時の挽歌一六九の下注に、 もちのちみこのみことあらきのみや くだり 或本は、件の歌を以て後の皇子尊の殯宮の時の歌の反とす。 たけちのみこ 集とあるのは、この二首の反歌を高市皇子の殯宮挽歌 ( 一究 ) の反歌として伝える本があったことを示す。草 葉壁薨後の高市皇子の存在が往時の草壁皇子とほぼ等しかったこともあろうが、殯宮挽歌の性格の一面を物語 萬っているといえよう。 しよくにんぎ いた なお、この辺の、皇子女の薨去を傷んだ歌の配列の先後が『日本書紀』や『続日本紀』の記載の順序と矛 あすかのひめみこ 盾するところがある。すなわち、『万葉集』では、草壁皇子 ( 一六七 ) 、川島皇子 ( 一九じ、明日香皇女 ( 一突 ) 、高 ゅげのみこ たじまのひめみこ 市皇子 ( 一究 ) 、但馬皇女 ( 一一 0 一、弓削皇子 ( 一一 0 四 ) の順に並んでいるが、史書では六八九年草壁皇子、六九一 年川島皇子、六九六年高市皇子、六九九年弓削皇子、七〇〇年明日香皇女、七〇八年但馬皇女の順に薨じて いる。そのうち但馬皇女と弓削皇子の挽歌は人麻呂作でないから別扱いにすべきかもしれないが、それでも 順序が逆である。人麻呂の作に限っても、明日香皇女と高市皇子の順序が転倒している。原資料の不備か、 編者の疎漏のためかわからないが、疑問の存する所である。 じしようか ならのみや 柿本人麻呂自身の自傷歌が「寧楽宮」の標目の前にあるのは、人麻呂が平城遷都以前に死んだことを示す。 れいき 志貴皇子が薨じたのは元明天皇が元正天皇に譲位した霊亀元年 ( 七 3 である。『続日本紀』では霊亀二年薨 へだ となっていて食い違いがあるが、いずれにせよ、巻一の最後の歌と何年も隔たっていない。このことはやは り両巻の関係が密接で、同時に編集を終えたことの証であろう。 0 0 そろう はん
171 巻第二 200 短歌一一首 ひっき ひさかたの天知らしぬる君故に日月も知らず恋ひ渡る 力も ゅふへいた は 宮ー高市皇子の宮殿。藤原京左京三坊辺 さす日のことごと鹿じものい這ひ伏しつつぬばたまの りかといわれる。埴安の池を隔てて香具 うづら タに至れば大殿を振り放け見つつ鶉なすい這ひもとほり山に対していたのでいうか。〇過ぎむと 思へやー思へヤは反語。〇玉だすきーカ はるとり さもら クの枕詞。〇かけて偲はむーいつも心に 侍へど侍ひ得ねば春鳥のさまよひぬれば嘆きもいまだ かけてお慕いしよう。 こと くだら かむ 0 この歌の中で作者人麻呂が最も力を注 過ぎぬに思ひもいまだ尽きねば言さへく百済の原ゅ申 丐↑いでいるのは壬申の乱の戦闘場面の描写 とこみや きのヘ はぶ である。高市皇子本人の活躍を描いたの はぶ 葬り葬りいませてあさもよし城上の宮を常宮と高くし はその一部であるが、皇子が天武天皇側 よろづよの総指揮官として尽した功は高く評価さ わおきみ たてて神ながら鎮まりましぬ然れども我が大君の万代れ、この後多くの皇子をさしおいて草壁 皇子に次ぐ地位を与えられていた。草壁 おも かぐやま と思ほしめして作らしし香具山の宮万代に過ぎむと思皇子の薨後、高市皇子は皇太子に準じる 扱いを受け、太政大臣に任ぜられた。草 かしこ しの へや天のごと振り放け見つつ玉だすきかけて偲はむ恐壁皇子の生母である持統天皇にと。て、 高市皇子の存在は頼もしいと同時に無気 味でもあった。その皇子が薨じた時の悲 N/ あ一 . り - A 」、も 嘆の気持を後半部は巧みに述べている。 この歌は、長歌に秀でた人麻呂の作品中 でも格別の雄篇とされ、用語の修辞の上 でも、漢籍から学んだとみるべき点が多 天知らしぬるー高市皇子の薨去をい う。〇日月も知らずーヒッキ↓一六七。 悲嘆のあまり月日の経過もわからないこ とをいう。 あめ かむ おとの あめ しづ しし きみゆゑ し ふ
