ひつぎ 右にあげた五首の歌は、葬式の柩をひく時に作った歌ではないが、歌の内容 は挽歌に類する。それ故に挽歌の部類に載せた。 だいう きいのくに 大宝元年、紀伊国に行幸があった時、結び松を見て作った歌一首柿本 集 葉 朝臣人麻呂の歌集の中に出ている いわしろ 萬後に見ようと思って皇子が結んでおいた磐代の松の梢をまた見たであろ おうみのおおつのみや あめみことひらかすわけのすめらみことおくりな 近江大津宮の天皇の御代天命開別天皇、諡を天智天皇という 一挽歌の原義を言い替えたもの。 ニ「准」も「擬」も、なぞらえる意。 おおきさき 天皇がご病気の時に、大后が奉られたお歌一首 三七〇一年。九月十八日文武天皇は紀 むろ Ⅲ大空を振り仰いで見ると大君のお命はとこしえに長く空に満ち満ちてい伊に行幸し、十月八日に牟婁の温泉に到 着している。五四・一六六七などの歌もこの時 る に詠まれたものである。 四明らかに人麻呂の作品と記された長 歌二〇首短歌七五首の他に、「柿本朝臣 人麻呂歌集の出」などとして、右と扱い を異にする歌が、長歌一一、旋頭歌一二五、 短歌一二三四、合計一二七一首ある。これら は稀に巻二・三などの作者明記の巻にも 人っているが、多くは巻七・十・十一・ 十二・十三などの作者不明の巻々に分け 収められている。これらをすべて人麻呂
六各巻の概説 葉『万葉集』四千五百余首の歌の分類配列の基準は単一でない。あるいは内容の差、あるいは時代の先後、そ から 萬 の他さまざまの条件が複雑に絡んでいる。ただ、巻一・二・三および四などにおいては、内容による分類が 優先し、それぞれのグループの中で時代の先後によって配列される、という構造になっている。本冊に収め たのは巻一から巻三までであるが、これに巻三と密接な関係が認められる巻四を加えた歌を内容別に分け、 それぞれの歌数および歌体の違いを表示すれば次のようになる。 短歌 旋頭歌 部類別 歌数 ( 国歌大観による ) 長歌 〇 六八 巻一雑歌八四 ( 一、八四 ) 〇 巻一一相聞五六 ( 会、一四 0 ) 七八 〇 挽歌九四 ( 一四一、一三四 ) 〇 巻一一一雑歌一五五 ( 一一三五、三兊 ) 〇 〇 譬喩歌二五 ( 三九 0 、四一四 ) 九 〇 六〇 挽歌六九 ( 四一五、哭三 ) 三〇一 七 巻四相聞三〇九 ( 哭四、七九一 l) 右の七つのグループに収められた作品の時間的な相関関係は次のようになっている ( 三八二ページ図 ) 。 子細に見れば時にその時代順が乱れることがあるが、それには何らかの事情が介在していることが多い。こ しさい
山部赤人が富士山を遠く見や 0 て作った歌一首と短歌 こうごう たかね するが 天と地が別れた時から神々しくて高く貴い駿河の国の富士の高嶺を 集大空はるかに振り仰いで見ると空を渡る太陽の姿も隠れ照る月の光も 葉見えない白雲も進みかね時ならず雪は降っている語り伝え言い継い 萬でゆこう富士の高嶺は 反歌 一生没年未詳。宮廷歌人としてしばし 田子の浦越しにうち出て見ると真っ白に富士の高嶺に雪が降っているこ ば聖武天皇の行幸に供奉し、また旅にあ とだ ってすぐれた叙景歌を残した。巻六・八 なが などにもその歌が収められており、作歌 富士山を眺めて作った歌一首と短歌 年代の最も下るものは天平八年 ( 当六 ) 夏 ( なまよみの ) 甲斐の国と ( うち寄する ) 駿河の国と両方の国の真ん中か吉野行幸の際の応詔歌である。