すめらみことみよあまのぬなはらおきの あすかのきよみはらのみやあめしたをさ 一一明日香清御原宮に天の下治めたまふ天皇の代天渟中原瀛 第 巻まひとのすめらみことおくりなてんむ 真人天皇、諡を天武天皇といふ とものすくねこせのいらつめよば いみなやすまろ セ奈良朝。ここは元明天皇の代をいう。 大伴宿禰、巨勢郎女を娉ふ時の歌一首大伴宿禰、諱を安麻呂とい 玉葛ー実の枕詞。タマカヅラは蔓性 ならのみかど なにはのみかどみぎのおまへつきみだいしおとものながとこまへつきみ 植物一般をいうが、ここはサナカヅ ふ。難波朝の右大臣大紫大伴長徳卿の第六子にあたり、平城朝に大納 ラ ( 九四 ) と同じくびなんかずらをさすか。 〇実成らぬ木ー花が咲いて実のならない 言兼大将軍に任ぜられて薨ず 木には、神仏が寄りつくと信じられてい た。〇ちはやぶるー神の枕詞。本来、凶 たまかづらみ 川玉葛実成らぬ木にはちはやぶる神そっくといふ成らぬ木暴残忍にふるまう意の上一一段動詞チ ( ャ プの連体形。〇神そっくといふーックは 寄りつく意。つれない女を実のならぬ木 ごとに にたとえ、そんな人には神が取りつくそ うですよとおどかして言う。〇成らぬ木 ごとにーゴトニは、どれにも例外なく、 こせのいらつめこたおく こせのひとまへつきみむすめ すなはあふみのみかど の気持でいったもの。 巨勢郎女の報へ贈る歌一首即ち近江朝の大納言巨勢人卿の女なり 八天智十年 ( 六七一 ) 、御史大夫 ( 大納言に おも 皿玉葛花のみ咲きて成らざるは誰が恋ならめ我は恋ひ田」相当 ) とな。たが、壬申の乱で敗れたた め配流された。 花のみ咲きて成らざるはーロ先だけ ふを で実のない不誠実なもののたとえ。 花だけ咲いて実がならないたとえに玉力 ヅラを引いたのは、雌雄異株のびなんか ずらの雄木を念頭に置いたもの。〇誰が 恋ならめー反語。「見えずとも誰恋ひざ らめ」 ( 元 (l) と同種の語法。 ( あなた以外 の ) どなたの恋であろうか、あなた以外 の誰の恋でもない。 九 ↓一二題詞。 101 102
43 巻第一 32 ~ 34 サプは形容詞サプシと同源の上二段活用 動詞。心がすさむ意。 三天智天皇の第二皇子。持統五年 ( 六九 l) 三十五歳で没。大津皇子と親しかった が、その謀反を朝廷に密告し、朋友にそ の情誼の薄いことを非難された。 白波のー浜にかかる修飾語だが、枕 詞的な用法と言ってよい。〇手向く さータムケは、行路の安全を祈って道の 、いはく 神に幣帛を捧げること。クサは材料。多 くは、布・木綿・糸などを供えた、ここ は、松の枝に掛けてあるのを見て詠んで いる。 みかみ 楽浪の国っ御神のうらさびて荒れたる京見れば悲しもを七一六はこれの小異歌。その題詞に「山 上歌」とあり、左注に「或は云はく川島皇 子の御作歌と記し、扱いが逆になって いる。憶良が川島皇子の命によって代作 きのくにいぞま したものを、この巻一の題詞は建前尊重 紀伊国に幸す時に、川島皇子の作らす歌或は云はく、山上臣 の立場から川島皇子の作として掲げたの つののさみ であろう。『歌経標式』では「角沙弥紀浜 憶良の作なり、といふ 歌」として載せ、これも小異がある。角 沙弥はいかなる人か不明。 “白波の浜松が枝の手向くさ幾代までにか年の経ぬらむ 四現行『日本書紀』では朱鳥という年号 は天武天皇最後の一年 ( 交六 ) だけとなっ 〈一に云ふ、「年は経にけむ」〉 ているが、『万葉集』では持統天皇の代も 引き続いて朱鳥何年と称している。この かういん にんぎ いは すめらみこときのくにいぞま 日本紀に曰く、「朱鳥四年庚寅の秋九月、天皇紀伊国に幸時川島皇子三 + 四歳、山上憶良一二 + 一歳。 も またも逢はめやも〈一に云ふ、「逢はむと思へや」〉 いにしへ たけちのふるひとあふみふるみやこかなし たけちの 高市古人、近江の旧き堵を感傷びて作る歌或書に云はく、高市 むらじくろひと 連黒人なりといふ われ ささなみ みやこ 古の人に我あれや楽浪の古き京を見れば悲しき おくら あ たむけ かはしまのみこ あかみとり いくよ やまのう、のおみ へ
