一一突番等の作者。ニ以前に親しくして 藤原忠房があひ知りて侍りける人の身まかりにける おりました人が。恋愛関係にあった女性 閑院であろう。三弔問に使いをやるといって。 時に、とぶらひに遣はすとてよめる 四あの人におくれて先立たないという悔しさ 昜 やち が。「さきだたぬ」の主語を宣長に従って作者 引さきだたぬ悔いの八千たびかなしきは流るる水の帰り来ぬな とする。五何千回も。「八」は数量の多い意。 十 ↓三四三。六流水が再び帰らないように、死者 第 巻 が帰らないからなのである。『論語』 ( 子罕 ) に 「子、川ノ上リニ在リテ日ク、逝ク者ハ斯ク ノ如キ力」とある。『万葉集』三六一一五にも「 : ・行く つらゆき水の帰らぬごとく : こと類想の歌がある。 一前の歌に同じ。ニ眠っているうちに。 この「が」は用言の連体形をうけ、形式的 みぶのただみね 壬生忠岑体言に続く用法。三見るものだけを夢とい おうか。「やは」は反語。四現実とは見ない。 寝るがうちに見るをのみやは夢といはむはかなき世をもうっすなわち夢を見るべきであるの意。 っとは見ず の身まかりにける時によめる 五 よど しがらみ ふち 瀬をせけば淵となりても淀みけり別れをとむる柵ぞなき 四 紀友則が身まかりにける時よめる あひ知れりける人の身まかりにける時によめる つか 四 かん ゐん 一忠岑の姉になるが、書陵部本・西本願 寺本『忠岑集』によれば「あひ知りたる人」 との離別の歌になる。ニ瀬 ( 浅く流れの速い 所 ) を堰きとめると。三淵となって水は淀む ものだ。四人の死別。五流れをせき止める ために杭を並べて打ち、竹や木の枝を横にか らませたもの。↓三 0 三。 835 837 しかん
て思ふ心を述ばへましあはれ昔へありきてふ人麿 0 「述ばふ、は繰り返し述べる。「ふ」は反復・ 継続の意。五「昔」と同じ。↓一六三。六勅撰 しも あま こそはうれしけれ身は下ながら言の葉を天っ空ま和歌集編集の帝の命令。セ先例にならえ。 「塵を継ぐ」↓「真名序」六〇五ハー。八塵のよ すゑ うな身分の低い我々。特に上の句の「塵」と同 で聞えあげ末の世までのあととなし今もおほせの じ語を繰り返した。「積もれる」は「塵」の縁語。 こと ちりつ くだれるは塵に継げとや塵の身に積もれる言を問はこの一節には、昔の帝は和歌によって臣下の 意見を聞いたという本集の序の思想が反映し わいなん るらむこれを思へばいにしへに薬けかせるけだものている。九中国の淮南王安が作った仙薬 を飲んだ鶏と大が昇天して天上で鳴いたとい なさけ う故事 ( 『神仙伝』 ) により、作者たちをこの動 の雲にほえけむここちしてちちの情もおもほえず 物にたとえたもの。なお「いにしへに薬けか まも ひとっ心ぞ誇らしきかくはあれども昭 ~ る光近き ~ 倒りせる」 ( 「けかす」はついばむ意か ) の二句は、 『忠岑集』によって補う。一 0 「照る光 ( 天皇 ) かた あざむ の身なりしを誰かは秋の来る方に欺きいでて御垣近き魲り」は近衛府の番長の役。 = 「秋の来 る方ーは西方 ( ↓一 ) 、ここでは近衛府から みかきもりをさをさ へも より外の重守る身の御垣守長々しくもおもほえずは西の方に当る右衛門府をいう。一 = 宮中の 垣根の外側を守る警護役、すなわち衛門府の 役人。一三「長々し」は、一団の統率者らしく、 九重のなかにては嵐の風も聞かざりき今は野山し 一五 立派なこと。