家持 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第6巻 萬葉集(五)
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1. 完訳日本の古典 第6巻 萬葉集(五)

布勢の海の沖の白波のように絶えず通ってずっと毎年見て賞でよう かみおおとものすくねやかもち 2 沖っ白波ー第五句「見つつしのはむ」 右は、守大伴宿禰家持が作ったものである。四月一一十四日 の対象であると同時に、波が休みな つつし みずうみ く寄せるようにしばしば、という気持で 敬んで布勢の水海に遊覧する賦に唱和する賦一首と短歌一首 うはな アリ通フを起す序ともなっている。 葉藤の花は咲いて散り果てた卯の花は今満開だと ( あしひきの ) 山にも野 一絶句の一首をいう。元来漢詩の「絶」 萬にもほととぎすが鳴きとよもすのでひたむきに心も奪われてそのことは五言ないし七言四句の詩体をいう。こ いみずがわ こは短歌一首 ( 三究四 ) をさす。家持が長歌 が気にかかり仲間同士馬を連ねて連れ立って出かけて見ると射水川 を「賦ーと称したのを受けて言った。 すどり ひがたえ 3 鳴きしとよめばートヨムには四段自 の河口の渚鳥は朝なぎに干潟で餌を求め潮が満ちて来ると夫婦で呼び しぶたに 動と下一一段他動とがあり、鳴キや来 合っています心は引かれるが素通りして行き渋谿の荒磯の崎に沖波が鳴キを受けたそれは後者、下一一段である たまも かずら ことが仮名書例によって知られる。ここ 寄せ来る玉藻を拾い一筋きりで縵に作り家人のみやげに手に巻き持って あまぶね は内容的に確定条件と考えられ、そのト 素晴しい布勢の水海で海人舟に梶を取り付け ( 白たへの ) 袖を振り交し ョメは已然形で、四段活用のはず。その 点同じ家持が仮定条件で「来鳴きとよめ ながら声を揃えて漕いで行くと ばはだ恋ひめやも」 ( 四 0 五 l) と詠んでいる のとは場合を異にする。正しくは鳴キト ョムレ・ハあるいは鳴キトヨモセ・ハとある べきで、家持の誤用であろう。〇うちな びくー心がある物に引き付けられ慕い寄 っているさまを表す。〇心もしのに↓三九 七九。〇そこをしもうら恋しみとー音数引 き延しによる変形ミ語法。ソコはその点 ほととぎすが告げ知らせた上四句の内容 をさす。ウラ恋シは心の中で恋しく思う 意。 ミト↓三六一一七 ( 験をなみと ) 。〇携はり 3992 ふ せ そろ かじ

2. 完訳日本の古典 第6巻 萬葉集(五)

