99 巻第二 103 104 ふちはらのみやあめしたをさ すめらみことみよたかまのはらひろのひめのすめらみこと 藤原宮に天の下治めたまふ天皇の代高天原広野姫天皇、 ていがい おくりなちとう みくらゐかるのひつぎのみこ 諡を持統天皇といふ。元年の丁亥、十一年に位を軽太子に譲り、 おきすめらみこと ~ 尊号を太上天皇といふ し」「降らまく」に頭韻を踏んで軽快な調 べの中に、相手と共に雪を見られないこ とを残念に思う気持を秘め、格調の高さ、 優しさのこもった佳品である。 我が岡の龕ーオカミは水神。蛇体で 雨を降らせると信じられた。〇雪の こたまっ 摧けしークダケは名詞。シは強めの助詞。 藤原夫人の和へ奉る歌一首 ◆こちらこそ大雪の本家ですと言い返し わ をか おかみ た戯れの歌。 我が岡の龕に言ひて降らしめし雪の摧けしそこに散り = ↓一一〈標目。 三文武天皇。↓一一八標目。 けむ 四天武天皇の第三皇子 ( 持統紀によ る ) 。母は天智天皇の皇女、大田皇女 ( 持 統天皇の同母姉 ) 。天武天皇崩後一一十五 あかみとり 日目の朱鳥元年 ( 交六 ) 十月三日、謀反の 罪によって処刑された。年二十四歳。大 田皇女の死後、天智天皇に愛されて育っ おんとろうろう たといわれ、風貌たくましく音吐朗々と して才学があり、とりわけ文筆を愛し、 詩賦はこの皇子から興ったと『日本書紀』 に記されている。 五天武天皇の皇女。母は大田皇女。大 津皇子の二歳年上の同母姉。天武二年 いっきのみや ( 六当 ) 十三歳で斎宮となり、翌年伊勢に 赴いた。天武天皇が崩じ、大津皇子も没 した後の朱鳥元年十一月還京。大宝元年 ( 七 0 一 ) 没。四十一歳。 わ すめらみことちはらのぶにんたまみうた 天皇、藤原夫人に賜ふ御歌一首 ふ おはら 我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後 四 おほっのみこ いせのかむみやくだ のく おくのひめみこ 大津皇子、竊かに伊勢神宮に下りて上り来る時に、大伯皇女 の作らす歌一一首 ひそ ふ くだ のち しふ
53 巻第一 45 ~ 47 かきのもとのあそみひとまろ カるのみこ にする、押し伏せる意のナプの連用形。 軽皇子、安騎の野に宿る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌 〇坂鳥のー朝越ュの枕詞。坂鳥は山坂を わおきみたかて かむ 妬やすみしし我が大君高照らす日の皇子神ながら神さび越え行く鳥の意だが、現在朝早く沼地か ら飛び立っ水鳥を山の上に張った網で捕 みやこ はっせ る猟法を坂鳥という地方があり、ここも せすと太敷かす京を置きてこもりくの泊瀬の山は真木 それと関係があるか。〇玉かぎるータの さかどり やまち いはねさへき 枕詞。カギルは光り輝く意。〇はたすす 立っ荒き山道を岩が根禁樹押しなべ坂鳥の朝越えまし きー穂が旗のようになびいているすすき あき の意か。〇古ー軽皇子の父草壁皇子がこ て玉かぎるタさり来ればみ雪降る安騎の大野にはたすの地で狩をした数年前をさす。 三長歌に添えられた短歌は「反歌」と記 しの くさまくらたびやど いにしへおも すき篠を押しなべ草枕旅宿りせす古思ひて すのが一般。しかしこのように「短歌」と 記されることも往々あり、特に人麻呂の 作品に多い。これについて、従来長歌の 内容の単なる繰返しであった従属的存在 の反歌が、半ば独立した趣を持つように 短歌 なったことと関係があり、人麻呂がその いにしへおも 安騎の野に宿る旅人うちなびき眠も寝らめやも古思ふ使い分けを始めたのでないか、とする説 もある。 うちなびきーウチは接頭語。このナ に ビクは横になる意。〇眠も寝らめや もーイは眠り。動詞ヌ ( 寝 ) と複合してイ ヌとなる。ラメャ ( モ ) は現在推量の反語。 ま草刈るー荒野の枕詞。〇もみち葉 のー過グの枕詞。〇過ぎにし君ー亡 くなった草壁皇子をさす。このスグは人 の死を表す。 ま草刈る荒野にはあれどもみち葉の過ぎにし君が形見と そ来し くさ ふとし あらの ゅふ たびひと やど ひみこ かたみ