一四宮廷の外郭警備の伎を誇張 うっせみ し、同時に以下で自分の悲しみを四季に託し 雑近ければ春は霞にたなびかれ夏は空蝿なき暮らし 九 て述べる伏線とする。一五「空蝿の」とあるべ しぐれ 十秋は時雨に袖を貸し冬は霜にぞ責めらるるかかるわき語法で、空嬋のように。一一五つの六倍、 巻 すなわち三十年。これは忠岑の宮廷出仕後の む 年数だろう。一七任官する前の私人としての びしき身ながらに積もれる年をしるせれば五つの六 年数。 つになりにけりこれに添はれるわたくしの老いの数 ここのかさね 四 の そ 一七 っ お つ六 一四 ひとまろ みかき
六 0 一一・六 0 九・六一一五・六一一八・八三五・八三六・八三九・八 延長四年 ( 九一一六 ) 正五位下、同六年丹波守。 一 00 四・一 0 三六 四一・八四三・九一七・九一一八・一 00 三・ 同九年没。四六三 かずえのかみ みやこのよしか みなもとのまさずみ 源当純右大臣正三位兼右近衛大将源都良香従五位下主計頭桑原貞継の子。 本名言道。承和元年 ( 八三四 ) 生。文章博士 能有の五男。延喜三年 ( 九 0 三 ) 少納言、同 にすすみ、貞観十五年従五位下、同十八 七年従五位上。一一一 みなもとのむねゆき 年越前権介を兼ね、侍従となる。元慶三 源宗于光孝天皇の孫で是忠親王の御 年 ( 全九 ) 二月二十五日、四十六歳で没。 子。寛平六年 ( 兊四 ) 正月従四位下、源姓 を賜わる。天慶二年 ( 九三九 ) 正四位下。同 文才に富み、『文徳実録』の編集に参加、 年没。一一四・一全・三五・六一一四・七八八・八 0 一 『都氏文集』に文章が収められている。 みはるのありすけ 御春有助延喜二年 ( 九 0 一 I) 左衛門権少志、 漢詩は『和漢朗詠集』『新撰朗詠集』等 に見ることができる。四六六 同十一一年権少尉。藤原敏行の家人で河内 みやぢのきよき うどねり 国の人という。六一一九・会三 宮道潔興昌泰元年 ( 八九八 ) 内舎人、延喜七 みぶのただみわ 年 ( 九 0 七 ) 貫之の後任として越前権少掾。九 壬生忠岑生没年未詳。従五位下安綱の子 六六 で、忠実の父。撰者の一人。「忠峯」と むねをかのお糲より も書く。和泉大将藤原定国の随身などを宗岳大頼算博士。伝末詳。五九一・九七九 ふしよう もののべのよしな 経て、延喜五年 ( 九 9 ) には右衛門の府生物部吉名伝未詳。九 であった。左近衛将監・御厨子所預・摂 津権大目などに任ぜられたらしいが、六 やたべのなざね 矢田部名実元慶八年 ( 四 ) 文章生、昌秦 位で身は卑しかった。延喜七年の大堰川 一一年 ( 八究 ) 大内記。同三年没。四四四 行幸に供奉して和歌を詠進、天慶八年 ( 九 よしみねのひゼをか 伝 四五 ) には、『和歌躰十種』 ( 『忠岑十躰』と良岑秀崇元慶三年 ( 全九 ) 文章生、寛平八 うきのかみ 年 ( 八突 ) 従五位下、伯耆守。三七九 者もいう ) を撰んでいるが、本書を彼の著 よしみねのむねさだ 作述とすることは疑わしいとする説もある。良岑宗貞↓遍照 ・一毛・一六三・一八三・一九四・一一一四・一一三五・一三 わ行 六・一一五八・一一六三・一一突・三 0 六・三毛・三大・三六一 をののこまち ・四一一五・四六一一・四大・五六六・六・究一一・六 0 一・ 小野小町六歌仙の一人。伝未詳。一一三・発 一一、五五四・発七・六一三・六三五・査六、六五八・七一一七 ・七全・七九七・八一三・九三八・九三九・一 0 三 0 ・二 0 四 をののこまちがあわ 小野小町姉伝未詳。