441 萬葉集関係略年表 を得てその時の入京は不可能。遣新羅使人ら、新羅国のわが使の旨を受け付けざることを報告し、朝廷 は五位以上の官人を召集し新羅対策を協議。三月遣新羅副使大伴一一一中ら帰国拝朝。その後痘瘡流行して うまかい たじひのあがたもり むちまろ ふさざき 死者続出、藤原武智麻呂・同房前・同宇合・同麻呂・丹比県守・橘佐為ら相次いで薨ずる。 一〇七三八正月橘諸兄正三位右大臣となる。七月大伴家持七夕の歌 ( リ二九〇〇 ) を詠む。 だいじよう ふみもち 一一七三九六月大伴家持亡妾を傷んで挽歌を詠み、弟書持これに和する歌を詠む。九月家持、従妹坂上大嬢と相聞 往来の歌を詠む。 ひろつぐ やかもり 一一一七四〇六月大赦あり、穂積老ら許されて帰京。ただし中臣宅守らはその対象外。九月大宰少弐藤原広嗣、国政 の失を指摘して謀反。十月天皇東方巡行に出発、伊賀・伊勢を遍歴、大伴家持は内舎人として行幸に供 みかのら 奉。その間藤原広嗣敗走し、逮捕処刑される。十二月天皇美濃・近江を経て山背国相楽郡瓶原に着き、 くに ここに宮都 ( 恭仁宮 ) を営む。この月書持大宰府梅花追和歌六首 ( 三九〇一、三九〇六 ) を詠む。 ととぎす さかいべのおゅまろみかのはら 一一月境部老麻呂三香原新都讃歌 ( 三九〇七・三九〇八 ) を詠む。四月大伴家持と書持霍公鳥の歌 ( 三九〇九、三九一 lll) を贈答する。十二月安房国再び上総国に併合され、能登国は越中国と合併。 一四七四一一八月天皇近江国甲賀郡紫を楽宮に行幸、その後同地に再三行幸あり。 一五七四一一一五月橘諸兄従一位左大臣に、藤原豊成従三位中納言になど、多くの諸氏それぞれ昇叙する。八月大伴家 持久邇京讃歌を詠む。 一六七四四閏正月天皇難波宮に行幸、親王急逝。二月および = 一月大伴家持安積親王薨去を悼む挽歌を詠む。四 月家持平城の旧宅において霍公鳥の歌 ( 買三九一六、三九二一 ) を詠む。 一七七四五正月大伴家持従五位下となる。五月平城還都。八月難波宮に行幸。開在中天皇重病となったが平癒し、 九月平城還幸。 一八七四六正月左大臣橘諸兄、諸王臣と共に元正太上天皇の御在所に参入し、応詔歌を詠進する。六月大伴家持越 中守に任ぜられ、閏七月赴任。九月家持、弟書持の喪を聞き、挽歌 ( 三九五七、三九五九 ) を詠む。 一九七四七二月大伴家持病に臥して悲傷する歌 ( 三九六二、三九六四 ) 。五月家持税帳使として入京。九月家持 放逸した鷹を惜しむ歌 ( 四〇一一、四〇一五 ) を詠む。 すい ( 二〇七四八正月大伴家持奈呉の江周辺の歌 ( 四〇一七、四〇一一〇 ) を詠む。三月ごろ家持出挙のために越中諸郡 を巡行し、道中属目の歌 ( 四〇一一一、四〇一一九 ) を詠む。四月元正太上天皇崩御。 孝謙勝宝元七四九四月天皇東大寺に行幸、廬舎那仏を礼拝する。閏五月天皇譲位、孝謙天皇即位。 四七五一一四月廬舎那大仏開眼供養。

3. 完訳日本の古典 第6巻 萬葉集(五)

あなたがお国に発って行かれたらほととぎすの鳴く五月にはそれでも淋 しいことでしよう すけくらのいみきなわまろ 右の一首は、介内蔵忌寸縄麻呂が作ったものである。 くすだま 葉わたしが居ないとて力を落されるな君よほととぎすの鳴く五月には薬玉 萬 を作って遊んでください 右の一首は、守大伴宿禰家持が返したものである。 いしかわのあそんみみちたちばな 石川朝臣水通の橘の歌一首 わがの庭の花橘を花ごめに玉としてわたしは緒に通す待ち遠しいので 右の一首は、伝誦してくれたのは、主人大伴宿禰池主であるという。 やかた 守大伴宿禰家持の館で酒宴を催した時の歌一首四月一一十六日 かみ 我が背子ー家持をさす。〇国へまし なばーこの国は故郷の奈良をさす。 マスはイマスに同じ。ここは行クの敬語。 〇さぶしけむかもー家持と共に聞けば楽 しいが、不在なのでほととぎすが鳴いて もつまらない、という気持。 一次官。上国の介は従六位上相当官。 ニ家持が越中国守であった間、同国介 であった。越中国官倉納穀交替帳にも、

4. 完訳日本の古典 第6巻 萬葉集(五)

いささ おもひっく こころにてう かみ : ここに守大伴宿禰家持、情を二眺に寄せ、聊かに所心を裁る ( 原文「 : : : 爰守大伴宿祢家持寄 = 情二 眺「聊裁ニ所心一」 ) とあるのを思えば、これもまた西本願寺本の蛇足である。これについて、あるいは西本願寺本が仙覚本であ ることゆえ、仙覚のしわざかと疑われかねないが、右の三突 0 ・三突一の題詞に「越中守大伴宿禰家持の作」と るいじゅうこしゅうこようりやくるいじゅうしよう あるのは類聚古集・古葉略類聚鈔も共通で、平安時代にすでにこの二流の本文があり、そして元暦校本だ けが終始一貫している。このことは年号の記載の仕方についても指摘できる。すなわち、元暦校本は巻首に 「天平二年」とあるのに譲って「天平」を繰り返さない。三突六左注も、元暦校本には、 一一月廿九日大伴宿祢家持 とだけあるのに、西本願寺本には、 天平廿年一一月廿九日大伴宿祢家持 としている。この「天平廿年ーは無用であるのみならず誤りであり、この当時は天平十九年、四 0 一一 0 左注に至 って初めてその「天平二十年」となる。 本書では西本願寺本を底本としているため、右の「天平廿年」のごとき明らかに誤りと認められるものに 説ついては従わず、いずれでもよい場合は底本の本文を尊重する立場を貫いた。この巻十七で言えば、元暦校 本の形が最もすっきりしていて、おそらくこれが家持原撰本の姿を残していると思われる。そして類聚古集 解などの、系統的には元暦校本に近いとみられる諸本も、それに対して蛇足的調整がなされた二次的形態の本 の流れを受けており、仙覚本もその下流に位置すると言ってよい。 さらに言えば、元暦校本に代赭色で書き人れられた、本来、元暦校本とは別系統の、仮に元赭と呼ばれる たいしゃ