↓一四一標目。 ニ聖徳太子。用明天皇の皇子。母は用 あな・ヘのはしひとの うまやとの 明天皇の異母妹穴穂部間人皇女。厩戸 とよとみみの 皇子、豊聡耳皇子などとも呼ばれる。推 集挽歌 古天皇の甥に当り、その皇太子となって 葉 万機を摂政し、十七条の憲法を定め、位 たったやま かみつみやしようとくのみこ 萬 階制度を整え、また隋と国交を結び、仏 上宮聖徳皇子が竹原井にお出かけになった時に、竜田山の死人を見て 教の興隆に努め、法隆寺を創建した。推 おりだのみや こう 悲しんで作られたお歌一首小墾田宮の天皇の御代。小墾田宮で天下を治めら 古二十九年 ( 六一一一 ) 四十九歳で薨じた。『日 いみなぬかたおくりなすいこ とよみけかしきやひめのすめらみこと 本霊異記』上四話に、天皇の宮より上の れたのは豊御食炊屋姫天皇である。諱は額田、諡は推古 殿に住むがゆえに「上宮」というとある。 まくら 家にいたら妻の手を枕とするだろうに ( 草枕 ) 旅で倒れているこの旅人は = 大阪府柏原市蕋井田の地。大和と難 波とを結ぶ交通の要路に当る。 さんごう 哀れだ 四奈良県生駒郡一一一郷町立野の竜田本宮 おおつのみこ 大津皇子が処刑された時に、磐余の池の堤で涙を流して作られた歌一首 西方の山。↓八三 ( 竜田山 ) 。 あまかしのおか 五推古天皇の皇居。その宮址は甘樫丘 とゆら ( 百伝ふ ) 磐余の池に鳴いている晋を今日だけ見て死んで行くのか の西北豊浦の地か。小墾田は飛鳥地方の 北部一帯の総称。この種の天皇代に関す る記載は巻一・二にはあったが、ここに 小字でもあるのは例外。原資料に拠るか。 六推古天皇。日本最古の女帝。欽明天 びだっ きたしひめ 皇の皇女。母は堅塩媛。異母兄敏達天皇 すしゅん の皇后となり、崇峻天皇崩御後即位。聖 徳太子に万機を摂政させ、三十六年 ( 六一一 0 に七十五歳で崩じた。 臥やせるー臥ャセリは臥ヤシアリの 約。コャスは上二段コュの敬語形、 ばん たからのい いわれ 415
143 巻第二 163 164 編見まく欲り我がする君もあらなくになにしか来けむ馬疲 ~ らしに ふぢはらのみやあめしたをさ すめらみことみよたかまのはらひろのひめのすめらみこと 藤原宮に天の下治めたまふ天皇の代高天原広野姫天皇、天 ていがい みくらゐカるのひつぎのみこゅづ おきすめらみこと 皇の元年の丁亥、十一年に位を軽太子に譲り、尊号を太上天皇といふ る。〇なにしかーナニは理由や動機を尋 ねる疑問副詞。〇君もあらなくにー大津 皇子も死んでこの世にいないのに。 ◆『歌経標式』に、「大伯内親王、大津親 王に恋ふる歌」として、この歌の上三句 が見えている。 こう おはつのみこ いっきのみやみやこの 見まく欲り我がする君もー見マクは 大津皇子の薨ぜし後に、大伯皇女、伊勢の斎宮より京に上る 見ムのク語法。ホリスは欲する意。 四段動詞ホルの連用形にサ変動詞スが付 時に作らす歌一一首 いた形。 ◆この歌、『歌経標式』に、下二句が「な 神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらににか来けむ馬疲らしに」という形で残 っている。 三金剛山 ( 一一一一一 1 しを主峰とし、そ なくに いこま の北の今いう葛城山を合せ、生駒山地と 共に奈良県と大阪府との境をなす。 たいま 四奈良県北葛城郡当麻町の西にある山。 葛城連山の北端に位置し、その山頂は南 の雌岳 ( 四七四 ) と北の雄岳 ( 五一七 ) の二つに分れ、雄岳の頂に大津皇子の墓 がある。 いわれおさだ ふたがみ 五処刑された磐余の訳語田から二上山 頂に移葬したことをいう。殯宮は営まれ なかったと思われる。謀反が発覚した十 月二日以後、「皇子大津ー「妃皇女山辺」 と書かれ、罪により庶人に準ずる扱いを 受けている。↓四一六題詞。 かむかぜ 四 かばねかづらきふたがみやま五 かな 大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀 傷びて作らす歌一一首 し おくのひめみこ はぶ き き つか
