皇女 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)
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1. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

萬葉集 32 あすかのきよみはらのみや あまのぬなはらおきのまひとのすめらみことおくりな 明日香清御原宮の天皇の御代天渟中原瀛真人天皇、諡を天武天 皇という ふふきのとじ とおちのひめみこ 十市皇女が伊勢神宮に参拝した時に、波多の横山の巌を見て、吹英刀自 が作った歌 川べりの岩々に草が生えないで若々しいようにいつまでもわたしも変らず 一天武天皇の皇居。持統天皇も引き続 にありたい永遠のおとめで いて同じ宮にその八年 ( 六九四 ) まで在った。 吹英刀自のことはよくわからない。ただし、日本書紀には「天武天皇の四年宮址は飛鳥寺南方の伝飛鳥板蓋宮跡の上 あえのひめみこ 層遺構とも、またその東南のいわゆるエ 二月十三日に、十市皇女と阿閉皇女とが伊勢神宮に参拝したーとある。 ビノコ大殿遺跡とも言われ、明らかでな おみのおおきみ 麻続王が伊勢国の伊良虞の島に流された時に、人々が気の毒に思っ ニ天武天皇の第一皇女。母は額田王。 天智天皇の皇子大友皇子の妃となり、葛 ののおおきみ 野王を生んだ。壬申の乱で父天武天皇 と夫の大友皇子とが戦い、その結果夫の 敗死に終るという悲劇の中心に身を置い た。乱後大和に移ったが、天武七年 ( 六七 0 四月七日抦で宮中に没した。 いちし 三波多は三重県一志郡一志町の一帯を さすか。横山の位置は不明。 とおちの 四伝未詳。十市皇女の侍女か。巻四相 聞の四九 0 ・四九一の歌もこの人の作。刀自は 女性に対する尊称。 いわお かど

2. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

399 付録 ( 参考系図 ) げんしト・・フ 元正天皇 とねりのみこ 間人皇女舎人皇子 , ー仁天皇 なドのみこ かわちのおきみ たかやすのおおきみ たかたのおおきみ 長皇子ーーー川内王。安王ー高田女王 かど陽おおきみ 日ー立ロエ亠 弓削皇子 やまさきのおおきみ おさかべのみこ 、壁皇子ー山前王 新田立ロ皇子 大伯皇女 たじまのひめみこ 但馬皇女 きのひめみこ 紀皇女 ちぬのおおきみこうぎよく 茅渟王皇極天皇・斉明天皇 3 ありまのみこ 徳天皇ー有間皇子 はしひとのひめみこ おおくのひめみこ あさかのみこ 安積皇子 悪天皇・天皇

3. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

91 巻第二 91 ~ 92 鏡王女の和へ奉る御歌一首 したがく 秋山の木の下隠り行く水の我こそ益さめ思ほすよりは あふみのおつのみやあめしたをさ すめらみことみよあめみことひらかすわけのすめら 近江大津宮に天の下治めたまふ天皇の代天命開別天 みことおくりなてんち 皇、諡を天智天皇といふ 一従来額田王の姉かとされたが、その しよめい 墓が舒明天皇陵の域内にあることから推 して、舒明天皇の皇女とする説に従うべ きであろう。初め天智天皇に愛されたが のち藤原鎌足の正室となる。天武十一一年 ( 六八三 ) 七月五日没。その前日天武天皇は その家に幸し見舞っている。現在の興福 寺は鎌足が病に臥した時、王女の発願に よって開基されたものという。 かがみの 味が家も継ぎて見ましをー妹は鏡 力がみのおきみたまみうた おおきみ 王女をさす。作者天智天皇はこの当 天皇、鏡王女に賜ふ御歌一首 ながら 時まだ皇太子として孝徳天皇の難波長柄 やまと とよさきの 妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらま豊碕宮にあり、そこから大和の方を望 見して詠んだのであろうという。〇大島 しぎさん しを〈一に云ふ、「妹があたり継ぎても見むに」〉〈一に云ふ、「家居らましを」〉の嶺ー奈良県生駒郡三郷町の信貴山周辺 の一峰かという。〇家もあらましをー鏡 王女の家がありさえすればよいのに。〇 「家居らましを」ー家居リは、家を造り、 そこに住むこと。主語は作者の天智天皇。 秋山の木の下隠り行く水のー底では 深く思いつづけていることを表す序。 カクルは古く四段にも活用した。 ニ藤原朝臣鎌足。↓一六題詞 ( 藤原朝 臣 ) 。この歌は近江遷都前後の鎌足五十 五歳ごろの作か。 いも よば うちのおま、つきみ」ちはらのま、つきみ 内大臣藤原卿、鏡王女を娉ふ時に、鏡王女、内大臣 こ るに、二代二時に、この歌を見ず。 こたまっ ま おしまね いへを つん ふ

4. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

時の挽歌一六九の下注に、 もちのちみこのみことあらきのみや くだり 或本は、件の歌を以て後の皇子尊の殯宮の時の歌の反とす。 たけちのみこ 集とあるのは、この二首の反歌を高市皇子の殯宮挽歌 ( 一究 ) の反歌として伝える本があったことを示す。草 葉壁薨後の高市皇子の存在が往時の草壁皇子とほぼ等しかったこともあろうが、殯宮挽歌の性格の一面を物語 萬っているといえよう。 しよくにんぎ いた なお、この辺の、皇子女の薨去を傷んだ歌の配列の先後が『日本書紀』や『続日本紀』の記載の順序と矛 あすかのひめみこ 盾するところがある。すなわち、『万葉集』では、草壁皇子 ( 一六七 ) 、川島皇子 ( 一九じ、明日香皇女 ( 一突 ) 、高 ゅげのみこ たじまのひめみこ 市皇子 ( 一究 ) 、但馬皇女 ( 一一 0 一、弓削皇子 ( 一一 0 四 ) の順に並んでいるが、史書では六八九年草壁皇子、六九一 年川島皇子、六九六年高市皇子、六九九年弓削皇子、七〇〇年明日香皇女、七〇八年但馬皇女の順に薨じて いる。そのうち但馬皇女と弓削皇子の挽歌は人麻呂作でないから別扱いにすべきかもしれないが、それでも 順序が逆である。人麻呂の作に限っても、明日香皇女と高市皇子の順序が転倒している。原資料の不備か、 編者の疎漏のためかわからないが、疑問の存する所である。 じしようか ならのみや 柿本人麻呂自身の自傷歌が「寧楽宮」の標目の前にあるのは、人麻呂が平城遷都以前に死んだことを示す。 れいき 志貴皇子が薨じたのは元明天皇が元正天皇に譲位した霊亀元年 ( 七 3 である。『続日本紀』では霊亀二年薨 へだ となっていて食い違いがあるが、いずれにせよ、巻一の最後の歌と何年も隔たっていない。このことはやは り両巻の関係が密接で、同時に編集を終えたことの証であろう。 0 0 そろう はん

5. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

萬葉集圏 に頼み込まれた・ 。三十年九月十一日、皇后は紀伊国に旅行し、熊野の岬 まで行って、そこの御綱葉を取って帰った。ところが、天皇は皇后の留守を ねらって八田皇女を娶り、宮中に召し人れられた。その時、皇后は難波の渡 し場まで来て、天皇が八田皇女を召されたと聞いて、ひどく恨んだという : 」とある。 いんぎよう きなしのかるのみこ また「允恭天皇の二十三年三月七日、木梨軽皇子を皇太子に定められた。皇 うるわ かるのおおいらつめの 子は容姿麗しく、見て心がひかれない人とてなかった。同母眛の軽太娘 ひめみこ 皇女もあでやかな美人であった : 。とうとう二人はひそかに通じ、それで 日ごろの胸のつかえがわずかながら癒えた。二十四年六月、天皇の温かい吸 物の汁が固まって氷になった。天皇は不思議に思い、そのわけを占わせられ そうかんきぎ た。占い師が言うには、『近親相姦の兆しがある、たぶんごく親しい肉親同 士が不倫な関係を結んでいるのではないか : : : 』と言った。そこで太娘皇女 を伊予に移されたーとある。今調べてみると、 みつながしわ めと い むろ 一熊野は旧紀伊国牟婁郡をさすが、牟 婁郡は現在東・西 ( 和歌山県 ) 、南・ ( 三重県 ) に分れ、この態野ノ岬もどこに

6. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

99 巻第二 103 104 ふちはらのみやあめしたをさ すめらみことみよたかまのはらひろのひめのすめらみこと 藤原宮に天の下治めたまふ天皇の代高天原広野姫天皇、 ていがい おくりなちとう みくらゐかるのひつぎのみこ 諡を持統天皇といふ。元年の丁亥、十一年に位を軽太子に譲り、 おきすめらみこと ~ 尊号を太上天皇といふ し」「降らまく」に頭韻を踏んで軽快な調 べの中に、相手と共に雪を見られないこ とを残念に思う気持を秘め、格調の高さ、 優しさのこもった佳品である。 我が岡の龕ーオカミは水神。蛇体で 雨を降らせると信じられた。〇雪の こたまっ 摧けしークダケは名詞。シは強めの助詞。 藤原夫人の和へ奉る歌一首 ◆こちらこそ大雪の本家ですと言い返し わ をか おかみ た戯れの歌。 我が岡の龕に言ひて降らしめし雪の摧けしそこに散り = ↓一一〈標目。 三文武天皇。↓一一八標目。 けむ 四天武天皇の第三皇子 ( 持統紀によ る ) 。母は天智天皇の皇女、大田皇女 ( 持 統天皇の同母姉 ) 。天武天皇崩後一一十五 あかみとり 日目の朱鳥元年 ( 交六 ) 十月三日、謀反の 罪によって処刑された。年二十四歳。大 田皇女の死後、天智天皇に愛されて育っ おんとろうろう たといわれ、風貌たくましく音吐朗々と して才学があり、とりわけ文筆を愛し、 詩賦はこの皇子から興ったと『日本書紀』 に記されている。 五天武天皇の皇女。母は大田皇女。大 津皇子の二歳年上の同母姉。天武二年 いっきのみや ( 六当 ) 十三歳で斎宮となり、翌年伊勢に 赴いた。天武天皇が崩じ、大津皇子も没 した後の朱鳥元年十一月還京。大宝元年 ( 七 0 一 ) 没。四十一歳。 わ すめらみことちはらのぶにんたまみうた 天皇、藤原夫人に賜ふ御歌一首 ふ おはら 我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後 四 おほっのみこ いせのかむみやくだ のく おくのひめみこ 大津皇子、竊かに伊勢神宮に下りて上り来る時に、大伯皇女 の作らす歌一一首 ひそ ふ くだ のち しふ

7. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

( こもりくの ) 泊瀬おとめが手に巻きつけていた玉は乱れているというで 、 6 泊瀬娘子ー石田王の通 0 ていた愛人 をいうか。〇玉は乱れてありと言は はないか ずやもートイフは伝聞。その心がちぢに おおきみ 乱れていることをにおわす。 集 4 川風の寒い泊瀬を嘆き嘆き通っていた王に似ている人さえも現れないこ 寒き長谷をー第四句アルクに続く。 葉とだ 〇君があるくにーアルクは歩行一般 きのひめみこな やまさきのおおきみいしだのおおきみ 萬 を表すアユムと異なり、徒歩・乗馬・船 右の二首は、あるいは、紀皇女が亡くなった後に、山前王が石田王に代っ いかい 舶などの別なく俳徊すること。またある て作ったのだ、ともいう。 範囲内を往還すること。ここは後者。生 前の石田王がいつも娘子を思って通って 柿本朝臣人麻呂が香具山にある死骸を見て悲しんで作った歌一首 いたことをアルクという歴史的現在で表 ( 草枕 ) 旅の仮寝にいったい誰の夫なのか故郷も忘れて横たわっていること している。ニは似ルに続く格助詞。〇似 る人も逢へやー逢へヤは反語。主語は だ家の者は待っているだろうに ( 石田王に ) 似ル人 ( ↓一二九「大津の児が逢 たぐちのひろまろ おさかべのたりまろ 田口広麻呂が死んだ時に、刑部垂麻呂が作った歌一首 ひし日にし。 ( 百足らず ) 曲り角の多い坂で神にお供え物をしたら死んでいった人にひや左注によって紀皇女が死んだ時の歌と すれば、四一一四は皇女を葬った泊瀬の地の よっとして逢えるだろうか 娘子の悲しみを詠んだ歌と考えられ、四一一 うっしみ 五は現身の石田王が紀皇女の葬られてい る泊瀬の地を俳徊している歌となり、似 ル人は死んだ皇女に似ている人をさすと 思われる。 ↓二九題詞。 ニ↓一一題詞。この真上を中ッ道が通っ ていた。 宿りー旅先で泊る所。ここは、死者 にとって旅先である香具山の道ばた はっせ かよ 425

8. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

萬葉集 398 天皇家系図 3 3 ふるひとおおえのみこ びだっ 天皇敏達天皇押坂彦人大兄皇子天皇人大兄皇子 なにわのみこ 波皇子 殪天皇子 ( 文天皇 ) ー ~ 《ー渺辺《ー「一一艦 かわしまのみこ 、・・つめい 川島皇子 用明天皇ー聖徳子 しきのみこ かすがのおおきみあきのおおきみ 大皇第仁天皇ー武天皇 峻天皇 2 しー、・フ ゅはらのおきみ 持統天皇湯原王 みなひめみこ 御名立ロ皇女 げんめ、 元明天皇 あすかのひめみこ 明日香皇女 やまべのひめみこ 山辺皇女 武天皇市皇子ーー長屋弘《ー無。 " 《 しト・・フむ もんむ くさかべのみこ 草壁皇子文武天皇ー聖武天皇基王 推古天皇 おしさかひこひとおおえのみこ もといのおおきみ いちはらのおきみ

9. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

107 巻第二 115 ~ 117 たちまの あふみしが づみのみこみことのり 穂積皇子に勅して、近江の志賀の山寺に遣はす時に、但馬 ひめみこ 皇女の作らす歌一首 くまみ おくゐ 後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ わせ 我が背 いま たけちのみこ 但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、竊かに穂積皇子に接ひ、 すぞあら 事既に形はれて作らす歌一首 しげこちた ひとごと 人言を繁み言痛み己が世にいまだ渡らぬ朝川渡る とねりのみこみうた 舎人皇子の御歌一首 かたこひ Ⅲますらをや片恋せむと嘆けども醜のますらをなほ恋ひに けり おの しこ ひそ つか あさかは しめゅ ともあった。ここは、後を追う者が迷わ ないように付けた道しるべ。 6 人言を繁み言痛みー人の噂がおびた 1 だしい意の人言繁シのミ語法と言痛 シのミ語法とを並置したもの。繋シは隙 間もないほどにいつばいであることをい や表面的には、皇女の身で朝の川を渡る ということを述べただけの歌であるが、 その背後には、密通という危険な未知の 世界にあえて足を踏み人れた皇女の行動 が、寓意として歌い込まれているか。 ニ天武天皇の第三皇子 ( 『続日本紀』天 平七年の条による ) 。母は天智天皇の皇 にいた・ヘの 女、新田部皇女。養老二年 ( 七一 0 一品を 授けられ、翌年新田部皇子と共に皇太子 ( 聖武 ) の補佐役に任ぜられ、同四年藤原 ふびと 不比等が没すると知太政官事となった。 じゅんにん 天平七年 ( 当五 ) 没。六十歳か。淳仁天皇 はその第七皇子。 Ⅲますらをや片恋せむー一人称主格の ヤ・ : ムは、現在の自分の行為につい て、こうも、することか、と慨嘆する語 法。マスラヲの語の使用に自嘲的な口ぶ りが感じられる。〇醜のますらをーシコ は醜いものをいう。ここは自己嫌悪して いう。 0

