みず あしわら 葦原の瑞穂の国を天と地の寄り合う果てまでもお治めになる神の御子 やえくも として天雲の八重かき分けて〈また「天雲の八重雲を分けて」〉天の神が下 集らせ申した ( 高照らす ) 日の御子の子孫である天武天皇は ( 飛ぶ鳥の ) 清御〇天地の寄り合ひの極みー天地が無限の かなたで寄り合う、その極点まで。表現 葉原の宮におんみずから御殿を営まれてこの国は代々の天皇がお治めにな 自体は空間的無限を表すが、同時に時間 いわと 萬 る国だとして天の原の岩戸を開き天に登りお隠れになった〈また「天に登的永遠をも意味する。〇神の命とー貴い ひなみしのみこのみこと 神として。〇天雲の八重かき分けてー幾 ってお行きになったので」〉わが大君日並皇子尊が天下をお治めになった 重にも重なった天雲を手で払い分けて。 〇神下しいませまつりしーイマセは、四 としたら春の花のように繁栄されるであろうと満月のように欠けること 段イマスに対する下一一段活用の使伎動詞。 がなかろうと天下の〈また「国じゅうの」〉四方八方の人が ( 大舟の ) 頼りに マツルは謙譲の補助動詞。〇高照らす↓ 四五。〇日の皇子ー上の詞章では天孫瓊々 ぎのみこと 思って ( 天っ水 ) 仰ぎ待っていたのにどのように考えられてかゆかりも 杵尊のことをさしているが、下へは天武 あらきのみや まゆみ みやばしら ない真弓の岡に宮柱をしつかりと立て殯宮を高く営まれて朝のお言天皇をさすものとして続く。ヒノミコは みこみやびと 天皇または皇太子をいう。〇飛ぶ鳥の↓ 葉も仰せにならず月日も積もったのでそのために皇子の宮人たちは 夫。ここは清御原ノ宮 ( 明日香清御原宮 ) 途方にくれている〈また「 ( さす竹の ) 皇子の宮人らは途方にくれている」〉 の枕詞。〇太敷きまして↓三六 ( 宮柱太敷 きませば ) 。〇天皇の敷きます国とー歴 代の天皇のお治めになる国であるとして。 〇天の原石門を開きー天照大神がお隠れ になったように高天の原の岩戸を開いて。 墳墓の石室の人口に石の戸があることを 踏まえた表現。〇春花のーノは、、のよ うに。「望月の」のノも同じ。〇貴からむ とーこのタフトシは春の花が美しく咲き 栄えるさまを賞讃していう。〇たたはし
ふたがみやま うっそみの人なる我や明日よりは二上山を弟と我が見む = 大伯皇女の帰京は + 一月 + 六日 ( 太 陽暦の十一一月六日 ) 。 三草壁皇子。天武天皇の第一皇子。母 あえの は持統天皇。妃阿閉皇女 ( 元明天皇 ) との きびの 間に文武・元正の両天皇および吉備内親 王 ( 長屋王の妃 ) が生れた。天武十年 ( 交 一 ) 皇太子として万機を委ねられたが、天 武崩後即位せず持統天皇が称制し、その 三年 ( 交九 ) 二十八歳で薨じた。天平宝字 一かむが おかのみや 右の一首は、今案ふるに、移し葬る歌に似ず。けだし疑はく 一一年 ( 七五 0 岡宮御宇天皇と追尊された。 日並皇子というのは天皇と並んで天下に かんしゃうあい みやこかへ いせのかむみや は、伊勢神宮より京に還る時に、路の上に花を見て、感傷哀臨む意で、草壁皇子に限って用いる称号。 四 ↓一五一題詞 ( 大殯 ) 。 えっ 天地の初めの時のー天と地が生成し 咽して、この歌を作るか。 た最初の時で。「時」の下の助詞ノは、 これが「神はかりはかりし時」と同格であ たかま ることを表す用法。〇天の河原ー高天の ひなみしのみこのみことあらきのみや かきのもとのあそみひとまろ 原にあるといわれる安の河原。