立ち止まりわたしに言うことにはどうしてわけもなく尋ねるのかそれを みこしきのみこ 聞くとむせび泣いてしまう語ると心が痛む天皇の神の御子志貴親王の 集葬送の送り火の光がこんなにも照っているのだ 葉 短歌二首 萬川高円の野辺の秋萩はむだに咲いては散 0 ていることだろうか見る人もな くて みかさやま 三笠山の野辺を行く道はこれほどにもひどく荒れたものか時も経たない のに かさのあそんかなむら 右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出ている。 ある本の歌にいう 〇ひづちて↓一九四。〇もとなーいたずら に。モト ( 根拠 ) + ナ ( 形容詞ナシの語幹 ) が原義。中古の心モトナシと同じく、現 状を不満に思いじれったく感じる気持か らいう。「なにしかも」以下最後まで、歩 行者の答え。〇とぶらふー尋ねる。原文、 ほとんどの古写本に「言」とあるが、京大 しゃ 本に赭で「噌」とあるのによる。「嗜」は多 く弔問の場合に用いる字。〇音のみし泣 かゆー音ニ泣クは声に出して泣くこと。 ュは自発の助動詞。 0 天皇の神の皇子ー 志貴皇子は天智天皇の皇子であるところ からいう。〇出でましーここは御葬送を いう。〇手火ー葬送の時に手に持っ松明。
鞆の音すなりー鞆は弓を射る時に用 祐ますらおの鞆の音がするもののふの大臣たちが楯を立てているらしい みなべりひめみこ いる革製の防具。左手首の内側に巻 御名部皇女がお答えしたお歌 き付け、弦が当るのを防いだ。〇ものの 集大君よご心配なさいますな先祖の神々から後継ぎを賜っている私がおりふの大臣ーモノノフ↓吾。オホマ ( ッキ ミは太政大臣、左・右大臣、内大臣の総 葉 ます 称。当時、石上麻呂 ( 四四 ) が右大臣であっ とど 萬 ならのみやうつ みこしながや たこと、石上氏の本姓が物部であること 和銅三年二月に、藤原宮から寧楽宮に遷った時に、御輿を長屋の原に停 などから、麻呂に当てる説もある。〇楯 めて、旧都藤原を振り返って作った歌ある書には太上天皇 ( 元明 ) のお歌 立つらしもー楯は敵の矢・刀・桙などを 防ぐ武具。ただし大臣が楯を立てるとい ともある あすか うことがどのような意味を持つか、不明。 ( 飛ぶ鳥の ) 明日香の古京を捨てて行ったらあなたのあたりは見えなくな一天智天皇の皇女。元明天皇の同母姉。 高市皇子の室となり、長屋王を生む。 りはしまいか〈また「あなたのあたりを見ずにいられるだろうか」〉 我が大君ー妹の元明天皇をさす。〇 物な思ほしーナは禁止の副詞。この 物思ヒが元明天皇のどのような心配事を さしているか、不明。〇皇神ースメは神 に対する尊称。ここは皇祖神をいう。〇 継ぎて賜へるーツギテは継ギ手で後継ぎ の意か。御名部皇女と高市皇子との間の 子、長屋王は当時三十三歳。一方文武天 皇の遺子首皇子 ( 後の聖武 ) はまだ八歳 にすぎなかったので、長屋王は皇位継承 者として有力な位置にあった。御名部皇 女がこの歌を詠んで女帝をカづけた背後 には、そのような男子を持った親として の自負が感じられる。首皇子が即位して おびとの
31 巻第一 19 ~ 21 むらさき さき きんじき ”綜麻かたの林の前のさ野籐の衣に付くなす目に付く我時、紫は最高級の服色で禁色とされてい た。〇標野行きー標野は一般の立人りを きんや 禁じた野。禁野。シメは神または自己の が背 占有を示す標識。以上三句、野守の動作 を述べる。〇野守ー禁野の番人。〇君が 袖振るー君は大海人皇子。袖を振るのは 愛情の表現。 おおあまの 三大海人皇子。天智天皇の弟。天智七 年 ( 六六 0 天智即位と同時に皇太子となる。 天智天皇に比べて保守穏健なその政治姿 勢を支持する動きがあり、皇位継承の問 すめらみことカまふの みかり ぬかたのおきみ 天皇、蒲生野に遊猟する時に、額田王の作る歌 題もからんで、しだいに兄弟の間に疎隔 を生じた。