35 巻第一 23 ~ 24 そうではないのに。ナレヤは断定の助動 て作る歌 詞ナリの已然形にヤの付いた形。反語。 いらご たまも うちそ をみのおきみあま 四打麻を麻続王海人なれや伊良虞の島の玉藻刈ります〇刈りますーはアリ・来・行クなど の幅広い意に用いられる敬語動詞。イマ スという語形はこれに接頭語イが付いた もの。ここはアリの意。 一三。ここは うっせみのーウッセミ↓ 命の枕詞。ウッの音にウッ木綿 ( 一合 九 ) のウッと同し空虚の意を感じ、セミの 音に昆虫の蝿の意を認めて、蝿の抜け殻 を連想したらしいことが想像できる。〇 命を惜しみー惜シミは惜シのミ語法。 一四月十八日。太陽暦の五月十七日。 いつがい すめらみこと 右、日本紀を案ふるに、曰く、「天皇の四年乙亥の夏四月、ただし、現行『日本書紀』では四月朔は こうしゆっ しんう 三甲成、十八日は辛卯となっている。誤っ いなは しゆっつきたちつばう 戊曵の朔の乙卯、三位麻続王罪ありて因幡に流す。一子は伊て翌年四月の干支を人れたものか。 ニ鳥取県の東半部。 四 豆の島に流し、一子は血鹿の島に流す」といふ。ここに伊勢 = 伊豆大島か。 四長崎県の五島列島および平戸島をい くに う。『肥前風土記』や『続日本紀』には「値 国の伊良虞の島に配すと云ふは、けだし後の人歌辞に縁りて 嘉」と記す。 いたこ なめかたいたく 五『常陸風土記』行方郡板来村 ( 現潮来 誤り記せるか。 町 ) の条にも、同じ麻続王が天武天皇の 代この地に派遣され、居住していたこと が記されている。かなり早い時期に麻続 王が配流された事件は伝説化し、伝承内 容に差を生じたものであろう。 かなし 麻続王、これを聞き感傷びて和ふる歌 いのちを うっせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り 食む おみうた 天皇の御製歌 しる にんぎ かむが なが こた いは よ いせの い 4 っ ~ ひらど
萬葉集 30 綜麻形の林の端の野籐の木が服によくつくようによく目につくわが君で す 綜麻かたーへソはつむいだ麻糸を巻 右の一首の歌は、今考えてみると、唱和の歌らしくない。ただし、旧本には いたもの。カタは細長い糸筋。三輪 この順序に載せてあるので、やはりここに載せておく。 山伝説の、妻問いして来る男の正体を知 かもうの ぬかたのおおきみ るために、男の衣のに麻糸を通した針 天皇が蒲生野で狩をなさった時に、額田王が作った歌 むらさきの しめの を刺しておき、翌朝そのあとをたどって おおものぬしの 加 ( あかねさす ) 紫草野を行き標野を行って野守は見ているではありませんか 相手が三輪山の大物主神であることを知 った、という神話によった地名か。〇さ あなたが袖を振るのを 野籐ーサは接頭語。、 ノリはかばのき科の あすかのみや おくりな はん 皇太子の答えのお歌明日香宮の天皇、諡を天武天皇という 籐の木の古名。実や樹皮を黒色染料とし むらさき 幻紫草のようににおうあなたを憎いと思ったら人妻と知りながら恋をしまた。〇衣に付くなすーナスは、、のよう に、の意。