萬葉集 294 あしべ ひがた わかうら 若の浦に潮が満ちて来ると干潟がなくなり葦辺をさして鶴が鳴き渡る たまっしま 右は、年月の記載がない。ただし、玉津島の行幸にお供したとある。それで 今、行幸の年月を調べて記し載せた。 しようむ 神亀一一年五月、聖武天皇が吉野の離宮に行幸された時に、笠朝臣金村が 作った歌一首と短歌 叨 ( あしひきの ) 山もすがすがしくたぎり落ちる吉野の川の清らかな川瀬 かわず 若の浦ー和歌浦。この行幸の時、聖 を見ると上流では千鳥がしきりに鳴き下流では蛙が妻を呼んでいる 9 武天皇はその風光を賞美し、従来の おおみやびと ( ももしきの ) 大宮人もあちこちに大勢伺候しているので見るたびにむ弱の浜」の名を改めて「明茫の浦」とせよ よろずよ と命じた。〇潟をなみーナミはナシのミ しように素晴しく思われて ( 玉葛 ) 絶えることなく万代にこうあってほし 語法。ミ語法は本来、スペナガルなど当 いと天地の神々に祈る恐れ多いことだが 時もあった接尾語ガルの連用形と意味が 近く、ここも、鶴が満ち潮のため干潟が 反歌一一首 なくなったのをつらがって、のような気 持で用いたもの。 やこの赤人の従駕歌も、「神代より然そ 貴き」のような辞句は混じるが、主眼は 叙景にあり、天皇讃美の気持はほとんど 表面化されていない。 一山部赤人が行幸供奉の際に詠んだ歌 には、年月の記載を欠いたものが多い。 ニ七二五年。ただし、この行幸のこと は『続日本紀』に見えない。笠金村は同年 みかのはら 三月三香原行幸の時の歌 ( 五四六 ) にも年紀 じんき しこう かさのあそんかなむら ぐぶ
和銅元七〇八正月武蔵国より和銅を献上したことにより改元。一一月平城新都造営の詔を発布。 三七一〇三月平城遷都。 とぶひ いこま かすが 五七一一一正月河内国高安の烽を廃し、生駒山の高見の烽および春日の烽を新設。古事記成る。 みかのはら 六七一三六月甕原離宮に行幸。 うるう よろし 七七一四正月山上憶良・吉田宜ら従五位下となる。閏二月甕原離宮に行幸。五月大伴安麻呂薨。六月首皇子 ( 聖武 ) 立太子。 れいき しきの づみの 元正霊亀元七一五正月穂積皇子一品となる。七月穂積皇子薨。八月霊亀を献ずる者あり。九月天皇即位し、改元。志貴皇 子薨 ( 続紀には翌年八月薨とあり ) 。 うまかい きびのまきび 一一七一六八月第八次遣唐使任命、藤原宇合副使となる。阿倍仲麻呂・吉備真備・僧玄昉らこれに随行する ( 出発 は翌年三月 ) 。 たどやま 養老元七一七九月天皇美濃国に行幸。同国多度山の美泉の効験により養老と改元。国守笠麻呂に従四位上を授ける。 がんごうじ やかもち 一一七一八九月元興寺を新京に移す。この年養老律令を撰定する。家持の誕生、この年か。 あんさっし かど・ヘのおおきみ 三七一九七月伊勢国守門部王、伊賀・志摩の按察使に、常陸国守藤原宇合、安房・上総・下総の按察使に、備 すくなまろ 後国守大伴宿奈麻呂、安芸・周防の按察使となる。 ふびと 四七二〇三月大伴旅人征隼人持節大将軍となる。八月藤原不比等薨。 あがた ながやの 五七二一正月長屋王従二位右大臣となる。藤原宇合正四位上となる。このころ常陸国守離任か ( 4 五二一 ) 。県 いぬかいたちばなのみちょ 大養橘三千代正三位となる。佐な王・山上憶良ら退朝後東宮の侍に任ぜられる。五月笠麻呂出家し沙 みまんぜい 弥満誓と号する。六月藤原麻呂左右京大夫となる。十二月元明太上天皇崩御。 六七二二正月穂積老、天皇を批判した罪により佐渡に流される。 表 七七二三二月満誓造筑紫観世音寺別当となる。五月吉野離宮に行幸あり、笠金村らの歌 ( 6 九〇七 ) 。 年 ふさざき 第聖武神亀元七二四二月聖武天皇即位。改元。長屋王正一一位左大臣に、大伴旅人・藤原房前正三位となる。三月吉野離宮に あかひと かさのかなむら とうんのようしゅんあさだのむらし 行幸。