『古事記』 日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首剏 上に、「八百万神、天の安の河原に神集 ひ集ひて」とある。〇神集ひ集ひいまし せて短歌 てー神ッドヒニッドフのニが省略されて あまかはら あめっち やよろづちょろづかみいる。神々がその会合にお集りになって。 二天地の初めの時のひさかたの天の河原に八百万千万神 〇神はかりはかりし時ー神ハカリニハカ かむ あまぞ かむつど リシ時ニの意。ハカルは相談する意。〇 の神集ひ集ひいまして神はかりはかりし時に天照らす天照らす日女の尊ー天照大神をいう。ヒ ルメは太陽神としての女神。次の「天を ひるめみこと あめ 日女の尊〈一に云ふ、「さしあがる日女の尊」〉天をば知らしめすとば知らしめす」の主格。 いそうへ 磯の上に生ふるあしびを手折らめど見すべき君がありと いはなくに お われ たを はぶ いろせあ 167
日本書紀には、「天武天皇の八年五月五日、吉野離宮に行幸された」とある。 ふじわらのみや たかまのはらひろのひめのすめらみことじとう 集藤原宮の天皇の御代高天原広野姫天皇 ( 持統 ) 、十一年に位 葉ひつぎのみこ 太子 ( 文武 ) に譲り、尊号を太上天皇という 萬 一五月五日。太陽暦の六月十八日に当 る。翌日天皇は、皇后 ( 持統 ) ならびに草 たけちおさかべ 壁・大津・高市・忍壁の四皇子および天 智天皇の遺子川島・志貴の一一皇子と離宮 の庭において、互いに助け逆らうことが ないよう天神地祇に誓い、草壁皇子が代 表して、この盟約に違背したならば命を 失い子孫も絶えよう、と答えている。 天皇のお歌 ニ持統八年 ( 六九四 ) から元明天皇の和銅 三年 ( 七一 0 ) の平城遷都までの皇居。宮址 囲春が過ぎて夏が来たらしい真っ白な衣が干してある天の香具山に は橿原市高殿町を中心とした一帯。 かきのもとのあそんひとまろ うののさららの 近江の荒れた都に立ち寄った時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌 三持統天皇。本名鶸野讃良皇女。天智 四 ( 玉だすき ) 畝傍の山の橿原の聖天子の御代から〈あるいは「宮を始めとして」〉天皇の第一一皇女。姉の大田皇女とともに 大海人皇子 ( 天武 ) に嫁し、草壁皇子を生 お生れになった歴代の天皇が ( つがの木の ) 次々にここで天下を治めらんだ。天武天皇の即位と同時に皇后とな 、優れた政治力を発揮して天皇を助け れたのに〈あるいは「治めて来られた」〉 ( 天にみつ ) 大和をすててⅡ た。天武の崩御に続いて草壁皇子も薨ず ると自ら皇位につき、各方面に意欲的な 政治を行った。十一年文武天皇に譲位し、 大宝二年 ( 七 0 一 l) 五十八歳で崩じた。 四文武天皇。草壁皇子の皇子。母は元 明天皇。持統十一年 ( 六九七 ) 皇太子、次い で即位。慶雲四年 ( 七 0 七 ) 一一十五歳で崩御。 玉天皇譲位後の尊号。持統天皇からそ の称号は使われ始めた。 来るらしーキタルは来十到ルの約。 こうぞ 〇白たへのータへは元来楮の樹皮で