籐が衣にしみ付くのと針が付 、しょ - つ、か くのとをかける。〇目に付くー目立つ。 日本書紀に「天智天皇の七年五月五日に、蒲生野で狩が催された。この時、や井戸王が額田王の立場に立って天智天 皇の風姿を讃美した歌か。 か・う 皇太弟 ( 大海人皇子 ) ・諸皇族・内臣 ( 藤原鎌足 ) および群臣がことごとく 一近江国蒲生郡の小高い丘陵地。現在 ようかいち も八日市市に蒲生野の地名がある。 お供をした」とある。 くすりかりろくじよう ニ五月五日に行う薬狩。鹿茸や薬草を 採る名目の半ば儀式的行楽であった。 あかねさすー紫・日などの枕詞。ア カネはあかね科の多年草。その根か ら緋色の染料を採る。サスは色や光を発 すること。〇紫草野ームラサキを栽培し てある野。ムラサキはむらさき科の多年 草。その根から赤紫色の染料を採る。当 へそかた のはり
= ひたべのみこたてまっ かきのもとのあそみひとまろ 柿本朝臣人麻呂、新田部皇子に献る歌一首剏せて短歌 し ひみこ わおきみたかて 」やすみしし我が大君高照らす日の皇子敷きいます大殿 っ 4 あまづたく うへ の上にひさかたの天伝ひ来る雪じもの行き通ひつつい 第 巻 とこよ や常世まで ワ 1 うちなびくー春の枕詞。春になると、草 或本の歌に云はく 木の枝葉が伸びて風になびくのでかかる。 さくらばなこ あも かぐやま 天降りつく神の香具山うちなびく春さり来れば桜花木〇漕がむと思 ( どー昔を偲んで舟遊びを しようと思うのだが むらさわ くれしげ 0 この歌は一一五七の異伝歌である。孟七では の暗繁に松風に池波立ち辺っへにはあぢ群騒き沖辺に 「松風に : 桜花・ : 」となっているが、この まかぞ おはみやひと 一一六 0 では「桜花 : ・松風に : ・」と順序が逆転 は鴨つま呼ばひももしきの大宮人の罷り出て漕ぎける していて、この方が春景色を述べるのに おも さをかち ふさわしい。 舟は棹梶もなくてさぶしも漕がむと思へど 一奈良遷都は和銅三年 ( 七一 0) 三月十日 のこと。 あは らせんと 右、今案ふるに、寧楽に遷都したる後に、旧りぬるを怜れび = 天武天皇の第七皇子。母は藤原鎌足 ちごえい いおえのおとめ の娘、五百重娘。養老四年 ( 七一一 0) 知五衛 および授刀舎人事となり、神亀元年 ( 七一一 てこの歌を作るか。 四 ) 一品。天平三年 ( 当 l) 畿内大惣管。同 七年没。五十六歳か。唐招提寺はその旧 宅址に建てられたもの。 敷きいますー宮敷キイ = の意。宮 殿を構えてお住いになっている。〇 天伝ひ来るーここは雪が降って来ること をいう。〇雪じものージモノ↓五 0 ( 鴨じ もの ) 。絶え間なく、の意で、ユキカョ フを修飾し、さらにユキ ( 雪 ) ーユキ ( 行 キ ) の同音繰返しの効果をもねらう。〇 行き通ひつつーツツは継続反復を表す助 詞。〇いや常世までー常世↓五 0 。ここは 時間的に無限の未来をさしていう。 かも い かむが ← おき、 おとの
宮滝からは国栖を経て伊勢街道へ人る。これは三輪から要求されたはずではないか。 松阪を経て伊勢に至る平野の道に対する山間の道である。 伊勢街道への要害の拠点、宮滝は何人にも奪われてはな にうかわかみ 国栖からさらに進むと丹生川上神社中社の近くで道が分れらない。ここは言わば山越えのべースキャンプ地なのだ。 る。北上すれば伊勢街道。しかし、麦川に沿って南下ののだから、土地の有力者を懐柔しなければならない。それゆ ち東行し、一、四三二メートルの明神岳を越えれば最短距えにこそ在位十年の間にこの女帝は、三十数回の行幸をく 離で伊勢に至るのである。