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検索対象: 完訳日本の古典 第9巻 古今和歌集
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1. 完訳日本の古典 第9巻 古今和歌集

読人知らず もざあざあと降って、着物の袖をびしょ濡れにしたとは、 7 東の空が明るく白々と明けるころになった。「さあ、一本当に情けなかった。 6 夜が過ぎた」と言って、めいめいの着物を着るのは悲し 「明けぬとて」と、同じ句ではじまる歌を意識的に二 集いことである。 首配列したものであろう。歌合に採られているが、本 きめぎぬ 和夜がしだいに明けて、別れを急がされる心理をうたっ 来は雨が降る中を帰った時の後朝の歌として、女性に 古 ているが、末句のわりには暗さが少ない。 贈られた歌であろう。親しい相手に贈った歌として、 その時の実景をとらえ、しかも適度のユーモアをまじ えたところは敏行の作風の一面。 題知らず 明け方になったら、別れをうながす鶏が鳴きはじめる前 に、私のほうが別れを惜しんで先に泣きだしてしまった。 女性の立場から暁の別れを悲しむ歌で、鶏が鳴きはじ めるのをびくびくしている女らしい気持がよく出てい る。 藤原国経 夜が明けたと思って、もう別れる時だという気になった だけで、なんとも言いようのない悲しい思いが別れる心 に重なってくるのはどうしたことなのだろう。 別れを悲しむ心を理知的に反省したものではあるが、 特色のある歌とはいえない。 寛平御時后宮歌合の歌 藤原敏行 夜が明けたというので、やむなく女性の家を出て帰途に ついたものの、折悪しく降りだした雨も、私の泣きの涙

2. 完訳日本の古典 第9巻 古今和歌集

読人知らず 7 逢坂の関の傍に湧き出る岩清水は何も語らない。私は何 5 も言わぬが花と、心に秘めているのだが、片時も忘れは 集しない。 和第三、四句の同音の繰返しを中心として、母音ではじ まる句が多く、流麗な調べの歌である。逢坂の語によ 古 って、前の歌に続けられた。 読人知らず 私の心は表面に浮草が茂り、その下で静まりかえってい 5 る淵なのかしら。だから、深い心の底を誰も知ってくれ ないのだよ。 と九番と同じ構文の歌。第一、二句の初めに同じ音の 語を揃えて調子を整えている。前の歌の水 ( 清水 ) の 縁で浮草の歌を配列したものか。 読人知らず 9 思いわずらった末は、大声で呼び続けるだろうが、それ 5 に山彦が答えない山はあるまいと、私は思う。しかし、 あの人だけは決して返事をしてくれない。 最後にはきっと返事があるはずだとも解せる歌だが、 この辺には絶望的な歌が配列される。『後撰集』九七 0 も 読人知らず むというものが人換えのできるものであってもらいたい。 そうしたら、あの人の心と人れ換えて、私の片思いがこ んなに苦しいのだと、知ってもらおう。 れっし へんしやく 第一、二句は『列子』湯問篇の扁鵲という名医が、人 の心を人れ換えたという説話に拠る。「片恋」という 語は『万葉集』二七・一一七突に見られる。 読人知らず 1 遠く離れて恋するのは苦しいものだ。人紐を通すように 二人が一つ心になって、さあ、結び合おうよ。 読人知らず 氷は春になれば消えて残らなくなるのだ。あなたの心も 残るところなく私にうちとけてもらいたい。 二首とも「忍ぶ恋」の歌と違い、不和になった相手と の和解を望む歌である。前の歌の「心に結ぶ」と、こ の歌の「心が解ける」とを対照させ、さらに五四一一番か らこの巻の終りまでを季節順に配列するために、やむ をえず異質の歌を人れたのであろう。 「返事せぬ人につかはしける」として載せる。 いれひも