みやい むしように恐れ多い明日香の真神の原に ( ひさかたの ) 天の宮居を恐れ〇真神の原ー明日香村飛鳥寺のある一帯。 マカミは狼の異名。〇天っ御門ーここは 多くもお定めになり神として岩戸の中にお隠れになった ( やすみしし ) 天武陵をさすか。ただし天武陵は飛鳥寺 みの 集わが大君天武天皇がお治めになる北国の美濃の国の真木が立 0 ている不の西南約一・五離れているため多少 かりみや 疑いが持たれている。〇岩隠りますー岩 わざみ わやま 葉破山を越えて ( 高麗剣 ) 和射見が原の仮宮にお出ましになって天下を 隠ルは岩の中に隠れること。遺体を墳墓 しず の石室の中に納め、人口に岩戸を立てる 萬お治めになり〈また「平定されて」〉統治するこの国をお鎮めになろうとして ことを、死者が自ら隠れるようにいった あずま ( 鶏が鳴く ) 東の国の兵隊を召集なさって凶悪な者どもをとり鎮めよ もの。〇聞こしめすー領知君臨せられる。 従わない国を治めよと〈また「平定せよと」〉高市皇子の意志どおりお任せに〇背面の国ーソトモ↓至。美濃国 ( 岐阜 県西部 ) を北方の国とみなしたのは、東 おんみ なると皇子は御身に大刀を取り佩かれ御手に弓をお持ちになり兵隊を山道という道筋のためか。〇不破山ー岐 叱咤なさって調整する鼓の音は雷の声かと聞くほどで吹き鳴らしてい阜県不破郡と滋賀県坂田郡との間の山。 〇高麗剣ー地名、和射見のワにかかる枕 つのぶえ つかがしらわ る角笛の音も〈また「笛の音は」〉敵意をむき出しにして虎が吠えるのかと 詞。高麗型の剣は、柄頭に環がある、い かんとうだち おび わゆる環頭大刀なのでかけた。〇和射見 皆の者が怯えるほどであった〈また「聞きあわてるほどで」〉高く揚げた軍旗の が原ー岐阜県不破郡関ヶ原町関ヶ原。 なびくさまは ( 冬ごもり ) 春ともなるとどの野にもつけられた野火が〈また〇行宮↓八左注 ( 石湯の行宮 ) 。この行宮 は関ヶ原駅の東方約二はじの野上にあっ 「 ( 冬・こもり ) 春野を焼く火が」〉風につれてⅡ た。〇天降りーアマオリの約。天皇が辺 鄙の地に臨まれることをいう。〇鶏が鳴 くー東の枕詞。夜が明けたとて起す、そ のアヅマ ( 我が夫 ) と同音の東にかけた。 〇東の国ー一般に関東・東北をいうが、 ここは三河・信濃などをさすか。「天武 紀」には、美濃以遠の東山道の軍を発す、 とある。〇ちはやぶる↓一 0 一。ここは原 まかみ
萬葉集 32 あすかのきよみはらのみや あまのぬなはらおきのまひとのすめらみことおくりな 明日香清御原宮の天皇の御代天渟中原瀛真人天皇、諡を天武天 皇という ふふきのとじ とおちのひめみこ 十市皇女が伊勢神宮に参拝した時に、波多の横山の巌を見て、吹英刀自 が作った歌 川べりの岩々に草が生えないで若々しいようにいつまでもわたしも変らず 一天武天皇の皇居。持統天皇も引き続 にありたい永遠のおとめで いて同じ宮にその八年 ( 六九四 ) まで在った。 吹英刀自のことはよくわからない。ただし、日本書紀には「天武天皇の四年宮址は飛鳥寺南方の伝飛鳥板蓋宮跡の上 あえのひめみこ 層遺構とも、またその東南のいわゆるエ 二月十三日に、十市皇女と阿閉皇女とが伊勢神宮に参拝したーとある。 ビノコ大殿遺跡とも言われ、明らかでな おみのおおきみ 麻続王が伊勢国の伊良虞の島に流された時に、人々が気の毒に思っ ニ天武天皇の第一皇女。母は額田王。 天智天皇の皇子大友皇子の妃となり、葛 ののおおきみ 野王を生んだ。壬申の乱で父天武天皇 と夫の大友皇子とが戦い、その結果夫の 敗死に終るという悲劇の中心に身を置い た。乱後大和に移ったが、天武七年 ( 六七 0 四月七日抦で宮中に没した。 いちし 三波多は三重県一志郡一志町の一帯を さすか。横山の位置は不明。 とおちの 四伝未詳。十市皇女の侍女か。巻四相 聞の四九 0 ・四九一の歌もこの人の作。刀自は 女性に対する尊称。 いわお かど