のことが見える。同九年従四位上に進ん だ。高市皇子の娘かという。泣沢神社を 怨んだというのは、高市皇子の平癒をこ の神に祈ったのにその甲斐がなかったと いうのであろう。 ニ十日 ( 太陽暦八月十三日 ) 。 三高市皇子。 g ↓二四題詞。和銅元年 ( と八 ) 六月二十 五日に没。 ↓二四題詞。 あはにーサハニと同じく、数量の多 いことをいう。〇吉隠の猪養の岡ー 吉隠は奈良県桜井市吉隠の地。初瀬の東 約二・五じ。初瀬峡谷の奥に当る。猪 養ノ岡は吉隠東北方の山腹、志貴皇子の 妃の吉隠陵の辺りか。但馬皇女もここに 葬られたのであろう。〇寒からまくにー 五 たぢまのひめみこ づみのみこ 寒カラマクは寒カラムのク語法。 但馬皇女の薨じて後に、穂積皇子、冬の日雪の降るに、御墓 0 但馬皇女は初め異母兄高市皇子の許に はる ひしゃうりうてい あったが、後、同じく異母兄の穂積皇子 を遥かに望み、悲傷流涕して作らす歌一首 の許に移った ( ↓一一四、一一六 ) 。この事件に よなばり 対する世間の目は厳しかったようである 二降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに ( ↓き。この歌は皇女が薨じた和銅元 年の冬、藤原宮の辺りから吉隠の方を望 んで穂積皇子が詠んだものと思われる。 六 ↓一二題詞。 セ伝末詳。六六の作者。 或書の反歌一首 なきさは たかひ もりみわす わお椴きみ 皿泣沢の神社に神酒据ゑ祈れども我が大君は高日知らしぬ うら るいじうかりんいは のくまのおにきみなきさはのもり 右の一首は、類聚歌林に曰く、「檜隈女王、泣沢神社を怨む五 にんぎ へいしん かむが る歌なり」といふ。日本紀を案ふるに云はく、「十年丙申の しんちうつきたちかうしゆっのちみこのみことこう 秋七月、辛丑の朔の庚戌、後の皇子尊薨ず」といふ。 とねりまと つつみこもぬ はにやす 川埴安の池の堤の隠り沼の行くへを知らに舎人は惑ふ ゅげのみこ きそめのあづまと 弓削皇子の薨ずる時に、置始東人の作る歌一首剏せて短歌 いの ゐかひをか い みはか
105 巻第二 112 ~ 114 112 五 四 たぢまのひめみこたけちのみこ づみのみこ 但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思ひて作ら す歌一首 こちた Ⅲ秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛くあ . りノ A 」・も いにしへ ぬかたのお椴きみこたまっ やまとのみやこたてまっ 額田王の和へ奉る歌一首倭京より進り人る 古に恋ふらむ鳥はほととぎすけだしゃ鳴きし我が恋ふ るごと ひかみのおとめ 氷上娘。高市皇子・穂積皇子らの異母妹。 さんにん 三品に進む。和銅元年 ( 七 00 六月に没。 四天武天皇の皇子。数多い諸皇子の中 で最年長であったが、母が身分の低い胸 かたの あまこのおとめ 形君徳善の娘、尼子娘という者であっ たため、その地位は草壁・大津の二皇子 じんしん より下にあった。壬申の乱の際、十九歳 で指揮官として軍事を委ねられ、味方を こけむ や たてまっ 勝利に導いた。持統四年 ( 六九 0) 太政大臣 吉野より苔生せる松が枝を折取りて遣る時に、額田王の奉り となり重きを成したが、同十年四十三歳 たじまの で没した。但馬皇女が高市皇子の宮に在 人るる歌一首 ったというのは同棲していたことを意味 する。 