中古以降 そび 柿本人麻呂と共に歌聖とたたえられた。 ら聳え立っ富士の高嶺は天雲も進みかねⅱ 天の原振り放け見れば↓一四七。〇隠 らひーカクラフは四段カクルの継続 態。〇い行きはばかりーイは接頭語。ハ ハカルは障害にあってためらうこと。こ こは山の霊威に打たれて近づこうとしな いことをいう。〇時じくーその時でもな いのに。〇降りけるーこのケリは過去か ら現在まで動作や作用が継続しているこ とを表す用法。 田子の浦ゅうち出でて見ればー田子 3 ノ浦↓一一九七。ウチ出デは、「逢坂をう 317
175 巻第二 204 206 また短歌一首 ささなみ しが ~ 楽浪の志賀さざれ波しくしくに常にと君が思ほせりける 反歌一首 あまくも 大君は神にしませば天雲の五百重の下に隠りたまひぬ わおきみたかひか あまみや やすみしし我が大君高光る日の皇子ひさかたの天っ宮〇あやに恐みーアヤ = ↓堯。恐ミは恐 シのミ語法。〇臥し居嘆けどー横になっ ひる かしこ たり、すわったりして嘆くが。ヰルはす に神ながら神といませばそこをしもあやに恐み昼はも 、わること 0 あらひとがみ 大君は神にしませばー現人神である 日のことごと夜はも夜のことごと臥し居嘆けど飽き足ら 天皇または皇子の霊威をたたえる句。 この下に人間わざでは絶対に不可能な行 ぬかも 為が叙せられる。天武天皇およびその皇 子に限って用いられる常套句。〇天雲の 五百重の下にー幾重にも重なった雲のう ちに。シタはウへに対し、人の目に見え ない裏面、奥の方、の意。〇隠りたまひ ぬー雲隠ルは貴人の死の敬避表現。 楽浪の志賀さざれ波ー楽浪は大津市 北部を中心とした琵琶湖西南岸一帯 の地。サザレ波は小さな波。サザレは小 さいことを表す接頭語。以上、シクシク を起す序。シクは波がつぎつぎに寄せる ことをいう。〇しくしくにーしきりに。 「思ほせりける」にかかる。〇常にー下に アラムが省かれている。〇思ほせりける ー連体止め。強い感動をこめた語法。 や巻三、一一四一一にも皇子自身短命を悟って いたような口ぶりがうかがわれる。弓削 しト 4 うこうに 皇子が浄広弐に叙せられたのは持統七年 ( 六九三 ) 、この時一一十一歳であったと仮定 して二十七歳で没したかとする説がある。 かきのもとのあそみひとまろ きふけつあいどう 柿本朝臣人麻呂、妻の死にし後に、泣血哀慟して作る歌二 首剏せて短歌 かむ よる よ いほへ つね ふ ゐ あだ
みこゅげのみこ ( やすみしし ) わが大君の ( 高光る ) 日の御子弓削皇子が ( ひさかたの ) 天 しず の宮居におんみずから神としてお鎮まりになったのでそのことがむしょ 集うに恐れ多く昼は日がな一日夜は夜どおし寝たり起きたりしてため息 葉をつくが心は満ち足りないことだ 萬 反歌一首 わが大君は神であられるので天雲の五百重の奥にお隠れになった また短歌一首 しが ささなみ 楽浪の志賀のさざ波のように絶え間なく変らずにありたいと皇子は念願 しておられたのだが 柿本朝臣人麻呂が、その妻の死んだ後に泣き悲しんで作った歌二首と 短歌 やすみししー我ガ大君の枕詞。〇高 光るー日 / 皇子の枕詞。〇日の皇子 ー天皇または皇太子をいう。ここは弓削 皇子をさす。〇神といませばー弓削皇子 が薨じたことをいう。〇そこーその点。
