みこゅげのみこ ( やすみしし ) わが大君の ( 高光る ) 日の御子弓削皇子が ( ひさかたの ) 天 しず の宮居におんみずから神としてお鎮まりになったのでそのことがむしょ 集うに恐れ多く昼は日がな一日夜は夜どおし寝たり起きたりしてため息 葉をつくが心は満ち足りないことだ 萬 反歌一首 わが大君は神であられるので天雲の五百重の奥にお隠れになった また短歌一首 しが ささなみ 楽浪の志賀のさざ波のように絶え間なく変らずにありたいと皇子は念願 しておられたのだが 柿本朝臣人麻呂が、その妻の死んだ後に泣き悲しんで作った歌二首と 短歌 やすみししー我ガ大君の枕詞。〇高 光るー日 / 皇子の枕詞。〇日の皇子 ー天皇または皇太子をいう。ここは弓削 皇子をさす。〇神といませばー弓削皇子 が薨じたことをいう。〇そこーその点。
時の挽歌一六九の下注に、 もちのちみこのみことあらきのみや くだり 或本は、件の歌を以て後の皇子尊の殯宮の時の歌の反とす。 たけちのみこ 集とあるのは、この二首の反歌を高市皇子の殯宮挽歌 ( 一究 ) の反歌として伝える本があったことを示す。草 葉壁薨後の高市皇子の存在が往時の草壁皇子とほぼ等しかったこともあろうが、殯宮挽歌の性格の一面を物語 萬っているといえよう。 しよくにんぎ いた なお、この辺の、皇子女の薨去を傷んだ歌の配列の先後が『日本書紀』や『続日本紀』の記載の順序と矛 あすかのひめみこ 盾するところがある。すなわち、『万葉集』では、草壁皇子 ( 一六七 ) 、川島皇子 ( 一九じ、明日香皇女 ( 一突 ) 、高 ゅげのみこ たじまのひめみこ 市皇子 ( 一究 ) 、但馬皇女 ( 一一 0 一、弓削皇子 ( 一一 0 四 ) の順に並んでいるが、史書では六八九年草壁皇子、六九一 年川島皇子、六九六年高市皇子、六九九年弓削皇子、七〇〇年明日香皇女、七〇八年但馬皇女の順に薨じて いる。そのうち但馬皇女と弓削皇子の挽歌は人麻呂作でないから別扱いにすべきかもしれないが、それでも 順序が逆である。人麻呂の作に限っても、明日香皇女と高市皇子の順序が転倒している。原資料の不備か、 編者の疎漏のためかわからないが、疑問の存する所である。 じしようか ならのみや 柿本人麻呂自身の自傷歌が「寧楽宮」の標目の前にあるのは、人麻呂が平城遷都以前に死んだことを示す。 れいき 志貴皇子が薨じたのは元明天皇が元正天皇に譲位した霊亀元年 ( 七 3 である。『続日本紀』では霊亀二年薨 へだ となっていて食い違いがあるが、いずれにせよ、巻一の最後の歌と何年も隔たっていない。このことはやは り両巻の関係が密接で、同時に編集を終えたことの証であろう。 0 0 そろう はん
399 付録 ( 参考系図 ) げんしト・・フ 元正天皇 とねりのみこ 間人皇女舎人皇子 , ー仁天皇 なドのみこ かわちのおきみ たかやすのおおきみ たかたのおおきみ 長皇子ーーー川内王。安王ー高田女王 かど陽おおきみ 日ー立ロエ亠 弓削皇子 やまさきのおおきみ おさかべのみこ 、壁皇子ー山前王 新田立ロ皇子 大伯皇女 たじまのひめみこ 但馬皇女 きのひめみこ 紀皇女 ちぬのおおきみこうぎよく 茅渟王皇極天皇・斉明天皇 3 ありまのみこ 徳天皇ー有間皇子 はしひとのひめみこ おおくのひめみこ あさかのみこ 安積皇子 悪天皇・天皇
