459 巻第十六哀傷歌 やまひ なりひらのあそん 業平朝臣 病して弱くなりにける時よめる きのふけふ つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりし を 一最後には行かなければならない道。死 出の旅路。死。ニ「昨日今日」の下に「ゆ く道」が省略されていると見る。昨日や今日、 こんなに早く行かなければならない道である とは、今まで全く思わなかったことよ。 三今死ぬか、 一今の山梨県。ニ↓会四。 今死ぬかという病状になってしまったの で。四持って行って。「まかる」は謙譲の意 甲斐国にあひ知りて侍りける人とぶらはむとてまかり を添える。五使いの者に託して届けました みちなか 歌。「侍り」は丁寧表現。六ほんの一時の。 けるを、道中にてにはかに病をして、いまいまとなり かひち セ往き来する旅路。「甲斐路」 ( 甲斐国への道 の意 ) を詠み人れている。物名歌。八思って にければ、よみて「京にもてまかりて母に見せよ」と この地までやって来ました。「し」 ( 「き」の連 ありはらのしげはる 在原滋春体形 ) は「そーの結び。九今となっては、これ 言ひて、人につけて侍りける歌 が私の最後の旅であったのでした。「限りの 門出」は、死出の旅路への出発とも解するこ かりそめのゆきかひぢとぞ思ひこし今は限りの門出なりけり とがでを」る。 ひのくにニ やまひ かどぞ
四藤の花をよそよそしく見てすぐに帰るよう な人。五たとえ枝が折れようとも。 ↓四五。 ↓三三。三立ちもどって。 「波」の縁語。四通り過ぎることができ ないように。「かてに」↓七五。五人が見るの に藤の花の咲けりけるを、人のたちとまりて見ける だろうか。「らむーは、立ちどまっている人の 心理を推量している意を表す。 をよめる みつね 一今ごろは色あでやかに咲いているであ ろうか。「今も」の「も」は語気を強める機 わが宿にさける藤波立ちかへりすぎかてにのみ人の見るらむ能を持つ。「か」は「 : ・かと思う」「・ : かしら , と訳す ( あゆひ抄 ) 。ニ今の宇治市宇治川に あすか あった。奈良県高市郡明日香村橘にあったと もいう ( 契沖 ) 。「橘の小島の崎ーという山吹の 題しらず 読人しらず名所の地名であろう。 一原因・理由を表す。ニ色美しく映え たちばなこじま ること。三見飽きないことだが。「あ 川今もかも咲きにほふらむ橘の小島のさきの山吹の花 く」は、これで十分だと満足する意。「なく に」↓一九。四香りまで心にひかれる。「なっ かし」は、そのものに対して自然となっきた くなる、離れがたくなる気持を表す。 歌盟春雨ににほへる色もあかなくに香さへなっかし山吹の花 一わけもわからずに咲いてくれるな。 「あやなーは「あやなし」 ( ↓四一 ) の語幹。 第 「な : ・そ」↓一七。ニ過去の推量。男がともに 巻 山吹はあやなな咲きそ花見むと植ゑけむ君がこよひ来な植えたのは私と一緒に見るつもりだったのだ ろうと、女が推測する。三男を指す。四今 くに 夜は訪ねて来ないことだから。「なくに」↓一九。 はるさめ一ニ とに立ち寄りて、帰りけるによみておくりける 僧正遍照 よそに見て帰らむ人に藤の花はひまつはれよ枝は折るとも 四 やまぶき えだ 五 こ 121 120