七九 0 いわみのおおきみ をののさだき 小野貞樹石見王の子という。貞観二年 ( 八六 0 ) 肥後守。大三・九三七 をののしげかげ 小野滋蔭仁和四年 ( 八八八 ) 大蔵少丞、従五 かもんのかみ 位下、寛平五年 ( 八九三 ) 掃部頭。同八年没。 四三 0 をののたかむら 小野篁岑守の長男。延暦二一年 ( <OÜ) もんしようしよう 生。弘仁十一一年 ( 全一 ) 文章生、承和元年 ( 八三四 ) 遣唐副使に任ぜられたが、大使藤 原常嗣と争い、病と称して進発しなかっ たので隠岐国に流罪、同七年召還された。 仁寿二年 ( 会一 :) 左大弁、従三位。同年十 月二十二日没。五十一歳。漢詩集『野相 公集』、私家集『小野篁集』は散佚。野 相公と称され、漢詩人として有名。三三五 ・四 0 七・八一一九・会五・査六・突一 をののちふるがけは 小野千古母小野道風の娘。三交 をののはるか 小野春風昌泰元年 ( 八九八 ) 正五位下。武将 として有名であった。六五三・九六三 をののよしき 小野美材小野篁の孫、俊生 ( 後生とも ) の 子。文章生となり、寛平九年 ( 八九七 ) 大内 記従五位下、昌泰三年 ( 九 00 ) 信濃権介。 延喜一一年 ( 九 0 一 l) 没。一一一元・五六 0
読人知らず 5 どのくらい我慢できるだろうかと、私の忍耐力を試すっ 1 もりで逢わないでいてみたら、冗談などやってはおれな 集いぐらい恋しいものだ。 ただみねじってい しやしたい 和 こういう心理分析の歌を、『忠岑十躰』では写思体と 古呼んでいる。観察があまり細かくなると詩情がなくな 、誹諧歌と見られるようになる。 読人知らず 6 耳成山のくちなしの実を手に人れたいものだな。「思い」 1 とやらいう色を染める時の下染めにそれを使い、「耳無 し」「ロ無し」と、人に知れぬようにしよう。 これもその写実性によって、誹諧歌に人れられたもの であろう。 1027 紀有朋 「あひ見まくほし」という望みは星のように無数にある 1 のだが、それを実行するつき ( 手がかり ) がないので、 やみよ 読人知らず闇夜のように惑ってばかりいる。 山田のかかしさん、お前までが私をお嫁さんにしたいと 月と星とによる比喩は巧みである。闇夜に惑うという いうのね。ほんとに困ったわ。 ことが誹諧と感じられたのであろう。 作者は大勢から求婚され、よほど自信があった女性で がまん 紀乳母 8 富士山のいたずらに燃える火となって、私の思いも燃え 1 上がるなら燃え上がれ。その火が神様でも消せない火で あるように、私の思いはーー、・むだではあるがーーー誰にも押 えられはしないよ。 形が破格なので誹諧と考えられたのだろうが、情熱を 表現するのに適切な形式である。これ以下は、内容よ りも形式上で誹諧性が強い歌である。 あろう。本当のかかしまでが、求婚したとも解せるが、 どちらにせよ農村的な素朴な歌である。
