はなたちばな 家の庭の花橘は張り合いなく散っていることだろうな見る人もなくて 8 幻恋い死にたければ恋い死ねという気なのかほととぎすが物思いをしている 集折に来て鳴き立てる 葉異郷にいて物思いをしている時にほととぎすよむやみに鳴くなわたしの 萬恋しさが増すばかりだ 雨に降られ物思いをしている時にほととぎすがわたしの住む里に来て鳴 き立てる 異郷にいて妻を恋い偲んでいるとほととぎすがわたしの住むこの里でこ こを鳴いて通る 3782 3783 我がやどーヤド↓三五合 ( 海辺の宿に ) 。 引ここは奈良の宅守の居宅周辺の庭園 をさす。〇花橘↓三五七四。その花期は初夏 で、巻八・十の「夏の雑歌」「夏の相聞」
萬葉集 322 3914 3915 よろずよ ほととぎすよ今来て鳴いてくれたら万代に語り伝えるほどにうれしいの だがなあ 右は、言い伝えによると、ある時親しい仲間が集って宴を開いた。この日こ ととぎす こに、あいにく霍公鳥が来て鳴かない。そこで右の歌を作って、恋い慕う気 持を述べた、ということである。ただし、その宴を開いた所と年月とは、不 明である。 塒部徹赭んが春の鶯を詠んだ歌一首 ( あしひきの ) 山谷越えて出どこぞの高みで今は鳴いていることだろうそ のうぐいすの声よ 右は、作歌の年月や場所が、不明である。ただし、伝え聞いた時のままに、 ここに記しておく。 十六年四月五日に、ひとり奈良の旧宅にあって作った歌六首 今し来鳴かばー今シは今に強めの助 詞シが付いたものであるが、熟合し て一語のようにみなされることが多かっ た。〇万代に語り継ぐべくー宴もたけな わ、ここでほととぎすが鳴けば一声千金 なのに、と期待する気持でいう。 ◆恋人や訪友にほととぎすの声を聞せた い、という内容の歌は「逢ひ難き君に逢 へる夜ほととぎす他し時ゅは今こそ鳴か め」 ( 一九四七 ) 、「我がやどの花橘にほととぎ す今こそ鳴かめ友に逢へる時」 ( 一哭 I) な ふみもち どあるが、後者は大伴書持の歌で、この 堯一四の歌が家持・書持兄弟のほととぎす 贈答歌の後に置かれたのは、編者として の家持が書持の一四八一の歌を連想したゆえ 、カ 一この巻十七以下巻一一十までは、歌を 中心とした家持の日録ともいうべき性質
325 巻第十七 3916 ~ 3920 3919 おも はなたちばな うづら 叨鶉鳴く古しと人は思へれど花橘のにほふこのやど 3916 3917 3918 たちばな 橘の匂へる香かもほととぎす鳴く夜の雨にうつろひぬ らむ よごゑ ほととぎす夜声なっかし網ささば花は過ぐとも離れずか 鳴かむ く旧京域に住むことも禁じられ、平城旧 京はまたたく間にさびれてしまった。巻 一 0 四四、一 0 四九の六首の歌にその廃墟化 した古京を悲惜する気持赤溢れている。 〇もとほととぎすー昔なじみのほととぎ す。〇鳴かずあらなくにー鳴いていない わけではない。原文には「不鳴安良久尓」 とあるが、「奈」の字が誤脱しているとす る『万葉代匠記』の説による。 鶉鳴くー古シの枕詞。ウヅラ↓三八全 ( 鶉を立つも ) 。鶉は草深い荒れ地に 住むところからかけた。〇古しとー古シ の主語は第五句の「このやど」。〇にほふ っ 橘のにほへる園にほととぎす鳴くと人告ぐ網ささましをこのやどーこのヤドは居宅周辺の庭圃を さす。この下に、昔のままで懐かしい、 という述語が省略されている。 ◆この当時、天皇は紫香楽宮にひとりで あをによし奈良の都は古りぬれどもとほととぎす鳴かず滞在中、元正太上天皇と左大臣橘諸兄は 難波宮にあって、この難波こそ皇都だが、 京戸の百姓は自由に往来してよい、との あらなくに 勅語を代読し、世情は不安の極に達して あさかの いた。家持としては頼みに思う安積皇子 ( 四七五題詞 ) に急逝され、失意のさ中にあ った。家持の気持としては、平城還都を 願うごく一部の人々のそれに近かったと 思われる。↓一 0 四五 ( 奈良の都のうつろ にほ ふる その あみ よ