一連体形で「今」を修飾。ニ問いかけを 表し、結びは「する」。三独身でいる人。 題しらず 読人しらず 四 四寝ることができなくなるであろうか。「か い 歌あきはぎの下葉色づく今よりやひとりある人の寝ねかてにすてにする」↓ 四 一鳴いて空を飛ぶ。「泣く」と掛詞。ニ 巻 2 涙が落ちたのだろうよ。「つ」は作為的・ 瞬間的な動作の完了を表す。ポトリと落ちた ふけ の意。「らむ」↓。三物思いに耽る人の家 鳴きわたる雁のなみだや落ちつらむ物思ふ宿の萩のうへの露の庭さき。「物思ふ」↓一四五。「宿」↓三『。 から 一「しがらむ」は、絡みつけること。鹿が 萩を足に絡みたおして戯れる様子。ニ 「して」ともいい、形容詞の連用形にもっく。 三体言止めの感動をこめた言い方。「さやけ これさだのみこのいへのうたあはせ 是貞親王家歌合によめる 藤原敏行朝臣きことよ」と同意。 ↓一兊。 ニ今の兵庫県高砂市・加古川 たかさご三 四 市付近。加古川の河口。和歌では高砂の 秋萩の花咲きにけり高砂のをのへの鹿は今や鳴くらむ おのえ 山・高砂の峰・高砂の尾上がしばしば詠まれ た。普通名詞と見る説もあるが固有名詞とと る。三山の峰つづきの意であるが、これも 加古川市に地名として残っている。四今は 昔あひ知りて侍りける人の、秋の野にあひて、物語し 鳴いているだろうよ。「らむ」↓一一。 一この「の」は「と」「に」と意味が通う。 けるついでによめる みつね 2 ニ以前の気持を忘れないのですね。主語 ふるえ は萩の花。「心」は「心をば」の意。↓八会・八全。 秋萩の古枝に咲ける花見ればもとの心は忘れざりけり ニおと三 ル秋萩をしがらみふせて鳴く鹿の目には見えずて音のさやけさ かり・ニ したば一
239 巻第九羇旅歌 みかはのくにやつはし り。三河国八橋といふ所にいたれりけるに、その川の 長く、だいたいこの形式であるのは、物語化 した『業平集』からとったためであろう。ニ カきつばた ちりゅう 今の愛知県知立市に属する。三『伊勢物語』 ほとりに、燕子花いとおもしろく咲けりけるを見て、 おとがわ には「その沢」とある。今の男川の南岸の低湿 いつもじ 地帯を指すのであろう。四アヤメ科の多年 木のかげにおりゐて、「かきつばた」といふ五文字を 生植物で沼沢に群生し、紫または白色の花を ありはらのなりひらのあそん 句のかしらにすゑて、旅の心をよまむとてよめる在原業平朝臣つける。奈良時代は「カキッハタ」。五各句 おり の初めに物名を一字ずつ置いて詠んだ歌を折 からころも Ⅷ唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしそ思という。 = 中国風の衣。また単に美しい 衣服。ここでは「唐衣きつつ」が「なれ」の序詞。 七衣が古びてくたくたになる意と、度々の経 験から親しくなる意の「馴れる」とをかける。 ^ 「妻」と「褄」 ( 着物の左右の両端。「衣」の縁 語 ) が掛詞。九遥かにの意で、「衣」の縁語の 「張る」にかける。 一今の東京都と埼玉県。ニ千葉県の一 4 部。三今は東京都内を流れ、東京都と 千葉県の境界は江戸川であるが、古くは隅田 川が武蔵・下総の境界であった。四思い悲 しんで。五物思いに耽ってぼんやり見つめ ていること。六「早し」の語幹で下の用言を 修飾する。セ何となく心細くなって。八都 に愛する人があながちいないわけでもなかっ た。「しも」の下に打消がある時は、「あなが ち : ・でもない」と訳す ( あゆひ抄 ) 。九そのよ うな時に。一 0 ・ : であっての意。 = 赤い鳥 、カ さしのくにしもっふさのくに すみだがは 武蔵国と下総国との中にある、隅田川のほとりにいた りて、都のいと恋しうおぼえければ、しばし川のほと りにおりゐて、「思ひやれば、かぎりなく遠くも来に 四 わたしもり六 けるかな」と思ひわびてながめをるに、渡守、「はや 舟に乗れ。日暮れぬ」と言ひければ、舟に乗りて渡ら きゃう むとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なく 一 0 はし しもあらず。さる折に、白き鳥の、嘴と足と赤き、 ・、 0