3. 完訳日本の古典 第9巻 古今和歌集

六歌仙といわれる人たちは、第三期の人たちが宮廷和歌の建設という共同の目標に向って集団的な行動をと ったのに反して、政治権力とは無関係の小さなグループ活動をするのがせいぜいであった。 これたか きのありつね つねやす 例えば文徳天皇の第一皇子惟喬親王の周囲に集った在原業平・紀有常たち、常康親王が出家していた雲林 そせい 院に出人りした遍照・素性たちである。どちらの皇子も皇位に即けない、いわば不遇なかたであること、グ ループの構成員に血縁関係で結ばれる者が多いことなどの点で、双方に似たような特色がある。小野小町の にんみよう 伝記は明らかでないが、仁明天皇の後宮にいたとか、氏女 ( 諸氏から朝廷に出仕させた独身の女性 ) であったと かいう説もある。しかし、その贈答歌の相手はほとんどすべて中流以下の官僚で、彼女も業平や遍照と同様 に、煩わしい宮廷生活から離れたところで、のびのびと作歌を楽しんでいたようである。 彼らの作風はこのような九世紀後半の自由奔放な文学生活を反映した、内容・表現ともにからりとした明 るいものといえる。小町を除けば恋の歌が意外に少ない点で、また読人知らず歌の主たる修辞法だった枕 詞・序詞がほとんど使用されない点で、第一期には少数だった、作者の明らかな歌の系統に属するとみられ よう。 枕詞・序詞に代る新しい手法として、そのころから発達したのが縁語と掛詞である。また、当時の歌人は 説それぞれが個性的な歌を詠んでいたが、同じグループ内の人たちの歌風には似た点もあった。例えば遍照の ふるのいまみち 子の素性、またはその友人の布留今道らの軽妙皮肉な詠みロは、遍照の作から学んだのではないか。業平の 解場合は、彼と贈答をした有常や無名の女性たちとの掛詞を使った巧みな応酬は、やはり同じ作歌圏から生れ た歌であることを思わせる。 おおとものくろぬし 大友黒主も六歌仙の一人ではあるが、近江国に住んでいた豪族であったらしい。後世の『大和物語』や うじめ

4. 完訳日本の古典 第9巻 古今和歌集

四 ほたる タされば蛍よりけに燃ゆれども光見ねばや人のつれなき 歌 恋 しも ささ ころもぞ三 第笹の葉に置く霜よりもひとり寝るわが衣手ぞさえまさり 巻 ける 一前の歌と同じ歌合の歌。「住江」↓三六 0 。 第一・一一句は「よ ( 寄 ) る」の序詞。 = ( 昼 はいうまでもなく ) 夜までも。「や」は疑問の 助詞だが相手を問いただす意が強い。三夢 小野美材の中で相手に逢うための道。四人目 ( 他人 の目 ) を避けているのだろうか。 一八番と同じ歌合の歌。ニ奥山に隠れ わが恋はみ山がくれの草なれやしげさまされど知る人のなき て生えている草なのだろうか。「なれや」 しげ ↓一三五。三「草の繁さ」に「恋心の絶え間ない」 意がかけられる。四知ってくれる人がない ことだ。「人」は、奥山の草については一般の 人であるが、恋については相手の人。 一五番と同じ歌合の歌。「よひ」は日が 暮れて、暗くなり、夜に人ったころ。 一六六。ニ火をもとめて命を失う、はかなげな。 三↓五四四。四もっと迷っている。夏虫が灯火 に慕い寄ることを恋の迷いと同様なものと見 ている。五「も」は強意。↓四六九。 一五五八番と同じ歌合の歌。ニ時間・季節 が移り、来る意。三格別に。ひどく。 四胸の思いが燃えることを蛍の火にたとえた。 五光が見えないからなのか。胸に秘めた思い が蛍の光のように、とたとえた。 一五五八番と同じ歌合の歌。ニ私の着物の 袖。「ぞ」は、一つのことを特に強調する。 るいしゅうみようぎしよう 三いっそう冷えこむ。『類聚名義抄』では、 「冱・凍・寒」をサュとよむ。 すみのえ かよぢ四 住江の岸に寄る波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ きのとものり 紀友則 対よひの間もはかなく見ゆる夏虫にまどひまされる恋もするか な ま なみニ 四 四 をののよしき 563