5. 完訳日本の古典 第6巻 萬葉集(五)

掌握するが、この頃すでにその頭角を現しつつあった。諸兄ら旧派の人々はそれを横に眺めながら脾肉をか こっている。家持が越中国守に任ぜられたのはそのような新旧勢力交替期である。 ひな 集 その点越中は天ざかる鄙ながら自由の天地であり、また歌心をかき立てられる山川の広大がそこにあった。 いけぬし 葉下僚に一族の池主が居て、苦楽を分っことができたのも幸運であった。弟書持の計報に接し、また自らも病 萬 床に倒れるが、家持は池主と詩文を贈答し、文雅の世界に心を遊ばせることを得た。この往来がまた以下四 じよう 巻の成立の原動力となったと言っても誤りではない。その池主もこの巻の終りの頃には隣国越前掾に転出し ている。 げんりやくこうん この巻で特に注目されるのは元暦校本の本文が西本願寺本をはじめとする他の古写本のそれとかなりに大 きく相違することである。たとえば、一一一九一六、三空一の連作の前の題詞に、 ひとなら もとついへを 十六年四月五日に、独り平城の故宅に居りて作る歌六首 とあり、その左注は次のように分れている。 一兀暦校本右、大伴宿禰家持作る。 西本願寺本右の六首の歌、天平十六年四月五日に、独り平城故郷の旧宅に居りて、大伴宿禰家持作る。 勿論、元暦校本の簡略によるべきで、後者西本願寺本は題詞の内容を重ね書いて、いわゆる蛇足のそしりを 免れない。三突 0 ・三突一の題詞も、 元暦校本相歓ぶる歌一一首 西本願寺本相歓ぶる謌一一首越中守大伴宿禰家持の作 と二つに分れているが、この左注の末尾に、 ひにく

6. 完訳日本の古典 第6巻 萬葉集(五)

333 巻第十七 3927 ~ 3929 3929 3928 3927 こひ 今のごと恋しく君が思ほえばいかにかもせむするすべの なさ くさまくら おとものすくねやかもちてんびやう もち こしのみちのなかのかみ 大伴宿禰家持、天平十八年閏七月を以て、越中国守に任ぜ すなは おもぶ をばおほとものうぢさかの らる。即ち七月を取りて任所に赴く。ここに姑大伴氏坂 うへのいらつめ 上郎女、家持に贈る歌一一首 ゅ さき いはひへす 草枕旅行く君を幸くあれと斎瓮据ゑっ我が床の辺に たちばなきゃうたはぶ 左大臣橘卿謔れて云はく、「歌を賦するに堪へずは、麝を六安麻呂の娘。母は石川郎女。旅人の 異母妹。穂積皇子に愛されたが、その薨 だいじよう もち もだを 後異母兄宿奈麻呂との間に坂上大嬢らを 以てこれを贖へ」といふ。これに因りて黙已り。 儲けた。藤原麻呂の妻問いを受けたこと もある。旅人の薨後遺子家持らを養育し、 坂上大嬢は家持と結婚した。この当時五 十歳前後か。 旅行く君をー引用文中に用いられた ヲは主格を表すことがある。〇斎瓮 据ゑっー斎瓮↓三一一会 ( 斎瓮を斎ひ掘り 据ゑ ) 。作者は三七九でもこの語を用いてい る。 囲思ほえばー末来の自分の気持を推し 量っていう仮定条件。〇するすべの なさースルスペ↓三七七七 ( するすべのたど きを知らに ) 。 セ ↓三八八一題詞。 我が片恋ー坂上郎女が家持に贈った つん 歌には、恋人に対するそれと同じよ うな内容のものが五会・六一九・九七九・一六一一 0 など幾つかあり、また家持が坂上郎女に 贈った歌にも一六一九など同じような傾向が 見られる。一つには坂上大嬢を媒介とし さらこしのみちのなか て代作したとも考えられるが、遊戯的な 更に越中国に贈る歌二首 気持の産物とみるべきであろう。〇繁け あ ればかも↓一一一当八 ( 思ひつつ寝ればかもと いめ かたこひ 旅に去にし君しもぎて夢に見ゅ我が片恋の繁ければな ) 。 い あか うるふ い よ ふ あ あ とこへ しげ じゃ