堀川の太政大臣 ( 藤原基経 ) が亡くなった時、深草 僧都勝延 山に遺骨を埋葬したあとで詠んだ歌 ぬけがら 1 はかないといわれる蝿でもその形見の脱殻を見れば慰め おとど 集 8 られるのだ。亡くなった大臣も、埋葬されないうちは亡 から 和骸を拝見して私の心を慰めたのである。葬られた今となっ 古ては深草山よ、せめて煙だけでも立ち上って、それを仰ぎ 見る私の慰めとなってくれ。 本来は悲しかるべき火葬の煙をもって慰めとしようと、 普通の心理の逆をいったのである。契沖は「をさむ」 という語 ( 題詞 ) を土葬することと解すれば、「せめて 火葬にして煙なりとも立て」の意になるという。 藤原敏行が死んだ時に、その人の家に詠んでやった 紀友則 3 ご主人のお姿が、寝ても夢に見え、寝ないでも幻に浮ん でまいります。けれどよく考えてみましたら、この現世 そのものが夢だったのです。 死者が見えるのは夢なのだろうかと一応は疑い、さら にそれに反省を加えて現世そのものが夢だということ に気がついたというので、仏教思想を巧みに形象化し ている。 親しい人が死んだので詠んだ歌 紀貫之 世の中はまさに夢以外の何物でもなかった。だのに、今 上野岑雄 度あの人に死なれるまでは、私はこの世に不滅の「現 深草の野辺の桜よ、もしお前に道理がわかるならば、今実」が存在するのだとばかり思っていた。 年だけは墨染の色に咲いておくれ。 「夢」「うつつ」という語が、ここでは虚無・実在のよ 埋葬に行った時に付近に桜が美しく咲いていたのであ うな意味に使われている。仏教思想の影響ではあるが、 ろう。桜に対して「今年は墨染色に咲けよ、それが道 巧みな表現の歌である。 理というものだ」と呼びかけた、古今風の理知的な歌 である。
読人知らず 1 いやどうして、人の調子がいいのは一一一口葉だけだ。現実の 7 心は月草で染めたようにはげやすいもので、表面と本心 集とは違うのだから。 和 以下三首、言葉と本心の違うことを嘆き、ひとたび心 今 を許した相手の不信を恐れる気持を主題とする歌を配 古 列する。 読人知らず 2 この世が偽りというものの存在しない世であったなら、 人がかけてくれる情けの言葉がすなおに聞けて、どれほ うれ ど嬉しく思うことであろう。 恋に関してだけではなく人間への不信の念を底に持っ ている歌。本集の「仮名序」 ( 一四 ( ー ) では道義的な歌 として引用され、中世以後もだいたいそのように解釈 されているようである。 読人知らず あの人の言葉を偽りだと思いはするものの、今となって、 粥誰の真実の言葉を私は頼みにできるのかしら。 素性法師 4 秋風が吹けば、山の木の葉は色が変る。私はそれを見る 7 につけ、人の心も木の葉と同様で、「どうかなーと不安 になってくる。 もみじ 紅葉を見た時に人の不信を感じたような歌で、配列に 関しては七一 0 番と類似のケースである。 紀友則 寛平御時后宮歌合の歌 5 蠅の声を聞くのは悲しいものだなあ。今は真夏であって 7 もいっかは秋になり、夏衣が薄く感じられるように、あ の人の熱い心も薄く冷たくなりはしまいかと思われるのだ から。 芭蕉の「やがて死ぬ気色は見えずせみの声」を思わせ る歌。歓喜に酔えない心をうたっている。 あなたを頼りにするほかないとも、誰も頼りにするこ とができないともとれる歌である。形の似た二首を意 識的に配列したようだが、問答歌とも見られる。契沖 は同じ人が二首詠んだものかという。 なつごろも
