大津皇子 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)
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1. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

あの人を大和に帰し見送ろうとして夜も更けて暁の露にわたしは立ち濡 れたことだ 集二人で行っても行き過ぎにくい秋山をどんなにしてあの人はひとり越え 葉 ていることやら いしかわのいらつめ 萬 大津皇子が石川郎女に贈られたお歌一首 ( あしひきの ) 山のしずくにあなたを待ってわたしは立ち濡れた山のしず 石川郎女が唱和した歌一首 わたしを待ってあなたが濡れたという ( あしひきの ) 山のしずくになれた らよいのに くに 5 我が背子ー夫や恋人に用いることが 多いが、ここは弟の大津皇子をさす。 〇遣るー行かせる。強制的語調が認めら れる。〇暁露ーアカトキに置く露。アカ トキはアカッキの古形。これから夜が明 けようとする暗い時刻。原文の「鶏鳴」は 丑の刻の異名で、字義に忠実にいえば、 番鶏の鳴く時分であるが、それよりな お夜半 ( 子の刻 ) に近く、むしろ午前一一時 前後をさしたもののようである。『日本 書紀』には、九月二十四日大津皇子の謀 反のことが見え、十月二日に逮捕された とある。皇子の伊勢下向はその九日間の 行動であったと思われる。飛鳥から伊勢 までの距離は約一〇〇 ) 、往復五日の 道のりである。この歌の詠まれたのは、 前後から推測して九月三十日 ( 太陽暦十 月二十二日 ) 、月のないアカトキであっ たろう。〇我が立ち濡れしーシは過去の

2. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

143 巻第二 163 164 編見まく欲り我がする君もあらなくになにしか来けむ馬疲 ~ らしに ふぢはらのみやあめしたをさ すめらみことみよたかまのはらひろのひめのすめらみこと 藤原宮に天の下治めたまふ天皇の代高天原広野姫天皇、天 ていがい みくらゐカるのひつぎのみこゅづ おきすめらみこと 皇の元年の丁亥、十一年に位を軽太子に譲り、尊号を太上天皇といふ る。〇なにしかーナニは理由や動機を尋 ねる疑問副詞。〇君もあらなくにー大津 皇子も死んでこの世にいないのに。 ◆『歌経標式』に、「大伯内親王、大津親 王に恋ふる歌」として、この歌の上三句 が見えている。 こう おはつのみこ いっきのみやみやこの 見まく欲り我がする君もー見マクは 大津皇子の薨ぜし後に、大伯皇女、伊勢の斎宮より京に上る 見ムのク語法。ホリスは欲する意。 四段動詞ホルの連用形にサ変動詞スが付 時に作らす歌一一首 いた形。 ◆この歌、『歌経標式』に、下二句が「な 神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらににか来けむ馬疲らしに」という形で残 っている。 三金剛山 ( 一一一一一 1 しを主峰とし、そ なくに いこま の北の今いう葛城山を合せ、生駒山地と 共に奈良県と大阪府との境をなす。 たいま 四奈良県北葛城郡当麻町の西にある山。 葛城連山の北端に位置し、その山頂は南 の雌岳 ( 四七四 ) と北の雄岳 ( 五一七 ) の二つに分れ、雄岳の頂に大津皇子の墓 がある。 いわれおさだ ふたがみ 五処刑された磐余の訳語田から二上山 頂に移葬したことをいう。殯宮は営まれ なかったと思われる。謀反が発覚した十 月二日以後、「皇子大津ー「妃皇女山辺」 と書かれ、罪により庶人に準ずる扱いを 受けている。↓四一六題詞。 かむかぜ 四 かばねかづらきふたがみやま五 かな 大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀 傷びて作らす歌一一首 し おくのひめみこ はぶ き き つか

3. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

-4 かるのひつぎのみこ 葉 萬 たかまのはらひろのひめのすめらみこと 藤原宮の天皇の御代高天原広野姫天皇 ( 持統 ) 、天皇の十一年に位を 軽太子 ( 文武 ) に譲り、尊号を太上天皇という おおつのみこ 大津皇子が亡くなった後に、大伯皇女が伊勢の斎宮から上京した時に作 られた歌一一首 ( 神風の ) 伊勢の国にいればよかったのになんで来たのだろうあの方もい ないのに 逢いたいと思うあの方もいないのになんで来たのだろう馬を疲れさせに なのか かつらぎ 大津皇子の遺体を葛城の二上山に移葬した時に、大伯皇女が悲しんで作 られた歌一一首 おおくのひめみこ 一後の文武天皇。↓一ズ標目下注。 あかみとり ↓一 9 題詞。天武三年から朱鳥元年 まで十一一年間斎宮として伊勢に在った。 この時一一十六歳。 伊勢の国にもあらましをーマシ ( モ ノ ) ヲは音数の上で余裕があれば上 に助詞モをとりやすい。このようなモは、 希求のナムやヌカ ( モ ) の多くがモを伴う のと同じく、並立や添加というより例示 という方が近い。ここも、侘しかった伊 勢だって弟のいない大和よりはよっぽど よかった、という気持でモが使われてい 163

4. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

女郎の通称は山田郎女といった。宿奈麻呂宿禰は大納言兼大将軍 ( 安麻呂 ) の三男 である おさな 集年老いたばあさんのくせにこれほどまでも恋に溺れようことかまるで幼 葉子のように〈また「恋くらい辛抱できないものか幼子のように」〉 ながのみこ や 萬 長皇子が弟皇子にお遣りになったお歌一首 丹生の川の瀬など渡らずにまっすぐに恋しくてたまらない弟よさあ通っ て来ておくれ かきのもとのあそんひとまろ いわみのくに 柿本朝臣人麻呂が石見国から妻と別れて上京して来る時の歌一一首と短 いわみ つの かた 川石見の海の角の海岸を浦がないと人は見るだろうが潟がないと〈また「磯 がないと」〉人は見るだろうがえいままよ浦はなくてもえいままよ日 おな かよ 古りにし嫗ーオミナは老婆。宿奈麻 呂が従五位下にな 0 た和銅元年宅 0 0 は大津皇子の死後一一十一一年目に当り、 この歌がそのころ詠まれたものとすれば、 大津皇子の愛人であった石川女郎は当時 四十歳前後であったと思われる。〇かく ばかり恋に沈まむー年甲斐もなく恋に溺 れる自分に対する自嘲。〇手童ー手に抱 くほどの幼子。〇「恋をだに忍びかねて む」ーたかが恋の苦労ぐらいのことを、 こうも辛抱できないほど不甲斐なくあろ - っこし J' カ 一天皇の弟の意だが、ここは長皇子の 弟をいう。同母弟であるいは双生かとい ゅげの う弓削皇子をさすか。 丹生の川ー丹生は本来水銀の原料で ある丹 ( 辰砂 ) を産出する所をいう普 通名詞。固有名詞としての丹生・丹生川 は各地にあるが、ここは奈良県吉野郡大 てんじよう 天井ヶ岳の北西方に発し、五條市で吉野 川に注ぐ丹生川か。〇瀬は渡らずてー皇 弟が浅瀬を求めかねてこちらへ来るのが 遅いことをいう。この前後寓意があるか。 〇ゆくゆくとーどんどん行くことを表す にしんしゃ おお

5. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

395 付録 ( 萬葉集関係略年表 ) 文 武 持統 きよみまらの 一一六七三一一月浄御原宮に即位、齲野皇女 ( 持統 ) 立后。 一一一六七四十月大儷皇薪どなって伊勢神宮に向う。 とちの あえの 四六七五一一月十市皇女・阿閉皇女ら伊勢神宮に参赴。吹 ~ 欠刀自の歌 ( 1 一三 ) 。四月麻続王時幡に配流 ( 万葉集に は伊勢国伊良ル島に流されるとあり ) 。 七六七八四月十市皇女卒然に発病し薨する。高市皇子の挽歌 ( 2 一五六ー一五八 ) 。 ( さかべおっ 八六七九五月五日吉野に行幸。天皇の御製歌 ( 1 二七 ) 。六日草壁・大津らの諸皇子と共に盟約。 一〇六八一二月浄御原令の編纂を開始。草壁皇子立太子。 六八一一四月男女結髪の制を定める。 一一一六八一一一二月大津皇子始めて朝政に参与する。七月・。丑薨。十一一月難波宮を修営、副都にする計画あり。 朱鳥元六八六七月改元。女子に限り結髪令を解除。九月九日天皇崩御。同二十四日大津皇子謀反。十月一一日大津皇子 を逮捕。三日死を賜る。皇子の辞世歌 ( 3 四一六 ) 。 とわり 三六八九四月草壁皇子薨。柿本人麻呂の挽歌 ( 2 一六七ー一七〇 ) 。舎人らの慟傷歌 ( 2 一七一ー一九三 ) 。 四六九〇正月天皇即位。九月紀伊国に行幸。川島皇子の作歌 ( 1 三四 ) 。 はっせ 五六九一九月川島皇子薨。人麻呂の泊瀬立ロ皇女らに献ずる挽歌 ( 2 一九四ー一九五 ) 。 六九一一三月伊勢国に行幸。人麻呂の留京作歌 ( 1 四〇ー四二 ) 、、お墅の従駕作歌 ( 1 四四 ) など。 むしやだいえ 七六九三九月天武天皇のために無遮大会を設ける。天皇の夢裏に誦習された御歌 ( 2 一六二 ) 。 えきみん 八六九四十二月藤原宮遷居。役民の作った歌 ( 1 五〇 ) 。 一〇六九六七月高市皇子薨。人麻呂の挽歌 ( 2 一九九ー二〇一 ) 。 元六九七一一月・皇子 ( 文武 ) 立太子。八月持統天皇譲位。 きそめのあずまと 三六九九七月弓削皇子薨。置始東人の挽歌 ( 2 二〇四ー二〇六 ) 。 四七〇〇三月僧逾腓没。日本最初の火葬。四月明日皇女薨。人麻呂の挽歌 ( 2 一九六ー一九八 ) 。 大宝元七〇一正月第七次遣唐使任命。山上憶良少録となる。三月石上麻呂・藤原不比等正正三位大納言に、大伴安麻 呂正従三位となる。八月大宝律令成る。九月紀伊国に行幸。従駕の歌 ( 1 五四ー五五・ 2 一四三ー一四 六 ) 。十一一月大伯皇女薨。 みかわの 同二七〇一一六月第七次遣唐使出発。参河国に行幸。長奥麻呂らの歌 ( 1 五七ー六一 ) 。十二月持統太上天皇崩御。 同三七〇一一一一月忍壁皇子知太政官事となる。十二月持統太上天皇を火葬し、天武天皇の大内陵に合葬する。 おさかべの せんこ な都のおきまろ ふふきのとじ おみの 、なば

6. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

115 巻第二 127 ~ 128 またしんけいな に自媒の愧づべきことを恥ぢ、復心契の果らざることを恨む。そ、真のミャビヲだったのだと認めてい る。 きやくきおく 耳によく似るー噂にそっくり同じだ。 因りて、この歌を作りて謔戯を贈る。 このミミは聞くことの意。〇葦の末 のーウレは木の梢や草の葉先など先端部 をいう語。下のノは、、のように、の意。 同音を繰り返した枕詞としての働きをも 兼ねる。〇足ひくーこのヒクは引きつる の意。〇っとめたぶべしーご自愛なさる がよかろう。ットムは療養に努めるの意。 タブはタマフの約で、それより敬意が薄 四足がひきつりなえること。 五安否を尋ねること。見舞う。「訊」は 「信」と同音。 ちうらう いしかはのいらつめ 六通説では大津皇子と交渉のあった石 同じ石川女郎、更に大伴田主中郎に贈る歌一首 川郎女 ( 一 0 八の作者 ) と同一人で、皇子の あしうれ 我が聞きし耳によく似る葦の末の足ひく我が背っとめた庇護を受けた過去があるので「宮侍」と書 いたとする。 七安麻呂の子。旅人・田主らの弟。和 銅元年 ( 七 00 従五位下。左衛士督を経て、 備後守となり、在任中按察使を兼ね、安 芸・周防の両国を管した。神亀元年 ( 七一一 四 ) 従四位下。『万葉集』には右大弁であっ たことが見える。田村の里に住み、娘に 田村大嬢があった。また異母妹坂上郎女 との間に坂上大嬢らを儲けた。 おとものすくねたぬしこた 大伴宿田主の報へ贈る歌一首 われ かへ 盟みやびをに我はありけりやど貸さず帰しし我そみやびを にはある おにつのみこ 六まかだち とものすくねすくなまろ 大津皇子の宮の侍石川女郎、大伴宿宿奈麻呂に贈る歌一 四 あしひき 右は、中郎の足疾により、この歌を贈りて問訊するなり。 よ じばいは わせ 五 もんしん われ

7. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

萬葉集 102 つもりのむらじとおる いしかわのいらつめ おおつりみこ 大津皇子がひそかに石川女郎と関係を結んだ時に、津守連通がそのこ とを占いあらわしたので、皇子が作られた歌一首実否のほどはよくわから ない ( 大舟の ) 津守連の占いに出るだろうとは百も承知でわれわれは二人で寝 たのだ おおなこ ひなみしりみこのみこと 日並皇子尊が石川女郎に遣わされたお歌一首女郎は通称を大名児という かや Ⅷ大名児を向こうの野辺で刈っている萱のつかの間ほどに短い時間もわた しは忘れるものか ぬかたのおおきみ ゅげのみこ 天皇 ( 持統 ) が吉野宮に行幸された時に、弓削皇子が額田王に贈られ た歌一首 いにしえ Ⅲ古を慕う鳥だろうかゆずりはの御井の上から鳴いて飛んで行く 一「石川郎女」に同じ。 みまさかの ニ和銅七年 ( 七一四 ) 従五位下美作守、養 老七年 ( 七一三 ) 従五位上。養老五年正月陰 みようどう 陽道の達人として朝廷から褒賞された。 三草壁皇子の愛人である石川郎女を大 津皇子が横取りしたという事実を、占い の上に現し出して見せたことをいう。 大舟のー津守の津にかかる即興的な 1 枕詞。大舟の泊る津 ( 舟着き場 ) の意 でかかる。〇津守が占ー津守は元来港の 警備や雑役などに携わる者。人名に付い た格助詞ガはノに比べて、軽視・憎悪な どの気持を表すことが多い。占は占い。 けんこう 多く鹿の肩胛骨や亀甲を焼き、そのひび 割れを見て吉凶を占った。〇告らむーウ ラニノルは神意が占いの上に現れること をいう。告ルに舟の縁語乗ルをかける。 〇まさしにーまさしく。マサは占いの確 実さについて用いられることが多い。 や『懐風藻』には、大津皇子の性格につい すこぶ て「性頗ル放蕩ニシテ法度ニ拘一フズ」とあ る。その無頼性が持統天皇母子にとって 大津排斥の原因となった。この歌下一一句 にも皇子の不羈奔放な人柄がうかがわれ ふきんう おん

8. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

いしかわのいらつめ 石川郎女をめぐって恋の鞘当てをした時の贈答歌は、大津皇子の悲劇的な最期に同情する人々によって伝 承された、大津皇子ものがたりともいうべき、多少の潤色を加えた語り物の中の歌を抜き出してきた、と想 像できなくもない。 やすまろ 大伴氏関係の歌は巻三以下に多いが、それ以前では、この前後の大伴安麻呂と巨勢郎女との贈答 ( 一 0 一・一 0 たぬしいしかわのいらつめ すくなまろ (l) 、その間に生れた田主と石川女郎との応酬 ( 一一一六 、一一一 0 、その田主の弟宿奈麻呂に石川女郎が贈った歌 ( 二 九 ) 、合計六首に限られる。これらの歌は大伴氏の記録から出たのではないであろう。ここでも人麻呂の歌は いわみのくに の 異彩を放っている。石見国から妻に別れて上り来る歌は、その地の景を叙べながら妻のイメージを重ならせ こんぜんおもむき てゆくあたり、景情渾然の趣がある。 ありまのみこ なかのおおえの 挽歌の部は有間皇子の歌 ( 一四一 ・一四 (l) から始る。この有間皇子事件は中大兄皇子 ( 天智 ) の仕組んだ陰謀と さき して知られ、人々の同情は有間皇子の上に集った。そのために後世の歌人も、皇子が「ま幸くあらば」と松 の枝を結んだ磐代の地を訪れては哀傷歌を作った。一四三、 一四六の歌は、その事があってから四十年以上も後の、 さかのを 文武天皇の代に詠まれた歌であるが、有間皇子の歌と関連があるので編者は遡らせて併記したのである。 ほう あかみとり 『万葉集』の編纂には、このようなまとめ方も一面では行われているのである。天武天皇が崩じた朱鳥元年 しようしゅう 説 ( 六〈六 ) に大后 ( 持統天皇 ) が哀傷した歌 ( 一究、一 ~ ( l) の次に挙げた、夢の中で誦習したという歌 (一六 (l) は、そ ひんきゅう の足かけ八年後の持統七年 GGIII) の作であり、正確には六九一年に薨じた川島皇子の殯宮の時の歌 ( 一九四・一 解九五 ) の後にあるべきものである。これも関連併記の例である。 こうきょ とねり 一六七から一一 0 一までは、途中に草壁皇子の舎人が皇子の薨去にゆくえを知らずさまよう歌を挟んではいるが、 けんてい くさか・ヘのみこ 大部分は人麻呂の献呈挽歌であり、質量共に他を圧倒している。その中にあって、一六七の草壁皇子の殯宮の いわしろ さやあ こせのいらつめ

9. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

103 巻第二 109 ~ 111 いしかはのいらつめあ つもりのむらじとる三 大津皇子、竊かに石川女郎に婚ふ時に、津守連通、その事 いまつばひ を占へ露はすに、皇子の作らす歌一首未だ詳らかならず つもりうら おぶね の ふたり 大舟の津守が占に告らむとはまさしに知りて我が二人 寝し 111 四 五 ひなみしのみこのみこと おくたまみうた あざなおなこ 日並皇子尊、石川女郎に贈り賜ふ御歌一首女郎、字を大名児と いふ つかあひだわれ おなこ Ⅷ大名児を彼方野辺に刈る草の束の間も我忘れめや 六 げのみこ ぬかたのおきみおく よしののみやいぞま 吉野宮に幸せる時に、弓削皇子、額田王に贈り与ふる歌一 る。 四草壁皇子。↓一六七題詞。 五本名以外に使われた呼び名。 大名児をー第五句にかかる。〇彼方 野辺に刈る草のーヲチカタは向こう の方。遠くの野辺で刈っている草の一束 の意で、ツカを起す序。〇束の間ーッカ は一こぶしの長さ。短いもののたとえ。 0 自分を捨てて異母弟大津皇子に逢う石 川郎女を引き留めようとして詠んだ歌。 六↓七左注。この行幸は持統四年五月 か五年四月のいずれかであろう。 セ天武天皇の第六皇子。母は天智天皇 ながのみ ( の皇女、大江皇女。長皇子の同母弟。あ るいは双生かともいう。持統七年 ( 六空 ) 浄広弐の位を授けられ、文武三年 ( 六究 ) 没。この歌を詠んだ当時、十八、九歳か。 〈↓七題詞。この当時五十五、六歳か 古に恋ふる鳥かもー第五句の「鳴き 渡り行く」にかかる。このイニシへ は天武天皇在世当時をいうか。この鳥は ほととぎすをさす。 0 ゅづるはの御井の 上よりーユヅルハノ御井は、そばにゆず うへ いにしへ りはの木があるところから名付けられた 古に恋ふる鳥かもゆづるはの御井の上より鳴き渡り離宮の泉か。御井↓至題詞。ヅル ( は とうだいぐさ科の常緑高木ゆずりはの古 名。このヨリは経由地点を表す。 行く おつのみこ 首 うらあら をちかたのヘ ひそ かや みゐ わ 110 111

10. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

99 巻第二 103 104 ふちはらのみやあめしたをさ すめらみことみよたかまのはらひろのひめのすめらみこと 藤原宮に天の下治めたまふ天皇の代高天原広野姫天皇、 ていがい おくりなちとう みくらゐかるのひつぎのみこ 諡を持統天皇といふ。元年の丁亥、十一年に位を軽太子に譲り、 おきすめらみこと ~ 尊号を太上天皇といふ し」「降らまく」に頭韻を踏んで軽快な調 べの中に、相手と共に雪を見られないこ とを残念に思う気持を秘め、格調の高さ、 優しさのこもった佳品である。 我が岡の龕ーオカミは水神。蛇体で 雨を降らせると信じられた。〇雪の こたまっ 摧けしークダケは名詞。シは強めの助詞。 藤原夫人の和へ奉る歌一首 ◆こちらこそ大雪の本家ですと言い返し わ をか おかみ た戯れの歌。 我が岡の龕に言ひて降らしめし雪の摧けしそこに散り = ↓一一〈標目。 三文武天皇。↓一一八標目。 けむ 四天武天皇の第三皇子 ( 持統紀によ る ) 。母は天智天皇の皇女、大田皇女 ( 持 統天皇の同母姉 ) 。天武天皇崩後一一十五 あかみとり 日目の朱鳥元年 ( 交六 ) 十月三日、謀反の 罪によって処刑された。年二十四歳。大 田皇女の死後、天智天皇に愛されて育っ おんとろうろう たといわれ、風貌たくましく音吐朗々と して才学があり、とりわけ文筆を愛し、 詩賦はこの皇子から興ったと『日本書紀』 に記されている。 五天武天皇の皇女。母は大田皇女。大 津皇子の二歳年上の同母姉。天武二年 いっきのみや ( 六当 ) 十三歳で斎宮となり、翌年伊勢に 赴いた。天武天皇が崩じ、大津皇子も没 した後の朱鳥元年十一月還京。大宝元年 ( 七 0 一 ) 没。四十一歳。 わ すめらみことちはらのぶにんたまみうた 天皇、藤原夫人に賜ふ御歌一首 ふ おはら 我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後 四 おほっのみこ いせのかむみやくだ のく おくのひめみこ 大津皇子、竊かに伊勢神宮に下りて上り来る時に、大伯皇女 の作らす歌一一首 ひそ ふ くだ のち しふ