91 巻第二 91 ~ 92 鏡王女の和へ奉る御歌一首 したがく 秋山の木の下隠り行く水の我こそ益さめ思ほすよりは あふみのおつのみやあめしたをさ すめらみことみよあめみことひらかすわけのすめら 近江大津宮に天の下治めたまふ天皇の代天命開別天 みことおくりなてんち 皇、諡を天智天皇といふ 一従来額田王の姉かとされたが、その しよめい 墓が舒明天皇陵の域内にあることから推 して、舒明天皇の皇女とする説に従うべ きであろう。初め天智天皇に愛されたが のち藤原鎌足の正室となる。天武十一一年 ( 六八三 ) 七月五日没。その前日天武天皇は その家に幸し見舞っている。現在の興福 寺は鎌足が病に臥した時、王女の発願に よって開基されたものという。 かがみの 味が家も継ぎて見ましをー妹は鏡 力がみのおきみたまみうた おおきみ 王女をさす。作者天智天皇はこの当 天皇、鏡王女に賜ふ御歌一首 ながら 時まだ皇太子として孝徳天皇の難波長柄 やまと とよさきの 妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらま豊碕宮にあり、そこから大和の方を望 見して詠んだのであろうという。〇大島 しぎさん しを〈一に云ふ、「妹があたり継ぎても見むに」〉〈一に云ふ、「家居らましを」〉の嶺ー奈良県生駒郡三郷町の信貴山周辺 の一峰かという。〇家もあらましをー鏡 王女の家がありさえすればよいのに。〇 「家居らましを」ー家居リは、家を造り、 そこに住むこと。主語は作者の天智天皇。 秋山の木の下隠り行く水のー底では 深く思いつづけていることを表す序。 カクルは古く四段にも活用した。 ニ藤原朝臣鎌足。↓一六題詞 ( 藤原朝 臣 ) 。この歌は近江遷都前後の鎌足五十 五歳ごろの作か。 いも よば うちのおま、つきみ」ちはらのま、つきみ 内大臣藤原卿、鏡王女を娉ふ時に、鏡王女、内大臣 こ るに、二代二時に、この歌を見ず。 こたまっ ま おしまね いへを つん ふ
99 巻第二 103 104 ふちはらのみやあめしたをさ すめらみことみよたかまのはらひろのひめのすめらみこと 藤原宮に天の下治めたまふ天皇の代高天原広野姫天皇、 ていがい おくりなちとう みくらゐかるのひつぎのみこ 諡を持統天皇といふ。元年の丁亥、十一年に位を軽太子に譲り、 おきすめらみこと ~ 尊号を太上天皇といふ し」「降らまく」に頭韻を踏んで軽快な調 べの中に、相手と共に雪を見られないこ とを残念に思う気持を秘め、格調の高さ、 優しさのこもった佳品である。 我が岡の龕ーオカミは水神。蛇体で 雨を降らせると信じられた。〇雪の こたまっ 摧けしークダケは名詞。シは強めの助詞。 藤原夫人の和へ奉る歌一首 ◆こちらこそ大雪の本家ですと言い返し わ をか おかみ た戯れの歌。 我が岡の龕に言ひて降らしめし雪の摧けしそこに散り = ↓一一〈標目。 三文武天皇。↓一一八標目。 けむ 四天武天皇の第三皇子 ( 持統紀によ る ) 。母は天智天皇の皇女、大田皇女 ( 持 統天皇の同母姉 ) 。天武天皇崩後一一十五 あかみとり 日目の朱鳥元年 ( 交六 ) 十月三日、謀反の 罪によって処刑された。年二十四歳。大 田皇女の死後、天智天皇に愛されて育っ おんとろうろう たといわれ、風貌たくましく音吐朗々と して才学があり、とりわけ文筆を愛し、 詩賦はこの皇子から興ったと『日本書紀』 に記されている。 五天武天皇の皇女。母は大田皇女。