こと そがのあかえ み吉野の玉松が枝は愛しきかも君がみ言を持ちて通はく = 天武天皇の第五皇子。母は蘇我赤兄 おおめのおとめ の娘、大娘。文武天皇の慶雲二年 ( 占 五 ) 二品で知太政官事となり、和銅八年 ( 七 一五 ) 正月一品に進み、同年七月没。但馬 皇女の没後、大伴坂上郎女を娶った。 Ⅲ穂向きの寄れる片寄りにー稲の穂先 が寄っている片寄り状態に、の意。 〇君に寄りななー上のナは完了の助動詞 ヌの未然形。下のナは意志を表す助詞。 〇言痛くーコチタシはコトイタシの約。 人のロがうるさい、の意。但馬皇女が高 市皇子の許にありながら穂積皇子と通じ るという不倫な恋愛関係にあることに対 して、人々が噂することをいう。 いま を よ あ めと
137 巻第二 154 ~ 156 しめゅ ささなみ おやまもり 楽浪の大山守は誰がためか山に標結ふ君もあらなくに天皇の陵。「天武紀」元年三月の条に、こ の御陵造営のための人夫を集めることを 口実に、近江朝廷側が美濃・尾張の兵士 を動員したらしい記事がある。 まかあら ぬかたのおきみ ましなみはか 恐きゃーカシコシは恐れ多いの意。 山科の御陵より退り散くる時に、額田王の作る歌一首 ヤは間投助詞。〇御陵仕ふるー御陵 かしこ かがみ おほきみ みはかっか やましな の造営に奉仕する。〇鏡の山ー天智陵の やすみししわご大君の恐きや御陵仕ふる山科の鏡の山 北にある山。〇夜はも夜のことごとーモ よる ひる ね は詠嘆。コトゴトは、こと・ことく、すべ に夜はも夜のことごと昼はも日のことごと音のみをて、の意。〇音のみを泣きつつー声に出 して泣いてばかりいて。ネヲ泣クは号泣 おほみやひと すること。〇行き別れなむー行キ別ルは 泣きつつありてやももしきの大宮人は行き別れなむ 題詞の「退散」に同じ。 ニ十市皇女の没したのは天武七年 ( 六七 0 。↓一三題詞。壬申の乱で夫の大友皇子 あすかのきよみはらのみやあめしたをさ すめらみことみよあまのぬなはらおきの が敗死した後、異母兄の高市皇子と結ば 明日香清御原宮に天の下治めたまふ天皇の代天渟中原瀛 れていたのでないか、と想像する説があ まひとのすめらみことおくりなてんむ る。 真人天皇、諡を天武天皇といふ 三 ↓二四題詞。皇子尊と尊の字を付け るのは天武天皇の諸皇子のうち、草壁皇 子と草壁薨去後の高市皇子とだけ。 たけちのみこのみこと とをちのひめみここう みもろ↓九四。〇三輪の神杉ー杉は神 十市皇女の薨ぜし時に、高市皇子尊の作らす歌三首 のよりましの木として知られ、特に 三輪の杉は有名であった。以上、おそら い みわかむすぎ みもろの三輪の神杉已具耳矣自得見監乍共寝ねぬ夜ぞ多きく第一一一句以下を起す序であろう。〇已具 耳矣自得見監乍共ー原文のまま。読み方 不明。 よ 156 155
荒れまく惜しもー荒レマクは荒レム 反歌一一首 のク語法。 ( ひさかたの ) 天を見るように仰ぎ見た皇子の宮殿の荒れてゆくのが惜し 9 あかねさす↓一一 0 。ここは日にかかる 1 枕詞。〇日は照らせれどー照ラスは 照ルの敬語。〇ぬばたまの↓兊。〇隠ら 葉剏 ( あかねさす ) 日は照っているが ( ぬばたまの ) 夜空を渡る月が隠れるのが ー四段活用隠ルのク語法。 萬惜しい〈ある本では、この歌を後の皇子尊 ( 高市皇子 ) の殯宮の時の長歌の反歌としてい 0 日並皇子は、天皇と並んで天下に臨む 皇子の意で、本来は摂政の皇太子を意味 る〉 する。この歌は実景を歌いながら、その 草壁皇子が薨じたことを月の隠れること ある本の歌一首 まかり はなどり にたとえて哀惜している。 