天智天皇の崩後、天智の皇子 むらさきの しめの のもり 加あかねさす紫草野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る大友皇子との間に壬申の乱が起。たが、 きよみはら 勝利を収め、飛鳥浄御原宮に即位した。 うのの 天智の皇女鷓野皇女 ( 持統 ) を皇后とし、 皇権の拡充や諸制度の整備に力を尽した。 あかみとり ひつぎのみここた みうたあすかのみやあめしたをさ 朱鳥元年 ( 交六 ) 九月崩。 皇太子の答ふる御歌明日香宮に天の下治めたまふ天皇、諡を天武天皇 紫草のーこのノは、、のように、の 意。〇にほへるー色美しい。ニホフ といふ の原義は赤い色が発散すること。〇ゅゑ あれ ひとづま に↓一一三。ここは、、なるものを、の意。 幻紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゅゑに我恋ひめやも 〇我恋ひめやもーメヤモは反語。 にしん 四 ていばう みかり かまふの 現行『日本書紀』の戊辰が正しい。 紀に曰く、「天皇の七年丁卯の夏五月五日、蒲生野に縦猟す。 = 太陽暦の六月 + 九日に当る。 六皇太弟とも。大海人皇子をさす。 ひつぎのみこおきみたちうちのまへつきみまへつきみたちことごと 時に、大皇弟・諸王・内臣また群臣、皆悉従ふ」とい七藤原鎌足。 せ かむが 右の一首の歌は、今案ふるに、和ふる歌に似ず。ただし、旧 つぎての このゆゑなな 本にこの次に載せたり。故以に猶し載す。 いは いも のはり きぬ こた 五 おくりなてんむ わ
おおやまと いもおもい かすみ さやま 佐保山にたなびく霞見るごとに妹を思ひ出で泣かぬ日は大養徳恭仁の大宮、と答えられたとある。 恭仁京は天平十二年 ( 七四 0) 十二月から同 十六年一一月の難波遷都に至るまでの都。 そうらく なし 久邇京とも書く。京域は京都府相楽郡加 茂・木津・山城の諸町にわたる。〇うち ふたぎ なびく↓一一六 0 。〇山辺ーこの山は布当山 ( 一 9 五 ) ・鹿脊山 ( 一 90 ) ・狛山 ( 一 90 など の恭仁京周辺の山をさすか。〇花咲きを をりー枝がたわむほどに花が咲く意か。 ヲヲル↓一突 ( 生ひををれる ) 。〇川瀬ー 恭仁京を東西に貫流する泉川 ( 木津川 ) の 瀬。〇鮎子さ走りー若鮎が飛び跳ねて泳 ぎ。サは接頭語。〇いや日異にー日を追 うちどねりおともの かのみこ って。ケニは、いちだんと、の意。〇逆 十六年甲申の春一一月、安積皇子の薨ずる時に、内舎人大伴 言の狂言とかも↓四一一一。疑問の係助詞カ すくねやかもち はあるが、挿人句として用いられている 宿禰家持の作る歌六首 ので、下に結びの言葉がない。〇白たへ かしこ に舎人よそひて↓一究 ( 白たへの麻衣着 かけまくもあやに恐し言はまくもゆゅしきかも我が大君 て ) 。〇和束山ー相楽郡和束町の地の山。 おおかんじよう しらす くに おやまと みことよろづよ 安積皇子の墓は同町白栖小字大勘定にあ ←皇子の命万代に食したまはまし大日本久邇の都はうち り、恭仁京址より東北約五はじの位置に -4- やまへ ある。格助詞はないが、ニを補って「立 三なびく春さりぬれば山辺には花咲きををり川瀬には たして」に続く。〇御輿立たしてータタ たはこと スは出発する意のタッの敬語形。↓一二 0 ひけ およづれ 巻あゆこばし 鮎子さ走りいや日異に栄ゆる時に逆言の狂言とかも白 ( 朝立ちいまして ) 。安積皇子の葬送の輿 が皇子の意志によって出発するように言 わづかやまみこし とねり ったもの。 たへに舎人よそひて和束山御輿立たしてひさかたの おも わぎもこ 昔こそ外にも見しか我妺子が奥つきと思へば愛しき佐 保山 よそ かふしん さか こう かはせ わお椴きみ