28 巻第三 242 ~ 2 みうた ~ げのみこ ルは雲がかかっていることをさす。 0 我 弓削皇子、吉野に遊でます時の御歌一首 が思はなくにーナクニ止めは詠嘆を表す わおも たきうへ みふね じようだいし 滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむと我が思はな終止形式。 一一系統未詳。文武三年 ( 六究 ) 浄大肆 ( 従 五位上に相当 ) で没か。六六九の作者春日王 くに は同名異人。 千歳にまさむーマスは居ルの敬語。 〇絶ゆる日あらめやー雲がいつも三 力すがのおほきみこたまっ 船の山にかかっているように、弓削皇子 春日王の和へ奉る歌一首 の命もいつまでも長く続くであろうと予 祝していう。 しらくも ちとせ みふね 大君は千歳にまさむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや立っ雲ーこのタッは発生する意。霞 ・霧・雲・煙・虹・潮気などについ ていう。 や弓削皇子の歌の異伝歌。この二首の歌 の前後関係は不明。人麻呂歌集にはしば 或本の歌一首 しば他人の歌をも収めている。 わおも よしの ↓一四六題詞。 み吉野の三船の山に立っ雲の常にあらむと我が思はな = ↓へ題詞。 五九州地方の総名にも、筑前・筑後の くに 総称としても用いる。ここは広義として の用法。 やっしろうやなぎ 六熊本県八代市植柳の西南部、球磨川 の分流の一つである南川の河口にある周 囲約四〇の岩山から成る小島。一説に この水島の対岸の、今は陸地になってい おおそうぞう る大鼠蔵島とする。 おきみ つか ながたのおきみくし ~ づしま 長田王、筑紫に遣はされて、水島に渡る時の歌二首 カきのもとのあそみひとまろ 右の一首、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。 い つね
のことが見える。同九年従四位上に進ん だ。高市皇子の娘かという。泣沢神社を 怨んだというのは、高市皇子の平癒をこ の神に祈ったのにその甲斐がなかったと いうのであろう。 ニ十日 ( 太陽暦八月十三日 ) 。 三高市皇子。 g ↓二四題詞。和銅元年 ( と八 ) 六月二十 五日に没。 ↓二四題詞。 あはにーサハニと同じく、数量の多 いことをいう。〇吉隠の猪養の岡ー 吉隠は奈良県桜井市吉隠の地。初瀬の東 約二・五じ。初瀬峡谷の奥に当る。猪 養ノ岡は吉隠東北方の山腹、志貴皇子の 妃の吉隠陵の辺りか。但馬皇女もここに 葬られたのであろう。〇寒からまくにー 五 たぢまのひめみこ づみのみこ 寒カラマクは寒カラムのク語法。 但馬皇女の薨じて後に、穂積皇子、冬の日雪の降るに、御墓 0 但馬皇女は初め異母兄高市皇子の許に はる ひしゃうりうてい あったが、後、同じく異母兄の穂積皇子 を遥かに望み、悲傷流涕して作らす歌一首 の許に移った ( ↓一一四、一一六 ) 。この事件に よなばり 対する世間の目は厳しかったようである 二降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに ( ↓き。この歌は皇女が薨じた和銅元 年の冬、藤原宮の辺りから吉隠の方を望 んで穂積皇子が詠んだものと思われる。 六 ↓一二題詞。 セ伝末詳。六六の作者。 或書の反歌一首 なきさは たかひ もりみわす わお椴きみ 皿泣沢の神社に神酒据ゑ祈れども我が大君は高日知らしぬ うら るいじうかりんいは のくまのおにきみなきさはのもり 右の一首は、類聚歌林に曰く、「檜隈女王、泣沢神社を怨む五 にんぎ へいしん かむが る歌なり」といふ。