島の宮の勾の池の放ち鳥は人を慕って池にもぐろうともしない 一六九の一首だけとみる説と、一六八を含 とねり めた反歌二首をさすとみる説とがある。 皇子尊の宮の舎人らが泣き悲しんで作った歌一一十三首 ニ高市皇子。↓一一四題詞。草壁皇子が 川 ( 高光る ) わが日の御子が永久に国を治められるはずであったこの島の宮薨じた翌年、持統は初めて即位し、やが て高市皇子が太政大臣に任ぜられた。 「後皇子尊」と「尊」の字を付けて呼ばれた ことは、「持統紀」の記載と符合する。草 壁皇子の薨じたあと、皇太子に準じる扱 いを受けていたのであろう。 0 島の宮勾の池ー奈良県高市郡明日香 しまのしよう 1 村島庄にあった草壁皇子の宮殿。 シマには造り庭の意があり、「推古紀」三 そがのうまこ 十四年の条に、蘇我馬子が庭に池を作り 小島をその中に設けたところから島大君 と呼ばれたとある。草壁皇子の島の宮は これを修復したものであろう。昭和四十 よ
ゅはずさわ 〇「うっせみと」ーウッセミ↓ 三。〇渡会 のむたなびかふごとく取り持てる弓弭の騷きみ雪降る の斎宮ー渡会は伊勢国の旧郡名。現在の 三重県伊勢市および渡会郡に当る。斎宮 冬の林に〈一に云ふ、「木綿の林」〉つむじかもい巻き渡ると思ふ ↓へ題詞。ここは伊勢神宮をいう。〇神 かしこ もろひと みまと 風にい吹き惑はしー神風↓八一。イは接頭 まで聞きの恐く〈一に云ふ、「諸人の見惑ふまでに」〉引き放っ矢 語。〇天雲をー天雲をもって、の意か。 きた あられ 「覆ひたまひてーにかかる。〇常闇に覆ひ の繁けく大雪の乱れて来れ〈一に云ふ、「霰なすそちより来れば」〉 たまひてー常闇は夜昼の別なく真っ暗な っゅしも け け こと。ニは、、のように、の意。〇瑞穂 まつろはず立ち向かひしも露霜の消なば消ぬべく行く鳥の国ー「葦原の瑞穂の国」の略。五穀豊穣 の国の意で日本の異名。〇太敷きまして あさしも ーこの太敷クは、しつかりと経営する意。 の争ふはしに〈一に云ふ、「朝霜の消なば消と言ふにうっせみと争ふ 〇やすみしし我が大君ーここは高市皇子 あまくも わたらひ まと いっきのみや かむかぜ はしに」〉渡会の斎宮ゅ神風にい吹き惑はし天雲ををさす。〇天の下奏したま ( ばー天ノ下 奏シタマフは朝政を総轄なさるの意。草 とこやみ お みづ 日の目も見せず常闇に覆ひたまひて定めてし瑞穂の国壁皇子が薨じたその翌年、高市皇子が太 政大臣に任ぜられたことをいう。 0 木綿 こうぞ かむ ふとし わおきみ 花のー栄ュの枕詞。木綿花は楮の皮の繊 を神ながら太敷きましてやすみしし我が大君の天の 維で作った造花。それが白く美しいとこ しか よろづよ ろから栄ュにかかる。〇神宮にー殯宮と 下奏したまへば万代に然しもあらむと〈一に云ふ、「かくしもあ して。〇白たへの麻衣ー白い麻の喪服。 さか みかど ゅふはな 一三 0 ・四・四大にも舎人たちの喪服が白 一一らむと」〉木綿花の栄ゆる時に我が大君皇子の御門を〈一に いことを歌ってある。〇埴安の御門の原 よそ かむみや ー埴安の池のほとりの高市皇子の宮殿前 云ふ、「さす竹の皇子の御門を」〉神宮に装ひまつりて使はししの広場。埴安の池は香具山の西にかって あった池。〇あかねさす↓一一 0 。ここは日 あさごろも はにやす みかど 御門の人も白たへの麻衣着て埴安の御門の原にあかねの枕詞。 したまを しげ あらそ しろ みこ あめ