かんがい 四月十六日の夜中、遥かにほととぎすの鳴く声を聞いて、感慨を述べた 歌一首 集 ( ぬばたまの ) 月に向ってほととぎすの鳴く声が遥かに聞える人里から遠 葉いせいだろうか おおとものすくねやかもち 萬 右は、大伴宿家持が作ったものである。 だいさかんはたのいみきやちしまやかたかみ 大目秦忌寸八千島の館で、守大伴宿家持の送別の宴をした時の歌二首 奈呉の海の沖の白波のようにひっきりなしに思い出されることだろうね 別れて行ったら 君は玉であればよいなあ手に巻いて見ながら行こうに置いて行くと惜し い 3989 一太陽暦の五月一一十九日に当る。 8 ぬばたまのー月に続けた例はここだ け。公館の闇の中でほととぎすの声
7 つれない鳥ではあるよほととぎすは物思いをしている時に鳴いてよいも のか 集ほととぎすよ間を少し置いてくれおまえが鳴くとわたしの心はどうにも 葉しかたがない なかとみのあそんやかもり 萬 右の七首は、中臣朝臣宅守が花鳥にこと寄せて思いを述べて作った歌である。 萬葉集巻第十五
6 たちばな 橘の花の香りがほととぎすの鳴く夜の雨で消えてしまっていないだろ 集ほととぎすの夜声の良さよ網で捕えたら橘は散っても続けて鳴いてくれ 葉るだろうか 萬橘の咲きかおる園でほととぎすが鳴いていますと人が告げた網を張って おくのだった ( あをによし ) 奈良の都はさびれたが昔ながらにほととぎすは鳴いている 叨 ( 鶉鳴く ) 古くなったと人は思っているが花橘の咲きかおるこのわが庭よ 3919 よ その きゅうかく 6 橘の匂へる香ーこのニホフは嗅覚的 用法。梅と橘とに用いたニホフはこ の意味の場合が多い。〇うつろひぬらむ ーこのウッロフは香気が消えることをい う。暗いうちから庭の橘の花の香が夜来 の風雨に失せたのではないかと案じてい 夜声なっかしーナッカシは、馴れ親 しむ意の動詞ナックから派生した形 容詞。愛着を覚えて離れがたい気持を表 す。〇網ささばーこのサスは鳥獣の類を 捕えるために網を張ったりわなをしかけ たりする意。〇花は過ぐともー橘の花期 である初夏が過ぎても。 ◆類歌四一全。 8 網ささましをー網を張っておけばよ かったのに。 9 奈良の都は古りぬれどー天平十一一年 ( 七四 0) 冬平城京は放棄され、旧京の 兵器を久邇新京に運ばせ、東西両市を移 し、平城宮の大極殿や回廊を解体して新 宮に移建した。五位以上の官人が許可な
右は、三月二十日の夜中、たまたま恋情をもよおして作ったものである。大 とものすくねやかもち 伴宿家持 りつか 立夏四月となり、すでに数日を経過したが、まだほととぎすの鳴く声を 葉 聞かない。そこで作った恨みの歌一一首 萬 ( あしひきの ) 山も近いのにほととぎすよ新月が現れる頃までなぜ来鳴か ないのか はなたちばな 玉に通す花橘が少ないからこのわが里には来鳴かないのだろう ほととぎすは、立夏の日に来鳴くものと決っている。また越中国は土地がら、 橙橘類があることは珍しい。そこで、大伴宿家持は心に感じて、まずはこ の歌を作った。三月一一十九日 おお 一太陽暦の五月一二日に当る。ただし元 暦校本には「廿五日」とある。そのいずれ が正しいか不明。 三究四左注の下に「三月廿九日」とあり、 三九全の歌までまだ三月だが、暦の立夏が 三月のうちにあったので「四月」としたの
219 巻第十五 3779 ~ 3783 3782 3783 す隠 り 物 時 に と と ぎ す 我わ が 住 む 里 に 来 き と よ きな ものも 恋ひ死なば恋ひも死ねとやほととぎす物思ふ時に来鳴き とよむる はなたちばな 我がやどの花橘はいたづらに散りか過ぐらむ見る人なの中の代表的歌材の一つ。〇いたづらに ーむだに。美しく咲きにおっていても、 見るべき主人である宅守が居ないので、 しに その甲斐がないことを哀れんでいう。〇 散りか過ぐらむー散リ過グは花や紅葉の 類が散ってゆくことをいう。 