大 津皇子の二歳年上の同母姉。天武二年 いっきのみや ( 六当 ) 十三歳で斎宮となり、翌年伊勢に 赴いた。天武天皇が崩じ、大津皇子も没 した後の朱鳥元年十一月還京。大宝元年 ( 七 0 一 ) 没。四十一歳。 わ すめらみことちはらのぶにんたまみうた 天皇、藤原夫人に賜ふ御歌一首 ふ おはら 我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後 四 おほっのみこ いせのかむみやくだ のく おくのひめみこ 大津皇子、竊かに伊勢神宮に下りて上り来る時に、大伯皇女 の作らす歌一一首 ひそ ふ くだ のち しふ
137 巻第二 154 ~ 156 しめゅ ささなみ おやまもり 楽浪の大山守は誰がためか山に標結ふ君もあらなくに天皇の陵。「天武紀」元年三月の条に、こ の御陵造営のための人夫を集めることを 口実に、近江朝廷側が美濃・尾張の兵士 を動員したらしい記事がある。 まかあら ぬかたのおきみ ましなみはか 恐きゃーカシコシは恐れ多いの意。 山科の御陵より退り散くる時に、額田王の作る歌一首 ヤは間投助詞。〇御陵仕ふるー御陵 かしこ かがみ おほきみ みはかっか やましな の造営に奉仕する。〇鏡の山ー天智陵の やすみししわご大君の恐きや御陵仕ふる山科の鏡の山 北にある山。〇夜はも夜のことごとーモ よる ひる ね は詠嘆。コトゴトは、こと・ことく、すべ に夜はも夜のことごと昼はも日のことごと音のみをて、の意。〇音のみを泣きつつー声に出 して泣いてばかりいて。ネヲ泣クは号泣 おほみやひと すること。〇行き別れなむー行キ別ルは 泣きつつありてやももしきの大宮人は行き別れなむ 題詞の「退散」に同じ。 ニ十市皇女の没したのは天武七年 ( 六七 0 。↓一三題詞。壬申の乱で夫の大友皇子 あすかのきよみはらのみやあめしたをさ すめらみことみよあまのぬなはらおきの が敗死した後、異母兄の高市皇子と結ば 明日香清御原宮に天の下治めたまふ天皇の代天渟中原瀛 れていたのでないか、と想像する説があ まひとのすめらみことおくりなてんむ る。 真人天皇、諡を天武天皇といふ 三 ↓二四題詞。皇子尊と尊の字を付け るのは天武天皇の諸皇子のうち、草壁皇 子と草壁薨去後の高市皇子とだけ。 たけちのみこのみこと とをちのひめみここう みもろ↓九四。〇三輪の神杉ー杉は神 十市皇女の薨ぜし時に、高市皇子尊の作らす歌三首 のよりましの木として知られ、特に 三輪の杉は有名であった。以上、おそら い みわかむすぎ みもろの三輪の神杉已具耳矣自得見監乍共寝ねぬ夜ぞ多きく第一一一句以下を起す序であろう。〇已具 耳矣自得見監乍共ー原文のまま。読み方 不明。 よ 156 155
萬葉集 394 斉明 万葉集関係略年表 関連事項および作品 天皇年号西暦 推古 六一三十二月聖徳太子竜田山の死人を見て悲傷し作られた歌 ( 3 四一五 ) 。 しゅうちょうめい 二月聖徳太子薨 ( 天寿国繍帳銘などには翌三十年一一月薨とあり ) 。 ゅのみや 舒明 六三九十二月伊予国温湯宮に行幸。 皇極 四六四五六月蘇我氏滅亡。孝徳天皇に譲位。年号を大化と定める。七月ん霊立后。十二月難波に遷都。 孝徳大化二六四六正月大化の改新の詔発布。 なかのおおえの 白雉四六五三 この年中大兄皇子、皇祖母 ( 皇極 ) ・間人皇后・皇弟 ( 天武 ) らと倭京に還る。天皇孤立、憂憤を抱く。 同五六五四十月一日天皇の不豫を知り、中大兄皇子、皇祖母・皇后・皇弟らと難波に赴く。同十日崩御。 ・ - ぶ , の 元六五五正月飛鳥蓋宮に即位。 四六五八十月紀伊国温湯に行幸。十一月有間皇子の変。皇子の自傷歌 ( 2 一四一 5 一四二 ) 。 - きごっ 七六六一正月御船西征、輙前津に停泊。額田王の歌 ( 1 八 ) 。七月天皇筑紫朝倉宮に崩御。 はくすきのえ 六六三白村江の戦に敗れる。 みずき 六六四この年対馬・壱岐・筑紫等に防人・烽を置き、大宰府に水城を構築する。 いのへの 六六七三月近江国に遷都。額田王のその時に作った歌、井戸王の即ち和した歌 ( 1 一七ー一九 ) 。 が・ 0 第′の 七六六八正月即位。五月蒲生野に縦臈。額田王・皇太弟 ( 天武 ) の贈答 ( 1 二〇 5 二一 ) 。 八六六九十月藤原鎌甅病み、皇太弟に見舞わせ、天皇自らも幸す。十六日薨。 一〇六七一九月天皇不豫。十月皇太弟、妃齲野皇女 ( 持統 ) と共に近江京を退去し吉野に入る。十二月天皇崩御。 やまとのおお、さき 倭太后らの歌 ( 2 一四七ー一五五 ) 。 おおあまの 元六七一一六月大海人皇子 ( 天武 ) 吉野を出発し、伊賀・伊勢を経て美濃に入る。いわゆる壬申の乱勃発、高市皇 子に軍事を任せる。七月発・野・瀬田等で戦闘。二十一一一日大友皇子敗死。九月倭京に還る。 天智 天武 すめみおや 本年表は、万葉集巻一・一一・三の歌の理解鑑賞に必要な項目を中心に作成した。 ( ) の中に示した数字は、算用数字ⅱ巻別、漢数字国歌大観の歌番号である。 さ、、・ 0 り うのの ぬかたの とぶひ じんしん たけちの
〇星離れ行き月を離れてー皇后や皇子を 離れて天皇が崩御したことを、雲が星や 月を離れて遠くへ去って行ったように述 べた隠喩。「月を離れて」の下に、行くこ とよ、の意が省かれている。 ニ朱鳥元年 ( 六兊 ) 九月九日、天武天皇 が崩じて八年目に当る持統七年九月九日。 「持統紀」には翌十日、天武天皇のために むしやだいえ 無遮大会 ( 天皇が施主となって上下僧俗 の別なく供養布施する法会 ) を内裏に設 けた、とある。 三法会に参集した僧のために食物を供 養すること。 四持統天皇が夢の中で詠んだ歌。その せいか、歌の趣意が一貫していない。 お椴みためごさいゑよ 天皇の崩りましし後の八年の九月九日、奉為の御斎会の夜、 伊勢の国はー「かをれる国に」の主格 と解されるが、下への続き具合がわ みうた いめうちなら からない。天武天皇は伊勢と格別に関係 夢の裏に習ひ賜ふ御歌一首古歌集の叫に出づ が深かった。↓八一 ( 神風の ) 。〇塩気ー塩 きよみ あめした あすか 分を含んだ海の気。〇かをれる国にーカ 。明日香の清御原の宮に天の下知らしめししやすみしし ヲルは、煙や霧などが立ちこめること。 ひみこ わおほきみたかて かむ〇うまこりーアヤの枕詞。〇ともしきー 二我が大君高照らす日の御子いかさまに思ほしめせか神 トモシ↓吾。ここは、心引かれる、慕わ 巻 しけ おきも しい、の意。〇日の御子ーこの下に、は 風の伊勢の国は沖っ藻もなみたる波に塩気のみかをれるばる伊勢国においでになった、とい うような内容が省略されているのであろ る国にうまこりあやにともしき高照らす日の御子 きすめらみことっくみうた いはすめらみことかむあが 一書に曰く、天皇崩ります時に、太上天皇の製らす歌二首 ふくろ 燃ゆる火も取りて包みて袋には人るといはずやも智男雲 161 かぜ ころもそぞ 荒たへの衣の袖は乾る時もなし あをくも はな 北山にたなびく雲の青雲の星離れ行き月を離れて ふ い