日本紀を案ふるに云はく、「十年丙申の しんちうつきたちかうしゆっのちみこのみことこう 秋七月、辛丑の朔の庚戌、後の皇子尊薨ず」といふ。 とねりまと つつみこもぬ はにやす 川埴安の池の堤の隠り沼の行くへを知らに舎人は惑ふ ゅげのみこ きそめのあづまと 弓削皇子の薨ずる時に、置始東人の作る歌一首剏せて短歌 いの ゐかひをか い みはか
萬葉集 102 つもりのむらじとおる いしかわのいらつめ おおつりみこ 大津皇子がひそかに石川女郎と関係を結んだ時に、津守連通がそのこ とを占いあらわしたので、皇子が作られた歌一首実否のほどはよくわから ない ( 大舟の ) 津守連の占いに出るだろうとは百も承知でわれわれは二人で寝 たのだ おおなこ ひなみしりみこのみこと 日並皇子尊が石川女郎に遣わされたお歌一首女郎は通称を大名児という かや Ⅷ大名児を向こうの野辺で刈っている萱のつかの間ほどに短い時間もわた しは忘れるものか ぬかたのおおきみ ゅげのみこ 天皇 ( 持統 ) が吉野宮に行幸された時に、弓削皇子が額田王に贈られ た歌一首 いにしえ Ⅲ古を慕う鳥だろうかゆずりはの御井の上から鳴いて飛んで行く 一「石川郎女」に同じ。 みまさかの ニ和銅七年 ( 七一四 ) 従五位下美作守、養 老七年 ( 七一三 ) 従五位上。養老五年正月陰 みようどう 陽道の達人として朝廷から褒賞された。 三草壁皇子の愛人である石川郎女を大 津皇子が横取りしたという事実を、占い の上に現し出して見せたことをいう。 大舟のー津守の津にかかる即興的な 1 枕詞。大舟の泊る津 ( 舟着き場 ) の意 でかかる。〇津守が占ー津守は元来港の 警備や雑役などに携わる者。人名に付い た格助詞ガはノに比べて、軽視・憎悪な どの気持を表すことが多い。占は占い。 けんこう 多く鹿の肩胛骨や亀甲を焼き、そのひび 割れを見て吉凶を占った。〇告らむーウ ラニノルは神意が占いの上に現れること をいう。告ルに舟の縁語乗ルをかける。 〇まさしにーまさしく。マサは占いの確 実さについて用いられることが多い。 や『懐風藻』には、大津皇子の性格につい すこぶ て「性頗ル放蕩ニシテ法度ニ拘一フズ」とあ る。その無頼性が持統天皇母子にとって 大津排斥の原因となった。この歌下一一句 にも皇子の不羈奔放な人柄がうかがわれ ふきんう おん
女郎の通称は山田郎女といった。宿奈麻呂宿禰は大納言兼大将軍 ( 安麻呂 ) の三男 である おさな 集年老いたばあさんのくせにこれほどまでも恋に溺れようことかまるで幼 葉子のように〈また「恋くらい辛抱できないものか幼子のように」〉 ながのみこ や 萬 長皇子が弟皇子にお遣りになったお歌一首 丹生の川の瀬など渡らずにまっすぐに恋しくてたまらない弟よさあ通っ て来ておくれ かきのもとのあそんひとまろ いわみのくに 柿本朝臣人麻呂が石見国から妻と別れて上京して来る時の歌一一首と短 いわみ つの かた 川石見の海の角の海岸を浦がないと人は見るだろうが潟がないと〈また「磯 がないと」〉人は見るだろうがえいままよ浦はなくてもえいままよ日 おな かよ 古りにし嫗ーオミナは老婆。宿奈麻 呂が従五位下にな 0 た和銅元年宅 0 0 は大津皇子の死後一一十一一年目に当り、 この歌がそのころ詠まれたものとすれば、 大津皇子の愛人であった石川女郎は当時 四十歳前後であったと思われる。