161 巻第二 195 ~ 196 ること。ここは皇子の墓の近くに設けた 仮屋に泊ったことをいうのであろう。 しきたへのー枕・袖などにかかる枕 詞。シキタへは敷物に用いる栲の意 か。〇袖交へしー互いに衣の袖をさし交 反歌一首 して寝た。〇越智野過ぎ行くー葬列が越 そぞか 智野を通過する意か。 しきたへの袖交へし君玉垂の越智野過ぎ行くまたも逢は 一川島皇子。↓三四題詞。薨年三十五歳。 ニ持統五年 ( 六九一 ) 。 めやも〈一に云ふ、「越智野に過ぎぬ」〉 三太陽暦の十月六日。 四天武十四年に定めた位階制で諸王以 はっせべのひめ いは 力はしまのみこ 右、或本に曰く、「河島皇子を越智野に葬る時に、泊部皇上に授けられたものの一つ。養老令の正 しん 五位上に当るが、正確には親王は四品が しん あかみとり みこたてまっ 女に献る歌なり」といふ。日本紀に云はく、「朱鳥五年、辛最低で、該当する位階はない。 くらはし 五天智天皇の皇女。母は大臣阿倍倉梯 四 ばう きしつきたちていちうじゃうだいさん 卯の秋九月、己巳の朔の丁丑、浄大参皇子川島薨ず」といふ。紀呂の娘〔橘娘。忍壁皇子の妃。文武四 年 ( 七 00 ) 浄広肆の位で没。 こうりよう 六奈良県北葛城郡広陵町大塚・三吉 の辺りかというが、巻十三、三三一一四に見え 六 あすかのひめみこきのへあらきのみや る「城於」 ( 原文 ) と同地とし、藤原宮周辺 明日香皇女の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌 かとする説もある。 七 ↓一五一題詞 ( 大殯 ) 。 一首剏せて短歌 石橋ー川の浅瀬に置き並べた飛び石。 〇「石なみ」ー「石橋」に同じか。ナミ いしばし かみせ あすか 飛ぶ鳥の明日香の川の上っ瀬に石橋渡し〈一に云ふ、「石なみ」〉は幾つかの物が列を成して並ぶ意の四段 動詞ナムの名詞形。〇打橋ー板を渡した うちはし しもせ 下っ瀬に打橋渡す石橋に〈一に云ふ、「石なみに」〉生ひなびけるだけの簡単な橋。 くさまくら 草枕旅寝かもする逢はぬ君故 あ たまだれ ゅゑ をちの い はぶ こう 195 196
ふたがみやま うっそみの人なる我や明日よりは二上山を弟と我が見む = 大伯皇女の帰京は + 一月 + 六日 ( 太 陽暦の十一一月六日 ) 。 三草壁皇子。天武天皇の第一皇子。母 あえの は持統天皇。妃阿閉皇女 ( 元明天皇 ) との きびの 間に文武・元正の両天皇および吉備内親 王 ( 長屋王の妃 ) が生れた。天武十年 ( 交 一 ) 皇太子として万機を委ねられたが、天 武崩後即位せず持統天皇が称制し、その 三年 ( 交九 ) 二十八歳で薨じた。天平宝字 一かむが おかのみや 右の一首は、今案ふるに、移し葬る歌に似ず。けだし疑はく 一一年 ( 七五 0 岡宮御宇天皇と追尊された。 日並皇子というのは天皇と並んで天下に かんしゃうあい みやこかへ いせのかむみや は、伊勢神宮より京に還る時に、路の上に花を見て、感傷哀臨む意で、草壁皇子に限って用いる称号。 四 ↓一五一題詞 ( 大殯 ) 。 えっ 天地の初めの時のー天と地が生成し 咽して、この歌を作るか。 た最初の時で。「時」の下の助詞ノは、 これが「神はかりはかりし時」と同格であ たかま ることを表す用法。〇天の河原ー高天の ひなみしのみこのみことあらきのみや かきのもとのあそみひとまろ 原にあるといわれる安の河原。『古事記』 日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首剏 上に、「八百万神、天の安の河原に神集 ひ集ひて」とある。〇神集ひ集ひいまし せて短歌 てー神ッドヒニッドフのニが省略されて あまかはら あめっち やよろづちょろづかみいる。神々がその会合にお集りになって。 二天地の初めの時のひさかたの天の河原に八百万千万神 〇神はかりはかりし時ー神ハカリニハカ かむ あまぞ かむつど リシ時ニの意。ハカルは相談する意。〇 の神集ひ集ひいまして神はかりはかりし時に天照らす天照らす日女の尊ー天照大神をいう。ヒ ルメは太陽神としての女神。次の「天を ひるめみこと あめ 日女の尊〈一に云ふ、「さしあがる日女の尊」〉天をば知らしめすとば知らしめす」の主格。 いそうへ 磯の上に生ふるあしびを手折らめど見すべき君がありと いはなくに お われ たを はぶ いろせあ 167