古今和歌集 190 壬生忠岑 7 吉野山の白雪を踏みしめ、かき分けるように、仏の道を 求めていったあの人が、姿を見せるどころか、便りさえ もくれないとは、いったいどうしたわけなのだろう。 以下三首は冬を機縁として、遠く離れた人を思う歌で ある。吉野山に修行のために山籠りする人のあったこ とは、奈 0 ・空一・一 0 四九番でも知られる。この歌には、 深い雪に閉じ込められて、仏道修行に励む人を思いや る気持が率直な形で表現されている。 壬生忠岑 8 山里は白雪に閉じ込められたことであろうが、雪が消え てなくなりそうなうえに、そこに住んでいる人までも消 え人りそうな心細い思いで暮しているだろうよ。 雪の降ったところを見て詠んだ歌 凡河内躬恒 9 雪が降ったので、人っ子一人通わない道になったのだろ 3 うか。雪のためにあとはか ( 跡かた ) なくもあるが、そ の山里の人もまたあとはかなく ( 頼りなく ) 、雪の消える ように田 5 いも消えていることだろう。 二首とも同様の歌で、特に第五句が全く同じなのは、 撰者が意識して配列したものと思う。後の歌のほうが 技巧的であり、軽妙でもある。 雪が降っているのを見て詠んだ歌 清原深養父 冬なのに空から花が降ってくるよ。そうすると、雲の向 こうはもう春なのではなかろうか。 ただみねじってい 『忠岑十躰』ではこの歌を高情体 ( 気高い姿の歌 ) であ るというが、むしろ深養父らしい機知的な歌と見るべ きである。同じ作者に同じ趣向の歌 ( ↓一 0 一一 l) がある のは、詩想貧困の気味がある。 雪が木の枝に降りかかっていたのを詠んだ歌 紀貫之 すてが冬ごもりの時にまことに意外であるが、この雪 の降りようは、木の間からまるで花が散るようだ。 前の歌と同様に降る雪を落花に見立てた。こちらは少 量の雪でなく、水分をふくんだぼたん雪か。
そういう時には彼らとよく似た歌を詠んでいる。撰者たちによって磨き上げられたいわゆる古今調の影響力 には驚くほかはない。 とはいえ、半世紀にわたる「撰者時代ーを見渡せば、やはり歌風または彼らの活動状況にも変遷がある。 この時期を細分するならば、道真が大宰府に左遷される昌泰四年 ( 九 (1) までを宮廷和歌の形成期、宇多法 皇が『亭子院歌合』を催した延喜十三年 GIIII) までをその高潮期、その後の約三十年は惰性延長の時代と みられるが、それは貫之の土佐国在住という長い空白期間 ( 九三 0 、九三五 ) を中に置いて、前後の二期に分ける さなか こともできる。しかし、高潮期の最中に早くも友則が世を去り、忠岑の消息は不明、躬恒もさらに数年後に 死んだと、このごろの研究者は推測する。一人残った貫之の歌に張りがなくなるのは当然であるが、世をは かなみ、友を懐かしむ種類の地味な贈答・述懐の歌からは、佳作が探し出せるかもしれない。 『古今集』の撰者たちは、古今調を複雑で精巧なものに仕上げるとともに、これを見事に使いこなした名人 たちである。例えば、もみじの散るのを錦がほっれるのにたとえたりする見立ての手法は奈良時代の漢詩で りくちょう さかの も用いられ、その起源は中国の六朝時代の漢詩にまで遡るといわれる。それが貫之の歌 ( = 九七番 ) になると、 見る人のない奥山のもみじは暗夜に錦を着たようだと、奇抜な比喩をするが、しかもその比喩は中国の『史 じよこ、こば 説記』の故事を巧みに改作しているのである。読人知らず歌でしきりに用いられた序詞がふたたび流行するが、 この時期のはその一部にさらに枕詞が組み込まれたり、縁語・掛詞によって下の句としつかり結びつけられ 解たりするのは普通のことである。 漢詩文や万葉歌を取り入れるにしても巧妙さが加わったといえるが、前者にあっては平安初期の漢詩文が はくしもんじゅう りくちょうき 六朝期のそれを主として学んだのに反し、撰者時代の優美な和歌には『白氏文集』の影響が大きかったとみ だざいふ