〇かく ばかり恋に沈まむー年甲斐もなく恋に溺 れる自分に対する自嘲。〇手童ー手に抱 くほどの幼子。〇「恋をだに忍びかねて む」ーたかが恋の苦労ぐらいのことを、 こうも辛抱できないほど不甲斐なくあろ - っこし J' カ 一天皇の弟の意だが、ここは長皇子の 弟をいう。同母弟であるいは双生かとい ゅげの う弓削皇子をさすか。 丹生の川ー丹生は本来水銀の原料で ある丹 ( 辰砂 ) を産出する所をいう普 通名詞。固有名詞としての丹生・丹生川 は各地にあるが、ここは奈良県吉野郡大 てんじよう 天井ヶ岳の北西方に発し、五條市で吉野 川に注ぐ丹生川か。〇瀬は渡らずてー皇 弟が浅瀬を求めかねてこちらへ来るのが 遅いことをいう。この前後寓意があるか。 〇ゆくゆくとーどんどん行くことを表す にしんしゃ おお
103 巻第二 109 ~ 111 いしかはのいらつめあ つもりのむらじとる三 大津皇子、竊かに石川女郎に婚ふ時に、津守連通、その事 いまつばひ を占へ露はすに、皇子の作らす歌一首未だ詳らかならず つもりうら おぶね の ふたり 大舟の津守が占に告らむとはまさしに知りて我が二人 寝し 111 四 五 ひなみしのみこのみこと おくたまみうた あざなおなこ 日並皇子尊、石川女郎に贈り賜ふ御歌一首女郎、字を大名児と いふ つかあひだわれ おなこ Ⅷ大名児を彼方野辺に刈る草の束の間も我忘れめや 六 げのみこ ぬかたのおきみおく よしののみやいぞま 吉野宮に幸せる時に、弓削皇子、額田王に贈り与ふる歌一 る。 四草壁皇子。↓一六七題詞。 五本名以外に使われた呼び名。 大名児をー第五句にかかる。〇彼方 野辺に刈る草のーヲチカタは向こう の方。遠くの野辺で刈っている草の一束 の意で、ツカを起す序。〇束の間ーッカ は一こぶしの長さ。短いもののたとえ。 0 自分を捨てて異母弟大津皇子に逢う石 川郎女を引き留めようとして詠んだ歌。 六↓七左注。この行幸は持統四年五月 か五年四月のいずれかであろう。 セ天武天皇の第六皇子。母は天智天皇 ながのみ ( の皇女、大江皇女。長皇子の同母弟。あ るいは双生かともいう。持統七年 ( 六空 ) 浄広弐の位を授けられ、文武三年 ( 六究 ) 没。この歌を詠んだ当時、十八、九歳か。 〈↓七題詞。この当時五十五、六歳か 古に恋ふる鳥かもー第五句の「鳴き 渡り行く」にかかる。このイニシへ は天武天皇在世当時をいうか。この鳥は ほととぎすをさす。 0 ゅづるはの御井の 上よりーユヅルハノ御井は、そばにゆず うへ いにしへ りはの木があるところから名付けられた 古に恋ふる鳥かもゆづるはの御井の上より鳴き渡り離宮の泉か。御井↓至題詞。ヅル ( は とうだいぐさ科の常緑高木ゆずりはの古 名。このヨリは経由地点を表す。 行く おつのみこ 首 うらあら をちかたのヘ ひそ かや みゐ わ 110 111