後者の道を輿に乗った女帝が行り返さねばならなかった。しかも、社会の情勢に応じて行 くのは、かなりの困難を伴う。だがしかし、夫やわが子亡幸はなされる。むしろ、世上不安を引きおこす飢饉の年に おおつのみこ きあと、実の甥の大津皇子をも刃にかけた彼女にとって頼こそ、行幸は強行せねばならなかったのではあるまいか。 みとする勢力が何処にあったというのであろう。政権を死天皇であっても、いや権力の頂点に立っ天皇であったから じん 守するためにはいかなる行為をも遂行せねばならない。壬こそ、事象の二重性、三重性の思惑を表面に決して表しは しんらん 申の乱の直前、若き日の天武天皇に従って「その雨の間しなかったのではあるまいか これは女性であること 4 おも やまみち なきがごとく隈もおちず思ひつつぞ来しその山道の悲しみに通じる。同性である私には、吉野を歩きながら を」 ( 巻一・一一五 ) と詠まれる不安な山道、芋峠を越えた記憶そのことが重くのしかかづてくるのであった。 が女帝には生々しく残っていたはずである。 ( 随筆家 ) 伊勢は聖域である。一朝、事が起れば女帝は伊勢へ逃れ る。サンクチュアツにその身を投ずる。平地を行くルート 以外に山間の街道、ス。ヘアルートをも用意したと考えるの が国王たる者の常識ではあるまいか 安定政権とは必ずしも言い得ぬ持統帝の政権は、常に不 安におびやかされていた。栄光の背後には悲劇がしのびよ る。悲劇を現実化させぬための細心の警戒が、この女性に 【メモ】 ・交通 鉄道Ⅱ近鉄特急 / 平均所要時間 京都ー橿原神宮前ー大和上市叩分 阿倍野橋 ( 大阪 ) ー大和上市間分 ・ハスⅡ奈良交通 / 平均所要時間 大和上市ー宮滝 ( 柏木・大滝・杉谷行 ) 分 ・食べ物
ゅはらのおおきみ る。年年歳歳、花相似たり、歳歳年年、人同じからず。風宮滝から東へ進むと湯原王の歌 ( 巻一二・一一一七五 ) などで知ら なつみ よしのがみ 景も、川の流れも少しも変ってはいない。いや、いよいよれる菜摘の里を通って、吉野紙の産地国栖の里に至る。 さやかに見える。それに比して、人の世の消長の激しさは「うるしこし」という文化材補修に不可欠の和紙を日本で こんぶかずお いかばかりであろうか、と。 唯一人漉く無形文化材の昆布和夫氏がいる。今は約一一十軒 だざいのそち つくし かみす 数年ののち、大宰帥として九州筑紫に赴任していた彼は、の家に紙漉きが伝えられている。 くずびといしおしわく この淵に想いを馳せて、 その昔、国栖は " 記紀〃に見える国栖人、石押分の住ん ひさ わ いめ 我が行きは久にはあらじ夢のわだ瀬にはならずだ土地で、都とは一風変った異国風の情緒があったようだ。 ふち ( 巻一二・三三五 ) 国栖人はしばしば上京して、栗やきのこ、アユなどの産物 て淵にありこそ おうじんき と詠む。「わたしの筑紫暮しも長くはないであろう。夢のを天皇に献上したと「応神紀」に見える。 はるなっ 国栖らが春菜摘むらむ司馬の野のしばしば君を わだは、瀬にならずに淵のままあってくれ」と願うのであ ( 巻一〇・一九一九 ) 思ふこのころ わしかぐち 老齢の身に辺地の任務を命ぜられ、異国人とのさまざま国栖の道を更に東行すると、鷲家口を経て伊勢街道とな てんちゅうぐみよしむらとらたろう る。ここは天誅組の吉村寅太郎などの墓所で知られる。 な応接にあたる旅人を慰めるのはまた、象の小川のなっか それにしても、持統天皇の三十数回に及ぶ吉野行幸は何 しい記憶でもあった。 