うたはたまき 一「絶えずーの比喩とも序詞ともとれる。 歌二十巻、名づけて古今和歌集といふ。 ニ「数多く」の比喩とも序詞ともとれる。 9 かくのたび集め撰ばれて、山下水の絶えず、浜の真砂の数多く積り三飛鳥川の淵瀬は変りやすいことの比喩と された。↓六全・空三等。 いは あすかがは 四 ↓三四三。「仮名序ー一五ハーにも。 穉ぬれば、今は、飛鳥川の瀬になる恨みも聞えず、さざれ石の巌となる 今 五「まろら」「われらーの誤写とも。「臣等」 古 をマクラと読むことがある ( 契沖 ) ともいうが 喜びのみぞあるべき。 明らかでない。「貫之ら」とする古写本もあり、 むな 「真名序ーには「臣等」とある。 9 それ、まくら、ことば、春の花匂ひすくなくして、空しき名のみ、 六「匂ひ」の枕詞。 七よ 秋の夜の長きをかこてれば、かつは人の耳に恐り、かつは歌の心に恥七「長き」の枕詞。 〈「立ち居」の序詞。 たゐ九 九「起き臥し」の序詞。 ぢ思へど、 3 たなびく雲の立ち居、鳴く鹿の起き臥しは、貫之らがこ ちんこう 一 0 陳鴻の『長恨歌伝』に「時移リ事去リ、楽 シミ尽キ悲シミ来タル」とある。 の世に同じく生れて、このことの時にあへるをなむ喜びぬる。 = 存続するでしようよ。「をや」は感動。 な 9 人麿亡くなりにたれど、歌の事とどまれるかな。たとひ時移り事一 = 「絶えすの序詞。 一三「散り失せずーの序詞。 をやぎ ていかかずら 去り、楽しび悲しびゆきかふとも、この歌の文字あるをや。青柳の糸一四定家葛ともいい、蔓草の一種 ( ↓一 0 七七 ) 。 ここでは「長く」の序詞。 かづら 一五あと 絶えず、松の葉の散り失せずして、まさきの葛長く伝はり、鳥の跡久一五「久しくとどまる」の序詞。「鳥の跡」は文 字を意味する ( ↓究六 ) ので『古今集』を暗示。 一六「ら」は完了の助動詞「り」の未然形。 しくとどまれらば、歌のさまを知り、ことの心を得たらむ人は、大空 宅この句に「古」「今」が隠されているが、 にしへあふ 前に「名づけて古今和歌集といふーとあるので の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも。 蛇足の感がある。「真名序」には「たとひ時移 り事去り」以下に相当する文章がない。 六 お ニまさご ふ
一今はもうこれ限りだといって。↓七全。 読人しらず ニわが家の庭さき。↓三三。三「偲ぶは、 しの 今はとて君が離れなばわが宿の花をばひとり見てや偲ばむ賞美する、遠くの人を思慕する。ここでは離 れた恋人を思い出の花を見ながら思い出すの である。「偲ぶ」 ( 四段 ) は平安時代になって 「忍ぶ ( こらえる意 ) 」 ( 上二段・四段 ) と混同 宗于朝臣されて使われた。↓実九。 一↓七奈。ニ自分を忘れた相手の心に生 し - も えた忘れ草に、枯れることを願っている 忘れ草枯れもやするとつれもなき人の心に霜は置かなむ のである。三↓夫今四あの人の心の中に 霜が置いてほしい。下に、・ : と私は願うの意 を補って解する。 くわんびやうのおんときびやうぶ 寛平御時、御屏風に歌書かせ給ひける時、よみて ↓一七七。ニ宇多天皇の勅命により、素 書きける 性が自分の歌を屏風に書いたのであろう。 素性法師 屏風歌はふつう絵が描かれている屏風に、詠 んだ和歌を色紙形に書いて貼りつける。三 忘れ草なにをか種と思ひしはつれなき人の心なりけり 何がその種であるかと思ったが、それは。 五 一「秋」と「厭き」、「稲」と「去ね」をかける。 歌 恋 題しらず 第一句は「いね ( 稲 ) 」の枕詞であるが複 兼芸法師 五 雑である。ニ・ : という言葉もかけないのに。 こと 第あきの田のいねてふ言もかけなくに何を憂しとか人のかるら「なくに」↓一〈。「かけ」は、稲掛けに掛ける意 巻 にかけるとする説も古くからある。三何が いやだといって。「憂し」と「牛」、稲掛けの意 む の「うし」をかけるという説もある。四「離 -4 ると「刈るは掛詞。 たね