『石山寺縁起』によれば、宇多法皇が石山寺に参詣なさった時に歌を献上したようであり、『古今集』には だいじようえふぞくうた 彼の作になる醍醐天皇即位の大嘗会の風俗歌が載せられる。どちらも十世紀初頭の作であるが、彼の年齢は 集七十歳を越えていたであろう。 歌 ゆきひら 和業平の兄の在原行平は若いころに業平と唱和したらしい歌も詠んでいるが、前に書いたように光孝天皇の 古 行幸に従って献詠したこともある。そのころは業平とそして恐らくは小町もすでに世を去っており、いわゆ る「六歌仙時代」ののびのびとした作歌環境はすでに消滅していたようである。光孝からさらに宇多の時代 になると、天皇の各地への行楽は平安初期のように盛んになり、皇室における男性中心の和歌が詠まれる機 会もしだいに多くなるのである。『古今集』の第二期の終りをいちおう遍照の没年によって区切ったけれど も、この期の最後の十年間ぐらいには歌壇に多少の変化が起ったとも、次の時期に移っていく新しい傾向が 現れたともいえるのである。 第三期宇多・醍醐・朱雀一二代のほぼ全期間にわたる寛平三年 ( 兊一 ) から天慶八年 ( 九 ) までとするが、 この時期の代表歌人である貫之の青年時代から七十三歳ぐらいで生涯を終るまでの期間でもある。主な歌人 これのり おきかぜ としては、『古今集』の撰者の友則・貫之・躬恒・忠岑の四人と藤原興風・坂上是則などがまず挙げられる。 彼らは宮廷関係の歌合や皇室・大貴族の屏風歌に歩調を合せて献詠することも多く、歌風はだいたい同傾向 てんじよう だったといえる。藤原敏行と遍照の子の素性とは、撰者たちよりやや年上である。敏行は身分としては殿上 びと 人クラスに属し、歌人として尊敬されていたようである。さらに女流歌人の伊勢は、若いころからその歌才 を知られていたらしいが、やがて宇多天皇に愛されて後宮和歌の発達に大きな役割を果した。素性と伊勢は それぞれ豊かな個性の持主であったが、撰者たちといっしょに歌合や屏風歌のために献詠することもあり、
巻十ニ 三三一一詞見てよめる ( 桃・初・梅・底本イ ) ー 天四秋の田の ( 桃・底本イ・嘉禄 ) ー秋のよ 見て 集 歌 五しきたへの ( 桃・初・梅 ) ーしろたへの 和 六 0 七言 ( 意改 ) ー事 古三四九まがふ ( 桃・初・梅・底本イ ) ーまとふ 巻十三 一過ぐる ( 初・嘉禄・伊達 ) ー「すくる」の 「る」が「すーと読める。 六四六まどひにき ( 桃・初・梅 ) ー迷にき ひとめ 三、三六三底本作者表記ナシ。それぞれ六天一目 ( 桃・初・梅 ) ー人め 一目 「みつね」「とものり」「みつね」「た 巻十四 だみねー「これのり」「つらゆき」と雅 こと 俗山荘本。昭和切・永暦本等の見セ消交八言の葉 ( 意改 ) ー事のは 六突・七 0 一一、七 0 四・七一一・当七・七四一一言 ( 意改 ) チにより補 ー事 巻十五 七七四まだもやまぬか ( 桃・初・梅・底本イ ) ーまたもやめか 七八八・七九四言 ( 意改 ) ー事 八孟左注又は、「こなたかなたに人もかよ はず」 ( 桃・初・梅・底本イ ) ーナシ 巻十六 八四六くれし ( 桃・初・梅 ) ーくれも 巻十七 三交詞時に ( 桃・初・梅 ) ー時 三七七詞申ししければ ( 意改 ) ー申しけれは 巻十 四一一八ながめて ( 桃・初・梅 ) ーかなめて 四六三秋くれど ( 桃・初・梅 ) ー秋くれは 巻十一 五一一四迷ふ夢路 ( 桃・初・梅 ) ー迷夢地 吾三沖辺 ( 桃・初・梅 ) ーおきっ まどゅめぢ の うへのきぬ 会九詞泡の ( 梅 ) ーうへのきぬ 全四詞「さなむありつる」 ( 桃・初・梅・底本 イ ) ー御子むありつる 八九四御津 ( 意改 ) ー水 空四とる人 ( 桃・初・梅・底本イ ) ーかる人 巻十八 かひのかみ 九三七詞甲斐守 ( 桃・初・梅 ) ーかひの y み 〈惟 ( 桃・初・梅・底本イ ) ーナシ 巻十九 一 00 三第二十一句「塵の身に」以下一 00 四番の 歌まで補 ( 桃・初・梅 ) ーナシ 「いにしへに薬けかせる」を補 ( 忠岑集 ) 一 0 捨てつる ( 桃・初・梅・底本イ ) ーすて たる 墨減歌 三 0 蜘蛛 ( 意改 ) ー雲 真名序 〔三〕喜撰 ( 諸本 ) ー撰喜 名先滅於世上 ( 伝一一条為重筆本 ) ー名先 滅世上 〔四〕雅情 ( 清輔本・『本朝文粋』所収古今集序 ) ー軽情
しようあい 会・七五 0 ・七九四・八四 0 ・空九・九五六・九・九七 王。父帝から遍照とともに鍾愛され、嘉 九日没。七十六歳。一三・三六五・九一三・突一一 いうせんふし 六、九七八・一 09 ・一 0 一五・一 0 三五・一 0 六七 幽仙法師承和三年 ( 全六 ) 生。藤原宗道の 祥四年 ( 会一 ) 一一月、父帝を追慕して出家 おとものくろぬし ごんのりつし 子。寛平二年 ( 兊 0 ) 権律師、のちに律師。 し、雲林院にこもった。貞観十一年 ( 八六大友黒主六歌仙の一人。天長 ( 全四、会四 年 ) ごろ生か。弘文天皇の皇子で大友の 昌泰三年 ( 九 00 ) 一一月一一十七日没。『尊卑分 九 ) 五月十四日没。夫一 おとみぶのよしなり 姓を賜わった与多王の孫。代々近江国滋 脈』には「幽仁」。三空・三九五 乙壬生益成の娘。益成は仁和四年 ( 八八 0 いかごのあっゆき とおとうみのすけ 賀に住んだ豪族で、地方歌人。仁和三年 遠江介。四一三 伊香子淳行伝末詳。『訓点抄』には「伊 みやすんどころ ( 八全 ) ごろ、中将の御息所の家の歌合に 香篤行也」とある。三七三 え升里大江氏家学の祖といわれる参議 おとんど 召されて歌を詠み、寛平九年 ( 兊七 ) 、醍 音人の子。延喜三年 ( 九 0 三 ) 大丞。罪を得 伊勢大和守藤原継蔭の娘。七条后温子に ろうきょ だいじようえ 醐天皇の大嘗会に風俗歌を奉り、延喜十 仕えたころ、藤原仲平を愛したが失恋傷 て籠居したことや伊予権守だったことも 七年 ( 九一七 ) 、宇多法皇の石山寺参詣の折 心ののち、宇多天皇の更衣として皇子を ある。儒者で博学多識、寛平六年 ( 兊四 ) うちぞ に打出の浜で歌を奉ったりした。延喜 ( 九 産んだ。天皇譲位とともに宮廷を退いた 『句題和歌』 ( 別名『大江千里集』 ) を奉っ あつよし なかっかさ た。一四・一・一九三・毛一・四六七・五七七・六四三 0 一、空三 ) 末年没か。八八・当五・一 0 会・八究 が、のち敦慶親王に愛され、中務を産ん ・会九・究八・一 0 六五 ( 左注黒主の歌とする ) だ。屏風歌も多い。三一・四三・四四・六一・交 おしかふちのみつね ・一三八・四五九・六実・交一・当三・七四一・七五六・凡河内躬恒撰者の一人。延喜七年 ( 九 0 七 ) おおいがわ カ′イ 夫 0 ・七九一・八一 0 ・空 0 ・九一一六・九交・究 0 ・一 丹波権大目。