朝臣 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)
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1. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

211 巻第三 245 ~ 248 みづしま たふと くす 聞きしごとまこと貴く奇しくも神さびをるかこれの水島に表す用法。〇我が背子ーここは、男か ら男に呼びかけていう。〇泊まりー泊る 港。 むらじこ ニ大臣大紫石川連子の子。慶雲一一年 ( 七 だざいりだいに 0 五 ) 従四位下大宰大弐。和銅六年 ( 七一三 ) 右 大弁従三位で没。「石川宮麻呂朝臣」は氏 名姓の順に記した敬称法。↓三一一八題詞。 三大宰府の次官。従四位下相当官。 しようろうし 四「君子」とも書く。号を少郎子という。 いしかはのまへつきみこた 石川大夫の和ふる歌一首名欠けたり 和銅六年従五位下。播磨守、兵部大輔、 侍従などを歴任。神亀元年 ( 七一一四 ) 正五位 へなみ 沖っ波辺波立っとも我が背子がみ舟の泊まり波立ため下、同三年従四位下に進んだ。 五大弐に次ぐ大宰府の次官。正五位上 相当官。石川吉美侯が大宰少弐になった やも ことは『続日本紀』に漏れている。 しかはのみやまろあそみきゃううん 右、今案ふるに、従四位下石川宮麻呂朝臣、慶雲年中に大弐隼人のー隼人族の住む、の意で、薩 っ 4 摩にかかる修飾語。ハヤヒトは大隅 に任ず。また、正五位下石川朝臣吉美侯、神亀年中に少弐にい摩に住む部族で勇猛果敢、行動が敏 捷なところからその名がある。「神代紀」 すせりのみこと に火酢芹命の子孫の諸の隼人が宮廷の警 任ず。両人の誰のこの歌を作るかを知らず。 固に当るに至ったことを記す。〇薩摩の あくね 瀬戸ー鹿児島県阿久根市黒之浜と、天草 いずみ あずま 諸島の南端長島 ( 同県出水郡東町 ) との 間の、長さ約三 ) 、幅三〇〇、七〇〇 ながたのおきみ また、長田王の作る歌一首 の海峡。現在黒の瀬戸と呼ばれる。セ トは海峡。〇雲居なすー雲居は遠い雲の くもゐ とほ けふ さつませと 隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす遠くも我は今日見つるかも形容。ナスは、、のように、の意。 あしきた い 芦北の野坂の浦ゅ舟出して水島に行かむ波立つなゅめ はやひと のさか かむが ふなゼ いづれ わ かむ われ いに びん

2. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

27 巻第 16 四 しゅんざんばんくわにひしうざんせん うちのおまへつきみふちはらのあそみみことのり 天皇、内大臣藤原朝臣に詔して、春山万花の艶と秋山千 もちことわ きあは えふいろ 葉の彩とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王、歌を以て判 る歌 きな 一炻冬ごもり春さり来れば鳴かざりし鳥も来鳴きぬ咲かざり くさぶか し花も咲けれど山をしみ人りても取らず草深み取りて もみち も見ず秋山の木の葉を見ては黄葉をば取りてそしのふ あふみのおほっのみやあめしたをさ みよあめみことひらかすわけのすめら 近江大津宮に天の下治めたまふ天皇の代天命開別天 みことおくりなてんち 皇、諡を天智天皇といふ たいしよくかん な つぎて の歌を以て反歌に載せたり。故に、今も猶しこの次に載す。下最高位の大織冠の位を授け、大臣に任 じ、藤原姓を賜った。五十六歳で没。こ いは あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと一 また、紀に曰く、「天豊財重日足姫天皇の先の四年乙巳こに「内大臣藤原朝臣」とするのは遡。て 称したもの。 ひつぎのみこ 四『鎌足伝』に、天智天皇が近江に遷都 に、天皇を立てて皇太子としたまふ」といふ。 した後の平和な世情について述べ、「朝 廷事無ク遊覧是レ好ム。人ニ菜色 ( 不健 康な顔色 ) 無ク家ニ余蓄有リ。民ミナ太 平ノ代ヲ称フ」とある。春秋の優劣を詩 歌によって競わせるというような文雅の 遊びが、勅命によって内臣を判者として 行われることの背後には、右のような雰 囲気があったのではなかろうか。 冬ごもりー春の枕詞。〇春さり来れ ばーこのサルは時間の到来を表す。 〇山をしみーシミはシミサビ立テリ ( 吾 ) などとして見える動詞シムの連用形を、 形容詞繁シのミ語法のように用いたもの。 〇取りても見ずー「鳴かざりし」以下この 句まで鳥と花とを対照させて対句を重ね ている。上の「人りても取らず」が鳥につ いて述べてあるのに対し、この句は花に ついて述べたもの。〇黄葉ー紅葉した木 の葉。紅葉する意のタ行四段活用の動詞 モミツの名詞形。チは清音。『万葉集』で は「黄葉」と書くのが普通。〇しのふー偲 フと同源。↓六。ここは賞美愛玩する意。 い このゆゑ いっし

3. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

萬葉集 50 たぎまのまひとまろ 当麻真人麻呂の妻が作った歌 なばり わたしの夫はどの辺を行っていることだろうか ( 沖っ藻の ) 名張の山を今 日あたり越えていることだろうか いそのかみ 石上大臣が供奉して作った歌 ( 我妹子を ) いざみの山が高いせいか大和が見えない国が遠いせいなのか じようこうし あかみとり 右は、日本書紀に「朱鳥六年三月三日に、浄広肆の広瀬王たちを留守官に残 一伝未詳。真人は姓。当麻氏は用明天 まろこのおおきみ みわりあそんたけちまろ かんむり して行幸されることになった。そこで中納言三輪朝臣高市麻呂はその冠位を皇の皇子麻呂古王の子孫。 ささ 沖っ藻のー地名名張の枕詞。沖ッ藻 投げ捨てて御前に捧げ、重ねて『農繁期の前に行幸なさるべきでない』とお は海中の藻の意。オキには水際から いさ かんげん 諫めした。しかし、六日、持統天皇はその諫言に従わないで、ついに伊勢国水平に遠く離れた沖合をさす他に、水面 から垂直に深くなった水底の意もある。 あごかりみや に行幸された。五月六日に阿胡の行宮においでになった」とある。 地名「名張」が、隠れる意の四段活用の動 詞ナ・ハルの連用形と同じ音なのでかけた。 〇名張の山ー名張は三重県名張市。伊勢 と大和との境をなす。名張ノ山は名張西 方の山をいうか。 0 重出五二。 もののべのむらじ ニ石上麻呂。もと物部連。大宝元年 ( 七 (I) 正三位大納言となり、翌年大宰帥を 兼ね、慶雲元年 ( 七 0 四 ) 右大臣、和銅元年 ( 七 0 八 ) 左大臣正一一位に進んだ。養老元年 ( 七一七 ) 三月七十八歳で没。従一位を追贈 された。この持統六年の伊勢行幸当時五 十三歳。題詞に「石上大臣ーとあるが、右

4. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

357 巻第三 482 ~ 483 おも うっせみの世の理なれば外に見し山をや今はよすかと思 はむ わぎもこ あさと . り 朝鳥の音のみし泣かむ我妺子に今また更に逢ふよしを なみ 萬葉集巻第一一一 うっせみのーここは、はかない仮の 世の意に用いた ( 四四三 ) 。〇世の理な ればーこのコトはコトワリの意。人は老 い、やがて死ぬものだということは、こ の世の当然の理だからあきらめて。〇外 に見しーこれまで自分にとって無縁なも のだと見ていた。〇山をや今はよすかと 思はむーこの山は妻を葬った相楽山をさ す。一人称に用いたヤ : ・ムは、自らの行 為について、、しようことか、と慨嘆す る気持を表す。 いまつばひ たかはしのあそみ 右の三首、七月二十日に高橋朝臣の作る歌なり。名字末だ審 ~ 音のみし泣かむー声をあげて泣」て ばかり暮そう。シは強めの助詞。〇 かしはぞをのこ 逢ふよしをなみーヨシは、よりどころ・ らかならず。ただし、奉膳の男子といふ。 口実・きっかけ・事情・手段などの意。 一天平十六年か。ただし、聖武天皇は この十六年一一月以後、恭仁京を棄て難波 宮に移っていた。したがって天皇の奉膳 を勤める高橋朝臣も相楽郡にいなかった はずで、この歌は十六年の作でない、と する説がある。 ニ内膳司の長官。天皇の食膳のことを つかさどる。高橋氏は代々その職の家柄。 『新撰姓氏録』に、景行天皇の東国巡幸の かしわぞのおみかイわ はまぐり 際、大蛤を奉った功により膳臣の姓を 賜り、さらに天武十一一年高橋朝臣姓を賜 ったことが見える。 こと よそ あ

5. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

ひじかたのおとめはっせやま かきのもとのあそんひとまろ 土形娘子を泊瀬山に火葬した時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌一首 やまあい 3 ( こもりくの ) 泊瀬の山の山間に去りかねている雲はおとめの火葬の煙で 集あろうか ゼきし いずものおとめ 葉 溺死した出雲娘子を吉野に火葬した時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌 萬 二首 みね ( 山の際ゅ ) 出雲娘子は霧なのか吉野の山の嶺にたなびいている ( やくもさす ) 出雲娘子の黒髪は吉野の川の沖に漂う 430 429 一伝未詳。 ニ『続日本紀』文武四年 ( 七 00 ) 三月に、 道照和尚が死んだ時に、その遺言によっ て火葬にした、天下の火葬はこれが最初 である、と記す。大宝二年 ( 七 0 一 l) に崩じ た持統天皇も火葬に付せられた。

6. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

反歌 8 やまとしの たゆい 越前の海の手結の浦を旅にあって見ると慕わしいので大和を偲んだ いそのかみの 石上大夫の歌一首 いそ 葉大舟に梶をい 0 ばい取り付け天皇の仰せを畏んで磯を巡 0 て行くことだ いそのかみのあそんおとまろ 萬 右は、今考えると、石上朝臣乙麻呂が越前の国守に任ぜられている。あるい はこの大夫であろうか。 唱和の歌一首 朝廷に仕える官人たるものは天皇の仰せのとおりに従うものだ かさのあそんかなむら 右は、作者がわからない。ただし、笠朝臣金村の歌集の中に出ている。 かしこ 見ればともしみートモシ↓吾 ( とも しきろかも ) 。ここは心が引かれる 意。旅先での人恋しい気持が含まれてい る。 おとまろ 一石上乙麻呂。左大臣石上麻呂の第三 やかつぐ 子。宅嗣の父。神亀元年 ( 七一一四 ) 従五位下。 天平四年 ( 七三一 I) 従五位上丹波守となった が、同十一年従四位下左大臣であった時、 うまかい くめのむらじわかめ 久米連若売 ( 藤原宇合の未亡人 ) と通じ

7. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

51 巻第一 43 ~ たぎまのまひとまろ 大臣となるのは十一一年後。遡って称した 当麻真人麻呂の妻の作る歌 もの。 おきも なばり わせこ けふ 我が背子はいづく行くらむ沖っ藻の名張の山を今日か越“我妹子をー山の名イザミに、さあ見 よう、の意を持たせてかけた枕詞。 いいなん 〇いざみの山ー三重県飯南郡、奈良県宇 ゆらむ 陀郡、同吉野郡の境にある高見山 ( 一二 四九 ) かという。 三持統六年 ( 六九一 l) 。 いそのかみのおまへつきみおみとも 四三日。太陽暦の三月二十五日に当る。 石上大臣、従駕にして作る歌 五天武十三年に制定された位階におけ わぎもこ る、諸王以上に授けた位の一つ。大宝令 やまと “我妹子をいざみの山を高みかも大和の見えぬ国遠みかもの従五位下に相当する。 六系統未詳。和銅元年 ( 七 00 従四位上 にんぎ あかみとり へいいんっきたち 右、日本紀に曰く、「朱鳥六年壬辰の春三月、丙寅の朔の戊大蔵卿。養老二年 ( 七一 0 正四位下。同六 年没。 ちうな しんじゃうくわうしひろせのおきみもち七 辰、浄広肆広瀬王らを以て留守の官となす。ここに、中納七行幸の間、宮都の留守を預る官。 八太政官の次官。大納言に次ぐ。従三 ごんみわのあそみたけちまろ かがふりぬ みかどささ 言三輪朝臣高市麻呂その冠位を脱きて朝に擎上げ、重ねて諫位相当。定員三名。 九この後、長門守、左京大夫などを歴 まをさ なりはひさき きみいまもちいぞま 任。慶雲三年 ( 七 0 六 ) 従四位上で没。五十 めまつりて曰く、『農作の前に、車駕未だ以て動すべからず』 歳。 いぞま 一 0 『日本書紀』にはこの半月ばかり前に とまをす。辛未、天皇諫めに従ひたまはず、遂に伊勢に幸す。 も諫めたことが見える。 いっちう かりみやいぞま = 六日。太陽暦の三月一一十八日。 五月乙丑の朔の庚午、阿胡の行宮に御す」といふ。 一ニ六日。太陽暦の五月二十六日。 あんぐう 一三三重県志摩郡にあった行宮。この行 幸は三月のそれとは別。 しび いは カうごあご じんしん つひ いさ

8. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

さがらかやま はかない世の定め故これまで縁もなかった相楽山を今は形見としようか あ ( 朝鳥の ) 声をあげて泣こう亡き妻にいまさらもう逢うわけもないので 右の三首は、七月一一十日に高橋朝臣が作った歌である。名前はわからない。 集 葉 ただし奉膳の位の男子だという。 萬 萬葉集巻第一一一

9. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

つき やましろ もっと早く来て見るとよかったのに山城の多賀の槻の林はもう散ってし 8 まった いしかわのしようろう 石川少郎の歌一首 集 ひま も しかあま 葉志賀の海女は藻を刈ったり塩を焼いたりして暇がないので櫛箱の櫛を手 萬に取ってもみないことだ いしかわのあそんきみこ 右は、今調べてみると、石川朝臣君子、その通称を少郎子という。 たけちのむらじくろひと 高市連黒人の歌一一首 いなの なすきやま わが妻に猪名野は見せた名次山や角の松原はいつになったら見せられよ やまと さあ皆の者よ大和へ早く ( 白菅の ) 真野の榛原の倏の木の枝を手折って帰 ろう 黒人の妻が答えた歌一首 まのはりはらはん つの たか くしばこ 7 山背ー国名としては京都府の東南部、 幻京都市以南をさすが、古くはその南 そうらく つづき 半の久世・綴喜・相楽などの諸郡の奈良 県に近い一帯を主としていったもののよ うである。〇高ー綴喜郡井手町多賀。 『延喜式』神名帳に「高神社」の名が見える。 〇槻群ー槻の木の群落。槻↓一二 0 。 ↓一一四七左注 ( 石川朝臣吉美侯 ) 。少郎 は本来若い男子を表す語。左注の少郎子 に同じ。中国で他人の子息を呼ぶ敬称 「郎子」のうち、兄弟の一番末に当る男子

10. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

まくら あらいそ 沖の波の寄せる荒磯を ( しきたへの ) 枕として寝ていらっしやる君よ いわみのくに かきのもとのあそんひとまろ 柿本朝臣人麻呂が石見国にいて死期が近づいた時に、自ら悲しんで作 った歌一首 かもやま 葉鴨山の岩を枕にして横たわっているわたしのことを知らずに妻は待って 萬いることであろうか よさみのおとめ 柿本朝臣人麻呂が死んだ時に、妻の依羅娘子が作った歌一一首 今日こそ今日こそとわたしが待っているあなたは石川の峡に〈また「谷に」〉 はいってしまっているというではないか じかに逢おうと思っても逢うことはできないだろう石川に雲よ立ちわたれ なが せめて眺めて偲ぼう しの かい 枕とまきてーマクは枕にする意の四 段動詞。〇寝せるーナスは下二段ヌ の敬語形。 一人麻呂の臨終の地を石見国 ( 島根県 よさみ 西部 ) とする記事を疑う説もある。依網 や石川の地名が河内国 ( 大阪府東部 ) の中 にあり、鴨山も大和・山城・三河など各 地にありふれた地名だというのである。 おおち ゆがかい 鴨山ー所在未詳。一説に島根県邑智 郡邑智町湯抱の鴨山 ( 三六〇 ) かと する。〇岩根しまける↓八六 ( 岩根しまき て ) 。〇知らにとー知らないからとて。 ニは打消の助動詞の連用形。理由を示す 場合に多く使われる。ミ語法 + トや、カ テニト・知ラニトなどのトには、ほとん 222