10. 完訳日本の古典 第2巻 萬葉集(一)

395 付録 ( 萬葉集関係略年表 ) 文 武 持統 きよみまらの 一一六七三一一月浄御原宮に即位、齲野皇女 ( 持統 ) 立后。 一一一六七四十月大儷皇薪どなって伊勢神宮に向う。 とちの あえの 四六七五一一月十市皇女・阿閉皇女ら伊勢神宮に参赴。吹 ~ 欠刀自の歌 ( 1 一三 ) 。四月麻続王時幡に配流 ( 万葉集に は伊勢国伊良ル島に流されるとあり ) 。 七六七八四月十市皇女卒然に発病し薨する。高市皇子の挽歌 ( 2 一五六ー一五八 ) 。 ( さかべおっ 八六七九五月五日吉野に行幸。天皇の御製歌 ( 1 二七 ) 。六日草壁・大津らの諸皇子と共に盟約。 一〇六八一二月浄御原令の編纂を開始。草壁皇子立太子。 六八一一四月男女結髪の制を定める。 一一一六八一一一二月大津皇子始めて朝政に参与する。七月・。丑薨。十一一月難波宮を修営、副都にする計画あり。 朱鳥元六八六七月改元。女子に限り結髪令を解除。九月九日天皇崩御。同二十四日大津皇子謀反。十月一一日大津皇子 を逮捕。三日死を賜る。皇子の辞世歌 ( 3 四一六 ) 。 とわり 三六八九四月草壁皇子薨。柿本人麻呂の挽歌 ( 2 一六七ー一七〇 ) 。舎人らの慟傷歌 ( 2 一七一ー一九三 ) 。 四六九〇正月天皇即位。九月紀伊国に行幸。川島皇子の作歌 ( 1 三四 ) 。 はっせ 五六九一九月川島皇子薨。人麻呂の泊瀬立ロ皇女らに献ずる挽歌 ( 2 一九四ー一九五 ) 。 六九一一三月伊勢国に行幸。人麻呂の留京作歌 ( 1 四〇ー四二 ) 、、お墅の従駕作歌 ( 1 四四 ) など。 むしやだいえ 七六九三九月天武天皇のために無遮大会を設ける。天皇の夢裏に誦習された御歌 ( 2 一六二 ) 。 えきみん 八六九四十二月藤原宮遷居。役民の作った歌 ( 1 五〇 ) 。 一〇六九六七月高市皇子薨。人麻呂の挽歌 ( 2 一九九ー二〇一 ) 。 元六九七一一月・皇子 ( 文武 ) 立太子。八月持統天皇譲位。 きそめのあずまと 三六九九七月弓削皇子薨。置始東人の挽歌 ( 2 二〇四ー二〇六 ) 。 四七〇〇三月僧逾腓没。日本最初の火葬。四月明日皇女薨。人麻呂の挽歌 ( 2 一九六ー一九八 ) 。 大宝元七〇一正月第七次遣唐使任命。山上憶良少録となる。三月石上麻呂・藤原不比等正正三位大納言に、大伴安麻 呂正従三位となる。八月大宝律令成る。九月紀伊国に行幸。従駕の歌 ( 1 五四ー五五・ 2 一四三ー一四 六 ) 。十一一月大伯皇女薨。 みかわの 同二七〇一一六月第七次遣唐使出発。参河国に行幸。長奥麻呂らの歌 ( 1 五七ー六一 ) 。十二月持統太上天皇崩御。 同三七〇一一一一月忍壁皇子知太政官事となる。十二月持統太上天皇を火葬し、天武天皇の大内陵に合葬する。 おさかべの せんこ な都のおきまろ ふふきのとじ おみの 、なば