正月答本陽春、麻田連と改姓。十月紀伊国に行幸あり、笠金村・山部赤人の歌 ( 4 五四三・ 6 関 はまなり やかみのうねめ 九一七 ) 。この年安貴王、八上采女を娶って本郷に退去させられ、八上采女、藤原麻呂の子浜成を生む 葉 ( 4 五三四 ) 。 萬 みかのはら 一一七二五三月三香原離宮に行幸あり、笠金村の歌 ( 4 五四六 ) 。五月吉野離宮に行幸あり、笠金村らの歌 ( 6 九 二〇 ) 。十月難波宮に行幸あり、金村らの歌 ( 6 九二八 ) 。この年山上憶良「倭文たまき」 ( 5 九〇三 ) の 歌を作る。 んなう おびとのみこ
萬葉集 286 雑歌 一七二三年。 みやたき ニ奈良県吉野郡吉野町宮滝にあった離 ようろう げんしよう よしのりきゅうぎようこう てんむじとう 養老七年五月、元正天皇が吉野の離宮に行幸された時に、笠朝臣金村が 宮。天武・持統の両天皇が行幸し、柿本 人麻呂ら多くの万葉歌人たちがこの地で 作った歌一首と短歌 歌を詠んだ。この行幸は元正天皇の養老 おしイ みふね 滝のほとりの三船の山にみずみずしい枝を広げていつばいに生い茂ってい七年五月五日 ( 太陽暦六月十六日 ) 出発、 れいい るとがの木の名のようにつぎつぎ重ねて万代にこうして行幸され宮居な十三日帰京。 ↓五四三題詞。細井本などの泉本系 あきづ みこころ さるであろうこのみ吉野の秋津の宮は神の御心ゆえ貴いのだろうか国諸本は以下改行し、前行より約一一字分低 く書かれている ( 金沢本も同形式 ) 。この 柄ゆえこうも見飽きないのだろうか山も川も清くすがすがしいので道理 高さは「車持朝臣千年作歌一首」も守り、 くるまもちのちとせ で神代以来ここに宮を定められたのであろう 九一三・九一四の車持千年の歌も同時の作であ ることが知 . られる。 7 三船の山ー三船山。宮滝の柴橋の上 流右手に見える山。高さ四七八。 比高約三〇〇。〇みづ枝さしーミヅ工 は光沢のある若い枝。このサスは、枝が 伸び広がる意。〇しじにー隙間もなく。 萬葉集巻第 , ハ ぞう かさのあそんかなむら
421 萬葉集関係略年表 六七三四正月藤原武智麻呂右大臣となる。三月難波宮に行幸あり、山部赤人らの歌 ( 6 九九七 ) 。十一月遣唐大 たねがしま 使多治比広成・吉備真備・僧玄昉ら種子島に漂着。 七七三五三月多治比広成人京。この年天然痘流行し、死者相次ぐ。 うたまいどころ 八七三六 六月吉野離宮に行幸。十一月葛城王ら臣籍に下り、橘氏の姓を賜わる ( 6 一〇〇九 ) 。十二月歌僻所の 宴歌 ( 6 一〇一一 ) 。 九七三七正月門部王の家の宴歌 ( 6 一〇二 (I)O 二月巨勢宿奈麻呂の家の宴歌 ( 6 一〇一六 ) 。四月坂上郎女逢坂 山を越え来る歌 ( 6 一〇一七 ) 。この年天然痘禍に死者続出し、藤原武智麻呂・同房前・同宇合・同麻 もろえ 呂・丹比県守・橘佐為らの高官相次いで薨ずる。九月橘諸兄大納言となる。 一〇七三八正月阿倍内親王 ( 孝謙 ) 立太子。橘諸兄正三位右大臣となる。八月諸兄家の宴歌 ( 6 一〇二四 ) 。この いそのかみの 年石上乙麻呂土佐国に配流 ( 6 一〇一九 ) ( 続紀には翌十一年三月二十八日配流とあり ) 。 たかまどの 一一七三九六月大伴家持の妾死。八月家持竹田庄に坂上郎女を訪う。この年天皇高円野に遊蝋、坂上郎女の歌あり ( 6 一〇二八 ) 。 一一一七四〇六月大赦。石上乙麻呂はその対象外。九月藤原広嗣謀反。十月一一十三日広嗣逮捕。同二十九日天皇関東 に行くと告げて離京。十一月一日広嗣斬刑。翌二日天皇河口行宮に着く。大伴家持の歌 ( 6 一〇二九 ) 。 あさけの 同二十三日天皇朝明行宮に到着。十二月十五日恭仁宮に着く。 おおやまとくにのおおみや 一三七四一閏三月五位以上の官人の平城京居住を禁ずる。十一月天皇宮号を「大養徳恭仁大宮」と定める。 