7. 完訳日本の古典 第6巻 萬葉集(五)

たれ ゅ + 家にして結ひてし紐を解き放けず思ふ心を誰か知らむも 巻 右の一首、守大伴宿禰家持の作 3947 3949 けさ あさけ とひとかりきな ときちか 今朝の朝明秋風寒し遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも ひな ゅ あまざか 天離る鄙に月経ぬ然れども結ひてし紐を解きも開けな くに 天離る↓三六 0 八。〇結ひてし紐ー離京 の直前に妻が結んでくれた紐。〇解 きも開けなくにー妻との誓いを守り、女 気なしの生活を続けていることをいう。 「夜の紐だに解き放けずして」 ( 三空 0 とも あった。 鄙にある我をーワ ( ワレ・ワガ ) は複 数的に用いられることが多く、「わ れわれ」の意味を表すことがある。ここ は、奈良に妻を残して来ている守家持と 作者池主をさしている。〇うたがたも↓ 三六 00 。ここも、必ず、の意だが、思ホス にかかり、それを反語で裏返し、きっと おも 天離る鄙にある我をうたがたも紐解き放けて思ほすら、と思っていらっしやるなどということ がありましようか、万が一にも、と田 5 っ ていらっしやらないでしよう、の意とな めや る。〇紐解き放けてー見知らぬ異性とい かがわしいことをしているなどと、の意。 引用の助詞トが省略されている。〇思ほ すらめやー主語は家持の妻坂上大嬢。 ◆池主が家持夫妻とかなり親しいことを 示すと同時に、大嬢の純情な人柄を暗示 していて、興味深い。 家にしてー奈良の家において。〇思 ふ心をー妻を恋い慕っているわれわ れの気持を。〇誰か知らむもー君 ( 池主 ) 以外の誰が知ろうぞ。反語性の疑問 右の一一首、守大伴宿家持の作 右の一首、掾大伴宿禰池主 われ じよう かみ し AJ ひも さ AJ あ 3948

8. 完訳日本の古典 第6巻 萬葉集(五)

よどと あらた 新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事 ( 妛六 ) を詠んでいる。その間に何度か若干の空白期間はあるが、家持は歌を詠むことを続け、また丹念に自他の作 を書き留めた。巻十七はそのうちの天平一一十年春までの分を収める。 ただし、巻頭の三二首は、天平一一年に家持の父旅人が大宰府から大納言となって上京する時に、その従者 ふみもち たちが詠んだ歌一〇首だとか、同十一一年に弟の書持が大宰府における「梅花の宴の歌三十一一首 . に追和した 歌六首やその書持と家持との贈答など、天平十八年より年代をさかのぼるものである。これら三二首は、概 して言えば家持にとって内輪の人々の、それも格別に佳作と称しがたい類のものばかりである。おそらくこ れらをここに置いたのは、以上の十六巻が一応今日見るような形にまとめられていたためであろうし、ある いはまた採否に迷うほど平凡と思ったからではなかろうか。 たちばなのもろえ そのように解すれば、この巻はやはり天平十八年正月雪の朝、左大臣橘諸兄が諸王臣を率いて元正太上 天皇の御在所に参入して応詔歌、 しろかみ お椴きみつかまっ たふと 降る雪の白髪までに大君に仕へ奉れば貴くもあるか ( 三九一三 ) を奉り、家持も、 しらゆき おみやうち 大宮の内にも外にも光るまで降らす白雪見れど飽かぬかも ( 三九一一六 ) の歌を詠んだ、その時の記録から始っていると言ってよい。先に挙げた『万葉集』最後の歌もその日の感激 解を想起して詠まれたものであろうか。 ふじわらのなかまろ その時詠んだ歌は伝わっていないが、この雪宴に列していた人の中で見逃せないのは藤原仲麻呂である。 当時四十一歳、正四位上民部卿参議左京大夫兼近江守であったこの男は、奈良朝中期、実力で政治的実権を はつはる