同年、宇多法皇の大堰川行 かげのりのおにきみ 000 ・一 00 六・一 0 五一 幸に供奉、貫之・是則・忠岑らとともに景式王惟条親王の御子。寛平九年 ( 兊 いなばもとよのおおきみ 七 ) 七月、従四位下。四吾・七会 因幡基世王の娘。基世王は仁和五年 ( 和歌を詠進、同十六年の石山寺御幸、同 かねみのおきみこれたかのみこ いなばのごんのかみ 九 ) 正月因幡権守に任ぜられているので、 二十一年の春日社御参詣等にも和歌を奉兼覧王惟喬親王の御子。延長一一年 ( 九一一四 ) くないきよう 正月正四位下、同年宮内卿。承平一一年 ( 九 っている。屏風歌をたびたび詠進した記 それにもとづく呼び名であろう。合八 うつく 三一 l) 没。一三七・一一究・三突・四毛・七七九 大納言源定の孫、大和守源精の娘とい 録も残っている。生没年不明。三 0 ・四 0 ・ かはらのひだりのおいまらちぎみ 伝 四一・六七・会・一 0 四・二 0 ・一一一 0 ・一毛・一三一一・河原左大臣弘仁十一二年 ( 全一 I) 生。嵯 う。定家本では「一説ウック、一説チョ みなもとのとおる 略 ・一六四・一六七・一交・一七九・ズ 0 ・一 峨天皇の皇子源融のこと。伊勢守・ 者ウ」とする。「うづく」とする説や、『訓 あち 作 参議・按察使等を歴任、仁和三年 ( 八全 ) 点抄』『古今清濁ロ訣』などでは「チョ 九 0 ・一一三・一一一九・一一三三・一三四・一一七七・三 0 四・三 0 十一月従一位。寛平七年 ( 兊五 ) 八月二十 ウ」と読んでいる。三七六・六四 0 ・七四一一 五・三三・三一一九・三三八・三・三六 0 •lll<ll ・三会 うねめ 五日没。七十四歳。七一一四・八当 ・三究・四一四・四一六・哭一・天 0 ・四・六 00 ・ 果女近江の采女。伝未詳。一一 0 九 かんつけのみねを うりんゐんみこ 六 0 八・六二・六一一一・六一四・六三六・六六一一・六六三・六上野岑雄『古今和歌集目録』は承和 ( 八三四 雲林院の親王仁明天皇の第七皇子常康親
親しい人が死んだ時に詠んだ歌 壬生忠岑 5 夢とは寝ている時に見るものだけを呼ぶ名前だろうか、 うつつ 8 そんなことはない。はかない現世の出来事も、私には現 集と見なせない。夢と考えないと、やりきれないもの。 和 この歌の「夢」「うつつ」は前の歌の場合と違い、こ 古 の語本来の具体的な意味を持っている。とにかく、 「夢」と「うつつ」を対照的に用いた二首を意識的に 配列している。 姉が死んだ時に詠んだ歌 壬生忠岑 よど 早い流れでもせき止めれば、水は淵になって淀みもする。 しがらみ 8 だが、去りゆく人をとどめる柵というものはないのだ。 人の死ぬのは誰にもどうにもできないという宿命観で ある。柵をして人を止めさせるという比喩は、菅原道 真が配流される時に「君しがらみとなりてとどめよ」 ( 大鏡 ) と詠んだ先例がある。 藤原忠房のかって親しくしておりました女性が死ん だ時に、忠房に弔問の使いをやるといって詠んだ歌 閑院 7 あのお方に先立って参れない悔しさを思うと、私は返す 8 返す悲しいのでございますが、それは流れる水の帰らな いように、人間もあの世に行きっきりと思うからなのでご ざいましよう。 景樹が「さきだたぬ」をいわゆる「後悔先に立たず」 の意に解してから、その説が広く行われている。それ では歌に具体性がなくておもしろみが少ないので、古 い説に返したい。以上の一一首では人間の死を水の流れ にたとえている。