鞆の音すなりー鞆は弓を射る時に用 祐ますらおの鞆の音がするもののふの大臣たちが楯を立てているらしい みなべりひめみこ いる革製の防具。左手首の内側に巻 御名部皇女がお答えしたお歌 き付け、弦が当るのを防いだ。〇ものの 集大君よご心配なさいますな先祖の神々から後継ぎを賜っている私がおりふの大臣ーモノノフ↓吾。オホマ ( ッキ ミは太政大臣、左・右大臣、内大臣の総 葉 ます 称。当時、石上麻呂 ( 四四 ) が右大臣であっ とど 萬 ならのみやうつ みこしながや たこと、石上氏の本姓が物部であること 和銅三年二月に、藤原宮から寧楽宮に遷った時に、御輿を長屋の原に停 などから、麻呂に当てる説もある。〇楯 めて、旧都藤原を振り返って作った歌ある書には太上天皇 ( 元明 ) のお歌 立つらしもー楯は敵の矢・刀・桙などを 防ぐ武具。ただし大臣が楯を立てるとい ともある あすか うことがどのような意味を持つか、不明。 ( 飛ぶ鳥の ) 明日香の古京を捨てて行ったらあなたのあたりは見えなくな一天智天皇の皇女。元明天皇の同母姉。 高市皇子の室となり、長屋王を生む。 りはしまいか〈また「あなたのあたりを見ずにいられるだろうか」〉 我が大君ー妹の元明天皇をさす。〇 物な思ほしーナは禁止の副詞。この 物思ヒが元明天皇のどのような心配事を さしているか、不明。〇皇神ースメは神 に対する尊称。ここは皇祖神をいう。〇 継ぎて賜へるーツギテは継ギ手で後継ぎ の意か。御名部皇女と高市皇子との間の 子、長屋王は当時三十三歳。一方文武天 皇の遺子首皇子 ( 後の聖武 ) はまだ八歳 にすぎなかったので、長屋王は皇位継承 者として有力な位置にあった。御名部皇 女がこの歌を詠んで女帝をカづけた背後 には、そのような男子を持った親として の自負が感じられる。首皇子が即位して おびとの
天皇の仰せで既笋が近江の志賀の山寺に遣わされた時に、但馬皇女 が作られた歌一首 集あとに残って恋しがっているくらいなら追いかけて行こう道の曲り目に しるし 葉印をつけておいてくださいあなた たけちのみこ 萬 但馬皇女が高市皇子の宮に在った時に、ひそかに穂積皇子と関係を結 び、そのことがすっかりあらわれたので、作られた歌一首 人の噂がうるささに今まで渡ったこともない朝の川を渡ることだ 舎人皇子のお歌一首 Ⅲますらおが片恋をしようことかと嘆いてもみつともないますらおだやは り恋しい とねりのみこ すうふく 一天智七年 ( 六六 0 に建立した崇福寺。 大津市滋賀里町にその遺跡と伝えられる 所がある。穂積皇子が志賀山寺に遣わさ れた理由は不明。 恋ひつつあらずは↓会。〇追ひ及か むー追ヒシクは追い付く。〇道の隈 廻ー道ノ隈は道の曲り角。ミは、周り、 付近。〇標結ヘーシメは目印。草や木の 枝を結び、あるいは杭を打ち縄を張るこ 115 くい
ささなみ しめなわ 楽浪の大山守は誰のために山に標縄を張るのか大君もおいでにならない のに やましな . ごりよう ぬかたのおおきみ 山科の御陵から人々が退散する時に、額田王が作った歌一首 集 つく やましな かがみ 葉 ( やすみしし ) わが大君の恐れ多い御陵を造っている山科の鏡の山に 萬夜は夜どおし昼は一日じゅう声をあげて泣きつづけていて ( ももし きの ) 大宮人たちは別れて行こうことか あすかのきよみはらのみや あまのぬなはらおきのまひとのすめらみことおくりなてんむ 明日香清御原宮の天皇の御代天渟中原瀛真人天皇、諡を天武天皇 という とおちのひめみこな たけちのみこのみこと 十市皇女が亡くなった時に、高市皇子尊が作られた歌三首 みわやま 三輪山の神のしるしの杉の已具耳矣自得見監乍共寝ない夜が多いことだ 大山守ー山守は山の番人。大山守は 1 朝廷の料地の山を守る役。〇誰がた めかータメは目的を表す名詞。原因のユ ヱと対する。〇標結ふ↓一丑。 一京都市東山区山科御陵町にある天智