ね 月夜には来ぬ人待たるかき曇り雨も降らなむわびつつも寝む 五 あきた けさはつかりね 歌一 恋植ゑていにし秋田刈るまで見え来ねば今朝初雁の音にぞなき 五 第ぬる 巻 -4 来ぬ人を待っ夕暮の秋風はいかに吹けばかわびしかるらむ 一来るはずがない。已然形についた「や」 読人しらず は反語。↓奕三。ニきっと・ : するにきま ひぐらし っているものの。・ : だのに。↓七一三。三夕暮 靦来めやとは思ふものから蜩の鳴くタ暮は立ち待たれつつ には。「はーは指示・強調。四自然と立った まま待たれてしまうのだが。「つつー↓三。 一今となっては ( もう来ないだろう ) 。 ころも 粥「し」は強意。 = 「わぶ」は悲嘆する。「も いましはとわびにしものをささがにの衣にかかり我を頼むる のを」は強い詠嘆。三蜘蛛の異名。四蜘蛛 が糸で下りてきて衣にとまったのであろう。 五恋人のことを私に頼みにさせることよ。 「今は来じと思ふものから忘れつつ待たるることのまだもやま「 ( 主語 ) の : 連体形」↓六。 一↓七七一一。ニ来まいと思ったことも忘れ て。ここの「つつ」は異なる二つの動作 ぬか ( 忘れることと待っこと ) が同時に進行する意。 三自然に待ってしまうことが今になってもや まないのか。「か」↓六四一。 一自発の助動詞。ニ「かき」は、一面に ・なる意の接頭語。気象の急な変化に使 う。三雨がぜひ降ってほしい。「も」は強意。 四がっかりして淋しく思いながら。 一田植をして去って行った稲を秋に刈る ころになるまで。時間の推移の具体的表 現。ニ訪ねて来ないから。三「音」の枕詞で あるが、雁の鳴いたのは実景であろう。 一どのように吹いているから。「か」の結 びは「らむ」。ニ心細く淋しいのだろう こ こ 五 、カ 775 776
読人知らず 2 本当に来るだろうかと思いはするものの、蜩が鳴きだす 7 夕暮になればしぜんに立ち上がり待ってしまうのだけれ 集 、ど、も。 歌 和 素朴な中にしみじみとした叙情味の漂う読人知らずら 今 しい歌である。以下、「待っ恋」の歌が続く。 古 読人知らず 3 今となってはもうだめだと悲観してしまったのにねえ。 7 だのに、待ち人の到来を知らせる蜘蛛が私の着物にとま って、まだ私に期待をもたせているわ。 一二 0 番・「仮名序古注」 ( 二〇ハー ) などで有名な古歌を 本歌とする。 読人知らず 4 今はもう来てくれまいと思いはするものの、すぐにその 「 / あきら 7 諦めを忘れて、待とうという気の起るのがまだやまない のだろうか 二首とも諦めの念が強いが、待ち人はその時偶然に来 なかっただけで、関係が長い間絶えているのではない ようである。待ち人が来ない時の、失望と期待との交 錯した心理を追求した歌がなお続いている。 ひぐらし 読人知らず 5 こんなにいい月夜だと来ない人がしぜんに待たれてくる。 7 空一面曇って雨がざあざあ降ってくれ。そしたら、私は 悲観しながら寝るとしよう。 内容も素朴、形式も完全な五七調の古体である。 読人知らず 6 あの人が植えたまま行ってしまった田の稲を刈る時にな ったが、あの時以来まったく来てくれない。私は今朝鳴 いた初雁のように泣いてしまった。 これも農村風の素朴な叙情詩であるが、景樹は、稲や 雁によって時日の経過をおもしろくいっただけであっ て、農村の恋歌と見るべきではないという。 読人知らず 7 来てくれない人を待っているタ暮時の秋風は、どういう 7 ふうに吹くから私を心細くさせるのだろうか。特に変っ た吹き方をしているのでもなかろうに。 しみじみと心に迫る寂しさを、平淡な調べで秋風に訴 えているような佳作である。