きさをがは いのち 我が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きを意味するのであろうか、歩きつっそのことが私の頭から おちかえ ( 巻一二・三三一 l) 離れなかった。曰く、変若りの聖水を求めるため、日く、 て見むため くさかべのみこ きゅうせい 命ながらえて象の小川を再び見たいと旅人は西の地で熱わが子草壁皇子の急逝をいたんで、曰く、亡き夫天武天皇 への思慕、などなど。しかし、女帝を吉野へ駆り立てたと 望したのである。 。それ 約三年勤務した天平二年 ( 七三 0) 、帰京の命を受けて旅人する従来の説では納得し難いものが私にはある は大宰府から都に戻る。だが、翌年の秋この象の小川を再ならば、よりフィジカルに女帝の行幸を捉えることは出来 ぬものであろうか。 び訪れることなく彼は六十七歳の生涯を終えるのである。 だぎいふ くにす しばの
189 巻第 221 反歌一一首 さみ 二川妻もあらば摘みて食げまし沙弥の山野の上のうはぎ過ぎ にけらずや きた みおも あめっちひっき たふと ここだ貴き天地日月と共に足り行かむ神の御面と継ぎ波。トヰはトヲムと同源で、盛り上がる、 湾曲する、の意。〇梶引き折りてー梶も くもゐ なかみなと 来る中の湊ゅ舟浮けて我が漕ぎ来れば時っ風雲居に吹折れよとばかりに強く引き付けて漕いで。 梶↓一五三 ( 沖っ櫂 ) 。天候の急変にあわて さわ て近くの避難所を求めるさま。〇をちこ くに沖見ればとゐ波立ち辺見れば白波騒くいさなとり ちの島ーヲチコチ↓一二 0 ( こちごち ) 。ヲ しあく かしこ チは向こうの方。点在する塩飽諸島をさ 海を恐み行く舟の梶引き折りてをちこちの島は多けど す。〇名ぐはし↓吾。終止形の連体形的 おと ありそも さみね しげ用法。〇荒磯面ーアリソオモの約。オモ 名ぐはし狭岑の島の荒磯面に廬りて見れば波の音の繁は方の意。島には東北方にナカンダの浜、 あらとこ い、中央のくびれの西側に西の浜があるが、 はまへ き浜辺をしきたへの枕になして荒床にころ臥す君が家海辺の大部分は岩鼻をなしている。〇廬 りてーイホルはイホイルの約。木や竹の き たまこ ゅ っ 知らば行きても告げむ妻知らば来も問はましを玉桙の柱に茅などを屋根に葺いて人り雨露を浚 ぐこと。〇荒床ー荒れ果てて人気のない 寝床。〇ころ臥すーコロは、ひとりで、 道だに知らずおほほしく待ちか恋ふらむ愛しき妻らは 自ら、の意。〇おほほしく↓一七五。ここ は心が晴れ晴れしないことにいう。〇愛 しき妻らはー愛シはいとしい。妻ラのラ は複数を表さない。 妻もあらばーこの死人の妻でもここ にいたとしたら。〇食げましータグ は飲食する意。〇沙弥の山ー沙弥島の山 しんら の意。この山には東方に新地山 ( 二八 ) 他三つの小さな山がある。〇うはぎーよ めなの古名。きく科の多年草。若芽を食 用にする。 っ た かぢ まくら わこ い と うへ
171 巻第二 200 短歌一一首 ひっき ひさかたの天知らしぬる君故に日月も知らず恋ひ渡る 力も ゅふへいた は 宮ー高市皇子の宮殿。藤原京左京三坊辺 さす日のことごと鹿じものい這ひ伏しつつぬばたまの りかといわれる。埴安の池を隔てて香具 うづら タに至れば大殿を振り放け見つつ鶉なすい這ひもとほり山に対していたのでいうか。〇過ぎむと 思へやー思へヤは反語。〇玉だすきーカ はるとり さもら クの枕詞。〇かけて偲はむーいつも心に 侍へど侍ひ得ねば春鳥のさまよひぬれば嘆きもいまだ かけてお慕いしよう。 こと くだら かむ 0 この歌の中で作者人麻呂が最も力を注 過ぎぬに思ひもいまだ尽きねば言さへく百済の原ゅ申 丐↑いでいるのは壬申の乱の戦闘場面の描写 とこみや きのヘ はぶ である。