しがらきの 一四七四一一八月天皇紫香楽宮に行幸し、その後頻繁に行幸あり。 くに 一五七四一一一五月橘諸兄従一位左大臣となる。八月十六日家持、久邇京讃歌 ( 6 一〇三七 ) を作る。十二月恭仁京造 営を中止。 いくじのおか 一六七四四正月安倍虫麻呂家の宴歌 ( 6 一〇四一 ) 。活道岡の宴飲歌 ( 6 一〇四一 I)O 閏正月十一日難波宮に行幸。 たかみくら あさかのみこ 同十三日安積親王急逝。一一月百官並びに庶民に首都の選択を計る。恭仁京から駅鈴や天皇印、高御座な どを取り寄せる。同二十四日天皇独り紫香楽宮に行幸。二十六日、左大臣橘諸兄、難波を皇都とするが 庶民は自由に居住住来してよい、との勅を代読する。七月天皇紫香楽より難波宮に還幸。 一七七四五正月大伴家持従五位下となる。五月一一日官人に首都の選択を計った結果、平城に決定。六日天皇恭仁京 に還幸。十日市人平城に大移動。十一日天皇平城に帰京。八月難波京に行幸。湍在中天皇重病となり、 一時危篤状態に陥ったが平癒し、九月平城京に帰る。 一八七四六閏七月家持越中国守となって赴任。 こせの ひろつぐ くにの
天平八年六月、吉野の離宮に行幸された時に、塒彌赭人が天皇の 仰せに答えて作った歌一首と短歌 集 ( やすみしし ) わが大君がお出ましになっている吉野の宮は山が高いので こうごう やまかわ 葉雲はたなびき川の流れが早いので瀬の音が清らかです山川それぞれ神々し 萬 くて見れば貴く宮にふさわしく見ればすがすがしいこの山がなくなっ たらこそこの川の流れが絶えたならこそ ( ももしきの ) 大宮所がなくな る時も・こざいましよう 反歌一首 一七三六年。 かよ ニ『続日本紀』には、六月二十七日 ( 太 神代の昔から吉野の宮にたびたび通って高々と宮殿を造っていらっしやる 陽暦八月四日 ) 吉野に幸し、七月十三日 やまかわ のは山川が良いからでございます に帰京した、とある。聖武天皇の即位直 いちはらのおおきみ 後は、吉野行幸も何回か行われたようで 市原王が独り子であることを悲しんだ歌一首 あるが、その行幸は久しぶりで、これが ものを言わぬ木にさえ妹と兄とがあるというのにたった独り子であるわ最後であったかもしれない。赤人の作品 としても、年代の明らかな最後の歌であ たしはつらい る。彼の歌は年紀の記載を欠くのが常で、 ここはその例外。 やすみしし↓九一七。〇我が大君ー原 文に「我大王」とあるが、ワゴオホキ ミと読むべきかもしれない。赤人の作で は、九一七・九一三・空六・空三で「和期大王」と 書かれており、九三八の「吾大王」とこの歌 の「我大王」とだけが例外である。これら 1 5
それと合わない。 ニ兵庫県加古郡および加古川・明石両 市の一帯。『続日本紀』には、この行幸の 時、明石・賀古一一郡の百姓で七十歳以上 の者に穀を与えた、とある。旧賀古郡の 西にあった印南郡 ( 高砂市の周辺一帯、 昭和五 -æ四年郡名消失 ) まで行幸は及ば なかったと考えられる。 名寸隅の船瀬ー船瀬は、船が風波を 避けて停泊する所。河川の河口を利 用したミナトに比して人工的な施設を具 え、公的な性格を帯びていた。名寸隅の 所在地は不明だが、『類聚三代格』や貞観 へいいん はりまのくにいなみの いぞま 九年 ( 会七 ) 三月の公文書に「魚住船瀬」と 三年丙寅の秋九月十五日に、播磨国の印南野に幸す時に、笠 あり、現在明石市西北部の海浜にある魚 あそみかなむら 住町がそれかという。〇松帆の浦ー兵庫 朝臣金村の作る歌一首剏せて短歌 県津名郡淡路町松帆。淡路島の北端。〇 たまも あはぢしままつほ なきすみ ふなせ 名寸隅の船瀬ゅ見ゆる淡路島松帆の浦に朝なぎに玉藻見に行かむよしのなければー行幸に供奉 する身の不自由をかこって言う。