ゅげのみこ 弓削皇子が吉野に遊ばれた時のお歌一首 滝のそばの三船の山にかかっている雲のようにいつまでもこの世にあろう 集とはわたしは思わないことだ かすがのおおきみ 葉 春日王が唱和し申した歌一首 萬大君は千年も生きておいででしよう白雲だって三船の山にとだえる日が ありましようか ある本の歌一首 み吉野の三船の山にたなびいている雲のようにいつまでもこの世にあろう とはわたしは思わないことだ 右の一首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている。 ながたのおおきみつくし 長田王が筑紫に遣わされ、水島に渡る時の歌一一首 おおきみ ↓二一題詞。一一 0 六の歌にも皇子が常々 長寿を願っていたことが詠まれている。 おそらく病弱の身であったのであろう。 2 滝の上ー吉野宮 ( 七左注 ) のあった宮 2 滝の一帯をいう。ウへはほとり。〇 三船の山ー宮滝の柴橋の上流右手に見え る山。〇居る雲のー雲をいつも山にかか っている常住のものとしていう。このヰ
395 付録 ( 萬葉集関係略年表 ) 文 武 持統 きよみまらの 一一六七三一一月浄御原宮に即位、齲野皇女 ( 持統 ) 立后。 一一一六七四十月大儷皇薪どなって伊勢神宮に向う。 とちの あえの 四六七五一一月十市皇女・阿閉皇女ら伊勢神宮に参赴。吹 ~ 欠刀自の歌 ( 1 一三 ) 。四月麻続王時幡に配流 ( 万葉集に は伊勢国伊良ル島に流されるとあり ) 。 七六七八四月十市皇女卒然に発病し薨する。高市皇子の挽歌 ( 2 一五六ー一五八 ) 。 ( さかべおっ 八六七九五月五日吉野に行幸。天皇の御製歌 ( 1 二七 ) 。六日草壁・大津らの諸皇子と共に盟約。 一〇六八一二月浄御原令の編纂を開始。草壁皇子立太子。 六八一一四月男女結髪の制を定める。 一一一六八一一一二月大津皇子始めて朝政に参与する。七月・。丑薨。十一一月難波宮を修営、副都にする計画あり。 朱鳥元六八六七月改元。女子に限り結髪令を解除。九月九日天皇崩御。同二十四日大津皇子謀反。十月一一日大津皇子 を逮捕。三日死を賜る。皇子の辞世歌 ( 3 四一六 ) 。 とわり 三六八九四月草壁皇子薨。柿本人麻呂の挽歌 ( 2 一六七ー一七〇 ) 。舎人らの慟傷歌 ( 2 一七一ー一九三 ) 。 四六九〇正月天皇即位。九月紀伊国に行幸。川島皇子の作歌 ( 1 三四 ) 。 はっせ 五六九一九月川島皇子薨。人麻呂の泊瀬立ロ皇女らに献ずる挽歌 ( 2 一九四ー一九五 ) 。 六九一一三月伊勢国に行幸。人麻呂の留京作歌 ( 1 四〇ー四二 ) 、、お墅の従駕作歌 ( 1 四四 ) など。 むしやだいえ 七六九三九月天武天皇のために無遮大会を設ける。天皇の夢裏に誦習された御歌 ( 2 一六二 ) 。 えきみん 八六九四十二月藤原宮遷居。役民の作った歌 ( 1 五〇 ) 。 一〇六九六七月高市皇子薨。人麻呂の挽歌 ( 2 一九九ー二〇一 ) 。 元六九七一一月・皇子 ( 文武 ) 立太子。八月持統天皇譲位。 きそめのあずまと 三六九九七月弓削皇子薨。置始東人の挽歌 ( 2 二〇四ー二〇六 ) 。 四七〇〇三月僧逾腓没。日本最初の火葬。四月明日皇女薨。人麻呂の挽歌 ( 2 一九六ー一九八 ) 。 大宝元七〇一正月第七次遣唐使任命。山上憶良少録となる。三月石上麻呂・藤原不比等正正三位大納言に、大伴安麻 呂正従三位となる。八月大宝律令成る。九月紀伊国に行幸。従駕の歌 ( 1 五四ー五五・ 2 一四三ー一四 六 ) 。十一一月大伯皇女薨。 みかわの 同二七〇一一六月第七次遣唐使出発。参河国に行幸。長奥麻呂らの歌 ( 1 五七ー六一 ) 。十二月持統太上天皇崩御。 同三七〇一一一一月忍壁皇子知太政官事となる。十二月持統太上天皇を火葬し、天武天皇の大内陵に合葬する。 おさかべの せんこ な都のおきまろ ふふきのとじ おみの 、なば