5. 完訳日本の古典 第9巻 古今和歌集

寛平御時后宮歌合の歌 在原棟梁 はかま 0 ふじばかまが咲いたけれど、彼女の袴が秋風のためにほ 1 ころびたに相違ない。なぜならば、「綴れよ、刺せよ」 集といってこおろぎが鳴いているもの。 和 ふじばかまを袴と見立てることは当時の常識であるが、 それが咲いたのを風で破れたという点が誹諧と見られ 古 たのであろう。 明日が立春だといった日に、隣家の方から風が雪を 吹き込んできたのを見て、その隣家に詠んでやった 歌 清原深養父 1 冬だけれども春は近くまでーーーお隣さんまで来ているの 1 で、境の垣根を越して、白い花が散ってきました。 同じ作者の三三 0 番の焼直しであろう。どちらが先にで きたかは判然としないが、これが前の歌の。ハロディー 読人知らず であるところにおもしろみがありそうである。 4 人を恋する作法にも一定のきまりがあると聞いているが、 1 立っておろうが座っておろうがそんなきまりなど吹っと 題知らず 読人知らずんでしまった心地だよ。 たた すっかり古びた恋が神がかって祟りをしているのでは、 恋をしている人の一定の態度・ポーズ、求愛の作法な 私はおちおち眠れないよ。 どというものは、本集の恋の部に飽きるほど見られる 古い恋人の妄執を恐ろしい神にたとえ、それが自分に が、これはそういうしきたりをいくらかひやかした歌 つきまとって寝させないというのだろう。「神さびし である。 恋」の類句は『万葉集』 ( 一九一一七・一一四一七 ) にある。なお、 1022 読人知らず 3 枕元からも足もとからも恋が私に迫ってくるので、どう 1 にもこうにもしかたがなくて、寝床のちょうど中ごろで 小さくなっているのだ。 第二句の「恋」は、自分が人を恋する心の意と解する のが普通だが、 相手の執念と見て、それが前後から自 分に迫ってくると解するほうが、下の句との結びつき もよく、相手の執念に悩まされる歌を前の歌と二首な らべたことにもなる。ただし謡曲「松風」でも、相手 を慕う自分の心と解して引用している。 前の歌までが四季を題材としたもので、これ以下は恋 を題材としたものである。

6. 完訳日本の古典 第9巻 古今和歌集

からころも 辺君恋ふる涙しなくは唐衣胸のあたりは色燃えなまし 第 巻 たましひ から五 恋しきにわびて魂まどひなばむなしき骸の名にや残らむ 題しらず 四 みなわ 世とともにながれてぞ行く涙川冬もこほらぬ水泡なりけり わびぬればしひて忘れむと思へども夢といふものぞ人頼めな る 一五番と同じ歌合の歌。気落ちしてし まい、悲嘆にくれているので。ニ下の 句は会一一番に似ている。「人頼めは、人に期 待をもたせる、頼みにさせる意の名詞形。 一五五八番と同じ歌合の歌。「わりなくも」 5 は道理なくも、どうしようもなく。連用 読人しらず修飾語に「も」がつくと、それに続く句全体を 修飾する。ニ恋しいなあ ( どうしたのだろ ね う ) 。「か」は「かな」に通じる詠嘆の終助詞で、 わりなくも寝ても覚めても恋しきか心をいづちゃらば忘 「も・ : か」 ( ↓六五・当 ) の形が多い。用例は和歌 に集中する。三どちらへ。どこに。 れむ 一五五八番と同じ歌合の歌。ニ困惑して。 困りきって。悲嘆にくれる意にも解せる。 三魂が迷い出て体から抜けだしてしまったな から ら。心と身、魂と骸が対応する。四魂の抜 から なきがら けた亡骸が。「骸」は助詞の「からーの意を裏に 持ち、思う人に逢えないむなしい恋ゆえの、 の意にもなる。五名 ( 評判 ) として残ること きのつらゆき 紀貫之でしようよ。主語は第四句。 一現存の「寛平歌合」にない。ニ涙とい うものがないならば。「し」は指示。「な ↓四一 0 。四燃えるに違いない くは」↓一四。 よ。「まし」は反実仮想。 一いつまでも。ニ ↓四六六。三流れている 川だから冬も凍らない。四ここは水と 同じ。はかなく消える感じを表す語。「水泡と いふにたぎる勢ひあるなり」 ( 景樹 ) はいかが 四 四 ひとだの 569 571 573 572