53 巻第一 45 ~ 47 かきのもとのあそみひとまろ カるのみこ にする、押し伏せる意のナプの連用形。 軽皇子、安騎の野に宿る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌 〇坂鳥のー朝越ュの枕詞。坂鳥は山坂を わおきみたかて かむ 妬やすみしし我が大君高照らす日の皇子神ながら神さび越え行く鳥の意だが、現在朝早く沼地か ら飛び立っ水鳥を山の上に張った網で捕 みやこ はっせ る猟法を坂鳥という地方があり、ここも せすと太敷かす京を置きてこもりくの泊瀬の山は真木 それと関係があるか。〇玉かぎるータの さかどり やまち いはねさへき 枕詞。カギルは光り輝く意。〇はたすす 立っ荒き山道を岩が根禁樹押しなべ坂鳥の朝越えまし きー穂が旗のようになびいているすすき あき の意か。〇古ー軽皇子の父草壁皇子がこ て玉かぎるタさり来ればみ雪降る安騎の大野にはたすの地で狩をした数年前をさす。 三長歌に添えられた短歌は「反歌」と記 しの くさまくらたびやど いにしへおも すき篠を押しなべ草枕旅宿りせす古思ひて すのが一般。しかしこのように「短歌」と 記されることも往々あり、特に人麻呂の 作品に多い。これについて、従来長歌の 内容の単なる繰返しであった従属的存在 の反歌が、半ば独立した趣を持つように 短歌 なったことと関係があり、人麻呂がその いにしへおも 安騎の野に宿る旅人うちなびき眠も寝らめやも古思ふ使い分けを始めたのでないか、とする説 もある。 うちなびきーウチは接頭語。このナ に ビクは横になる意。〇眠も寝らめや もーイは眠り。動詞ヌ ( 寝 ) と複合してイ ヌとなる。ラメャ ( モ ) は現在推量の反語。 ま草刈るー荒野の枕詞。〇もみち葉 のー過グの枕詞。〇過ぎにし君ー亡 くなった草壁皇子をさす。このスグは人 の死を表す。 ま草刈る荒野にはあれどもみち葉の過ぎにし君が形見と そ来し くさ ふとし あらの ゅふ たびひと やど ひみこ かたみ
葛飾の真間娘子の墓に立ち寄った時に、部赭んの作 0 た歌一首 ワ 1 あま と短歌東国の人々は、かづしかのままのてご、と呼んでいる 集昔いたという男たちが倭文織りの帯を解き交し小屋を立て求婚したそ かっしか ままてごな 葉うな葛飾の真間の手児名の墓所はここだと聞くが真木の葉が茂った 萬ためか松の根が年久しく延びたのか話だけでも名前だけでもわたしは 忘れられそうにない 一葛飾は埼玉県北葛飾郡、東京都葛飾 反歌 区・江戸川区、千葉県東葛飾郡・松戸市 わたしも見た人にも話そう葛飾の真間の手児名の墓所のことを ・市川市など、江戸川下流の沿岸一帯の たまも 葛飾の真間の人江で波に揺れる玉藻を刈ったという手児名が思われてな地を広くいう。真間はもと崖を意味する 普通名詞で、市川市真間町付近の国府台 らない の南側にある崖下をいうとされ、真間娘 子はこの地にいたという伝説上の女性、 通称をテゴ ( ナ ) といった。一八 0 七にも歌わ れ、東歌にも三三会・三三会など伝説化され た真間の手児名を詠んだ歌が見える。 古にありけむ人のーこのケムは過去 の伝聞を表す。人は男。「妻問ひし やまとあや けむ」の主格。〇倭文機ーシッは倭の文 と書かれ、簡単な模様があるだけの織物。 外国から輸人した精巧な模様のある高級 な織物に対していう。ハタは織機から転 じて織物にもいう。〇帯解き交へてー互 いに帯を解き合って。〇廬屋立てーフセ