高市皇子本人の活躍を描いたの はぶ 葬り葬りいませてあさもよし城上の宮を常宮と高くし はその一部であるが、皇子が天武天皇側 よろづよの総指揮官として尽した功は高く評価さ わおきみ たてて神ながら鎮まりましぬ然れども我が大君の万代れ、この後多くの皇子をさしおいて草壁 皇子に次ぐ地位を与えられていた。草壁 おも かぐやま と思ほしめして作らしし香具山の宮万代に過ぎむと思皇子の薨後、高市皇子は皇太子に準じる 扱いを受け、太政大臣に任ぜられた。草 かしこ しの へや天のごと振り放け見つつ玉だすきかけて偲はむ恐壁皇子の生母である持統天皇にと。て、 高市皇子の存在は頼もしいと同時に無気 味でもあった。その皇子が薨じた時の悲 N/ あ一 . り - A 」、も 嘆の気持を後半部は巧みに述べている。 この歌は、長歌に秀でた人麻呂の作品中 でも格別の雄篇とされ、用語の修辞の上 でも、漢籍から学んだとみるべき点が多 天知らしぬるー高市皇子の薨去をい う。〇日月も知らずーヒッキ↓一六七。 悲嘆のあまり月日の経過もわからないこ とをいう。 あめ かむ おとの あめ しづ しし きみゆゑ し ふ
なびくのに似ており手に持った弓の弭の騒がしさは雪の降る冬の林に 〇弓弭ー弓のハズ。ハズは弓の両端の弦 こうぞ 〈また「木綿の林に」〉つむじ風が一面に吹き巻くのかと思うほど音ものす を掛ける部分。〇「木綿の林」ー木綿は楮 集ごく〈また「皆の者が見てあわてるほどで」〉引いては放っ矢のしきりであるこの皮の繊維。その色の白さを雪の降った あられ 冬の林にたとえたか。あるいはフュがロ 葉とまるで大雪のように乱れて来ると〈また「霰のように矢が寄って来ると」〉 誦のうちにユフと転倒したか。〇つむじ ー旋風。〇繁けくー形容詞シゲシのク語 萬従わず手向かった敵も ( 露霜の ) 死なばままよと ( 行く鳥の ) 先を争って 法。シゲシは隙間もないほどにおびただ 戦うその時に〈また「 ( 朝霜の ) 死ぬなら死ねとばかりに命も惜しまず戦っている最 しいこと。「天武紀」元年七月二十二日 中」〉渡会の伊勢の神宮から神風で敵を混乱させ天雲で日の目も見せ ( 太陽暦八月二十四日 ) の条に、最も激し かった瀬田川の会戦のさまを写して、旗 しようこ あいじん ず真っ暗に蔽い隠して鎮定された瑞穂の国をおんみずからお治めに は野を蔽い、埃塵天に連なり、鉦鼓の音 とどろ たけちのみこ は数十里に轟き、大弓は乱射され、矢の ・こと なって ( やすみしし ) わが高市皇子が朝政を統轄されたのでいつまでも 降ること雨の如くであった、と記す。〇 そうあるだろうと〈また「こうあるだろうと」〉 ( 木綿花の ) めでたく栄えている折大雪の乱れて来れーノは、、のように。 あらきのみや 来レは来レ・ハの意。已然形で言い放っ法。 も折わが皇子高市皇子の宮殿を〈また「 ( さす竹の ) 皇子の宮殿を」〉殯宮とし 〇「そちより来れば」ーソチはサッ ( 六 l) の て飾り立てて平生使っておられた従者たちも真っ白な麻の喪服を着て転か。ョリは寄リの意であろう。〇露霜 はにやす みかど のー消の枕詞。ッュシモ↓一三一。〇消な 埴安の御門の原に ( あかねさす ) Ⅱ ば消ぬべくー消えるなら消えてもよいと ばかりに。消はケ・ケ・ク・クル・クレ ・ケと下二段に活用した。〇行く鳥のー 争フの枕詞。敵が先を争って進んで来る 様子を、飛んで行く鳥が先を争うさまに たとえた。〇争ふはしにーハシは時・折 などの意。〇「朝霜の」ー消の枕詞。〇 「消なば消と言ふにーー下の消は命令形。 おお はず みず おお