7. 完訳日本の古典 第9巻 古今和歌集

志賀の山越えにて、石井のもとにてものいひける人の 歌 つらゆき 別れける折によめる むすぶ手のしづくににごる山の井のあかでも人に別れぬるか 巻 な ↓三突。ニ色の白い玉。真珠。涙をた 読人しらず 題しらず とえた。三別れた人の記念。四袖に包 あ かたみ四 んで別れて行くのです。「ぞーは、袖が涙で濡 飽かずして別るる袖の白玉を君が形見とつつみてぞゆく れていることを包むと見立てたことを強調す る。金子元臣は「大事に袖に包んで」と訳して いる。 一あなたをどこまでも思っている。ニ Ⅷ限りなく思ふ涙にそぼちぬる袖はかわかじ逢はむ日までに 「そぼっ」は、濡れる意。奈良時代は「ソ ホッ」。「ぬ」は動作・状態の自然的完了。三 この表現は『万葉集』巻十一一に多い。「までに」 かきくらしことは降らなむ春雨に濡れ衣着せて君をとどめむは「までは」と同意。 一空を真っ暗にして。ニ同じことなら 降ってもらいたい。「ことは」は「ことな らばーと同じ。「降らなむ」の主語は「春雨」。 しひてゆく人をとどめむ桜花いづれを道とまどふまで散れ = 無実の罪。「濡れ」は春雨の縁語。 一無理に別れて行こうという人を私は留 めよう。この歌は第一一句で意味が切れ、 第三句は桜への呼びかけである。ニ「いづれ をーは主語で、述語は「道ー ( 下に「なるか」が省 ↓二五。ニ清水を石で囲ったもの。 「山の井」に同じ。所在未詳。三「人に」 すく と同じ。↓二五・一一一九。四水を掬っている手。 第三句までが「あか」の序詞。五「あか ( 閼 なんご 伽 ) 」は、仏前に供える水。語源は梵語。「飽 かーと掛詞。山の井は浅くて濁りやすく、満 足に飲めないから不十分にの意。 はるさめぬぎぬ あ

8. 完訳日本の古典 第9巻 古今和歌集

「きれいな月だよ」と言って、凡河内躬恒が訪れた 時に詠んだ歌 紀貫之 あなたにちょっとだけお目にかかったけれども、しつく りしませんよ。この月の光と同じことで、あなたの行か 歌 和ない所はあるまいと思うとね。 夏の部の一四七番のほととぎすを月影に代えただけで同 古 じ発想の歌である。「ほととぎす」の歌は『伊勢物語』 では男女の贈答歌とされているが、これも恋歌として 通用する。 池に月影の映ったのを詠んだ歌 紀貫之 またとなく美しい月だから当然二つはないものと思った が、山上ではなくて水底に出る月があった。 水に映った桜や山吹を実物としてうたった歌 ( 四三・一一一四 ・四一一七 ) と同じ発想であるが、「二つないと思ったら、 もう一つあった」と、新しい趣向をつけ加えたところ に、貫之らしさがある。 881 読人知らず 3 まだ眺め足りないうちに月は山にはいってしまった。あ とに残された麓の連中は、山の向こう側をしきりに恋し がっている。 ひと晩じゅう、月に興じる構想によって配列された歌 はこれで終るが、月の出を待っ全七番と、月の人りを 惜しむこの歌との呼応は巧みである。 題知らず 読人知らず 2 天の川では雲の水流が速いので、月光が同じ所にとどま らず、月がどんどん流されていく。 動くのは天の川にかかっている雲であって月ではない が、見た目には月が動くように見えるのである。実際 の経験に基づく歌だが、このように表現がのびのびと して、景色を大づかみにした歌を、平安末期以後には としろ 「遠白しーと批評している。 ふもと