夕日が落ちて来たのでますらおだと思っているわたしも ( しきたへの ) 衣 の袖は涙で濡れとおってしまった 反歌一一首 集 あおごま 葉青駒の歩みが速いのではるかに妻のあたりを後にして来たことだ〈また 萬「妻のあたりは見えなくなってきたことだ」〉 秋山に散るもみじ葉よしばらくは散り乱れてはくれるな妻のあたりを見 よう〈また「散り乱れてくれるな」〉 ある本の歌一首と短歌 いわみ 石見の海には舟を泊める浦がないので浦がないと人は見るだろうが潟が ないと人は見るだろうがえいままよ浦はなくてもえいままよ潟はなく ても = かた
反歌一首 あまゆ あみさ ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり 第 巻 或本の反歌一首 あらやまなか 大君は神にしませば真木の立っ荒山中に海をなすかも ←がのみこ 枕詞。〇まそ鏡ー見ルの枕詞。別にマス 長皇子、猟路の池に遊でます時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌 ミ ( 真澄 ) 鏡・マソミ鏡などといった例も ある。〇春草のーメヅラシの枕詞。早春 一首剏せて短歌 の草の新鮮なさまによって形容詞メヅラ な わおにきみ わひみこ シにかける。〇いやめづらしきーイヤは、 やすみしし我が大君高光る我が日の皇子の馬並めてみ ますます、の意の接頭語。メヅラシは下 は カり・ かりぢをの をろがうづら一一段動詞愛ヅから派生した形容詞。対象 狩立たせる若薦を猟路の小野に鹿こそばい這ひ拝め鵁 学を愛でて飽きることがない、の意。 をろが 天行く月ー天を渡って行く月。〇網 こそい這ひもとほれ鹿じものい這ひ拝み鶉なすい這ひ に刺しー刺ス↓三八 ( 小網刺し渡す ) 。 かしこ つかまっ ここは網で鳥獣の類を捕えることをいう。 もとほり恐みと仕へ奉りてひさかたの天見るごとくま〇我が大君はーこの句は「大君は神にし ませば」というべきところを短く圧縮し わおきみ たもの。〇蓋にせりーキヌガサは貴人の そ鏡仰ぎて見れど春草のいやめづらしき我が大君かも 後ろからさし掛ける織物の傘。高松塚古 墳の東壁面南側の男子像の頭上に飾り紐 を垂らした蓋が描かれている。その天井 部は四角形であるが、円形のもあったこ とが埴輪などによって知られ、この歌の 趣からも、円形の蓋になぞらえたものと 思われる。月を蓋にたとえ、月を背景と した皇子のタ狩の姿を写したもの。 や『歌経標式』に全く同じ形で載っている。 真木↓四五。〇海をなすかもー猟路の 山中で思いがけなく広い水面を見、 これも皇子の威力によって作られたもの と讃美した句。 あふ カりち わかこも い かきのもとのあそみひとまろ しし あめ を、ぬが」 241
また応持が作 0 た歌一首と短歌 家の庭に花が咲いているそれを見ても心は晴れ晴れしないいとしい妻 かも 集が生きていたら鴨のように二人寄り添い折り取って見せもしように 葉 ( うっせみの ) 仮の身なので露霜が消えゆくように ( あしひきの ) 山道を 萬 さして人日のように隠れてしまったのでそれを思うと胸はせつないが 言いようもたとえようもない。はかないこの世のことだからどうすること もできない 反歌 死ぬべき時はこれから先いつでもあろうものをせつなくも死んでいった妻 であることだ赤子を残して あかど 我がやど↓三八四。〇心も行かずー憂 いや悲しみがいつまでも離れない。 心ヲ遣ル ( 三四六 ) に対する。〇はしきやし ↓四五四。〇水鴨なすーミカモは水に住む 鴨の意。鴨類はよく雌雄一対になって水 に浮んでいるところから、男女仲睦まじ