0 恋ひ死なば恋ひも死ねとやートヤ・ 3 トカは、、というつもりなのか、の 意。恋ヒモ死ネは恋ヒ死ネという命令表 現の間に、どうなりと適当に、というよ うな放任の気持を表して係助詞モが人っ たもの。この二句、一一三七 0 にも見えた。〇 来鳴きとよむるートヨムル↓三六八 0 ( 山彦 あ こひま 旅にして物思ふ時にほととぎすもとなな鳴きそ我が恋増とよめ ) 。『大一のトヨモスと同義。 ◆ほととぎすばかりでなく、千鳥・呼子 鳥・ひぐらし・こおろぎなどの鳴く声を さる 聞いて、恋しさが増すと言って恨む歌は ほかにもある。以下五首の歌も同巧。 旅にしてータビ↓三七四三 ( 旅といへば 引言にそ易き ) 。〇もとなーわけもな く。いたずらに。 雨隠りー雨に降りこめられて外出で あじまの 引きないで。〇我が住む里ー味真野の 地をいう。 3 こよ鳴き渡るーコはこの場所。この 引ョはヨリに同じく、経由点を示す用 3781 あまごも いもこ 旅にして妹に恋ふればほととぎす我が住む里にこよ鳴き法。 わ
あなたがお国に発って行かれたらほととぎすの鳴く五月にはそれでも淋 しいことでしよう すけくらのいみきなわまろ 右の一首は、介内蔵忌寸縄麻呂が作ったものである。 くすだま 葉わたしが居ないとて力を落されるな君よほととぎすの鳴く五月には薬玉 萬 を作って遊んでください 右の一首は、守大伴宿禰家持が返したものである。 いしかわのあそんみみちたちばな 石川朝臣水通の橘の歌一首 わがの庭の花橘を花ごめに玉としてわたしは緒に通す待ち遠しいので 右の一首は、伝誦してくれたのは、主人大伴宿禰池主であるという。 やかた 守大伴宿禰家持の館で酒宴を催した時の歌一首四月一一十六日 かみ 我が背子ー家持をさす。〇国へまし なばーこの国は故郷の奈良をさす。 マスはイマスに同じ。ここは行クの敬語。 〇さぶしけむかもー家持と共に聞けば楽 しいが、不在なのでほととぎすが鳴いて もつまらない、という気持。 一次官。上国の介は従六位上相当官。 ニ家持が越中国守であった間、同国介 であった。越中国官倉納穀交替帳にも、
321 巻第十七 3911 ~ 3913 作ることをいう。シは強め。〇来鳴きと よむるー下二段のトヨムはトヨモスに同 じく、声を辺りに響かせる意。 ◆四月だけでなく一年じゅう鳴いてくれ ればよいのに、という気持。書持の三九 0 九 の歌を受けて詠んだものか。 楝の枝にー三九一 0 の歌を受けて、その 楝が大きくなり花が咲くようになっ たら、という気持でいう。 三中務省所属の官で、定員は九十人。 帯刀して宿直・警衛に当り、行幸の時に は天皇の身辺を守った。貴族の子弟で将 来の幹部官僚となるべき者たちが主とし て採用された。「うどねりーは後世の略称。 家持が内舎人であったことが知られる確 ゅ ほととぎす楝の枝に行きて居ば花は散らむな玉と見るかな期間は天平十年十月 ( 堯一左注 ) から 同十六年一一月 ( 四七五題詞 ) までの間。 四旅人の長男。天平十三年当時一一十四 まで 歳。四年後の十七年従五位下。十八年越 中国守に任ぜられ、五年間在任し、天平 勝宝三年 ( 七五一 ) 少納言となって帰京。そ しよう の後兵部少輔、同大輔、右中弁などを歴 いなばの 任し、天平宝字一一年 ( 0 因幡守に任ぜ られる。延暦四年 ( 七会 ) 中納言従三位で 薨。六十八歳。 五伝未詳。『色葉字類抄』 ( 姓氏 ) に「田 ロ、タノクチとあ - る。 3912 3911 もちうつけっこころ 暢べざらめや。因りて三首の短歌を作り、以て鬱結の緒を散 らさまくのみ。 やまへ あしひきの山辺に居ればほととぎす木の間立ち潜き鳴か ぬ日はなし たちばな きな たまぬ ほととぎす何の心そ橘の玉貫く月し来鳴きとよむる あふち ほととぎす たのくちのあそみうまをさ 霍公鳥を思ふ歌一首田口朝臣馬長の作 うちどねり四 くにのみやこ 右、四月三日に、内舎人大伴宿禰家持、久邇京より弟書持に 報へ送る。 こた なに よ を ゐ こ ま おと