9. 完訳日本の古典 第9巻 古今和歌集

藤原時平私を何にたとえようかしら。 兊 0 番を本歌とする。長柄の橋の改修の事実が不明な 9 あなたが唐土の吉野山に籠ってしまおうとも、後に残さ あきら ので、「つくる」の解釈に問題がある ( ↓「仮名序」一 1 れて諦めてしまう私ではないよ。 集 六ハー注一四 ) 。「尽くる」ならば橋がなくなったからたと 『伊勢集』によれば作者が仲平と別れた時に彼女から 歌 和 えるものがなくなったの意となる。どちらにせよ、そ 贈った本集七合番に対する返しであり、作者に問題が れほどの老人とは思われない、この作者の泣き笑いの ある。誰の歌にしても、これが本心ではなく、相手を 古 歌である。 からかった調子である。 平中興 0 あなたは煙がいつも晴れない浅間山のようにあきれた人 だ。同じ手を切るなら、相手の心底を見きわめてからに すればいいのに。 八一七番の読人知らず歌と下の句が同じなのは、同じも のに対して別の上の句を付けてみたのかもしれない。 歌の詠まれた状況は明らかでない。 1051 伊勢 なにわながら 古い物の代表と思っていた難波の長柄の橋でさえ作り替 えるそうではないか。橋が新しくなったら、時代遅れの 読人知らず 2 私はまじめな人間だが、どこにいいところがあるのかね。 かや 1 山で刈る萱のように行いが乱れている人でも、別に不都 合もないよ。 心変り、浮気を非難する常識に対して反抗を示した歌。

10. 完訳日本の古典 第9巻 古今和歌集

古今和歌集 242 東国から都に上る時に、途中で詠んだ歌 乙 …山にかか 0 て、視線をさえぎる春霞に恨みを言 0 てやり たい。いったいどっちの方が都のあたりになるのだろう。 同じ帰京の途中ではあっても、これは前の歌と違い、 のどかな春の田園で詠まれた。帰心矢のごとしという わけであるが、内容も表現も素朴である。 北陸地方に下った時、白山を眺めて詠んだ歌 凡河内躬恒 こしの 4 あの山頂の雪が消えてなくなる時がないので、それで越 1 くに 4 国の白山という名前は、雪にちなんだものだったという ことがわかった。 高山の雪を仰ぎ見て、「あれが山の名前の起源だった のか」と、わざと感心してみせたのである。上の句か ら考えると、雪が夏まで残っていたものらしく、四一六 番の歌と同じ時の作ではないようである。 おと 東国に下った時、途中で詠んだ歌 紀貫之 5 道というものは、糸に縒り合せるための細い片糸ではな いのだが。しかし、この別れ道の細く感じられることは、 私の今の心細い気持と同様である。 心細さを糸にたとえたのは貫之らしい理知的技巧であ るが、同じ形式の三八一番よりはしみじみとした旅情が 出ている。鎌倉末期から評判が悪くなり、『徒然草』 第十四段でも当時の世評が知られるが、それほどまず い歌ではあるまい。 かいのくに 甲斐国に下った時に、途中で詠んだ歌 凡河内躬恒 6 晩秋の夜が寒くなって置かれる霜を払いのけ、路傍の草 4 を枕にして、幾晩もつらい旅寝をしたことだ。 「今度の旅行はいかがでしたか」と、人に問われでも した時に詠んだ歌であろう。