金村は もし あまをとめ この前年の三香原行幸の時、娘子を得て 刈りつつタなぎに藻塩焼きつつ海人娘子ありとは聞けど 一夜を共にした歌 ( 五四六 ) を詠んでいる。 〇たわやめ↓五四三。〇思ひたわみてータ 六見に行かむよしのなければますらをの心はなしにたわや ワムは、重みに耐えかねて曲る意だが、 巻 ここは心が屈することをいう。〇たもと めの思ひたわみてたもとほり我はそ恋ふる舟梶をなみ ほりータモトホルは、同じ所を行きっ戻 りつする意。ここは未練が残って足が前 に進まないことをいう。 反歌一首 かぢおと みけ 叫朝なぎに梶の音聞こゅ御食っ国野島の海人の舟にしある らし ふねな たふと 舟並めて仕へ奉るが貴き見れば つかまっ あれ のしまあま ふねかぢ ふね かさの
萬葉集 292 右は、年月がわからない。ただし、歌が類似しているところからこの順序に ようろう 載せておく。或本には、養老七年五月に吉野の離宮に行幸された時の作だと いう。 やまべのすくわあかひと しようむ きいのくに 神亀元年十月五日、聖武天皇が紀伊国に行幸された時に、山部宿彌赤人 が作った歌一首と短歌 さいかの よろずよ ( やすみしし ) わが大君の万代の宮として造られた雑賀野の離宮からか しおひ なぎさ なたに見える沖の島の清い渚に風が吹くと白波が立ち騒ぎ潮が干ると たまっしまやま たまも 海人は玉藻を刈っている神代の昔からこうも貴いこの玉津島山は 反歌一一首 あらいそ 沖の島の荒磯の玉藻が潮が満ちて来て隠れてしまったら思いやられるこ とだろうなあ じんき しお 一九一五・九一六の或本の反歌一一首をさす。 ニ七二四年。養老八年二月に元正天皇 おびとのみこ は甥の首皇子 ( 聖武天皇 ) に譲位した。同 時に年号も神亀と改元された。 ↓五四三題詞。この行幸に笠金村は従 駕していない。 四↓田三一七題詞。 やすみししーワゴ大君の枕詞。語義 ・かかり方未詳。〇わご大君ーワガ 大君の転。聖武天皇をさす。赤人はワゴ : の形を用いることが多い。 0 常宮 ! 水 久に変らない御殿。〇仕へ奉れるーこの 仕へ奉ルは建物を築造することにいう。 しよくにんぎ 『続日本紀』には、この時天皇が現在権現 山と呼ぶ岡の東に離宮を造らせ、その造 離宮司らに禄を賜ったことが記されてい る。〇雑賀野ー和歌山市の南部、和歌浦 野の西北に接する岬地。有史以前は独立 ふきあザ した海島であったが、砂州 ( 吹上の浜 ) の 917
ぐぶ かさのかなむら 巻六は雑歌のみの一巻であり、養老七年 ( 七一三 ) 吉野行幸供奉の笠金村の歌から始っている。巻一も雑歌 ながのみこ しきのみこ 集ばかりであり、その最後の歌が、霊亀元年 ( 七に相次いで薨ずる長皇子・志貴皇子の共に宴する歌であ 葉ることから、和銅六年 ( 七一三 ) か七年に詠まれたものと考えられ、巻六をそれの続編とする説があっても 不思議はない。内容面でも、両巻が宮廷和歌の収録に努めているという共通性を見出だそうとする向きもあ しかし、それでは巻一二の雑歌とこの両巻との関わりをどのように説明すべきか、という問題が起ろう。要 がんこう するに、この三部は形式面の多少の差を無視すれば、年代的に重複し雁行するというべく、それ以上の相互 関係についてはなお疑問点が多い。 せどうか 確かなのは、この巻が一六〇首 ( 長歌・短歌・旋頭歌を合せて ) あるうち、年紀を明記する一 0 四六以前の一三 九首と、年紀を記さない一 0 四七以下の二一首とに分けられることである。その前者をさらに九五四以前の行幸従 しえん ざっさん 駕歌を中心とする部分と、それ以下の行幸従駕・肆宴・叙景その他の雑纂部とに分ける説もある。その案は あるいは地域の上で平城京を中心とする中央から西辺の筑紫に転換したことを重視するかと思われるが、今 は強いてそれ以上に分ける必要はないと考え、量の上での偏りを考慮せず、全体二分説に従うことにする。 前半一 0 四六以前は、その年立が克明で整然としている点でこの前後にその例がない。すなわち、巻一・二・ 三・四にも部分的に、 しんちう おきすめらみこときのくにいぞま 大宝元年辛丑の秋九月、太上天皇、紀伊国に幸す時の歌釡四 ) じんいん みかはのくに 一一年壬寅、太上天皇、参河国に幸す時の歌 ( ) じゅう
