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検索対象: 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)
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1. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

萬葉集 22 お歌を作られ、悲しみの情を表された」とある。つまり、この歌は天皇 ( 斉 明 ) のお歌である。額田王の歌は別に四首ある。 紀伊の温泉に行幸された時に、額田王が作った歌 もと 9 莫囂円隣之大相七兄爪謁気わが君がそばに立たれたという厳橿の木の下 なかっすめらみこと 中皇命が紀伊の温泉に行った時のお歌 いわしろ あなたの命もわたしの命をもっかさどるこの岩代の岡の草をさあ結ぼ うよ 一斉明四年冬十月十五日 ( 太陽暦の十 いぞゅ いおり かや 一月十五日 ) に紀の温湯に幸し、翌年正 村わが君よ仮の庵をお作りになる萱がないならあの小松の根元の草をお刈月三日 ( 太陽暦一月 = 一十一日 ) に還幸した、 あり とある。その行幸であろう。この時に有 りなさい まの 間皇子の変があった。 あどね わたしが見たいと思っていた野島は見せてくれたしかし底の深い阿胡根の 莫囂円隣之大相七兄爪謁気ー原文の まま。読み方不明。三十種以上の読 浦の真珠はまだ拾っていない み方が試みられてきたが、現在のところ 従うに足るものはない。〇我が背子ー親 しい男性を呼ぶ語。〇い立たせりけむー イは接頭語。ケムは過去推量の助動詞。 〇厳橿ーイツは、神聖な、の意の接頭語。 柴・藻などの植物名に冠したものは、勢 い盛んに茂る意も認められる。ここもそ の一例。カシは、あかがし・あらかしな どのぶな科の常緑高木。 君が代も我が代も知るやー君は男子 に対する尊称。ここは中大兄皇子を おか いっかし

2. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

55 巻第 48 ~ 50 かたぶ ひむがし 東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾居所。この ( はヲ・ ( の意。〇思ほすな ( にーナへニは、、するにつれて、、する とともに、などの意。〇依りてあれこそ きぬ ーヨルは服従する意。浮カべ流セレにか かる。〇衣手のー地名田上の枕詞。〇田 かみたなかみ 上山ー大津市南部上田上の地。〇真木さ くー檜の枕詞。〇つまでー語義未詳。丸 太をいうか。〇もののふのー八十ウヂの 枕詞。モノノフは朝廷に仕える文武百官。 それが多くの部族に分れているところか やそうち ら、分流の多い「八十氏」と同音の八十宇 ふちはらのみやえきみん 藤原宮の役民の作る歌 治川 ( 一一六四 ) にかかる。〇玉藻なすー木材 が水面に浮び漂うさまを玉藻にたとえた わおきみたかて ふぢはら やすみしし我が大君高照らす日の皇子荒たへの藤原が比喩の枕詞。〇たな知らずータナは、す つかり、の意。打消と応じて、少しも、 たかし め うへ の意となる。〇鴨じものー水ニ浮クの枕 上に食す国を見したまはむとみあらかは高知らさむと 詞。ジモノは、、でもないのに、、であ あめっち あふ 神ながら思ほすな ( に天地も依りてあれこそ石走る近るかのように、の意。〇我が造る日の御 門にー以下「新た代と」まで、「泉の川」の たなかみやま み ころもぞ イヅにかかる序。さらにその中の「我が 江の国の衣手の田上山の真木さく檜のつまでをものの 造る : ・知らぬ国よし」が、寄シコセの意 たまも やそうぢかは さわで地名巨勢を導く序をなす。日ノ御門は 一ふの八十宇治川に玉藻なす浮かべ流せれそを取ると騒 天皇の宮殿。〇知らぬ国よし巨勢道より ー見知らぬ国を従わせたまえ、の意で巨 く御民も家忘れ身もたな知らず鴨じもの水に浮き居て勢にかかる。「セは、、してくれる、の 意の補助動詞コスの命令形。巨勢は奈良 わ みかど こせぢ 我が造る日の御門に知らぬ国よし巨勢道より我が国は県御市の一帯。 -4- かむ な ひなみし 日並の皇子の尊の馬並めてみ狩立たしし時は来向かふ みたみ を の みこと 力、も ひ あら き いはばし

3. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

かきのもとのあそんひとまろ かりじ ながのみこ 長皇子が猟路の池に狩をしに赴かれた時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌 ↓六 0 題詞。 はいばら 一首と短歌 一一所在末詳。一説に宇陀郡籐原町、近 みこながのみこ おおきみ 集 ( やすみしし ) わが大君の ( 高光る ) わが日の御子長皇子が馬を並べて狩鉄籐原駅の西南一帯をさすかという。こ かりじおの の「猟路の池」はこの付近が宇陀川の上流 葉に出かけていらっしやる ( 若薦を ) 猟路の小野に鹿ならひざまずいて拝み に当り、特に支流の東川 ( 芳野川 ) との合 うずら 萬 もしよう鶉なら這いもまわろうその鹿のようにひざまずいて拝みその流点は盆地底をなし、池を現出しやすい、 その水面を称したのでないかとする説が 鶉のように這いまわって恐れ多いことだとしてお仕え申し ( ひさかた ある。 9 我が日の皇子↓一七一。長歌では一般 の ) 天を見るように ( まそ鏡 ) 仰いで見ても ( 春草の ) いよいよお慕わし に「日の皇子」四音のみで一句を成す。 いわが大君よ 〇み狩立たせるータタスはタッの敬語形。 このタッは出発する意。〇若薦をー地名 反歌一首 猟路のカリにかかる枕詞。若いコモ ( 突 ) ( ひさかたの ) 天を行く月を網に捕えわが大君は蓋になさっている を刈る意でかけた。〇猟路の小野ー小野 は大野 ( 一九 l) の対。人間生活が営まれて ある本の反歌一首 いる親しみやすい野。〇鹿こそばい這ひ 川わが大君は神でいらっしやるので真木が茂り立っ荒れた山中にも海を作拝めーシシは狩猟獣、特に鹿・猪をさす ことが多い。ここは鹿をさす。イは接頭 られることだ 語。ヲロガムはヲガムの古形。〇鶉こそ い這ひもとほれ↓一究 ( 鶉なすい這ひもと ほり ) 。鶉のよく歩きまわる性質とこれ が代表的猟鳥であるところから、狩場の 勢子の身をかがめて動きまわるさまにた とえた。〇鹿じものー鹿でもないのにま るで鹿ででもあるかのように。〇恐みと ↓一一一一三 ( 知らにと ) 。〇ひさかたのー天の あみ しか きぬがさ

4. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

23 巻第 9 ~ 12 一我が背子は仮廬作らす草なくは小松が下の草を刈らさね わせこ たまひり 我が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の玉そ拾はぬ き いぞゆいゼま 紀の温泉に幸す時に、額田王の作る歌 わ 9 莫囂円隣之大相七兄爪謁気我が背子がい立たせりけむ厳橿 ・もレ J が本 すなは みうたっく に因りて歌詠を製りて哀傷びたまふ」といふ。即ち、この歌さす。代は寿命。シルは支配する意。ャ は連体修飾格の下に用いられる間投助詞。 みな・ヘ ぬかたのお椴きみ すめらみことおみうた は天皇の御製なり。ただし、額田王の歌は、別に四首あり。〇岩代ー和歌山県日高郡南部町西岩代お よび東岩代の地。熊野に通じる要路にあ 、旅人が行路の平安を予祝する場所で あった。〇草根ーこの根は接尾語的な用 法で意味がなく、草そのものをいう。〇 いざ結びてなーイザは人を誘いまた自ら いっかし行動を起そうとする時に発する語。テは 完了の助動詞ツの未然形。このナは勧誘 を表す用法。草や木の枝を結ぶのは古代 の予祝儀社の一つ。 我が背子はー呼びかけ。文末の命令 と応じる。〇草なくはーカヤは屋根 に葺く材料としての名称。形容詞の連用 なかっすめらみこと 形十ハは仮定条件を表す。〇草を刈らさ 中皇命、紀の温泉に往く時の御歌 ねー仮廬の屋根を葺くのに必要な萱がな いはしろ 君が代も我が代も知るや岩代の岡の草根をいざ結びてないなら、せめてあの松の下の草をお刈り なさい。遊戯的な気持で詠んだ歌か。 我が欲りしー欲ルは四段活用。〇野 1 島は見せつー野島は和歌山県御坊市 名田町野島。紀伊水道に面した海岸の地。 島ではない。このハはヲ・ハの意。主格は 中大兄皇子。〇阿胡根の浦ー所在未詳。 野島の辺の海岸名か。〇玉そ拾はぬータ マはアハビタマともいい、真珠のこと。 ヒリフはヒロフの古形。 かりい のしま ゅ かや みうた をか あごね くさね もと く、 ・こをう

5. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

さと おも 三浅茅原つばらつばらに物思へば古りにし里し思ほゆる 力、も いのち 我が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため おも やすみしし我が大君の敷きませる国の中には都し思ほゅ一大伴旅人。↓題詞。帥は大宰府 の長官。従三位相当官。管内の一般の政 はやと 務の他に、隼人や外国に対する武備、異 国人との応接など、さまざまの事務をつ かさどった。 またをちめやもーヲツは、一兀の状態 に戻る意の上二段動詞。ここは老人 が再び若返ることをいう。この歌が詠ま れた当時、旅人は六十四、五歳か。〇ほ 帥大伴卿の歌五首 とほとにーホトホトは、次に述べる内容 が十分に確信できず、不安な気持を表す 我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかな副詞。 我が命も常にあらぬかーモ : ・ヌカ↓ 二九 ( ありこせぬかも ) 。〇象の小 りなむ 0 巻六、突 0 にも旅人の吉野を思いやる 歌がある。 ちがや 浅茅原ー浅茅の生えている野原。浅 茅は本来、丈が低い茅萱のことで、 いね科に属し、その若い花穂はツ・ハナと 称して食用になる。チハラーツ・ハラの類 音によってツ・ハラツ・ハラにかけた枕詞。 〇つばらつばらにーツ・ハラニ ( 一七 ) に同じ く、それを重ねた形。詳しく。よくよく。 〇古りにし里ー作者が生れ育ち、三十五 歳まで住んでいた明日香の古京をさすの であろう。 ふちなみ 藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君 わ わ あ さ は そちおとものまへつきみ わおきみ きさをがは うち 331

6. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

反歌一首 あまゆ あみさ ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり 第 巻 或本の反歌一首 あらやまなか 大君は神にしませば真木の立っ荒山中に海をなすかも ←がのみこ 枕詞。〇まそ鏡ー見ルの枕詞。別にマス 長皇子、猟路の池に遊でます時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌 ミ ( 真澄 ) 鏡・マソミ鏡などといった例も ある。〇春草のーメヅラシの枕詞。早春 一首剏せて短歌 の草の新鮮なさまによって形容詞メヅラ な わおにきみ わひみこ シにかける。〇いやめづらしきーイヤは、 やすみしし我が大君高光る我が日の皇子の馬並めてみ ますます、の意の接頭語。メヅラシは下 は カり・ かりぢをの をろがうづら一一段動詞愛ヅから派生した形容詞。対象 狩立たせる若薦を猟路の小野に鹿こそばい這ひ拝め鵁 学を愛でて飽きることがない、の意。 をろが 天行く月ー天を渡って行く月。〇網 こそい這ひもとほれ鹿じものい這ひ拝み鶉なすい這ひ に刺しー刺ス↓三八 ( 小網刺し渡す ) 。 かしこ つかまっ ここは網で鳥獣の類を捕えることをいう。 もとほり恐みと仕へ奉りてひさかたの天見るごとくま〇我が大君はーこの句は「大君は神にし ませば」というべきところを短く圧縮し わおきみ たもの。〇蓋にせりーキヌガサは貴人の そ鏡仰ぎて見れど春草のいやめづらしき我が大君かも 後ろからさし掛ける織物の傘。高松塚古 墳の東壁面南側の男子像の頭上に飾り紐 を垂らした蓋が描かれている。その天井 部は四角形であるが、円形のもあったこ とが埴輪などによって知られ、この歌の 趣からも、円形の蓋になぞらえたものと 思われる。月を蓋にたとえ、月を背景と した皇子のタ狩の姿を写したもの。 や『歌経標式』に全く同じ形で載っている。 真木↓四五。〇海をなすかもー猟路の 山中で思いがけなく広い水面を見、 これも皇子の威力によって作られたもの と讃美した句。 あふ カりち わかこも い かきのもとのあそみひとまろ しし あめ を、ぬが」 241

7. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

あさがすみ かた うへき 秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いっへの方に我が恋止まむ 第 巻 たかやま かくばかり恋ひつつあらずは高山の岩根しまきて死なま しものを に同じ。シは強めの助詞。マクは枕にす る意の四段動詞。古代では死後死体を山 頂や樹上に遺棄することがあったといわ れる。その習俗に基づいていったものか。 ありつつもーいつまでもこんなふう にして。〇うちなびくー垂髪のゆら ゆらと揺れ動くさまを表す語。「天武紀ー 十一年 ( 交一 l) の条に、男女とも結髪せよ、 という詔が発せられたが守られず、四年 後の朱鳥元年、再び女子に限って垂髪を 許した、とある。〇我が黒髪に霜の置く までにー夜が更けて髪に霜の置くまでも、 と一夜の間のことをいうが、四首連作中 わくろかみ ありつつも君をば待たむうちなびく我が黒髪に霜の置くの一首としてみるときは、霜を白髪の比 喩として、黒髪が白くなるまで、と解す る方がよい。 までに 霧らふー四段動詞霧ル ( 元 ) の継続態。 〇朝霞ー朝霧。キリとカスミとは必 ずしも区別がない。〇いっへの方にーへ は、ころ、の意の接尾語。カタは方向を 表す。いつ、どちらに、という時間性と 空間性を重ね合せた表現。 居明かしてー夜が明けるまで寝ない でいて。ヰルはすわる意。〇ぬばた いは 或本の歌に曰く まのー黒・夜などの枕詞。ヌ・ハタマはあ やめ科の多年草ひおうぎの真っ黒な実を 居明かして君をば待たむぬばたまの我が黒髪に霜は降るいう。 たむ まのうへのおくらおみるいじうかりんの 右の一首の歌は、山上憶良臣の類聚歌林に載せたり。 いはね あ や

8. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

短歌一一首 8 秋山のもみじがいつばいなので迷い込んでしまった妻を捜しに行くその 集山道もわからない〈また「道がわからなくて」〉 葉もみじが散ってゆく折しも ( 玉梓の ) 使いを見ると妻に逢った日のことが 萬 思い出される この世の人だと思っていた時に〈また「うっそみと思っていた時に」〉手に取り つき なが はしぞ 持ってわれわれ二人が眺めた走り出の堤に立っている槻の木のあちら こちらの枝の春の葉の茂っているようにしきりに思っていた妻ではある そむ が頼りにしていた女ではあるが世間の道理に背くこともできないので かげろう 陽炎のもえる荒れ野に真っ白な天人の領巾に包まれ鳥でもないのに朝 おさなご 家を出て ( 人日なす ) 隠れてしまったのでわが妻が形見に残した幼子 ひれ あ 惑ひぬるー山の中に葬って来た妻を 自ら山中に迷い込んだもののように 表現したもの。 散り行くなへにー散ってゆくにつれ て。ナへニ↓五 0 ( 思ほすなへに ) 。へ は清音。 うっせみとー妻はこの世の人であり、 死ぬなど考えられないことだと。〇 「うっそみ」ーウッセミに同じ。〇取り持 ちてー「槻の木のこちごちの枝」を手に取 り持って、の意か。手を取り合って、と する説もある。〇我が二人見しー槻の木 にかかる。 0 走り出ー山地が平野部に突 き出たような地形をいうか。方言で、山 の峰筋がうねうねと何はじもへ延びて その突端が川岸に達している地形を、

9. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

萬葉集 98 ふじわらのぶにんつか 天皇が藤原夫人に遣わされたお歌一首 わが里に大雪が降った大原の古ぼけた里に降るのは後だ 藤原夫人が唱和した歌一首 わが岡の竜神に頼んで降らせた雪のそのかけらがそこに散ったのでしょ ふじわらのみや たかまのはらひろのひめのすめらみことおくりな 藤原宮の天皇の御代高天原広野姫天皇、諡を持統天皇という。十一 かるのひつぎのみこ 年に位を軽太子 ( 文武 ) に譲り、尊号を太上天皇という おおくのひめみこ おおつのみこ 大津皇子がひそかに伊勢神宮に下り、帰って来る時に、大伯皇女が作ら れた歌一一首 いおえのおとめおおはらのおおと 一藤原鎌足の娘、五百重娘。大原大刀 ひかみのおとめ 自ともいい、姉の氷上娘と共に天武天皇 にいたべの の夫人となり、新田部皇子を生んだ。の ち異母兄不比等に愛され、藤原麻呂を生 む。夫人は妃と嬪との間に位する後宮の 職員。後宮職員令には、「妃二員、夫人 三員、嬪四員」とある。臣下出身の女性 は妃以上に上り得ず、聖武天皇の皇后と こうみようし なった光明子以前は、非皇族出身の天皇 の妻妾は夫人が最高位であった。 3 我が里ー皇居のある飛鳥浄御原の地 1 をいう。〇大雪降れりー雨 ( 雪 ) 降レ リは降り止んでいる状態にいう。〇大原 おうばら ー明日香村小原。鎌足の生誕地と伝える。 浄御原宮址の位置は不明であるが、狭い 飛鳥のどこからでも半径一じ前後の距 離内にある。〇降らまくー降ラムのク語 法 ( ↓七四 ) 。 や「大雪ーと「大原」、「降れり」と「古りに ふびと ぶにんひひん

10. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

227 巻第三 273 ~ 276 275 た あふみ やそみなと 磯の崎漕ぎ廻み行けば近江の海八十の湊に鶴さはに鳴くたと思われる。 比良の湊ー比良は滋賀県滋賀郡志賀 町木戸から小松へかけての一帯。比 良ノ湊は比良川・水尸川などの河口をい わ ひらみなと うか。〇沖辺な離りー岸から沖の方へ離 我が舟は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖辺な離りさ夜ふけに れてくれるな。梶取りへの注文。 0 類歌に「我が舟は明石の水門に漕ぎ泊 けり てむ沖辺な離りさ夜ふけにけり」 ( 一一三九 ) がある。 高島の勝野の原ー琵琶湖の西岸、高 たかしま 島郡高島町勝野の付近の原。ここは いづくにか我が宿りせむ高島の勝野の原にこの日暮れ北の曇肝町一帯までを含めて広くさし たものか。 なば 一つなれかもー一身同体であるから か。一ツナレ・ハカモに同じ。〇三河 ー国名。愛知県東部。〇二見の道ー愛知 県豊川市御油町と同市国府町との境で、 みかは 妹も我も一つなれかも三河なる二見の道ゅ別れかねっ浜名湖の南海岸沿いの東海道本道と、浜 名湖北岸を行く姫街道とが分れる分岐点 か。姫街道は本道の浜名湖の今切の険を る みつかび 避けて三ケ日・細江を経て浜松に出る迂 回路であった。一説に宝飯郡御津町広石 かとする。〇「ひとりかも行かむ」ー「一 本に云はく」とある方は、女の作になぞ くろひと らえた黒人自身の別案か や数字の一・二・三を詠み込んだ遊戯性 の濃い歌。 いもあれ いそ こ 一本に云はく、「三河の二見の道ゅ別れなば我が背も あれ 我もひとりかも行かむ」 わやど い い ふたみ かつの おきへ さか たづ よ 276 ごゅ