9. 完訳日本の古典 第6巻 萬葉集(五)

-4 一 + ほととぎす鳴きて過ぎにし岡辺から秋風吹きぬよしもあ 巻 らなくに かみ うたげ むろつみつど 八月七日の夜に、守大伴宿禰家持の館に集ひて宴する歌 たを け わせこ 秋の田の穂向き見がてり我が背子がふさ手折り来るをみ なへしかも 暁↓三六六五。〇妹が衣手着むよしもが もーこの衣手は衣の雅語。モガ ( モ ) は、、があればよい、の意。都の妻と一 緒に暖かく寝たいという気持。越中でも 新暦の八月末はまだ寒くはないが、淋し さからこう詠んだもの。↓三究一 ( 衣手寒 きものにそありける ) 。 鳴きて過ぎにし岡辺からー越中の二 上山に飛来するほととぎすは、一旦 小矢部川 ( 射水川 ) 河口辺で向きを変え、 二上山頂を目ざして一直線に飛ぶ。掾で ゅめぐ をみなへし咲きたる野辺を行き巡り君を思ひ出たもとほある池主の公館は、国庁のある段丘から 谷田と呼ばれる小さな谷を隔てて西北の 伏木一ノ宮字大塚の台地南面の傾斜地に り来ぬ あったと推定されているが、そこはほと とぎすの渡り経路の直線下にあり、「鳴 きて過ぎにし岡辺」は、さらにその西の 一一上山麓の赤坂以北の一帯をさすかとい われる ( 黒川総三説 ) 。このカラは通過点 を示す用法。〇よしもあらなくにー三九四五 の下一一句と同じ気持。 三家持との血縁関係は不明。天平一一十 年三月十五日の家持宛の書状 ( 四 0 当前文 ) では越前国掾に転じたことが知られる。 家持と歌文の贈答をしたのが巻十七以下 四巻の主軸となった点で、『万葉集』成立 に寄与した功は大きい。 いもころもぞ 秋の夜は暁寒し白たへの妹が衣手着むよしもがも き よ あかとき 右の三首、掾大伴宿池主の作 右の一首、守大伴宿禰家持の作 じようおとものすくねいけぬし をかび 3946

10. 完訳日本の古典 第6巻 萬葉集(五)

萬葉集 434 収まると言ってよい。ただ、もし例外があるとすれば、第二部における次の戯笑歌がそれであろう。 おほみわのあそみおきもりわら こた 大神朝臣奥守の嗤ひに報ふる歌一首 そほ 椴とけつく いけだあそ 仏造るま朱足らずは水溜まる池田の朝臣が鼻の上を掘れ ( 三会 l) づみのあそみこた 穂積朝臣の和ふる歌一首 こもたたみへぐりあそ いづくにそま朱掘る岡薦畳平群の朝臣が鼻の上を掘れ ( 三翁 ll) しんしゃ この「ま朱」が天平勝宝四年棄 = ) の大仏鍍金の際に必要とされた辰砂をさすであろうことはほぼ間違い おおとものやかもち ない。これを信ずるならば、天平十八年からさらに六年後、大伴家持が越中国守の任を終えて帰京した翌年 の歌が、この巻十六の中に人っていることになる。家持がその内容の戯笑性に注目し、例外中の例外として ここに人れたのでもあろうか。 巻十七 この巻以下の四巻は、巻十六までで一応のまとまりを見た原初『万葉集』に対する増補部分である。その 内容は天平十八年以降の、歌を中心とした大伴家持の身辺記録で、そのためこれまでの諸巻でっとめて守ろ あすか うとしてきた原則、雑歌・相聞・挽歌などの部立別方式を採らない。時に遠く天平初年さらには飛鳥・藤原 宮当時の作を載せてあっても、それらは家持が折に触れて聞き書きしたものである。 家持はその前年正月に従五位下に叙せられ、翌十八年越中国守となって赴任した。五年後に少納言に遷任 いなばの して帰京し、その後兵部少輔、同大輔、右中弁などを経て天平宝字二年 ( 七さに因幡国守となり、その翌 年正月一日同国庁において『万葉集』最後の歌、