朝臣 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)
117件見つかりました。

1. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

萬葉集 64 かすがのくらびとおゅ みののむらじ 三野連名はわからないが唐に行く時に、春日蔵首老が作った歌 めさささ っしま 硯 ( ありねよし ) 対馬の海の海神に幣を捧げて一日も早く帰国なさい やまのうえのおみおくら 一三野連岡麻呂。大宝元年 ( 七 (1) 五月 山上臣憶良が唐にいた時に、本国を思って作った歌 遣唐使に従って渡唐し、神亀五年 ( 七一一 0 さあ皆の者よ早く日本へ帰ろう大伴の三津の浜松もさぞ待ちわびていよ 六十七歳で没。 ニ遣唐使として唐に渡ること。この時 あわたのあそんまひと の遣唐執節使は粟田朝臣真人。山上憶良 しきのみこ けいうん なにわのみや 慶雲三年に、難波宮に行幸された時に、志貴皇子が作られた歌 もその一行の中にあった。ただし台風に 葦辺を浮んで行く鴨の翼に霜が降 0 て寒い晩には郷里の大和が思われる遭い、出発は翌年に延期された。『続日 本紀』慶雲元年 ( 七 0 四 ) 七月の条に粟田真人 ながのみ ( 長皇子のお歌 の帰朝報告が載っている。それによると 霰がたばしる安良礼松原は住吉の弟日娘といくら見ていても見飽きない楚州塩城県 ( 現江蘇省沿岸中部 ) に着いた ことが知られる。 ありねよしー対馬の枕詞。〇対馬の 渡りー対馬海峡。この時の遣唐使は 第七次に当り、天智八年 ( 六六九 ) に派遣さ れた第六次のそれから三十三年を経過し ている。それまでは朝鮮半島の西岸を北 上する、いわゆる北路がとられていたが、 第七次以降は、肥前から直接唐に渡る南 路をとった。ただし春日老は今回も北路 をとると予想して詠んだのであろう。 0 海中ー海原の真っ只中。〇幣取り向けて ーヌサは、神に祈願する時、特に旅の無 たむけ 事を祈る時に捧げる品。取リ向クは手向 ( 三四 ) として奉ること。 ・ 6

2. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

ぎ進める具。ヌクは貫く。〇いさなとり ↓一三一。海の枕詞。〇海路に出でてー三枩 の左注に記すところによれば、作者たち の一行は越前の国府に人ろうとしている たけふ もののようである。国府は今日の武生市 の地。険しい南条山系を避けて、およそ 海上一六はじ、陸上一一じの迂回コース が一般にとられていた。〇あへきつつー アヘクは息を切らしながら苦しそうに呼 吸すること。クは清音。〇ますらをの手 結が浦ーマスラヲノは地名手結ガ浦の枕 角鹿の津にして舟に乗る時に、笠朝臣金村の作る歌一首剏 詞。手結ガ浦は敦賀市田結の海岸。敦賀 湾の東岸に当る。普通名詞としてのタュ ヒは足結に対するものであろうが、具体 せて短歌 的にはいかなるものか不明。武士の籠手 とも、たまき・くしろの類の、手にまと 越の海の角鹿の浜ゅ大舟に真梶貫き下ろしいさなとり う装飾とも、袖を結ぶ紐ともいう。〇海 たゆひ 海路に出でてあへきつつ我が漕ぎ行けばますらをの手結人娘子。〇塩焼く「武烈前紀」に 天皇の供御の塩は越前角鹿産に限るとあ あまをとめしやけぶりくさまくら る。〇見る験ーシルシは効果。〇海神の が浦に海人娘子塩焼く煙草枕旅にしあればひとりして 手に巻かしたるー玉ダスキの玉を起す序。 しるし わたつみ 海神↓一吾巻カスは巻クの敬語形。〇玉 一一一見る験なみ海神の手に巻かしたる玉だすきかけて偲ひっ だすき↓一一九。カケの枕詞。〇かけて偲ひ 巻やまとしまね っ↓六。〇大和島根↓三 0 三。海上から敦賀 大和島根を 湾越しに陸地を見ているのでシマネとい ったのであろう。この大和は家人の住む 平城京を中心として奈良盆地をさす。 しつやま 塩津山うち越え行けば我が乗れる馬そっまづく家恋ふら しも うみち こし がね っ つのが おにぶね あ わこ かさのあそみかなむら まかちぬ お しの あゆひ

3. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

たまも 刈りつめー刈り集めよ。ツメは下二 潮が干たら玉藻を刈って蓄えておけ家の妻が浜のみやげをねだったらほ 段活用ッムの命令形。下二段ッムは かに何を見せたらよかろうか 四段の積ムと同源で、集める、貯える、 集秋風の寒い夜明けに佐農の岡を越えているであろうあの人に着物をお貸の意。以上、従者などに向って呼びかけ た言葉。〇浜づとー浜からのみやげ。〇 葉しすればよかったのに 何を示さむー何もないから玉藻でもやろ なのりそ う、という気持。 萬みさごが住む磯辺に生える勿告藻ではないがその名告っていけない名を教 寒き朝明をーアサケはアサアケの約。 えておくれ母親は気づいても 日の出前のもう明るい時分をいう。 このヲは、、なるものを、の意。〇佐農 ある本の歌にいう の岡ー所在末詳。〇越ゆらむ君に衣貸さ あらいそ なのりそ みさごが住む荒磯に生える勿告藻ではないがその名を教えておくれ両親 ましをーマシは事実と反対の場合を仮想 する助動詞。キミは男を呼ぶのに用いる に知られてもいいではないか 称で、女性に代って詠んだ歌とも、男の かさのあそんかなむらしおつやま 笠朝臣金村が塩津山で作った歌一一首 友人をさしたとも解される。 とび みさごー鷲鷹目みさご科の鳥。鳶と ますらおが弓末を振り立てて今射た矢を後で見る人よ語り伝えてくれ 同じくらいの大きさで、魚を捕えて 食う。〇磯廻↓四一一 ( 荒き島廻 ) 。〇なのり そー海藻名、ほんだわら。しばしば「な の 告りそ」の掛詞として用いる。女の名は 見知らぬ男に教えてはならないものだと されていたので、「な告りその名ーと続く。 以上三句は有意の序。〇名は告らしてよ ー告ラシは告ルの敬語形告ラスの連用形。 テョは完了の助動詞ツの命令形。告ルは 重大な内容を発表する意。女が男にその 名を告げることは男に身を許すことであ さぬ

4. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

213 巻第三 249 252 ~ 荒たへの藤江の浦にすずき釣る海人とか見らむ旅行く かきのもとのあそみひとまろ 柿本朝臣人麻呂の羈旅の歌八首 こもえ かしこ 三津の崎波を恐み隠り江の舟公宣奴嶋尓 ちかづ のしま たまもか みぬめ 玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島の崎に舟近付きぬ をとめ 一本に云はく、「処女を過ぎて夏草の野島が崎に廬り われ す我は」 あはち みつ 淡路の野島の崎の浜風に妹が結びし紐吹き返す われ あら 一本に云はく、「白たへの藤江の浦にいざりする」 ふぢえ たび いも ひも 留めないその岬をいうか。〇「処女を過 ぎて : こー三六 0 六にこの歌が見え、この歌 との異同を編纂者が校異の形で示した注。 うないおとめ ヲトメは芦屋の菟原処女 ( 一合 l) の伝説か ら生れた地名か。それによれば、芦屋市 および神戸市東部一帯の地をいうと考え られる。〇「廬りす我は」ー「我は廬りす」 を倒置したもの。廬リス↓一三五 ( 廬りせる かも ) 。 浜風にー浜風をして、の意。使役格。 〇妹が結びしー男女が逢って別れる 時、互いに相手の紐を結び、また逢う日 まで解かないことを誓う風習があった。 〇紐吹き返すー紐ヲ吹キ返サシムの意。 風の翻すままにさせていることを表す。 荒たへのー藤の枕詞。〇藤江の浦ー 兵庫県明石市の西部藤江の海岸。沖 に鹿の瀬と呼ばれる漁場がある。〇すず きーすずき ( 鱸 ) 科の一内外にも達する 魚。〇海人とか見らむー知らぬ人は卑し い身分の漁師と見ることであろうか。〇 「白たへのーー藤の枕詞。白タへ↓一藤 布をもタへということがあったと思われ る。〇「いざり」ー魚を捕ること。 や「荒たへの」の歌は三六 0 七にも人麻呂の歌 として注記されているが、「白たへの」の 方は、そこでも作者名が示されていない。 251

5. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

かきのもとのあそんひとまろ かりじ ながのみこ 長皇子が猟路の池に狩をしに赴かれた時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌 ↓六 0 題詞。 はいばら 一首と短歌 一一所在末詳。一説に宇陀郡籐原町、近 みこながのみこ おおきみ 集 ( やすみしし ) わが大君の ( 高光る ) わが日の御子長皇子が馬を並べて狩鉄籐原駅の西南一帯をさすかという。こ かりじおの の「猟路の池」はこの付近が宇陀川の上流 葉に出かけていらっしやる ( 若薦を ) 猟路の小野に鹿ならひざまずいて拝み に当り、特に支流の東川 ( 芳野川 ) との合 うずら 萬 もしよう鶉なら這いもまわろうその鹿のようにひざまずいて拝みその流点は盆地底をなし、池を現出しやすい、 その水面を称したのでないかとする説が 鶉のように這いまわって恐れ多いことだとしてお仕え申し ( ひさかた ある。 9 我が日の皇子↓一七一。長歌では一般 の ) 天を見るように ( まそ鏡 ) 仰いで見ても ( 春草の ) いよいよお慕わし に「日の皇子」四音のみで一句を成す。 いわが大君よ 〇み狩立たせるータタスはタッの敬語形。 このタッは出発する意。〇若薦をー地名 反歌一首 猟路のカリにかかる枕詞。若いコモ ( 突 ) ( ひさかたの ) 天を行く月を網に捕えわが大君は蓋になさっている を刈る意でかけた。〇猟路の小野ー小野 は大野 ( 一九 l) の対。人間生活が営まれて ある本の反歌一首 いる親しみやすい野。〇鹿こそばい這ひ 川わが大君は神でいらっしやるので真木が茂り立っ荒れた山中にも海を作拝めーシシは狩猟獣、特に鹿・猪をさす ことが多い。ここは鹿をさす。イは接頭 られることだ 語。ヲロガムはヲガムの古形。〇鶉こそ い這ひもとほれ↓一究 ( 鶉なすい這ひもと ほり ) 。鶉のよく歩きまわる性質とこれ が代表的猟鳥であるところから、狩場の 勢子の身をかがめて動きまわるさまにた とえた。〇鹿じものー鹿でもないのにま るで鹿ででもあるかのように。〇恐みと ↓一一一一三 ( 知らにと ) 。〇ひさかたのー天の あみ しか きぬがさ

6. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

187 巻第二 218 ~ 220 た も 短歌一一首 ささなみ しがっ まかぢ 楽浪の志賀津の児らが〈一に云ふ、「志賀の津の児が」〉罷り道の 川瀬の道を見ればさぶしも さぬき さみね 讃岐の狭岑の島にして、石の中の死人を見て、柿本朝臣人麻 呂の作る歌一首剏せて短歌 さぬき 玉藻よし讃岐の国は国からか見れども飽かぬ神からか かはせ そ つるぎたち ね 大津ノ児は志賀津ノ児に同じ。大津ノ児 剣大刀身に副へ寝けむ若草のその夫の子はさぶしみか ガ逢フは、作者の意志より大津ノ児の意 ぬ 思ひて寝らむ悔しみか思ひ恋ふらむ時ならず過ぎにし児志を主とした表現。〇見しくー見キのク 語法。ク語法は活用語の連体形に、こと、 あさっゅ ゅふぎり ところ、などの意の形式名詞アクが付い らが朝露のごとタ霧のごと て約まったものと説明されるが、このシ クの場合のみは例外的に、キの連体形シ にクが付いたと考えられる。 0 志賀津ノ児・大津ノ児という名も彼女 が近江朝の人であったことを示す。人麻 呂の活躍した藤原京時代には既に伝説的 存在であったと思われる。采女には恋愛 の自由がなかったようで ( 五 0 七 ) 、自殺の 原因もそのことと関係があろう。 しやみ 一香川県坂出市沙弥島。坂出港の北西 一一・五結 ) の位置にある周囲二 ) 余の小 島。昭和三十九年に坂出との間にあった ばんす そら数ふ大津の児が逢ひし日に凡に見しくは今ぞ悔しき浅瀬番の州の埋立工事が始められ、番の 州工場地帯と変貎し、地続きとなった。 サミネのネはこの付近の平根・赤穂根な どの島名と同じく島根のネかという。 玉藻よしー讃岐の枕詞。ヨシ↓一七 ( あをによし ) 。〇国からかー国その もののせいでか。カラは、本来、そのま まであることを表す形式名詞。山カラ・ 川カラ ( 三一となどの例もある。神力ラも 同様。 ろ かぞ おっ くや いはなかしにひと つま あ かきのもとのあそみひとま かむ こ 220

7. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

れた。一二八の歌の中で「志賀津の児ら」と あり、その志賀は滋賀県大津市の北部を いい、その相違は疑問であるが、吉備の 津は生国、志賀は生前の居住地かとする 説による。 7 秋山のーシタフの枕詞。〇したへる 妹ーシタフは木の葉などが赤く色づ くこと。ここは美しい采女の形容に用い た。〇なよ竹のーなよなよした竹のよう に。トヲヨルの枕詞。〇とをよるーしな やかに寄り添う意か。トヲはトヲムの語 たまどこ こまくら わや 家に来て我が屋を見れば玉床の外に向きけり妹が木枕幹、タワム・タワタワのタワに同じであ ろう。〇いかさまに思ひ居れかー思ヒ居 レカは思ヒ居レ・ハ力に同じ。下の「時な らず過ぎにし」の動機を推量したもの。 こうぞ きびのつのうねめ 〇栲縄のー長シの枕詞。タクは楮の類か 吉備津采女の死にし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首剏せ ら採った繊維。〇長き命をー当然ならば 長生きする命であるのに。このヲは、 て短歌 なるものを、の意。〇消ゆといへーこの トイフは伝聞の助動詞のように用いたも ル秋山のしたへる妹なよ竹のとをよる児らはいかさまに の。コソ ( ・ハ ) の結び。〇梓弓↓一一 0 七。こ たくなは いのちっゅ こも音の枕詞。〇凡に見しーオホは物の 思ひ居れか栲縄の長き命を露こそば朝に置きてタには 形のはっきりしない状態にも、見る者の 第 巻 き きり あした あづさゆみ深く注意しないことにもいう。ここは後 消ゆといへ霧こそばタに立ちて朝には失すといへ梓弓者。〇しきた ( の↓一一。ここは手枕の枕 8 詞。〇手枕まきてー女の手を枕にして。 おと おに くや 音聞く我も凡に見しこと悔しきをしきたへの手枕まきてマクは枕にする意の四段動詞。 ふすまぢ ひきぞ やまち 巫衾道を引出の山に妹を置きて山道思ふに生けるともなし 短歌三首 去年見てし秋の月夜は渡れども相見し妹はいや年離る こぞ いへき を われ つくよ ゅふへ あひみいも こ あした う たまくら さか ゅふへ

8. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

127 巻第二 140 141 のちのをかもとのみやあめしたをさ すめらみことみよあめとよたからいかしひたらし 後岡本宮に天の下治めたまふ天皇の代天豊財重日足 ひめのすめらみこと ~ 姫天皇、譲位の後、後岡本宮に即きたまふ あひわか よさみのをとめ かきのもとのあそみひとまろ その政治目的達成のために政敵を次々に 柿本朝臣人麻呂の妻依羅娘子、人麻呂と相別るる歌一首 倒し、孝徳天皇さえも孤立させられ憂憤 おも Ⅷな田」ひと君は言 ( ども逢はむ時いっと知りてか我が恋ひのうちに崩じたことを思い、斉明三年 ( ~ ( 毛 ) 九月狂気をよそおい、その療養のた むろ めと称して紀伊の牟婁の湯 ( 白浜温泉湯 ざらむ 崎 ) に赴いた。やがて帰京し、斉明天皇 にその効の顕著なることを説いたため、 翌年十月天皇は皇太子と共に紀伊に行幸 そがのあかえ した。その間の留守官蘇我赤兄は皇子に 現体制の失政の数々を挙げて謀反を勧め、 ようやく皇子の心が動いたのを見てその 夜皇子を襲撃逮捕した。十一月九日皇子 は牟婁に護送され、皇太子自らの訊問を 受けた。有間皇子は、天と赤兄とのみが 知る、自分は知らぬ、と答えた。許され て帰京するかと思われたが、十一日藤白 坂 ( 海南市藤白 ) で絞首刑に処せられた。 ひだかみなべ 川磐代ー和歌山県日高郡南部町西岩代 および東岩代の地。現在西岩代小字 むすび 結の海岸近くに、有間皇子結び松の遺跡 がある。〇浜松が枝を引き結びー草の葉 や木の枝を結ぶことは古代の予祝儀礼の 一つ。〇ま幸くあらばーマサキクは無事 にの意。護送先で処刑されるかもしれな ありまのみこ みづかいた 有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌一一首 いが、もし許されてまたこの磐代の地を 通ることがあったならば、という仮定を さき いはしろ 川磐代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまたかへり見表す。 挽歌 ばん ふじしろ

9. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

69 巻第一 70 ~ 72 たけちのむらじくろひと おきすめらみことよしののみやいぞま 三『続日本紀』には文武天皇の在位期間 太上天皇、吉野宮に幸す時に、高市連黒人の作る歌 中の難波行幸として、その三年 ( 六究 ) 正 よぶこどりきさ R 大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象の中山呼びそ越ゅなる月と慶雲三年 ( 占〈 ) 九月との二回が記さ れている。 眠の寝らえぬにーイは眠り。ラエは 受身・可能・自発を表す助動詞一フュ さきのすめらみことなにはのみやいぞま の未然形。〇州崎廻ースサキは水中に突 大行天皇、難波宮に幸す時の歌 き出た州。ミ↓四一一 ( 荒き島廻 ) 。〇鶴ーツ すさきみ ルの歌語だが、つる科の鳥だけでなく、 月大和恋ひ眠の寝らえぬに心なくこの州崎廻に鶴鳴くべ白鳥のような大型の鳥を広く称した。 四伝未詳。 玉藻刈るー沖の枕詞。〇しきたへの しゃ ー枕・手枕・袖などの枕詞。シキタ たえ へは敷物に用いる栲の意か。〇枕のあた りー原文は「枕之辺人」とあってマクラノ へヒトと読むしかないが、「人」は枕席に 侍した遊女などの存在を暗示するために 加えた字か。 ふびと 五藤原朝臣宇合。不比等の第三子。霊 亀一一年 ( 七一六 ) 遣唐副使、養老三年 ( 七一九 ) 正 五位上常陸守、神亀三年 ( 七一一六 ) 式部卿従 三位として知造難波宮事となる。天平九 年 ( 当七 ) 正三位で没。式部卿は式部省の 長官。この歌が詠まれた慶雲三年 ( 七 0 六 ) 当時十三歳で、歌の内容からみて疑問が なくはない。古写本によっては、その目 録に「作主未詳歌ーとだけあるものがある。 たまも おきへ 玉藻刈る沖辺は漕がじしきたへの枕のあたり忘れかね つも ながのみこ 長皇子の御歌 右の一首、忍坂部乙麻呂 しきぶのきゃうふぢはらのうまかひ 右の一首、式部卿藤原宇合 みうた こ 四 おさかべのおとまろ まくら たづ

10. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

53 巻第一 45 ~ 47 かきのもとのあそみひとまろ カるのみこ にする、押し伏せる意のナプの連用形。 軽皇子、安騎の野に宿る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌 〇坂鳥のー朝越ュの枕詞。坂鳥は山坂を わおきみたかて かむ 妬やすみしし我が大君高照らす日の皇子神ながら神さび越え行く鳥の意だが、現在朝早く沼地か ら飛び立っ水鳥を山の上に張った網で捕 みやこ はっせ る猟法を坂鳥という地方があり、ここも せすと太敷かす京を置きてこもりくの泊瀬の山は真木 それと関係があるか。〇玉かぎるータの さかどり やまち いはねさへき 枕詞。カギルは光り輝く意。〇はたすす 立っ荒き山道を岩が根禁樹押しなべ坂鳥の朝越えまし きー穂が旗のようになびいているすすき あき の意か。〇古ー軽皇子の父草壁皇子がこ て玉かぎるタさり来ればみ雪降る安騎の大野にはたすの地で狩をした数年前をさす。 三長歌に添えられた短歌は「反歌」と記 しの くさまくらたびやど いにしへおも すき篠を押しなべ草枕旅宿りせす古思ひて すのが一般。しかしこのように「短歌」と 記されることも往々あり、特に人麻呂の 作品に多い。これについて、従来長歌の 内容の単なる繰返しであった従属的存在 の反歌が、半ば独立した趣を持つように 短歌 なったことと関係があり、人麻呂がその いにしへおも 安騎の野に宿る旅人うちなびき眠も寝らめやも古思ふ使い分けを始めたのでないか、とする説 もある。 うちなびきーウチは接頭語。このナ に ビクは横になる意。〇眠も寝らめや もーイは眠り。動詞ヌ ( 寝 ) と複合してイ ヌとなる。ラメャ ( モ ) は現在推量の反語。 ま草刈るー荒野の枕詞。〇もみち葉 のー過グの枕詞。〇過ぎにし君ー亡 くなった草壁皇子をさす。このスグは人 の死を表す。 ま草刈る荒野にはあれどもみち葉の過ぎにし君が形見と そ来し くさ ふとし あらの ゅふ たびひと やど ひみこ かたみ