天皇のお歌一首 かた ( 眛に恋ひ ) 吾の松原から見渡すと潮干の潟に鶴が鳴き渡る かわぐちかりみや みえぐん 右の一首は、今考えてみると、吾の松原は一二重郡にあって、河口の行宮から あさけ 葉 遠く離れている。あるいは、朝明の行宮にお出でになった時に作られた御製 萬 を、伝えた者が誤ったのではないか。 たじひのやぬしまひと 眛に恋ひー妻に逢いたくてわたしが 丹比屋主真人の歌一首 待っている、の意で、地名アガノ松 あとに残して来た人を思っては思泥の崎で木綿を取りしでて無事であっ原にかけた枕詞。聖武天皇が光明皇后と 逢うのは、恭仁 ( 久邇 ) 宮に到着した十二 てくれと念じることだ 月十五日より後。〇吾の松原ー所在未詳 右は、考えてみると、この行幸の際の作ではあるまい。そういう訳は、大夫だが、左注の記事から推して、三重県四 日市市の南から三重郡楠町にかけての海 ( 丹比屋主真人 ) は勅命で河口の行宮から都に帰らせ、行幸のお供をさせて岸のどこかであろうという。それによれ ば、河口の行宮から東北方に最小限四〇 はいない。どうして思泥の崎での歌を詠むことがあり得ようか キじは離れており、左注の疑問はもっと もである。 一現在の三重郡南部および四日市市の 地。 ニ『続日本紀』には、十一月十二日河口 いちし を出発し、一志郡、鈴鹿郡を経て二十三 日朝明郡に到着した、とある。朝明郡は 明治になって廃され三重郡に吸収された もので、現在の三重郡 ( 四日市市を含む ) の北部に当る。『万葉集』の記載に従えば、 一 0 三 0 の天皇の御製が河口の行幸での作の 1031 しおひ
かさのあそみかなむら 笠朝臣金村 たまほこ ゅ あまくも 三香の原旅の宿りに玉桙の道の行き逢ひに天雲の外の ことと 7 み見つつ言問はむよしのなければ心のみむせつつあるに ことよ あめっち ころもぞか 四天地の神一一一口寄せてしきたへの衣手交へて自妻と頼める 第 ももよ 」こよひ 今夜秋の夜の百夜の長さありこせぬかも ゅ あとふもと お せき - もり・ 我が背子が跡踏み求め追ひ行かば紀伊の関守い留めてむ 力も わせこ しものを いっちう みかのはらとつみやいぞま をとめ 二年乙丑の春三月、三香原の離宮に幸せる時に、娘子を得て 作る歌一首せて短歌 よ やど き あ おのづま とど よそ ↓五三七 ( 君いしなくは ) 。 一神亀二年 ( 七一一五 ) 。神亀四年五月に三 香原行幸があったことは『続日本紀』に記 されているが、二年春にも行幸したとい う記事は洩れている。山部赤人が概して 作歌の年紀を記さないのに対して、金村 は丹念にメモする習慣であったもののよ うである。↓九一一 0 題詞。 そうらく ニ京都府相楽郡加茂町、鹿背山丘陵の 東方に広がる盆地。「甕原」「瓶原」など とも書くことがある。十五年後の天平十 一一年冬ここに遷都し、久邇京が造営され るが、それ以前すでに離宮が造られ、元 明天皇は四回も行幸したことが『続日本 紀』に記されている。宮址は明らかでは つけじの ないが、鹿背山丘陵の北端法花寺野の辺 。かン」い - っ 0 道の行き逢ひにー道での巡り逢いで。 〇天雲のーヨソの枕詞。雲を手の届 かない遥かかなたのものとしてかけた。 〇外のみ見つつーヨソノミはヨソニノミ の意。ョソは遠く離れていて無縁なもの。 〇神言寄せてー神が縁を取り持って、の 意か。〇衣手交へてーこのカへはカハシ に同じ。〇ありこせぬかもーコセは下二 段に活用し、 、してくれる、の意の補助 動詞コスの未然形。ヌカモは希求。