものだ先はどうなる も応じない者は謀反の罪に当て、絞首刑 かわからないのだから。穴のあいた沓を脱ぎ捨てるように家族のきずなを振に処する、とある。 七君臣・父子・夫婦の道。 り切って行くという人は石や木から出て来た人なのかおまえの名を言い ハ「五常」とも。父は義、母は慈、兄は なさい。天へ行ったら勝手にすればよかろうが地上には日 友、弟は順、子は孝、という人間の実践 すべき五つの道をいう。「戸令」に国守の 任務を列挙し、その中の一つに、部内の 民衆に五教を説き聞かせるべきことが言 されている。 めぐしー見た目につらいほどにかわ いい。〇愛し↓六六一 ( 愛しき言尽くし せんせい たっと くっ こうよう さんこう

7. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

ふさざき よしだのよろし ふる歌」が巻頭にある。また旅人と藤原房前その他の在京人との贈歌があり、同じく都に居る吉田宜に「梅 まつらがは 花の歌一二十二首」および「松浦川に遊ぶ序」を贈ったのも旅人の名義であったろうことはまず疑いない。 集 しかし、ここで無視できない一つの顕著な事実は、この巻五が大別して前半と後半の二部に分れ、その前 まつらさよひめ おおとものきみくまごり 葉半は三島王の松浦佐用姫の歌に追和する歌 ( 〈〈『 ) まで、後半は麻田陽春の詠んだ大伴君熊凝の歌 ( 〈会 ) 以 萬 下と明瞭に区別できることである。そのとき、天平二年十二月の大伴旅人の上京の時期は三島王の歌の直前 せんしゅ に置かれた山上憶良の七首の餞酒の歌に当り、後半には翌三年七月に薨ずる旅人の歌も大伴家関係の歌もな をのこ い。後半はその麻田陽春の歌と巻末の「男子名を古日といふに恋ふる歌」とを除けばすべて山上憶良の歌文 である。この事実に着目すれば、前後一一部に共通して現れる唯一の人物である山上憶良を筆録者に擬するの が当然であろう。 この巻五の中に、山上憶良の自署とみるべきものが八個ある。逐一示せば次のとおりである。 神亀五年七月一一十一日、筑前国守山上憶良上る ( 七究左注 ) かまのこり 神亀五年七月一一十一日、嘉摩郡にして撰定す。筑前国守山上憶良 ( 八 9 左注 ) 天平一一年七月十一日、筑前国司山上憶良謹上す ( 全 0 左注 ) 天平一一年十一一月六日、筑前国司山上憶良謹上す ( 公一左注 ) くまごり 熊凝のためにその志を述ぶる歌に敬みて和する六首并せて序筑前国守山上憶良 ( 八八六題詞 ) とんしゅ 山上憶良頓首謹上す ( 兊三左注 ) ら たてまっ 天平五年三月一日に、良の宅にして対面し、献るは三日なり。山上憶良 ( 八突左注 ) ぢんあじあいぶん 沈痾自哀文山上憶良の作 つつし たてまっ ふるひ

8. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

おほぶね ただあ 7 大船の思ひ頼みし君が去なば我は恋ひむな直に逢ふま 四でに 第 巻 ももよ こよひ 今夜の早く明けなばすべをなみ秋の百夜を願ひつるかも 四 ぼしんださいのせうにいしかはのたるひとあそみせんにん つくしのみちのくちあしき 五年戊辰、大宰少弐石川足人朝臣遷任し、筑前国の蘆城の はゆまうまやせん 駅家に餞する歌三首 くさまくら あめっち 天地の神も助けよ草枕旅行く君が家に至るまで あれ 辺の大伴氏関係の歌が六一一 0 まで続く。 反歌 ニ大宰府の次席次官。従五位下相当官。 あまくも よそ わぎもこ 天雲の外に見しより我妹子に心も身さ ( 寄りにしものを定員二名。 三和銅四年 ( 七二 ) 従五位下。神亀元年 従五位上。ここに「石川足人朝臣」と氏名 姓順に記されているのは私的敬称。巻六、 五・九五六で旅人と贈答しているのも、同 じ遷任の宴での応酬であったのかもしれ ない。 ちくしのあしき 四福岡県筑紫野市阿志岐。大宰府址の 東南約四じの地。大宰府の官人たちは しばしばここで遊宴を催した。 五駅路にあって公用で往来する者のた めに馬を用意し、宿を設けた所。蘆城は 筑後・肥後方面に赴く最初の駅家。 六送別の宴を設けること。 9 神も助けよーこの石川足人朝臣が無 事に帰京できるように神も守り助け たまえ。〇家ー石川足人の奈良の家をさ す。 0 大船のー思ヒ頼ムの枕詞。〇恋ひむ なーナは感動の終助詞。↓と八。〇 直に逢ふまでにー作者も帰京し奈良で再 会するその日まで。 島の浦廻に寄する波ーシ「は水に面 した地形を、水上から望み見ていう あひだ うらみ やまとち 大和道の島の浦廻に寄する波間もなけむ我が恋ひまくはことが多い。以上、間モ無シを起す序。 よ い いへ あ ねが

9. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

萬葉集 178 しんき 一あらゆる生物を総称する仏語。胎生 神亀五年六月二十三日 ししよう ( 哺乳類 ) ・卵生 ( 鳥類 ) ・湿生 ( 魚・亀・ けー」よう 聞くところによれば、四生の生死は夢が全くはかないのと同じであり、三界の 蛙など水中に発生する動物 ) ・化生 ( 変態 ゆいまだいしうじよう りんねうぞわ 輪廻は腕輪の終りがないのと同じだと申します。それで、かの維摩大士も方丈する昆虫類 ) の四種の生成形式の差によ きよしつ しやかによらいさらそうじゅ って分類する。以下対句を頻用している。 りんね の居室で病気の苦しみを持たれたし、釈迦如来も娑羅双樹の林で死滅の苦しみ 一一一切の衆生の生死輪廻を繰り返す三 せいじん まぬか から免れなかった、ということです。このような無上の二人の聖人でさえ、忍つの世界、欲界 ( 欲の盛んな現世 ) ・色界 ましゅ しに ( 欲界の上にあるがなお物質・肉体に執 び寄る死の魔手を払いのけることができないのだし、この三千世界で、誰が死 着する世界 ) ・無色界 ( 物質の束縛を脱し がみ て精神だけが存在する世界 ) をいう。 神の追及から逃れることができようか、ということを知りました。昼夜の二つ きっ きそ 三維摩詰。↓二七三ー注一 0 。 の時がその速さを競い、あたかも眼前を通過する鳥が朝飛ぶようにすばやく時 四 ↓二七三ー注二。 五 ↓二七二一ー。「能仁」は釈迦の漢訳名。 が過ぎ、また四大から成る人の身はそれらの要素が互いに侵し合い、あたかも 六 ↓二七三ー注一四。 こま あわ 戸の隙間を走り過ぎる駒がタ方に逃げ走るように慌ただしく消滅してゆきます。七死のこと。涅槃に同じ。 そうしだいそうし びなうさんしゅうふどう 八『荘子』大宗師篇の寓話、舟を奪われ ああ痛ましいことです。うるわしい美貌も三従の婦道と共に永遠に消え去り、 ないように谷間に隠していても、夜中に しとく 白い肌も四徳の婦道と共に永久に滅びてしまいました。思いも寄らなかったこ力の強い者が負って持って行くかもしれ かいろうちか なか やもめどり ないのに、愚か者は気づかない、という とです、夫婦偕老の誓いもむなしく、寡鳥のように人生の路の半ばにして連れ のによる。死の逃れがたいことのたとえ。 さび 合いにはぐれて生きようとは。かぐわしい閨には屏風だけが淋しく張られて、 だんちょう めいきよう 一 0 日月または昼夜を白黒二匹の鼠にた あわ 断腸の悲しみはますますせつなく、枕もとには明鏡がいたずらに掛かっている とえ、その慌ただしく過ぎ行くことをい あふ ばかりで、嘆きの涙は溢れ落ちて来ます。 一一目の前を過ぎる鳥。時間の経過の瞬 時であることのたとえ。 一ニ万物は地水火風の四大 ( 四つの元素 ) しだい ねや びようぶ おか さんがい

10. 完訳日本の古典 第3巻 萬葉集(二)

37 巻第四 529 ~ 530 あ いらつめさ椴のだいなごんのまへつきみむすめ いっんづみのみこ 右、郎女は佐保大納言卿の女なり。はじめ一品穂積皇子にう趣であろう。 ◆五・七・七・五・七・七のいわゆる旋 どうか とつうつくしび 嫁ぎ、寵をかがふること類ひなし。しかくして皇子薨ぜし頭歌体の歌。『万葉集』の中に旋頭歌は六 十二首あり、その大半は作者不明で民謡 ふぢはらのまろまへつきみ つまど 的内容のものが多い。この歌も野趣に富 後時に、藤原麻呂大夫、郎女を娉ふ。郎女、坂上の里に家居 む虚構的対詠であろう。 やからなづさかのうへのいらつめ 0 第四十五代聖武天皇。文賦皇の皇 す。仍りて族氏号けて坂上郎女といふ。 子。母は藤原不比等の娘宮子夫人。大宝 元年 ( 七 0 一 ) 生れ。神亀元年 ( 七一一四 ) に即位。 この巻の五四三以下がその天皇代に当り、 この歌は正確には皇太子時代の作である。 また大伴坂上郎女の歌一首 五志貴皇子の娘。養老七年 ( 七一一三 ) 従四 位下。翌神亀元年従三位に進んだ。「海 しば きた さほがは 佐保川の岸のつかさの柴な刈りそねありつつも春し来ら上王」とも記す。 赤駒の越ゆる馬柵のー赤駒は栗毛の 5 牡の乗用馬。馬柵は馬が逃げ出さな ば立ち隠るがね いように作った柵。この歌に「越ゆる」と 詠んだのは、気の荒い牡馬は柵を飛び越 えることもあるが、手飼いの愛馬 ( 牝 ) は 低い柵でも越えようとしない、という気 持からか。以上、標結フの比喩の序。〇 標結ひしー標結フは異性を独占すること なり の比喩的常套表現。 うませ しめゅ いも うたが 六古歌の風を模した創作歌、の意か 赤駒の越ゆる馬柵の標結ひし妹が心は疑ひもなし 奈良朝になって、それ以前の飛鳥・白鳳 期の歌風に対する齪の傾向が一部に生 あ 右、今案ふるに、この歌は擬古の作なり。ただし、時の当たじたのであろう。↓一 0 二題詞。 すめらみことうなかみのおきみたまみうた ならのみやあまつひつぎしらしめ 天皇、海上女王に賜ふ御歌一首寧楽宮に即位したまふ天皇 かむが こう いへゐ